土佐藩を脱藩して勝海舟に師事するが神戸海軍操練所の閉鎖に伴い薩摩藩の庇護下に入り亀山社中・薩長同盟に貢献、土佐藩に戻って大政奉還を差配し「世界の海援隊」を夢見たが暗殺された幕末一の人気者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
坂本 龍馬
1835年 〜 1867年
70点※
坂本龍馬と関連人物のエピソード
- 坂本龍馬は、土佐藩を脱藩して勝海舟に師事するが神戸海軍操練所の閉鎖に伴い薩摩藩の庇護下に入り亀山社中・薩長同盟に貢献、土佐藩に戻って大政奉還を差配し「世界の海援隊」を夢見たが暗殺された幕末一の人気者である。土佐藩郷士の次男で、18歳で江戸へ出て桶町千葉道場に入門し塾頭に進んだが、ペリー来航で尊攘運動に目覚め、武市半平太の土佐勤皇党に副首領格で加盟し久坂玄瑞への使者を務めた。吉田東洋暗殺で武市半平太は土佐藩政を握ったが、坂本龍馬は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂に絶望し島津久光の率兵上洛を機に脱藩、江戸の千葉道場に寄寓した。坂本龍馬は、脱藩浪士ながら政治総裁職の松平春嶽に拝謁し幕府軍艦奉行の勝海舟に入門、勝の口利で脱藩を赦され「神戸海軍塾」に同志を呼集めた。幕府は勝海舟に神戸海軍操練所の設立を許したが、塾生が池田屋事件・禁門の変に加わったため1年で廃止され勝は罷免された。土佐藩では山内容堂が武市半平太を誅殺し土佐勤皇党は壊滅、召還を拒否した坂本龍馬は再び脱藩の身となり、勝は坂本らを薩摩藩の小松帯刀に託し江戸へ去った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となったが、薩摩藩は西郷隆盛の宥和路線により出兵を拒絶し、長州藩の武器輸入を援けるためダミー会社「亀山社中」を設立し坂本龍馬に実務を委託、さらに坂本と黒田清隆を長州へ送って和解工作を進め薩長同盟を締結した。伏見寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負った坂本龍馬は鹿児島へ逗留した後、ユニオン号で馬関へ乗込み小倉渡海作戦に参加したが、長州藩勝利で亀山社中は役割を終えた。一方、長州藩の圧勝に慌てるも薩長に知己の無い土佐藩は、坂本龍馬・中岡慎太郎を懐柔し海援隊・陸援隊を提供、坂本は「船中八策」で後藤象二郎に大政奉還建白を促し薩土同盟で薩摩藩と協調、徳川慶喜は大政奉還に踏切ったが、武力討幕を期す薩摩藩は慶喜に辞官納地を強制し戊辰戦争に引きずり込んだ。開戦前夜、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都近江屋で見廻組に襲われ横死、海援隊は分裂解消したが商社機能は岩崎弥太郎の三菱へ志は陸奥宗光へ受継がれた。
- 坂本龍馬の少年期については、フィクションも入り混じって正確なことはよく分からない。明らかなのは、気弱であったこと、寺子屋をやめてしまったため当時の武家の少年が学ぶべき基礎教養を十分に学んでいないこと(姉の乙女に学んだという)、高知城下の日根野道場に入門してからは熱心に剣術修行に励み次第に逞しくなったことなどである。坂本龍馬の剣術の技量についても諸説あってはっきりしない。現存するのは北辰一刀流長刀兵法目録(剣術ではなく薙刀術の中級レベル)のみだが、千葉定吉道場で塾頭を勤め免許皆伝であったという同時代人の証言があることから、まず高知で剣術師範が務まるほどの腕前には達していたものと考えられる。坂本龍馬の江戸遊学はそもそも志士活動の名目で剣術修行には熱心でなかったという話もある。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では交流試合で土佐藩代表として登場した坂本龍馬が長州藩代表の木戸孝允を天衣無縫の大上段で打ち据える場面があるが、実際は「江戸四大道場」で塾頭を務め他藩へも剣名を馳せた木戸孝允や武市半平太には遠く及ばなかっただろう。
- 勝海舟は、幕末随一の人気を誇る坂本龍馬を世に出した師匠として小説に登場する。幕府の要職にありながら坂本龍馬ら物騒な尊攘派浪士を私塾「神戸海軍塾」に保護し実質的な家臣として働かせた勝海舟には、父親譲りの豪胆さと侠客気質が感じられる(父親の勝小吉は旗本ながら実生活は任侠の親分そのものだった)。勝海舟は幕府より念願の神戸海軍操練所の設立を許されたが、門人の望月亀弥太が池田屋事件で殺害され安岡金馬が禁門の変で長州軍に従軍したことを責められ(共に土佐浪士)、僅か1年で閉鎖されてしまった。愛弟子の坂本龍馬のせいで苦労が水泡に帰したわけだが、勝海舟は見捨てず、江戸へ去るにあたり薩摩藩の重役小松帯刀に坂本らの世話を依頼、ここに坂本が薩摩系浪士として活躍する道が開かれた。薩摩藩の庇護下に納まった坂本龍馬は、長州藩への周旋役として亀山社中の運営を任され、薩長同盟に奔走した。なお、坂本龍馬が勝海舟を斬るつもりで訪問したという話は、勝本人の晩年の著述によるが、勝の記憶違い或いは創作と考えられる。とはいえ単純な攘夷論やテロが横行した当時、坂本龍馬のような攘夷志士が開国派の勝海舟を襲うことは十分に考えられたことで、その場で論破されすぐに弟子入りした坂本の聡明と柔軟性を強調する逸話としては面白く、勝は坂本の偉材を誇張する効果を狙ったのかも知れない。因みに、これも勝海舟の著述によるが、坂本龍馬が、武市半平太と袂を別ち京都で遊蕩に浸る岡田以蔵を保護し勝の護衛に就けたという逸話がある。勝海舟が路上で三人組の暴徒に襲われた際、岡田以蔵が一刀で切り捨てたが、勝が「人斬りは宜しくない」と苦言を呈したところ、岡田は「そうしなければ勝先生は斬られていたでしょうに」と言返したという。「人斬り」岡田以蔵を護衛に従えた勝海舟は、さぞ鼻が高かったことだろう。
- 勝海舟は、西郷隆盛に長州宥和を促し徳川慶喜に絶対恭順を説いて江戸城無血開城を果した開明派幕臣にして坂本龍馬の師匠、明治政府の高官に列すも距離を置き徳川家と旧幕臣の救済に余生を捧げた。勝海舟は、15歳で父から旗本勝家を継ぎ、「幕末の三剣士」に数えられた従兄の男谷精一郎と島田虎之助の道場で剣術修業に励み直心影流の免許皆伝に達したが、時勢を先取りして洋式兵学へ転じ永井青崖や佐久間象山に師事して赤坂田町に「氷解塾」を開いた。ペリー来航に発奮した勝海舟は海防意見書を提出、老中安倍正弘や大久保一翁の目に留まって長崎海軍伝習所の1期生に選抜され島津斉彬や尊攘派志士と交流、就学5年を経て遣米使節の「咸臨丸」艦長に任じられ太平洋横断を果した。勝海舟は咸臨丸の快挙を自賛したが、福澤諭吉は「日本人は皆船酔いして役に立たず、勝も自室に籠り切りで姿を見なかった」と回想している。凱旋した勝海舟は、蕃書調所頭取・講武所砲術師範・軍艦操練所頭取を経て、文久の改革に伴い海軍創設の牽引役として軍艦奉行に抜擢され士官育成のため神戸海軍操練所を創設、弟子にした坂本龍馬ら浪士群を神戸海軍塾で養い、征長軍全権の西郷隆盛に「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と説いた。が、塾生が長州藩に加担した事実が発覚、勝海舟は軍艦奉行を罷免され神戸海軍操練所は廃止、勝は薩摩藩に坂本龍馬らを託し江戸へ去った。徳川慶喜が長州再征を号令すると人材難の幕府は勝海舟を軍艦奉行に復帰させ5千石へ加増、薩長同盟が成り幕府軍が敗れると宥和論者の勝は停戦交渉を一任され安芸厳島に乗込んだ。時流は一気に大政奉還から戊辰戦争へと流れ、江戸へ逃げ戻った徳川慶喜は土壇場で絶対恭順へ転じ小栗忠順・松平容保ら抗戦派を追放、全権を委任された勝海舟は新撰組を追払うなど反乱抑止に奔走し東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を成遂げた。明治政府に出仕した勝海舟は参議・海軍卿・伯爵に栄進したが大した業績は無く、徳川慶喜と旧幕臣の復権を果し慶喜十男の精に勝家を譲り77歳で没した。
- 「江戸の御家人」は貧乏の代名詞だったが、将軍に御目見えが許された直参旗本とは身分が全く違った。「殿さま」と呼ばれた旗本は格式上は大名と対等の立場であり、将軍の家臣たる大名の家臣(陪臣)との身分は懸絶していた。江戸弁で気さくに志士と付合った勝海舟は身分が軽いと錯覚しがちだが実際は高級旗本であり、坂本龍馬・西郷隆盛ら下級武士揃いの志士群からみると山内容堂や島津斉彬ら諸侯の同類で雲の上の身分であった。旗本のなかでも家格差は歴然とあり、無役の小普請組・40俵扶持から軍艦奉行・5千石に上り詰めた勝海舟ほどの大出世は大奥関係を除くと異例で、本人の能力というより幕末混乱の為せる業であった。勝海舟のライバルで日仏同盟構想を頼りに徹底抗戦を主張した小栗忠順は、同じ旗本でも知行2500石の大身、合戦の度に一番槍を挙げた祖先が徳川家康から「又一」と賞賛され代々この名跡を受継いだ名門である。幕府要人ながら「勝てば官軍」に与した勝海舟は、抗戦派幕臣からみれば「獅子身中の虫」「二重スパイ」といわれても仕方ない役回りを演じたが、有能を自認し時局眼が鋭い勝にすれば愚鈍な世襲門閥が牛耳る幕閣に我慢ならず、徳川幕府の体制温存より機能不全の打倒を優先したとの見方もできよう。遣米使節が帰国し将軍徳川家茂に拝謁した際、老中からアメリカと日本の違いは何かと問われた勝海舟は「我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。」とやって溜飲を下げたという。勝海舟は大風呂敷を広げて大言壮語し物事を面白おかしく誇張する癖が抜けないまま「コレデオシマイ」と嘯いて大往生を遂げた。
