武蔵多摩の農民ながら近藤勇と共に幕府浪士組に身を投じ京都の尊攘派志士を戦慄させた新撰組「鬼の副長」、新撰組壊滅後も戊辰戦争を戦い抜き武士の意気地を示して函館に散った佐幕派志士のヒーロー
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
土方 歳三
1835年 〜 1869年
70点※
家系・子孫
- 武蔵多摩郡石田村の土方家は多摩地方でも有数の富農であり、湿布薬「石田散薬」の製造販売も行っていた。石田散薬は、骨折・打ち身・捻挫・筋肉痛・切り傷等に薬効があるとされ、18世紀初頭から1948年の薬事法改正に至るまで販売されていた。土方歳三は、生後間もなく父の土方隼人が没し母の恵津も幼少期に死んだため次兄の土方喜六夫妻に養育された(長兄の土方音五郎は盲人)。隼人の死因は結核であり、一家は村で差別を受けた可能性がある。土方歳三は妻帯せず、直系の子孫はいないとされる。なお近藤勇は、武蔵多摩郡上石原村の農民宮川家の三男で、江戸牛込の天然理心流剣術道場「試衛場」の近藤周助に入嗣し道場を継いだ。近藤勇は、試衛場時代に清水徳川家の家臣松井八十五郎の長女つねを娶り一人娘たまをもうけた。勇の没後、宮川勇五郎(音五郎の次男)がたまの婿養子に入り「幕臣」近藤家を継いだが、一粒種の近藤勇吉は子を生さず日露戦争で戦死した。近藤勇は複数の妾があり子を生したともいわれるが確証は無い。近藤勇が板橋刑場で処刑されたとき、18歳の近藤勇五郎は番人に袖の下を握らせて遺骸を引取り宮川家の檀那寺である多摩郡大沢村の龍源寺に埋葬した。天然理心流の剣士となった近藤勇五郎は、近藤勇の生家の側に道場「撥雲館」を営みつつ新撰組隊士の顕彰に尽力した。
土方歳三と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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