強硬外交の「大陸派」から親英米派へ転じ戦後GHQの傀儡政権に君臨、「押付け憲法」・恒久的米軍駐留と膨大な経費負担・不平等安保条約を受容し戦後日本の従米路線を決定付けた貴族趣味の「ワンマン宰相」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
吉田 茂
1878年 〜 1967年
-20点※
家系・子孫
- 竹内綱は旧土佐藩士で立志社・国会期成同盟・自由党の結党に参加した板垣退助の腹心、吉田茂は芸者の瀧子に産ませた庶子である。立志社の政府転覆工作が発覚し陸奥宗光・林有造・大江卓らと共に投獄された竹内綱は、生後間もない茂と瀧子を親友で子の無い吉田健三に預け、茂は3歳のとき正式に入嗣し横浜で養育された。旧福井藩士の吉田健三は自由民権運動に身を投じたが横浜の貿易で財を成し、11歳の吉田茂に50万円(現在価値で20億円)もの遺産を残し病没した。その後の竹内綱は、衆議院議員を1期務めて実業界へ転じ、朝鮮の鉄道事業や牧場経営などに携わり1922年まで生きたが、吉田茂との交流を伝える逸話は残っていない。なお、竹内綱の嫡子で高知県宿毛で育った竹内明太郎は、小松製作所(現コマツ)・快進社(日産自動車の前身)・早稲田大学理工学部の創設に関わり、政友会系衆議院議員となった。さて吉田茂は、大金持ちながら学業成績は冴えず学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴い学生は東大へ無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。遅咲きの吉田茂は中国領事など「お世辞にもエリートとはいえない」傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男で宮廷政治家)の長女雪子との結婚で出世運を掴み外務次官へ昇進、広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き駐英大使の要職を得た。吉田茂・雪子夫妻は二男三女を生し(次女は夭逝)、男児の健一・正男は共に学者となった。長女桜子が嫁いだ吉田寛は、松岡洋右の甥で岸信介・佐藤榮作兄弟の従兄弟にあたる。三女和子は福岡麻生財閥の当主麻生太賀吉に嫁ぎ、長男の麻生太郎は第92代首相、長女の信子は寛仁親王妃となった。1941年妻雪子の没後、吉田茂は芸者小りんを大磯邸に囲い、岳父の牧野伸顕と世間体を憚り隠蔽を図ったが、新聞記者にスクープされると勿怪の幸いとばかり正式に妻とした。この一件で吉田茂のマスコミ嫌いは一層激しくなり、1952年京都の演説会ではしつこい写真撮影に激怒しカメラマンにコップの水をぶっかけたりしている。
- 大久保氏は、藤原氏を称するが真偽不明で戦国時代に京都から薩摩へ移住し島津氏に仕えたといい、薩摩藩の城下士ながら家格は下から二番目の御小姓組(西郷隆盛と同じ)であった。琉球館附役の大久保利世はお由羅騒動で島津斉彬派に連座し鬼界島へ遠島処分、嫡子の大久保利通も記録所書役助を罷免され一家は困窮したが、精忠組首領の利通は島津久光に抜擢され薩摩藩を率いて討幕を達成、明治政府の最高実力者に上り詰めた。大久保利通は、妻ます(満寿子)との間に四男一女・妾おゆう(京都祇園一力亭の芸妓)との間に四男を生し、大変な子煩悩であったという。家督を継いだ嫡子の大久保利和は、鳥取・大分・埼玉・大阪の知事と農商務省商工局長などを歴任、利通の功績により侯爵を叙爵し貴族院議員に勅撰されたが、無嗣のため三弟の利武に後を継がせた。利武から家督と侯爵位を継いだ嫡子の大久保利謙は、日本近代史の学究となり名古屋大学教授・立教大学教授などを歴任、国会図書館収蔵の明治期の重要政治外交資料8万点の収集に労があった。孫の大久保利春は、ロッキード事件で有罪判決を受けた元丸紅専務、「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。大久保利通次男の牧野伸顕は、宮内大臣・内大臣として昭和初期の宮廷政治を宰領し従一位・伯爵に叙されたが、「君側の奸」と軍部に狙われ五・一五事件で腰砕けとなり軍部の暴走を許した。長女の雪子は、戦後日本の従米路線を決定付けた吉田茂の妻で、二男三女を産んだ(次女は夭逝)。吉田茂・雪子夫妻の三女和子は、福岡麻生財閥の当主麻生太賀吉に嫁ぎ、長男の麻生太郎は首相、長女の信子は寛仁親王の妃となった。麻生太郎・信子のほか牧野力(通産事務次官)・武見敬三(参議院議員)も大久保利通の玄孫である。
- 長州藩士の佐藤信寛は明治維新後に島根県令に任じられ長州閥の伊藤博文らと誼を通じ、弟の太郎を井上馨の養子に出したといわれ(陸軍少佐井上太郎)、日産コンツェルン創業者の鮎川義介も佐藤家の親戚である。信寛の嫡子で山口県議会議員を務めた佐藤信彦は、娘の茂世の婿養子に同郷田布施の岸要蔵の三男で山口県庁官吏をしていた秀助を迎え分家を立てさせた。田布施に戻り酒造業を営んだ佐藤秀助は、茂世夫人との間に5子を生し、長男の市郎に佐藤家を継がせ、次男の信介は実兄岸信政の一人娘良子の婿養子に出し、三男の栄作は生家に留めた。佐藤秀助の妹さわは山口中学教諭の吉田祥朔に嫁ぎ、長男の吉田寛は吉田茂(家系は別)の長女桜子と結婚している。さて、岸信介・良子夫妻は一男一女を生し、長男の岸信和は地元の宇部興産の勤め人となったが(西部石油会長へ転出)、長女の洋子が嫁いだ安倍晋太郎が政界へ進み岸信介の後継者となった。なお、岸信和に子が無かったため、安倍晋太郎の兄信夫が入嗣し岸家を継いでいる。安倍晋太郎は、東大法学部を出て毎日新聞記者となったが、石橋湛山内閣で外相の任にあった岸信介の秘書となり洋子と結婚、岸の首相在職中に亡父安倍寛の地盤を継ぎ(旧山口1区)衆議院議員に初当選した。安倍晋太郎は、1963年の選挙で落選し岸信介を慌てさせたが、次回選挙から没するまで議席を守り(当選11回)自民党幹事長・通産相・外務相などを歴任した。岸信介直系の「政界のプリンス」安倍晋太郎は、脇が甘いので「プリンスメロン」と揶揄されつつ、共に「ニューリーダー」と称された竹下登・宮澤喜一を凌ぎ次期総理総裁は確実といわれたが目前で病没した。地盤を継いだ次男の安倍晋三は、首相となって亡父の無念を晴らし、祖父岸信介が果たせなかった憲法改正・再軍備に挑んだ。さて、岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父(茂世の兄)佐藤松介の妻藤枝は松岡洋右の妹であり、娘の寛子は従兄弟の佐藤栄作に嫁いで二男を産み、次男の佐藤信二が栄作の地盤を継いで衆議院議員となった。
吉田茂と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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