- 武市半平太(瑞山)は、剣術道場主から久坂玄瑞に啓発され「土佐勤皇党」を結成、吉田東洋暗殺で藩政を握り長州藩と連携して「破約攘夷」運動を牽引したが下克上を嫌う山内容堂に誅殺され土佐藩は中央政局から脱落した。文武両道の達人で謹厳実直、大柄で威厳も備えた武市半平太は、吉田松陰と西郷隆盛を兼ねたような絶対的存在だったが、「挙藩勤皇」に固執し大業を成す前に不肖の主君に殺された。白札格郷士の武市半平太は剣術家を志し21歳で高知城下の麻田直養に入門、皆伝を授かって剣術道場を開業し、江戸遊学を許され「江戸四大道場」の士学館に入門するとすぐに皆伝を授かり塾頭に任じられた。高知の武市道場は100人を超える門人で賑わい中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕も名を連ねた。武市半平太は、30歳過ぎまで勤王家の田舎道場主に過ぎなかったが、桜田門外の変で尊攘運動が沸立つと藩庁に願出て江戸へ出向し薩長の志士と交流、長州藩の久坂玄瑞に感化された。土佐へ戻った武市半平太は、門人を母体に「土佐勤皇党」を結成し、薩長土三藩主上洛の盟を果たすべく「破約攘夷」への藩論転換に奔走したが、執政の吉田東洋は「下級藩士や浪人共の騒動」と相手にせず、連絡係の坂本龍馬がもたらす久坂情報に焦った武市は吉田暗殺を決行した。吉田の専断を憎む重臣連を抱込み軽格ながら藩政を握った武市半平太は、晴れて京都政界へ乗出し久坂玄瑞の長州藩に合流、和宮降嫁を弾劾して岩倉具視を隠遁させ、将軍上洛と攘夷決行を促す勅旨を得て長州藩世子毛利定広の江戸下向に随い、岡田以蔵や田中新兵衛を操って天誅騒動を巻起し、攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を得て土佐藩主山内豊範の江戸下向を差配し、将軍徳川家茂の初上洛を実現させ攘夷決行の約束をとった。が、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の山内容堂は、郷士の台頭を嫌悪し土佐勤皇党の粛清を断行、佐幕派追放を図った平井収二郎・間崎哲馬を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し武市半平太を投獄、禁門の変で長州藩の尊攘運動が瓦解すると武市に「不敬罪」を着せ切腹させた。
- 武市半平太は、「身長六尺(182cm)、鼻高く、あご長く、眼中に異彩があり、顔面蒼白、深沈で喜怒色にあらわさず、音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があった」と評された偉丈夫で、性格は超真面目・謹厳実直・誠実の極みでほとんど笑ったことがなかったという。その威徳は薩摩藩の西郷隆盛と並び称され、土佐藩の志士は皆「オラ」「オンシ」と気さくに呼び合ったが武市半平太にだけは「先生」をつけたといい、ただ親友で土佐勤皇党の副首領格である坂本龍馬とは「アザ」(坂本は顔に数点のほくろがあった)「アゴ」(武市はアゴが長かった)と砕けた調子で親しんだ。そんな武市半平太だが幼時より絵心があり、徳弘董斎から南画・弘瀬友竹から和画を学び、武市が描いた巧みな文人画や美人画が現存する。また義太夫が上手だったというが、妻の富子によると「下手の骨頂」で真相は不明である。武市半平太をモデルにしたといわれる行友李風の戯曲『月形半平太』は、1919年の初公演以来大人気を博して映画化され「春雨じゃ、濡れてまいろう」の台詞で親しまれた。「月形」の方は福岡藩尊攘派(首領は平野国臣)の月形洗蔵からとったものと考えられる。
- 斉藤弥九郎(神道無念流)の練兵館(九段)、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館(日本橋南茅場町→南八丁堀)、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館(日本橋品川町→神田於玉ヶ池)、伊庭軍兵衛(心形刀流)の練武館(下谷)は「江戸四大道場」と称され諸藩から有為の若者が参集したが、幕末には尊攘運動の巣窟となり多くの志士を輩出した。著名人のなかでは、伊庭軍兵衛の嫡子で練武館を引継ぎ幕府講武所の教授も務めた伊庭八郎が最強だろう。伊庭八郎は左手を失いながら函館戦争まで戊辰戦争を戦い抜き五稜郭開場前夜に服毒自殺した。志士では練兵館塾頭の木戸孝允と士学館塾頭の武市半平太が抜群で、坂本龍馬は千葉定吉(周作の弟)の桶町千葉道場で塾頭を務めたが剣技はそこそこ、他には江川坦庵が練兵館、岡田以蔵・田中光顕が士学館、清河八郎・山岡鉄舟・藤堂平助・山南敬助は玄武館で修行している。なお、剣客最強は伊庭八郎や龍馬を斬殺した佐々木只三郎らプロ剣客だろうが市街の集団戦では新撰組が強く、藩単位では薩摩と会津が精強を謳われた。
- 江戸時代も19世紀に入ると剣術家の風紀は乱れて市中を騒がせる輩が頻出し、有名な剣客でも博徒の用心棒で小遣い稼ぎをする者が現れた(勝海舟の父勝小吉が好例で、旗本剣客ながら喧嘩と吉原が大好きでヤクザ同然であった)。「江戸四大道場」の士学館も例外ではなかったが、武市半平太が塾頭に就くと厳重に規則や門限を決め違反者は厳しく叱責して容赦せず忽ち風紀厳粛に改善されたという。武市半平太は剣技も非常に優秀で江戸中に知られた剣豪であった。師匠の桃井春蔵は諸藩邸の道場に招かれるといつも武市半平太を帯同し、土佐藩主の山内容堂は江戸在府中頻繁に武市を召して剣術上手の家臣や他藩の剣士と立合わせたため、武市の剣名は一層高まり仙台藩などは名指しで招聘したという。武市半平太と同時期に江戸遊学を許された坂本龍馬は、千葉定吉の桶町道場に入門し塾頭に進んだが、志士活動に熱心で剣の腕前は左程ではなかったらしい。逸話はあまり伝わっていないが親友の両人は江戸で親しく交際したと考えられ、武市が土佐に帰国し土佐勤皇党を結成すると坂本は副首領格で加盟した。
- 中岡慎太郎は、武市半平太の「土佐勤皇党」から長州藩尊攘派に合流し浪士群を率いて高杉晋作の功山寺挙兵や薩長同盟に大活躍、薩土密約と陸援隊で武力討幕に備えたが戊辰戦争直前に暗殺された幕末浪士随一の殊勲者である。遺志を継いだ板垣退助が独断参戦して薩土密約を果し土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。中岡慎太郎は、北川郷の大庄屋の嫡子ながら17歳で武市半平太の尊攘運動に身を投じ、長州藩の久坂玄瑞と共に「破約攘夷」を牽引する武市が山内容堂・豊範の江戸下向を実現させると、発奮した中岡は「五十人組」を率いて江戸へ突出、長州藩士との出会いを果し帰路は久坂に随行したが、間もなく八月十八日政変が起り破約攘夷運動は瓦解した。土佐へ戻った中岡慎太郎は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂を見限り脱藩、三条実美ら七卿の在す周防三田尻へ参じて真木和泉の「招賢閣」浪士に身を投じ、上洛出兵を扇動し来島又兵衛の遊撃隊に従い奮闘したが長州藩は大敗し真木・久坂らが戦死した(禁門の変)。中岡慎太郎は、京都に潜伏し高杉晋作から受継いだ島津久光襲撃の機を窺うも果たせず三田尻へ帰還、征長軍全権の西郷隆盛と協力し大宰府への「五卿遷座」を遂行した。そして高杉晋作の功山寺決起、応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであったが、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦し長州藩軍を撃破、高杉は政権奪回を果し木戸孝允が執政に座った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となり、中岡慎太郎は京都・鹿児島を奔走し西郷隆盛に木戸孝允との下関会談を了承させるも急遽取止め、中岡は坂本龍馬と共に憤慨する長州藩士を宥め再び上京して西郷を口説き、高杉晋作・井上馨が渋る木戸を上京させ薩長同盟が実現した。長州藩が四境戦争に勝利すると、慌てた土佐藩は中岡慎太郎と坂本龍馬を懐柔、後藤象二郎は坂本が勧めた大政奉還建白で面目を施した。武力討幕を志す中岡慎太郎は、西郷隆盛と板垣退助の薩土密約を斡旋し京都土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を発足させたが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に斬殺された。
- 中岡慎太郎は、17歳で武市半平太の剣術道場に入門し土佐勤皇党へ加盟、若輩で庶民の出自(大庄屋の豪農だが)ながら頭角を現し、脱藩後は長州藩に参集した浪士団に加わり大物志士の真木和泉・宮部鼎蔵らと肩を並べた。八月十八日政変・七卿落ち後の長州藩で浪士団は隠然たる勢力を占め過激路線を牽引、中岡慎太郎は禁門の変や馬関戦争で実戦を闘い、第二次長州征討では三条実美ら五卿の座す大宰府を拠点に西郷従道や吉井友実と連絡し長州藩の苦戦に備え薩摩藩の援軍工作に任じた。配下の田中光顕は高杉晋作の「丙寅丸」に同乗して大島海戦を戦い小倉城攻撃でも武功を挙げている。中岡慎太郎の最大の功績は、高杉晋作の功山寺挙兵に率先加わったことだろう。後に解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦したが、当初決起に応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであった。藩政奪回の功労者となった中岡慎太郎は、木戸孝允・高杉晋作に薩長和解を説いて「薩賊会奸」を忘れさせ、土佐浪士という中立的立場を活かして西郷隆盛の懐に飛込み薩長同盟の周旋役を果した。薩長和解自体は時代の要請だが、この時機を逃すと第二次長州征討で長州藩が敗北し歴史が変わったかも知れない。その後の中岡慎太郎は、乗遅れた土佐藩を中央政局へ導いて薩長陣営(武力討幕勢力)への抱込みを図り、板垣退助を啓発して薩土密約を結ばせ、京都土佐藩邸に浪士を集め討幕戦に備えた(陸援隊)。なお、薩長同盟といえば坂本龍馬が有名だが、坂本はもともと勝海舟の子分で、神戸海軍操練所の閉鎖に伴い勝が薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀に坂本ら門人の庇護を頼んだのが事の起りで、亀山社中は長州藩への輸入武器供与のために薩摩藩が設けたダミー会社であった。自由闊達な坂本龍馬は土佐藩に金を出させて世界の海援隊を志したが、薩摩藩での重みは長州藩における中岡慎太郎とは全く異なった。
