「二十一回猛士」と称して海外密航・老中襲撃・討幕挙兵を画策し松下村塾を開いて長州藩を覚醒させ門弟の高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允に「狂」を植付け討幕の原動力ならしめた純粋激烈な大教育者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照吉田 松陰
1830年 〜 1859年
100点※
吉田松陰の年表
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1830年
長州藩の下級藩士杉百合之助の次男杉寅次郎(吉田松陰)が萩郊外の松本村にて出生
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1835年
吉田松陰が叔父吉田大助の死去に伴い山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ
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1836年
毛利斉熙と11代長州藩主毛利斉元が相次いで死去、毛利斉広(斉熙の庶子)が12代藩主を承継
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1837年
12代長州藩主毛利斉広の急死に伴い毛利敬親(11代藩主毛利斉元の嫡子)が13代藩主を承継
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1838年
村田清風が長州藩庁の実権を握り藩政改革に着手
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1838年
8歳の吉田松陰が家学教授見習として藩校明倫館に出勤
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1840年
10歳の吉田松陰が藩主毛利敬親の御前で『武教全書』を講義し大評判を得る
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1842年
吉田松陰の叔父玉木文之進が松下村塾を開く
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1848年
吉田松陰の成人に伴い家学後見がお役御免となり独立の師範となる
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1849年
長州藩主毛利敬親が周布政之助を都講に抜擢し藩校明倫館の拡充政策を推進
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1850年
吉田松陰が九州遊学、生涯の親友となる宮部鼎蔵と知合う
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1851年
吉田松陰が明倫館再興に関する意見書を提出
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1851年
吉田松陰が藩命により江戸遊学
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1851年
吉田松陰が東北旅行へ出奔、手続き不備のため脱藩の罪を得る
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1851年
吉田松陰が水戸藩を訪問し会沢正志斎らと交流
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1852年
江戸桜田藩邸に戻った吉田松陰が萩へ召還され脱藩罪により士籍・家禄剥奪のうえ杉百合之助の「育み」とされる
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1853年
長州藩主毛利敬親の温情により吉田松陰が10年間の諸国遊学を許され江戸へ出立
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
ペリー来航、江戸遊学中の吉田松陰は浦賀へ急行し艦隊を観察
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1853年
吉田松陰が佐久間象山の私塾に通い洋式兵学・砲術・蘭学などを学ぶ
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1853年
吉田松陰が藩主毛利敬親に上書し長州藩の国防論を提言
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1853年
吉田松陰がロシア船での海外密航を志し長崎へ出立
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1853年
吉田松陰が肥後熊本に立寄り宮部鼎蔵と共に家老の有吉市郎兵衛を訪れ攘夷を密談
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1853年
攘夷を決意する吉田松陰が京阪で梁川星厳・梅田雲浜と会談し江戸で長州藩主毛利敬親に『海戦策』を上書
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
吉田松陰が江戸伝馬町の獄舎で取調べを受け幕府より自藩幽閉を命じられる
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1854年
吉田松陰が罪人として萩へ護送され野山獄に投獄される
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1855年
長州藩主毛利敬親の温情により吉田松陰が病気保養の名目で野山獄を出され実家の杉家で閉門蟄居
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
長州藩主毛利敬親の尊攘方針により周布政之助らが要路に就く
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1856年
萩郊外の松本村で蟄居する吉田松陰のもとへ近郷の若者が参集し私塾となる
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1856年
梅田雲浜が萩の吉田松陰を訪問し水戸藩・長州藩など尊攘藩の連携を謀議
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1857年
吉田松陰の門人が増えたため杉家邸内に塾舎を設置し(松陰神社内に現存)叔父の玉木文之進から「松下村塾」の塾名を承継
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1857年
久坂玄瑞が松下村塾に入門、吉田松陰は妹の文を愛弟子の久坂に嫁がせる
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1857年
高杉晋作が吉田松陰の松下村塾に入門
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1858年
伊藤博文が主人来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、来原の長崎出張に随行
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1858年
松下村塾の門人増により塾舎を増築
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1858年
木戸孝允が長州藩に出仕し大検使となり江戸番手を命じられる
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1858年
吉田松陰が長州藩庁に度々上書し藩政改革を提言、若手藩士の遊学や軍制改革の諸献策が容れられ松下村塾が活気付く(松陰の後押しで多くの塾生が遊学を許される)
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1858年
長州藩庁が吉田松陰に家学教授の許可を与え松下村塾が公認となる
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
破約攘夷を主張する吉田松陰が長州藩主毛利敬親に度々上書、周布政之助ら藩政府首脳と対立
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
山縣有朋が2ヶ月の京都・江戸外遊を許され長州に戻り松下村塾に入門(吉田松陰の最後の門人)
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1858年
大老井伊直弼の意を受けた老中間部詮勝が入洛し安政の大獄を断行
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1858年
吉田松陰盟友の梅田雲浜が幕府に逮捕され翌年獄死(拷問死とも)
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1858年
吉田松陰が反幕府運動を策動し朝廷に『愚論』『続愚論』を献上
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1858年
吉田松陰が公然と老中間部詮勝要撃計画を策動
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1858年
吉田松陰が野山獄に再投獄され松下村塾は廃止
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
吉田松陰が獄中で反幕府運動を画策、高杉晋作・久坂玄瑞の諫止に逆ギレ
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1859年
獄中の吉田松陰が長州藩討幕挙兵を画策するが挫折
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1859年
安政の大獄で大老井伊直弼が一橋派諸侯の処分を断行、徳川斉昭・慶喜は蟄居に処される
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1859年
吉田松陰が幕命で江戸に召喚され評定所の尋問を受ける
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1859年
吉田松陰が老中間部詮勝襲撃計画を自白し江戸小塚原刑場にて斬首(享年30)、江戸に居た木戸孝允・伊藤博文らが小塚原に埋葬
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1863年
高杉晋作・伊藤博文らが吉田松陰の遺骸を掘出し世田谷若林に改葬
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1882年
世田谷若林の吉田松陰墓所に松陰神社が建てられる
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1890年
萩松本村に松陰神社が建てられる
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1891年
吉田松蔭・高杉晋作・久坂玄瑞・周布政之助・武市半平太・中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎・平野国臣・有馬新七・宮部鼎蔵ら明治維新の功労者に追贈正四位(有馬のみ従四位)
年
吉田松陰と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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