- 江戸で薩長の志士と交流し長州藩尊攘派を率いる久坂玄瑞に感化された武市半平太は、土佐藩も薩長に負けず挙藩体制で尊攘運動に乗出すべく門人らを糾合して「土佐勤皇党」を結党した。武市半平太が首領、坂本龍馬が副首領格で、大石弥太郎・間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村寅太郎・那須信吾・田中光顕・土方久元・岡田以蔵らが名を連ね最終的に192人が加盟したが、上士は2人だけで他は郷士以下の身分だった。土佐勤皇党の絶対的領袖である武市半平太は、志士の間で久坂玄瑞を最も尊敬し、遅れて中央政局に出た土佐藩は長州藩の「破約攘夷」「草莽崛起」運動に追随し京都に「天誅」旋風を巻起すなど最も過激に活動した。久坂が武市へ宛てた手紙には(坂本龍馬が両雄の連絡役を務めた)、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」が明記されている・・・「諸侯たのむに足らず、公卿もたのむに足らず、草莽の志士を糾合して義挙のほかに道はないと、私共話し合っています。失礼ながら貴藩も幣藩も滅亡しようと、大義が生かされれば苦しからず、両藩生きながらえても、大義が貫かれなくては無意味だと、友人たち話しています。」。武市半平太と久坂玄瑞の運動は、江戸幕府への勅使派遣で最高潮を迎えたが、八月十八日政変で一夜にして瓦解、自藩に退いた両名は失地回復かなわず共に非業の死を遂げた。
- 薩長の動きに追いつこうと焦る武市半平太は、藩主山内豊範の参勤交代出立に際し遂に挙藩勤皇を阻む吉田東洋の暗殺を決断した。武市は、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の3人を刺客に定めて隙を探らせ、重臣の山内民部に暗殺計画を告げて挙行後の対処を依頼、東洋が藩主に『日本外史』の講義をした帰路を襲うことに決し那須らを差し向けた。暗殺現場は凄惨であった。真暗な闇夜で、東洋が城を退出したのは10時過ぎ、供をしていた甥の後藤象二郎と別れた後、帯屋町の自宅付近で那須が後ろから切りつけた。吉田は持っていた傘を投げつけ「不届き者!」と連呼しながら猛然と反撃したが、安岡の背後からの一刀が致命傷となり「無念!」と一声あげて斃れた。那須らは吉田の首級を河野万寿弥ら同志に渡し、脱走して周防三田尻に向かった。吉田の首級は高知西部の雁切河原の高札場に斬姦状をつけて晒された。犯行後、新おこぜ組(後藤象二郎・板垣退助など)ら東洋派と土佐勤皇党は一触即発の事態となったが、吉田の専断を憎む山内民部ら重臣の多くが武市を支持し東洋派を一掃、武市が白札郷士小頭の卑職ながら土佐藩政を掌握することとなった。吉田家は家名取潰しとなり、暗殺事件は不問にふされた。
- 吉田東洋を暗殺した武市半平太は重職連を懐柔し後藤象二郎ら「新おこぜ組」を排斥したが、身分の低い岩崎弥太郎は連座を免れ下横目に補され吉田暗殺犯の捜索を命じられた。軽輩揃いの土佐勤皇党の捜査に同じ郷士をもってあたらせるという岡引き式の追捕策であった。岩崎弥太郎は藩主山内豊範の随員に加えられ上方へ上ったが、端から気乗り薄で故意か偶然かミスを犯し土佐へ召還された。同役で熱心に職務を遂行した井上佐市郎は、中岡慎太郎らの襲撃をかわすも大阪で岡田以蔵の一味に捕まり絞殺、筆舌に出来ないほど無残な方法で死骸を晒された。危うく難を逃れた岩崎弥太郎は、藩職を辞して井ノ口村へ戻り猛然と農業に励んだ。安芸川の両岸に広がる荒野を開墾し、綿栽培を興し、林業と薪炭製業を企画して山林を取得、帰国3年後に長男の岩崎久弥が誕生する頃には貧乏だった岩崎家は富豪となっていた。
- 薩摩藩・長州藩・土佐藩が参集した京都は尊攘派志士のルツボとなり「天誅」と称して開国主義者や公武合体派を殺傷する事件が頻発、なかでも薩摩藩の田中新兵衛と中村半次郎・熊本藩の河上彦斎・土佐藩の岡田以蔵の四人は「人斬り」と呼ばれ恐怖の対象となった。岡田以蔵と田中新兵衛は武市半平太の影響下にあり(岡田は子分で田中は義兄弟)、武市は「攘夷の元締め」「暗殺問屋」と恐れられ暗殺を依頼する公家もあったという。田中新兵衛は長州系公卿の姉小路公知の暗殺嫌疑を掛けられ割腹自殺(朔平門外の変)、中村半次郎(桐野利秋)は薩摩「私学校党」の主戦派で西郷隆盛と共に西南戦争で戦死、佐久間象山を斬殺した河上彦斎は明治政府に反抗し斬刑に処された。岡田以蔵は、高知城下の麻田直養の剣術道場で武市半平太と出会い武市道場へ移籍、足軽の出自を蔑まない武市の信奉者となり土佐勤皇党に加盟した。武市半平太は岡田以蔵の激しく敏捷な剣法を評価し、岡田は志士仲間に認められたい一心で田中新兵衛と競うように暗殺を繰返した。武市半平太が山内容堂に召還されると、袂を別ち京都に残った岡田以蔵は単なる狂犬となり、遊郭に入浸りで身を持崩し、坂本龍馬ら同志からも見放され(岡田は坂本の依頼で勝海舟の用心棒を務めた)、遂に盗賊に落ちぶれて強盗を犯し幕吏に逮捕された。土佐藩へ送還された岡田以蔵は、志士時代に追い求めた「武士の誇り」の欠片もなく、拷問に怯えて武市半平太と土佐勤皇党の所業を洗いざらい自白したのち「無宿人以蔵」として斬首された。
- 武市半平太の土佐藩と久坂玄瑞・木戸孝允の長州藩が連携して朝廷に工作し攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使を得て江戸の幕府へ派遣した。正使三条実美・副使姉小路公知を奉じ、土佐藩主山内豊範が警護役として兵数百人を率いて江戸に入り、幕府に破約攘夷の早期実行と京都警護の御親兵提供を迫った。破約攘夷は誤魔化したが幕閣は丁重に対応し、、御親兵提供については実施を約束した。これを受けて京都守護職に任じられた会津藩主松平容保が藩兵と新撰組を擁して京都に駐留し志士狩りを断行、尊攘派は自ら宿敵を呼込む最も皮肉な結果となった。
- 山内容堂は、「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公である。西郷隆盛ら他藩士をも「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」と憤慨させた。12代土佐藩主の弟の子ながら嫡流が相次いで没し幸運にも土佐藩主となった。「鯨海酔侯」と豪傑を気取り学識も豊富な山内容堂は、織田信長に自己投影し中央進出を志したが襲封当初は家老連の圧迫で思うに任せず、吉田東洋に不遇を救われた。大目付の吉田東洋は、家老や家族の私生活をスパイし非行を見つけて失脚へ追込み、重臣に分散した権力を藩庁の直轄下におく中央集権化を断行、安政の大獄も追い風となり藩主専制を確立した。山内容堂は恩人の吉田東洋に藩政を託し(参政)吉田はよく期待に応えたが、特権を奪われた重臣連は吉田を憎み武市半平太の吉田暗殺に加担した。山内容堂は島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城と共に「四賢候」と称され将軍継嗣問題に乗出したが、書類作成や藩外折衝は専ら吉田東洋が担い、吉田の死で舵を失った。山内容堂は、武市半平太が長州藩と提携し「破約尊攘」運動を牽引すると気前良く外交を委ねたが、下克上に機嫌を損ね突如弾圧へ転換、第一次長州征討が起ると勇み足で武市を誅殺し土佐勤皇党を掃討した。が、長州藩では高杉晋作が功山寺決起で藩政を奪回し薩長同盟を結び第二次長州征討で幕府軍に完勝、慌てた山内容堂は後藤象二郎(吉田東洋の義理甥)を参政に任じ、後藤は坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込んで薩摩藩に接近し大政奉還建白で政局復帰を果した。が、武力討幕を期す薩摩藩は小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行、徳川家擁護を図る山内容堂は猛反発するが泥酔状態で遅参し暴言を吐いて自滅し、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても出兵を逡巡、板垣退助が土佐勤皇党の残党「迅衝隊」を率い独断参戦し土佐藩は辛くも「薩長土肥」に食込んだ。山内容堂は下克上の明治政府に馴染めず隠退、薩長専制に「武市半平太が生きていれば」と憤りつつも酒池肉林の生活を続け46歳で没した。
- 土佐藩を興した山内一豊は、父盛豊と主家(岩倉織田家)を滅ぼした織田信長に出仕し豊臣秀吉の庇護下で遠州掛川6万石に累進、妻の方が有名なくらい武勲は乏しいが、小山評定で福島正則の次に東軍参加を表明し掛川城の明渡しを申出たことで運が開け関が原合戦後に土佐20余万石へ大増封された(幕末には24万2千石)。感謝感激の山内一豊は徳川家康に「ご恩のほど子々孫々に至るまで申し伝えて、決して遺忘させません」と誓い、幕末に至るまで土佐藩は佐幕の気風を受継いだ。山内一豊は、領地の3倍増に見合う家臣を急募し浪人も多数召抱えたが、幕府を憚って長曽我部遺臣の採用を控え逆に弾圧しため大反発を招き、桂浜の相撲興行へ誘き寄せ73人を磔刑で虐殺したが火に油を注ぐ結果となった。2代藩主山内忠義の代となり執政に抜擢された野中兼山は、藩士登用を餌に原野を開放し開墾を奨励、応じた地侍の多くが「郷士」となり反抗は鎮まったが、正規藩士(上士)への配慮から身分差別を徹底し政治参加を著しく制限、郷士内に上級の「白札格」を設け分断を図った。郷士株は売買が認められ売って帰農した家は「地下浪人」と呼ばれた。後藤象二郎・板垣退助・福岡孝弟らは歴とした上士、吉田東洋と谷干城の家は長曽我部遺臣だが山内一豊に召出され上士、武市半平太は郷士で白札格へ昇格、坂本龍馬の本家才谷屋は豪商だが分家が郷士株を取得、逆に岩崎弥太郎の家は地下浪人であった。幕藩体制に虐げられ怨念を溜めた土佐郷士は幕末の尊攘運動へ飛付き、明治維新後の自由民権運動の土壌となった(土佐派)。一方、「四賢侯」に数えられた山内容堂と執政の吉田東洋は開明的で学識豊富ながら佐幕的公武合体論の枠に捕われ過激な尊攘思想を毛嫌いした。山内容堂・後藤象二郎(東洋の甥)は、武市半平太を殺し土佐勤皇党を根絶して吉田東洋暗殺に報いたが自ら中央政局への手蔓を絶ち、大慌てで脱藩浪士の坂本竜馬や中岡新太郎に接近して大政奉還建白の功を浚い徳川家の辞官納地に反対するも薩長は無視、板垣退助が独断で戊辰戦争に参戦し辛うじて「薩長土肥」の末席に滑り込んだ。
- 山内容堂は、佐幕的公武合体から逸脱した武市半平太ら土佐勤皇党の暴走と京都での天誅騒ぎに不快感を募らせ、恩人で腹心の吉田東洋を殺した恨みも忘れていなかった。そんな折に青蓮院宮が平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太に藩政改革を促す令旨を与えた一件を軽率にも暴露し山内容堂は土佐勤皇党の粛清を決断、土佐へ戻った容堂は、平井ら3人を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し、武市半平太を京都から呼戻して獄に繋ぎ厳しく尋問した。武市の身を案じる久坂玄瑞は長州藩への亡命を勧めたが、武市は断り「挙藩勤皇」の初志を貫徹するため従容と帰国の途についた。盗賊に落ちぶれ武士の誇りを失った岡田以蔵は拷問に怯え自供したが、武市半平太らは結束し断固否認を続けたため吉田東洋暗殺の罪状を明らかにすることはできなかった。業を煮やした山内容堂は「主君に対する不敬行為」という曖昧な罪を押し着せ断罪、武市半平太を切腹・岡田以蔵ら4名を斬首・9名を永牢に処した。武市半平太は三度腹を切り裂く「三文字割腹法」で見事な最期を遂げた。生残った志士らもほとんどが土佐藩を脱藩し土佐勤皇党は壊滅、武市半平太が志した「挙藩勤皇」の夢は費え去り、自ら薩長への手蔓を絶った土佐藩は時流に取り残された。
- 大酒呑みの山内容堂は「鯨海酔候」と自称し豪傑を気取ったが、アルコール中毒症が疑われ重度の歯槽膿漏も患っていた。そのためか、根気と集中力を欠き、体調不良を理由に重要な会議にも欠席しがちで、気に入らないと物事を投出す場面が多々あった。四候会議の根回しで高知を訪れた西郷隆盛は、山内容堂から上洛の承諾を得るも「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」を懸念し、シラフの容堂が「此度は東山の土となるつもりぞ」と決意表明したことを福岡孝悌から聞いてから高知を去り伊達宗城を説くため宇和島へ向かった。大恩ある徳川家の運命を決した小御所会議(最初の三職会議)は山内容堂の一世一代の見せ場であったが、「鯨海酔候」はこの日も泥酔状態で遅参したうえ大声で喚き散らす醜態を演じ「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し権威を恣にしようとしている」との失言(事実だが)を岩倉具視に叱責され沈黙、松平春嶽も徳川慶喜の出席要請を断念した。山内容堂は徳川慶喜が目論む「徳川宗家を中心とする列候会議」(徳川家を盟主とする大名共和制)を代弁したが無視され、西郷隆盛の「ただ、ひと匕首あるのみ」(慶喜1人を殺せば片付く簡単なことだ)という気迫が議場を制し、後藤象二郎は大久保利通に丸め込まれ、薩摩藩の思惑通り徳川慶喜の辞官納地が決議された。最初の難関を突破した西郷隆盛と大久保利通は武力討幕へ邁進、幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し「朝敵」徳川慶喜を討つ大義名分を獲得した。
- 後藤象二郎は、山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻させた。武市半平太に暗殺された土佐藩執政の吉田東洋は義理の叔父で、板垣退助は竹馬の友、下僚の岩崎弥太郎を商事に引込み弟の岩崎弥之助に娘を嫁がせた。中岡慎太郎の遺志を継いだ板垣退助が戊辰戦争に独断参戦し土佐藩は「薩長土肥」へ食込み、板垣退助と後藤象二郎は新政府首脳に採用されたが、明治六年政変で征韓派に属し下野、板垣は薩長藩閥に対抗すべく民衆を動員して自由民権運動を牽引し後藤も行動を共にした。良く言えば豪快な後藤象二郎は、豪遊で公金を散財し、高島炭鉱など事業で失敗を重ね借金まみれだった。板垣退助が立憲政治・議会制度視察のため洋行を志向し金策中との情報を得た山縣有朋は、陸軍省御用商人でもある三井の番頭に命じ2万ドルの大金をあるとき払いの催促なしで拠出させ、金を受取った後藤象二郎は板垣を促しヨーロッパへ旅立った。が、山縣有朋のリークだろう、洋行費が政府から出ているとの噂が立ち自由党内は騒然、後藤象二郎は2万ドルの件を隠し一人で費消したうえにシラを切り、板垣退助は支持者から3千ドルを借りて弁済にあてたが窮地に追込まれた。山縣有朋の分断工作は図に当り自由党は分裂、板垣退助の権威は失墜し総理の地位も失った(後に復帰)。伊藤博文が最初の内閣を発足した翌年、後藤象二郎は民権諸派に大同団結運動を提唱したが、次の黒田清隆内閣で逓信大臣の餌に飛付いて懐柔され、第二次伊藤博文内閣で農商務大臣に就くも収賄事件で引責辞任、60歳で生涯を閉じた。大町桂月は後藤象二郎を「たとえていえばナイル河の水で、氾濫して人びとをさわがせるが、土地を肥やしもする」と評したが、後半部分は三菱への便宜供与を指すかも知れない。新貨条例の施行を前に後藤象二郎から新政府が各藩札を買上げるとの情報を得た岩崎弥太郎は、10万両を調達し安値で買叩いた藩札を政府に転売して巨利を積んだというが、後藤の放漫経営で破綻した高島炭鉱を押付けられ(後に巨利を生むが)死ぬまでに相当な金を貢いだと考えられる。
- 開成館は、遅ればせながら富国強兵に目覚めた土佐藩が1866年に設立した巨大機関で、軍艦・貨殖・捕鯨・税課・鉱山・火薬・鋳造・原泉(貨幣鋳造)・医局(漢方)・訳局(洋書翻訳)の部局からなり、山内容堂の命を受けた後藤象二郎が藩政改革の旗振り役となり財政・軍備・藩営事業などの諸機能を全てここに統合した。貨殖局は特に重要で、樟脳など土佐藩物産の振興と外国輸出、獲得した外貨での武器輸入を目的とし、長崎・大阪・兵庫に出張所が置かれた。洋式軍備の調達を急ぐ後藤象二郎は、藩交易を活性化すべく長崎へ赴くも大雑把な性格で商才は皆無、下僚の岩崎弥太郎を呼出して丸投げした。貨殖局勤務を命じられた岩崎弥之助は「小鳥の餌鉢をこね回すようなせこい仕事だ」と嫌がり僅か40日間で辞職したが、後藤象二郎の命令で長崎出張所(土佐商会)に引張り出されると外国人の懐柔と強談判で忽ち頭角を現し主任に上って業務を差配、金喰虫である坂本龍馬の土佐海援隊の会計係も押付けられた。明治維新後、岩崎弥太郎は事業より政治を志し後藤象二郎に新政府への斡旋を嘆願したが、後藤は便利な土佐藩の経済官僚を失うのを嫌い無情にも却下した。土佐商会が大阪商会、九十九商会、三川商会へ改組するなか岩崎弥太郎は商事に励みつつ猟官運動を続けたが、1873年政治への夢をきっぱり諦め自らの資本で三菱商会を設立した。後藤象二郎から長崎へ呼出されたことが岩崎弥太郎の人生最大の転機となり、三菱財閥の起点となった。一方の後藤象二郎は、板垣退助の自由民権運動に従うも大臣ポストに釣られて薩長藩閥に懐柔され、「官有物払い下げ」で高島炭鉱を得るも放漫経営により僅か2年で経営破綻させ岩崎弥太郎に買取らせ、借金漬けになっても豪遊を続けた。三菱の金をあてにする後藤象二郎は娘の早苗を岩崎弥之助(弥太郎の弟で三菱2代目)に嫁がせたが、愛想を尽かした岩崎弥太郎は板垣・後藤の自由党ではなく大隈重信(実は福澤諭吉)の立憲改進党に肩入れし資金源となった。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 吉村寅太郎は、九州で会った平野国臣から島津久光・薩摩藩の上洛激発論を吹込まれ、土佐へ戻ると土佐勤皇党挙げて脱藩し上洛・参加しようと説いたが「挙藩勤皇」を譲らない武市半平太に拒否された。吉村寅太郎は単身脱藩し京都へ進発、山内容堂の因循に見切りをつけた坂本龍馬も追随し吉村の後を追った。坂本龍馬は四国山脈を越えて下関に着いたが吉村寅太郎は既に京都へ出立しており、そのうちに寺田屋騒動が起り島津久光の挙兵論はデマと判明、吉村も捕えられ土佐藩へ送還された。目的を失った坂本龍馬は、上方を経て江戸に入り桶町千葉道場に身を寄せた。
- 「日本を今一度洗濯いたし申し候」・・・坂本龍馬が姉の乙女に宛てた手紙に記した名文句、浪士の分際で国体改革を宣言する大言壮語だが、後に薩長同盟や大政奉還に働いた坂本龍馬の偉材を示す逸話である。が、馬関戦争で壊れた外国船を幕府が修理した事実を知った坂本が同胞相打つ愚行を憤り吐いた言葉で、大局を語ったものではない。
- 神戸海軍塾は、神戸海軍操練所の開設に備え勝海舟が幕府の許可を得て設けた私塾だが、実態は浪士群の受皿であった。塾頭の坂本龍馬の勧誘で菅野覚兵衛・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・坂本直(高松太郎。龍馬の甥)ら土佐浪士が参集したほか、紀州浪士の陸奥宗光(父は紀州藩で勘定奉行を務めたが政争で失脚し宗光は出奔)らも加わった。勝海舟・坂本龍馬の奔走で神戸海軍操練所生は開設に漕ぎ着けたが、望月亀弥太が池田屋事件で死亡し安岡金馬が禁門の変で長州軍に加わっていたことが発覚、勝海舟は軍艦奉行を罷免され、神戸海軍操練所も廃止された。江戸へ召還された勝海舟は出立に際し、坂本龍馬ら神戸海軍塾生の世話を小松帯刀・西郷隆盛に託し坂本らは薩摩藩の庇護下に納まった。
- 幕府軍艦奉行の勝海舟から「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と長州宥和を促された薩摩藩(征長軍大参謀)の西郷隆盛は、征長総督徳川慶勝に武力衝突を回避する穏当策を提言、慶勝は西郷を征長軍全権に任じ長州藩との折衝を委ねた。西郷隆盛は、岩国藩主吉川監物を通じて禁門の変で上京した国司信濃・益田弾正・福原越後の三家老切腹、四参謀斬首、三条実美ら五卿の追放を降伏条件として提示、長州藩主父子が謝罪文書を提出し恭順したため開戦は回避された(第一次長州征討)。これに対し、奇兵隊などの諸隊には不満を抱く者が多く、高杉晋作は即時挙兵を主張したが、俗論党に懐柔された奇兵隊総督赤根武人をはじめ諸隊の長官は応じなかった。徳川慶喜政権の後ろ盾であった薩摩藩は長州征討を機に幕府批判へ転じ薩長同盟・討幕へ突進んだが、西郷隆盛を長州宥和へ転換させた勝海舟の役割は非常に大きかった。西郷隆盛は大久保利通への書簡で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と評している。勝海舟は幕臣でありながら雄藩諸侯や尊攘派志士と広く交流、西郷隆盛が神と仰いだ島津斉彬とも懇意であり、開国の利と幕藩体制変革の必要性を説いて反幕府陣営に大きな影響を与えた。幕府首脳で軍艦奉行も務めた勝海舟の言葉は非常に重く、討幕を奨励するような言説は志士たちを大いに勇気づけたに違いない。この3年後に薩摩藩が戊辰戦争を引起すと、勝海舟は徳川慶喜を説いて絶対恭順を決意させ、幕府代表として西郷隆盛に会い江戸城無血開城を成遂げた。
- 中岡慎太郎と土方久元は、下関で木戸孝允・伊藤博文・井上馨らと薩長和解を協議し京都に潜入、薩摩屋敷に迎えられ薩摩藩士に薩長和解を説いた。西郷隆盛は、勝海舟との会談で長州宥和へ転じ第一次長州征討では征長軍全権として寛大な措置を差配、幕府と徳川慶喜を牽制すべく上京する構えをみせた。中岡慎太郎は西郷隆盛が上洛途中に下関へ立寄り木戸孝允と会談することを提案、薩摩藩士は賛同し岩下方平を鹿児島へ派遣した。中岡慎太郎は岩下と共に西郷隆盛の説得にあたり、土方久元は木戸孝允を説くため下関へ向かった。
- 坂本龍馬の西郷隆盛評:「西郷というのは、分からぬ男だ。小さく、たたけば、小さく響き、大きく、たたけば、大きく響く。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大きな利口だろう。」。中岡慎太郎の西郷隆盛評:「人となり、肥大にして御免(土佐の地名)の要石に劣らず、古の安倍貞任などもかくの如きかと思ひやられ候。この人、学識あり、胆略あり、常に寡言にして、最も思慮雄略に長じ、たまたま一言を出せば、確然、人の腸を貫く。且つ徳高くして、人を服し、しばしば艱難を経て頗る事に老練す。その誠実、武市半平太に似て、学識あることは優り、実に知行合一の人物なり。これ即ち、当世、洛中第一の英雄に御座候」。板垣退助の西郷隆盛評:「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸・大久保の間には、零が幾つあるか分らぬ。西郷、その次に0000といくら零があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う」。1898年、上野の西郷隆盛像の除幕式に参加したイト夫人は「アラヨウ!ウチンシは、こげんお人じゃなかったこてェ!」と声をあげ、隣にいた西郷従道(隆盛の弟)に「シッ」と足を踏まれたという逸話がある。写真嫌いだった西郷隆盛のモデルについては、西郷従道と従弟の大山巌をミックスさせたとも、孫のなかで最も似ている西郷隆治(西郷隆盛が奄美大島でアイガナに産ませた菊次郎の長男)ともいわれが、定かではない。
- 西郷隆盛の意を汲んだ坂本龍馬は、中岡慎太郎とは別に薩長和解工作に動き始め、大宰府で三条実美ら五卿のお墨付きを得て下関に入り木戸孝允・高杉晋作の説得に努めたが、京都から下関へ来た土方久元から西郷・木戸の下関会談の策動を聞き連携して事にあたった。
- 西郷隆盛は、薩長和解に賛成であり中岡慎太郎が勧める木戸孝允との下関会談を一旦了承したが、幕府との関係を重視したか上洛はしたものの下関寄港を急遽中止、中岡単身下関へ入り西郷を待ち侘びる坂本龍馬と木戸孝允・高杉晋作に招致失敗を告げた。中岡慎太郎は、落胆憤慨する木戸らを励まし引続き薩長和解に尽力することを約束し、西郷を説くため再び京都へ向かった。
- 第二次長州征討を前に長州藩が生残る道は薩長同盟しかなかったが、政府首脳の木戸孝允は禁門の変の恨み「薩賊会奸」に感情を捕われ西郷隆盛が下関会談を反故にし面子を潰された一件を言い募り上洛を逡巡した。現実的な高杉晋作は「薩摩の芋が何を」と言いつつも藩論を薩長和解に纏め、長州藩主毛利敬親に受けの良い井上馨の奔走で藩命を取付け、高杉を代役に立てようとする木戸に対し「木戸さん1人が殺されても長州藩は問題ない」と突撥ね背中を押した。会津藩兵・新撰組が厳重に警護する京都に潜入した木戸孝允は、京都の小松帯刀邸で西郷隆盛・小松帯刀と会談し軍事同盟たる薩長同盟を締結した(攻守同盟だが第二次長州征討について薩摩藩は表面上中立を保ち後方支援に留める)。土佐浪士の坂本龍馬は薩摩方・中岡慎太郎は長州方として両藩の斡旋に奔走、薩長同盟の場に同席した坂本は木戸の要請で約定書に裏書した。浪人で薩摩方の坂本に担保力は無く、非命に散った武市半平太や吉村寅太郎に報いるためか、土佐藩の参加を含んだものと考えられる。実際この直後に土佐藩は、中岡慎太郎の斡旋で板垣退助・谷干城が薩土密約を、坂本龍馬の仲介で後藤象二郎が薩土同盟を結んでいる。薩土同盟は大政奉還と共に無視されたが、板垣退助は独断で戊辰戦争に賛成し薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の末座に滑り込んだ。中岡慎太郎は三条実美ら五卿の世話を焼くため大宰府に行っており会盟の場面に立会えなかったが、同志の福岡藩士早川勇曰く・・・「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというても過言でないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州藩の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおり、ことに遊撃隊に身をおいてその苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国にかえった後に長州に来た人であるから、どれだけの功労があったか知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」。
- 薩長同盟の後、坂本龍馬は長州藩士の三吉慎三と共に伏見寺田屋に止宿したが、伏見奉行の捕吏に襲撃された。坂本龍馬は高杉晋作にもらったピストルで応戦するも両手指を斬られ失血が酷く重症となった。入浴中の寺田屋お龍が裸で飛出し急報を告げたかどうかは不明だが、坂本龍馬は伏見の薩摩藩邸に匿われて一命を取留め、西郷隆盛の招きで鹿児島へ逃れお龍を伴い霧島山や温泉場を巡訪した。ドラマでは「日本初の新婚旅行」と紹介されるが、当時でも夫婦旅行はなかったわけではなく、薩摩藩の小松帯刀はこれより数年前に新妻の千賀を伴い霧島の栄之尾温泉に滞在している。
- ワイル・ウエフ号は亀山社中が薩摩藩の資金でグラバーから購入した木造帆船、長州米を積載しユニオン号に曳航されて長崎から鹿児島へ向かう途中暴風雨に遭遇し、衝突防止のため切離され長崎沖合で転覆沈没した。池内蔵太ら12名が犠牲となった。
- 第二次長州征討で幕府権威は失墜し諸藩は動揺、土佐藩でも、再び勤皇派の人士を登用し薩摩藩に接触して真意を探るなどの動きをみせたが、武市半平太と土佐勤皇党を葬ったことで薩長志士人脈を失い自力で中央政局に復帰する力を欠いていた。慌てた執政の後藤象二郎は、長崎で福岡孝悌と会談し(共に吉田東洋門下の新おこぜ組)薩摩系の坂本龍馬と長州系の中岡慎太郎の起用を決定、両者の脱藩罪を赦免し志士活動後援で懐柔し、坂本・中岡は旧怨を忘れて周旋に協力した。坂本龍馬の亀山社中は、薩長同盟締結に伴い薩摩藩での役割を失い、海難事故もあって経営は破綻に瀕しており、土佐藩の援助は渡りに船だった。土佐藩の傘下に改めて発足した海援隊は、菅野覚兵衛・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・坂本直・長岡謙吉・中島信行ら土佐浪士に陸奥宗光ら神戸海軍操練所出身者を加えた50人ほどの組織であった(坂本龍馬の暗殺後、土佐藩は求心力を失い分裂した海援隊を解散し、土佐藩の商社機能は土佐商会へ引継がれ主宰の岩崎弥太郎が独立し三菱財閥へ発展)。坂本龍馬の差配で薩土同盟を結び将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した土佐藩と後藤象二郎は穏健な王政復古路線の主役に躍り出たが、薩長と共に武力討幕を期す中岡慎太郎は、同志の板垣退助(新おこぜ組)に西郷隆盛と薩土密約を結ばせ、土佐藩に京都藩邸と資金を拠出させ浪士群を集めて陸援隊を結成したが、開戦直前に坂本龍馬と共に見廻組に暗殺された。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通は岩倉具視と結んで朝廷を掌握し山内容堂の猛反対を抑えて辞官納地を断行、討幕の密勅で大政奉還を有名無実化して戊辰戦争の火蓋を切った。徳川家擁護に固執する山内容堂と後藤象二郎は動けなかったが、中岡慎太郎の遺志を継ぐ板垣退助は急ぎ洋式銃器を購入し土佐勤王党系人士を糾合して迅衝隊を結成、独断で戊辰戦争に参戦した。東山道軍の参謀に就いた板垣退助は軍事的才能を発揮、甲州勝沼の戦いで近藤勇ら新撰組残党を撃破し、会津若松城攻略で東北戦争の殊勲者となり、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 徳川慶喜の策動により第二次長州征討が勃発し幕府軍は芸州口・石州口・大島口・小倉口から山口へ進軍したが(四境戦争)、山陽道を守る高杉晋作の軍艦奇襲により大島口から撃退され、山陰道では大村益次郎が浜田城を攻落し石州口を封鎖した。小倉口が決戦場となったが、作戦上の意見対立から熊本藩兵が戦線離脱し、大阪城に陣取る将軍徳川家茂の急死を知った小倉藩主・老中の小笠原長行は本営を抜け出し長崎へ逃走、孤立した小倉藩兵は自ら城に火を放ち小倉城は落城、長州藩の勝利が決定的となった。家茂から徳川家の家督を継いだ徳川慶喜は、自身の長州大討入りを宣言したが小倉城陥落を知り断念した。徳川慶喜から講和交渉を一任された勝海舟は、安芸厳島へ赴き長州藩代表の井上馨・広沢真臣と会談し止戦協定を結んだが、徳川慶喜は二面外交の策を弄し朝廷に工作して征長停止の停戦の勅命を得たうえ小栗忠順が推進するフランスとの同盟(売国的条件による借款と軍事支援)に飛付いた。決死の覚悟で敵地に乗込んだ勝海舟は激怒し辞職願いを叩き付けて江戸へ帰った。翌年長州藩は小倉藩とも講和し完勝で四境戦争を終結、武力政権たる徳川幕府の権威は地に落ちたが、面従腹背の徳川慶喜はフランスを頼りに巻返しを図った。戦勝の立役者である高杉晋作は、病身に鞭打ち最前線で戦闘指揮にあたったが肺結核の病状が悪化、小倉城陥落を見届けると遂に動けなくなり、井上馨や伊藤博文に「ここまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」の言葉を遺し27歳の若さで病没した。山縣有朋は結核の感染を恐れ見舞いを避けたという。
- 第二次長州征討の最中に大阪城に陣取る将軍徳川家茂が急逝、徳川慶喜は喪を秘して戦争を継続し自ら出馬すべく「長州大討入り」を勇ましく宣言し、孝明天皇に頼み岩清水八幡宮への戦勝祈願までやらせた。が、小倉城陥落の敗報を聞くとあっさり進発を撤回し薩長に近い勝海舟に講和交渉を命令、直後に孝明天皇が崩御した。孝明天皇は、病的な外国人嫌いだが長州藩の過激な尊攘運動を嫌い徳川慶喜に好意的で禁門の変や長州征討を支持し続けた。徳川慶喜は大きな後ろ盾を喪い、14歳で即位した明治天皇は後に岩倉具視ら薩長派公卿の傀儡となる。さて、嗣子の無い将軍徳川家茂は、江戸を発つとき万一のときには田安亀之助(徳川家達)を跡継ぎにと言い残したが、老中の板倉勝静や小笠原長行は3歳の将軍では難局に対処できないとして徳川慶喜に将軍就任を要請した。徳川慶喜は「将軍継嗣問題のとき野心を疑われて不愉快な思いをした。いま将軍職を引受ければ、その悪評を裏付けることになろう」などと逡巡、このため先ず徳川宗家のみを相続し4ヶ月の間をおいて孝明天皇の説得により将軍就任という体裁をとった。徳川慶喜の説得にあたった松平春嶽は「ねじあげの酒飲み」(口ではもう飲みたくないといいながら、杯を勧めないと機嫌が悪くなり、結局はまた飲む)と評している。徳川慶喜は将軍就任に際し側近に王政復古を匂わせる発言をし諌められたともいわれる。
- 幕府の動きを探るすべく上京した中岡慎太郎は、在京の土佐藩士と会合し時勢を説明したうえで藩上層部の上京を勧め、土佐藩庁は大監察の福岡孝悌と小笠原唯八を京都へ派遣した。中岡慎太郎は福岡・小笠原を西郷隆盛に紹介、両者は薩土両藩の提携を促すべく山内容堂を上京させ朝議に参与させる方針で合意した。中岡慎太郎は、開国して洋式軍備を導入しその力で外圧を跳ね返すべしとする「大攘夷」が時流であり、そのために幕府は大政奉還し朝廷のもとに挙国一致体制を整えるべきであるとし、そうした流れのなかで土佐藩が採るべき詳細な藩政改革案を示し特に洋式兵器の調達と精兵主義を強調した。
- 薩長による討幕の機運が濃くなると、京都に潜伏する諸国浪士の動きが活発化し、新撰組や見廻組による探索は峻烈を極めた。中岡慎太郎は、佐々木高行らと交渉し京都白川の土佐藩邸と食費等費用を拠出させ浪士群を保護、薩長に呼応して挙兵すべく武器と軍事系統を整備するなど密かに討幕戦の準備を進めた。坂本龍馬の土佐海援隊に対し陸援隊と呼ばれた浪士団は、中岡慎太郎を土佐浪士の田中顕助・那須盛馬・大橋慎三・香川敬三らが補佐した。陸援隊士の出身藩は土佐18人・水戸14人・三河9人・京都9人と続いて総勢は75人に達し、十津川郷士隊50人が合流し合計125人の一団を形成した。明日をも知れぬ浪士らの風紀は甚だ悪く土佐藩は厄介視し、新撰組のスパイも紛れ込んでいた(長州人と称した村山謙吉など)。が、坂本龍馬の死で分裂解消した海援隊と異なり陸援隊は中岡慎太郎の死後も組織を保ち、戊辰戦争に従軍したあと薩長土3藩供出の御親兵に吸収された。
- 中岡慎太郎の斡旋により、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩板垣退助・谷干城らと薩摩藩西郷隆盛・吉井友実らが武力討幕の密約を結んだ(薩土密約)。戊辰戦争に際して、山内容堂は最後まで武力討幕に反対であったが、板垣退助が土佐勤皇党の流れを汲む迅衝隊を率いて独断挙兵し、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の一角に滑り込むこととなった。板垣退助は、土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府参謀として戊辰戦争を転戦し、軍人として華々しい勲功を重ねた。甲州勝沼の戦いで近藤勇の甲陽鎮撫隊を粉砕し、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩の攻略戦を指揮して勝利に導いた。戊辰戦争で抜群の軍才を示した板垣であったが、薩長が牛耳る軍部には進めず、明治政府では政治家の道を歩むこととなった。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 中岡慎太郎は、坂本龍馬と共に、和宮降嫁で尊攘派志士から嫌われて逼塞していた岩倉具視の政局復帰を後押しした。旧知の三条実美を口説いて岩倉と提携させたほか、西郷隆盛や木戸孝允ら薩長の中心人物との周旋にも尽力した。岩倉具視は中岡慎太郎を信頼し陸援隊が討幕の尖兵として活躍することを大いに期待していた。中岡は死の間際、同志の香川敬三に「岩倉卿に、王政復古のことはひとえに卿の御力にたよっていると伝言をたのむ」と述べ、中岡の訃報を聞いた岩倉は「自分は片腕をもがれた」と号泣したといい、大久保利通に「この恨み必ず報ぜざるべからず」と書き送り武力討幕の決意を固めた。
- 岩倉具視は、大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対した。1851年から1994年まで流通した五百円札の肖像画にみるように岩倉具視は公家らしからぬイカツイ容貌で、幼少期は「岩吉」長じて「山賊の親分」などと形容されたが、見た目どおり豪傑肌で胆力があり、洛北岩倉村での蟄居時代には糊口を凌ぐため自宅を賭場として博徒に貸与したといわれる。和宮降嫁の首謀者として久坂玄瑞・武市半平太に打倒され5年間も隠遁したが、希少な硬骨公家を大久保利通は見逃さず、孝明天皇没後に薩摩藩の名代として朝廷に乗込んだ岩倉具視は偽勅批判を恐れず討幕の密勅を強行し、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行採決した。が、他に見るべき業績は無く、岩倉具視は政治理念よりも朝廷の発揚と自身の出世のために動いたようにみえる。少壮期より世襲公卿に反発した岩倉具視は、関白九条尚忠が推す条約勅許に異を唱え同類の軽輩公家を扇動して「八十八卿列参事件」を起したが、安政の大獄で佐幕へ転じ、井伊直弼暗殺に伴い公武合体派が盛返すと意を受けて和宮降嫁を推進したが、尊攘派の猛攻で失脚した。蟄居中に大久保利通と邂逅した岩倉具視は忽ち武力討幕論に迎合し、大政奉還が成ると王政復古の大号令に摂関と朝臣の世襲制排除を盛込み、三条実美と共に太政官の最上位に就き宿願を果した。なお、本心佐幕派の孝明天皇の崩御は討幕への一大転機で毒殺が噂されたが、真先に疑われたのは岩倉具視だった。新政府の重鎮となってからも岩倉具視は大久保利通を支える役割を果し、「岩倉使節団」から戻り明治六年政変が起ると西郷隆盛ら征韓派の追放に加担したが、秩禄処分で士族特権を奪いながら旧公家のみを優遇する政策が士族反乱に油を注ぎ、自由民権運動には決して妥協しなかった。反動勢力の首魁と化した岩倉具視が没すると、伊藤博文は華族令で旧武士層に幅広く爵位を振舞い、太政官制を廃止して内閣制度を発足させた。
- 坂本龍馬ら海援隊士が運行する「いろは丸」が、紀州藩の軍艦明光丸と備中笠岡沖で衝突し沈没した。いろは丸は土佐海援隊が大洲藩から借受けた運搬船で、ミニエー銃などを積載し長崎から大阪へ向かう途中であった。坂本龍馬は沈むいろは丸から明光丸へ乗移り万国公法を振りかざして相手の過失を責め、沈んだ積荷などの賠償を求めた。その場では決着がつかなかったが、舞台を長崎へ移し、後藤象二郎と岩崎弥太郎の応援を得て紀州藩から70万両の賠償金をとることに成功した。
- 土佐から京都へ向かう土佐藩船夕顔丸の船上で、土佐海援隊の長岡謙吉が書いた文章を坂本龍馬が「船中八策」と銘打ち後藤象二郎に提案、土佐藩による大政奉還建白の基となった。単に幕府が政権を朝廷に返上するというだけでなく、上下両院を開くことで大名の居場所を確保しつつ諸国の有志を政治に参加させ、御親兵の設置により新政府の権力強化を図り、国家の基本法である憲法を制定すべしという踏込んだ内容で、海軍の充実と通貨政策の重要性も示唆した。船中八策から「五箇条の御誓文」、自由民権運動へ繋がる民主主義の元祖は福井藩の横井小楠や由利公正であり、勝海舟に松平春嶽を紹介されて以来福井藩士と懇意の坂本龍馬は土佐藩を通じてその実現を図ったといえる。
- 坂本龍馬の斡旋により、京都三本木の料亭にて、土佐藩後藤象二郎・福岡孝悌らと薩摩藩小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通とが、両藩協力して大政奉還と王政復古を実現させることを約した。この後、土佐藩は山内容堂を促し大政奉還の建白書を提出する。しかし、薩摩藩の腹は既に武力討幕で固まっており、同盟を解消して戊辰戦争に踏切ることとなる。中岡慎太郎も有志代表として陪席したが、真意は薩長と同じく武力討幕路線であった。
- 長崎で、泥酔し婦人をからかったイギリス軍艦イカロス号の水夫が日本人壮士に斬殺された。犯人の福岡藩士は直後に自殺し福岡藩が真相を隠蔽したため、素行の悪い海援隊士が疑われた。京都で薩土同盟を果した坂本龍馬と後藤象二郎は長崎へ駆け付けイギリス行使パークスと交渉、証拠不十分で不問に付された。交渉の矢面に立たされた岩崎弥太郎は、散々苦労して事件を解決したのに海援隊士から腰抜けと責め立てられた。岩崎弥太郎と海援隊の関係は甚だしく悪化し、岩崎は土佐商会主任を罷免され土佐への帰国を命じられた。
- 坂本龍馬は、後藤象二郎に大政奉還を提案し諸方周旋に努めたが、一方で長崎のオランダ商人ハットマンからライフル小銃1300挺を購入、うち1000挺を土佐藩に提供し、幕府が大政奉還を拒否した場合は海援隊が尖兵となり土佐藩を挙兵させる腹積もりだった。
- 土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静を尋ね、山内容堂の建白書と副書一通を呈出した。討幕挙兵を決意した薩長はこの動きを無視した。なお、この建白は坂本龍馬が後藤に提唱した「船中八策」に基づくとされるが、大政奉還論は坂本の独創ではない。幕府では大久保一翁が早くから唱え、朝廷の攘夷要求に手を焼いた将軍徳川家茂は征夷大将軍返上を仄めかした。民主主義の開祖である福井藩の横井小楠は、松平春嶽が政治総裁職に就任した1862年に『国是七条』を献策し大政奉還論を説いている。
- 徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎(桑名藩の飛び領地)を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
- 大政奉還の実現後、坂本龍馬は「船中八策」に新政府職制案を加筆した「新政府綱領八策」を西郷隆盛らに開陳した。新政府の構成員に坂本龍馬の名は無く、訝る西郷隆盛に「わしは世界の海援隊をやります」と述べたという逸話がある。翌年の太政官設置で土佐藩の後藤象二郎・福岡孝悌と坂本龍馬が推薦したという福井藩の横井小楠・由利公正が参与に採用されたが、両藩は戊辰戦争の重要戦力で各氏はその幹部、また民主主義の元祖である横井らの知識は新政府には貴重であった。坂本龍馬の他にも有名浪士は大勢いたが誰も新政府の重役に就いていないことを考えると、西郷が訝った話は創作の可能性が高い。
- 松平春嶽は、島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」である。御三卿田安家の八男ながら従兄の将軍徳川家慶の後援で福井藩主となり、将軍徳川家定の継嗣争いで徳川慶喜を担ぎ一橋派「四賢候」に数えられたが、大老井伊直弼に敗れ藩主職を奪われた。が、薩摩藩の島津久光が率兵江戸へ乗込みクーデターを成功させると、松平春嶽は政治総裁職に就き将軍後見職の徳川慶喜と共に幕政を掌握した。松平春嶽は徳川慶喜を大所高所に置き実質的な政権運営は自ら行う腹積りであったが、慶喜は意外にも我を張り「公武合体のためには攘夷やむなし」と主張する春嶽に対し「攘夷など無理」と対抗、外国人嫌いの孝明天皇は「即時攘夷」に固執し参預会議は膠着状態に陥った。松平春嶽は、会津藩主松平容保に汚れ役の京都守護職を押付けながら自分は政治総裁職を放出し福井へ帰国、横井小楠の献策に従い公武合体政権を樹立すべく「挙藩上洛計画」を試みたが中根雪江ら守旧派の反対で頓挫した。禁門の変後、専横を強める徳川慶喜は京都に「一会桑政権」を樹立し長州征討を強行、松平春嶽の福井藩は幕府軍の主力を担ったが、征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めた。高杉晋作が長州藩政を奪回すると徳川慶喜は長州再征を断行したが、薩摩藩は薩長同盟へ転じ幕府軍はまさかの完敗、松平春嶽は薩摩藩の側に立って長州赦免を説いたが慶喜は小栗忠順の日仏同盟構想を頼みに妥協を拒否、島津久光は西郷隆盛・大久保利通に討幕のゴーサインを出した。徳川慶喜は大政奉還で体制温存を図ったが薩摩藩は小御所会議で辞官納地を強要、松平春嶽は山内容堂と共に反抗したがねじ伏せられ自ら慶喜への伝達使を務めた。板垣退助の参戦を黙認した土佐藩の山内容堂と異なり、松平春嶽は戊辰戦争に距離を置き、横井小楠や由利公正が新政府の参与に任じられたものの福井藩は「薩長土肥」に入れなかった。薩長の公爵・土肥の侯爵に対し福井藩主松平茂昭は家格並の伯爵に留められたが、勝海舟らの運動により特別に侯爵を与えられた。
- 横井小楠は、開国通商・民主主義の開祖と呼ぶべき天才思想家で、吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛・勝海舟らを教化し、坂本龍馬の「船中八策」や愛弟子の由利公正が起草した「五箇条の御誓文」は「国是七条」「国是十二条」など横井著作の焼直しである。熊本藩士の次男に生れた横井小楠は、立身のため猛勉強して藩校時習館の優等生となり江戸へ遊学、吉田松陰・藤田東湖・川路聖謨らと交流したが酒乱で喧嘩騒ぎを起し熊本へ召還された。横井小楠は水戸学・尊攘論に染まったが、経世済民を重視する実学へ転じ、一を聞いて十を知る頭脳は『海国図志』や勝海舟の米国談から国際情勢を理解し開国通商・殖産興業・富国強兵・民主主義に開眼、さらに「西洋列強は実業の学ばかりで心徳の学がないから戦争の止む日がない」と看破し日本は富国強兵を果し平和主義のアメリカと共に(横井はワシントンを尊敬し自宅に肖像画を飾った)道義をもって国際平和を牽引すべしという崇高な国連思想に到達した。佐久間象山と並称された横井小楠は、熊本藩に開国論を説くも宮部鼎蔵ら尊攘派の旧同志からも憎まれ失脚した。が、私塾「小楠堂」には藩内外から門人が参集し、三寺三作を介して福井藩の松平春嶽に招聘され政治顧問に就任、春嶽は宿願の藩校再興(明道館)を果し横井に託した。安政の大獄で松平春嶽は松平茂昭への藩主交代を強いられ橋本佐内は処刑されたが井伊直弼暗殺で復活、公武合体運動に乗出し薩摩藩・島津久光の文久の改革で幕府中枢に入った。謀臣の横井小楠は西郷隆盛ら志士と交流し、勝海舟・坂本龍馬の神戸海軍操練所に福井藩から資金提供した(横井の甥二人が入学)。が、徳川慶喜の専横を持余した松平春嶽は政治総裁職を投出し福井に帰国、横井小楠は「士道忘却事件」(刺客に襲われ友人を置去りにして逃走)で苦境に陥り、主従は乾坤一擲の「挙藩上洛計画」で巻返しを図るも中根雪江ら守旧派の反対で挫折、横井は熊本藩に連戻され士籍剥奪・知行召上げに処された。熊本に隠棲するも松平春嶽らの援助で生延びた横井小楠は、由利公正と共に明治政府の参与に徴され念願の「国師」となったが、間もなく京都寺町で攘夷狂に暗殺された。
- 進歩的な経済官僚として知られる由利公正(1829-1909)は、横井小楠から財政学を学び、松平春嶽の信任を得て経済官僚に登用され藩札発行や専売制などの殖産興業政策で福井藩の財政再建に貢献、春嶽が政事総裁職に就くと側用人に任じられ活動の場を中央政界に移した。攘夷志士でもある由利公正は、徳川慶喜が長州征討を起すと藩論を長州藩擁護へ転換すべく奔走したが守旧派に抑えられ蟄居・謹慎に処された。松平春嶽と親しい坂本龍馬は、福井で謹慎中の由利公正を訪問し横井小楠の開国・民主主義思想を学習、「船中八策」にまとめて土佐藩に大政奉還建白を促した。能吏の由利公正は新政府に徴され、福岡孝悌らと「五箇条の御誓文」の起草にあたり、太政官設置で参与に補され太政官札発行など金融財政政策を担当、東京府知事を経て岩倉使節団に加わり、帰国後は板垣退助や江藤新平らと愛国公党を結成し政府に「民撰議院設立建白書」を提出した。薩長藩閥政府に活躍の余地は無かったが、由利公正は子爵に叙され貴族院議員を務めた。
- 「世界の海援隊」で貿易を志した坂本龍馬は、蝦夷地の開拓と交易にも乗出す構えをとり、海援隊士の坂本直(龍馬の姉の子で後に家督を相続)を準備にあたらせた。明治維新後、坂本直は箱館裁判所の権判事に採用されたが田中光顕・土方久元らの引きで東京へ移り晩年は高知で過ごした。が、弟の坂本直寛の代に坂本家は一家をあげて北海道へ移住、この縁で1986年に高知市と北見市とが姉妹都市の縁組を行った。
- 大政奉還の直後、京都近江屋で会食中の坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われ、頭蓋を斬られた坂本はほぼ即死、中岡は後頭部の傷が悪化し3日後に死去した。「坂本龍馬暗殺の謎」は面白おかしく語られ、フリーメーソン(イギリス)の謀略説や、薩長が遣わした中岡が坂本を斬ったという珍説まである(長州系の中岡は強硬な討幕論者で、土佐藩の大政奉還を差配した坂本は徳川家擁護に動いていた)。が、元新撰組の大石鍬次郎および元見廻組の今井信郎(函館戦争で投降)・渡辺篤の供述により、佐々木唯三郎ら見廻組7人の犯行であることが明らかになった。見廻組は新撰組と同じく京都守護職松平容保(会津藩主)の指揮下で京都の治安維持にあたった警察組織である。新撰組の実態は過激浪士の傭兵集団だが、歴とした幕臣からなる見廻組は統率のとれた幕府機構であり、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺も上層部の命令によるものと考えられ、命令者は松平容保とも京都所司代松平定敬(容保の実弟で伊勢桑名藩主)ともいわれる。会桑両藩と松平容保・定敬兄弟は、藩兵と新撰組・見廻組を駆使して京都に厳戒体制を敷き池田屋事件などで尊攘派志士を多数殺害したことから目の敵にされ、後戻りできない立場故に最強硬な佐幕派であった。ここで将軍徳川慶喜が大政奉還を遵守し薩長に取込まれると会桑両藩は完全に宙に浮いてしまうが、大政奉還を差配した坂本龍馬は幕臣の永井尚志を通じて幕府に現実的妥協案を呑ませる根回しに動いており会桑両藩にとっては危険人物となっていた。雄藩の後ろ盾がなく身辺警護も脆弱な坂本が真先に狙われ、中岡慎太郎は巻添えを喰ったと考えられる。暗殺事件後、激昂する海援隊・陸援隊に対し土佐藩は復讐禁止令を敷いたが、陸奥宗光ら16人は「いろは丸事件」を恨む紀州藩士三浦休太郎を首謀者と断じ、明る正月一日に油小路花屋町天満屋の酒宴の場を襲撃した。斎藤一ら護衛の新撰組隊士数名が居たため接戦となり、陸奥一派は中井庄五郎を殺され三浦は討ち漏らしたが数名を殺害し逃走、官軍の天下で陸奥宗光らにお咎めは無かった。
- 陸奥宗光は徳川御三家紀州藩重臣の出自のゆえか、才気煥発だが人を見下す傍若無人な性質で、尊攘派志士の仲間うちでも激しく嫌われた。神戸海軍塾時代の陸奥宗光は、勝海舟も後年まで記憶に留めたほどの爪弾き者で、唯一の理解者である坂本龍馬は陸奥の身の上を心配し福井藩家老の岡部造酒助に「他日必ず天成の利器となるであろうが、ただあまりに才弁を弄して浪士どもに憎まれ、あるいは殺されるかも知れない。願わくはしばらく国許に置かれたい」と願出たほどであった。岡部造酒助は承諾し陸奥宗光を横井小楠に託そうとしたが、折り悪く横井が失脚する事件が起り沙汰止みとなった。その後、土佐海援隊に至っても陸奥宗光は嫌われ続け「いろは丸事件」で海援隊が紀州藩と対立すると、紀州藩出身というだけで陸奥を殺そうとする者もいたが、中島信行の制止で救われたという。この縁で陸奥宗光は妹の初穂を中島信行に娶わせるほど昵懇の間柄となり、帝国議会創設にあたり自由党土佐派に近い陸奥は調整役を期待され第一次山縣有朋内閣の農商務相に抜擢された。第一回帝国議会において、中島信行は第一党自由党の幹部として衆議院議長を務め、閣内の陸奥宗光と協力して議会運営を円滑に導いた。
- 陸奥宗広は紀州藩の権臣だったが派閥争いに敗れ一家は零落、子の陸奥宗光は14歳で江戸の尊攘運動に身を投じ坂本龍馬と邂逅、勝海舟の神戸海軍塾に寄寓して幕府神戸海軍操練所に学び、亀山社中・土佐海援隊と坂本の最期まで付随った。才気煥発だが傍若無人な陸奥宗光は同僚に憎まれたが、坂本龍馬は「天成の利器」を見抜き擁護し続けた。坂本龍馬が暗殺され「天満屋事件」を起した直後に鳥羽伏見戦が勃発、陸奥宗光は大阪に急行してパークス英公使と会見し、それを踏まえて「新政府は先ず列国に王政復古の事実と開国方針を通知すべし」との意見書を岩倉具視に提出した。岩倉具視は意見書を採用し陸奥宗光を外国事務局御用掛に抜擢、陸奥は同僚の伊藤博文と意気投合し生涯に渡る盟友となった。若くして明治政府に足場を築いた陸奥宗光だが、強烈な自尊心のために薩長専制に不満を抱き、伊藤博文と共に廃藩置県の即時決行を主張するも容れられず、官職を辞して和歌山に帰った。が、明治政府のお墨付により紀州藩政を掌握した陸奥宗光は藩政改革と軍備増強を断行、瞬く間に精兵2万を擁する「陸奥王国」を現出させ政府を震撼させたが、廃藩置県で王国は召上げられた。陸奥宗光の紀州割拠の野望は費えたが、このとき部下にした津田出・浜口梧陵・鳥尾小弥太・林薫・星亨らは後に政府顕官となり陸奥を支えた。陸奥宗光は明治政府に帰参したが薩長への不満は止まず明治六年政変を機に再び下野、西南戦争に呼応した土佐立志社の策動に連座し禁固5年の実刑に処された。獄中で西洋政体の研究に励み出獄した陸奥宗光は、原敬・加藤高明・星亨ら非薩長閥の人士を庇護しつつ、伊藤博文に属して薩長藩閥政府で台頭、英独遊学・駐米公使を経て、自由党土佐派とのパイプ役を期待され第一次山縣有朋内閣に農商務相で初入閣、第二次伊藤博文内閣で外相に抜擢されると華々しい「陸奥外交」を展開し、井上馨・大隈重信・青木周蔵が果たせなかった不平等条約改正を成遂げ、日英同盟を結び陸軍の川上操六と共に日清戦争開戦を主導し完勝、露仏独の三国干渉に遭うと冷静に受諾の決断を下し朝鮮・台湾・賠償金などの権益確保に成功した。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 西郷隆盛は、薩摩藩を率いて討幕を成遂げた「維新の三傑」である。大久保利通ら地元の青年を集めて尊攘派グループ「精忠組」を結成し、下級藩士ながら薩摩藩主島津斉彬に抜擢され名代として将軍継嗣問題に奔走したが、斉彬が大老井伊直弼打倒の上洛軍を発動した直後に突然死し、絶望した西郷は勤皇僧月照を抱え錦江湾で入水自殺を図った。大久保が藩政を握ると西郷隆盛は復帰するが島津久光と衝突し遠島処分、2年の罪人生活の後に再び召還されると薩長同盟、戊辰戦争、明治政府樹立へと直走った。維新後は唯一の大将として全国民の輿望を担い廃藩置県や徴兵制を後押ししたが、政府高官の奢侈と腐敗に悲憤慷慨し、征韓論を大久保利通・木戸孝允・岩倉具視に退けられ下野、西郷が戻った鹿児島は「私学校王国」と化し大久保政府は対決姿勢を明示した。我が身を部下に預けた西郷隆盛は西南戦争の首領に担がれ上京軍を起すが熊本城や田原坂で政府軍に敗北、鹿児島城下の城山に追込まれ自殺した。
- 大久保利通は、強靭な意志力でシナリオを描き粘り強くキーマンを動かして明治維新を成遂げた「維新の三傑」、声望は西郷隆盛に及ばないが功績と手腕は最高である。鹿児島城下の加治屋町で3歳年長の西郷隆盛と共に育ち尊攘派グループ「精忠組」を結成、デビューは島津斉彬の懐刀として活躍した西郷に遅れたが斉彬没後は主役となった。斉彬の突然死に西郷ら同志が希望を失うなか、大久保利通は、次代を担う島津久光に目を付け趣味の囲碁を自らも習得して接近を図り、島津斉興の死で久光が実権を握ると側近に抜擢され、自ら推挙した門閥閣僚の小松帯刀と共に薩摩藩を尊攘藩に改造した。大久保利通は、我が強く統制好きな久光の下で苦労しながら公武合体運動を推進め、突出脱藩を主張する有馬新七ら精忠組急進派を命懸けの説得で抑えて挙藩一致体制を堅持、久光を説伏せて西郷隆盛の赦免を勝取り薩摩藩同志の抑え役兼他藩への周旋役に据えた。島津久光は文久のクーデターで幕府政治を改革し参預会議により宿願の公武合体を成就したが、八月十八日政変・禁門の変で長州藩を追放した徳川慶喜は専横を強め、尊攘派に恨まれた久光は憤慨して政局を放棄、藩政を託された大久保利通と西郷隆盛は長州征討に固執する幕府を見限り薩長同盟を結んで討幕路線へ転換、岩倉具視と連携して朝廷を確保し一気に王政復古、戊辰戦争、明治政府樹立を達成した。新政府での大久保利通は、ラジカルな木戸孝允と士族に同情する西郷隆盛の意見調整に腐心しつつ、欧米視察を通じて殖産興業・富国強兵の必要性を確信、明治六年政変で岩倉と共謀して西郷の征韓論を覆し反抗勢力を一掃して初代内務卿兼参議に就き独裁政権を樹立した(大久保政府)。ドライな大久保利通は、台湾出兵で薩摩士族のガス抜きを図りつつも秩禄処分を断行、全ての特権を奪われた不平士族の反乱が相次いだが断固たる姿勢で各個撃破し西南戦争で西郷と薩摩志士を処断、史上空前の内乱の渦中で不敵にも第一回内国勧業博覧会を開催したが、翌年不平士族に襲撃され落命した(紀尾井坂の変)。大久保利通の内治優先・殖産興業路線は弟子の伊藤博文と大隈重信へ引継がれた。
- 小松帯刀は、島津久光・門閥とのパイプ役として大久保利通・西郷隆盛を後援し幕末薩摩藩の挙藩体制を支えた名宰相である。薩摩喜入5500石の肝付家に生れ薩摩吉利2600石の小松氏に入嗣した貴公子であったが、偉ぶらない人柄で人望が篤く精忠組の活動に理解を示したことから大久保利通の推挙で島津久光政権の首脳となった。小松帯刀は、島津斉彬が遺した集成館事業を再興し薩摩藩の近代化を推進しつつ、保守佐幕へ傾きがちな門閥閣僚を抑え気分屋の久光を励まし討幕路線へ導いた。生来の虚弱体質で肺病持ちであったが、幼年から文武に打込み示現流剣術も修めている。イギリス外交官として多くの志士と交わったアーネスト・サトウは著書『一外交官の見た明治維新』の中で「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物、家老の家柄だがそういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり態度がすぐれ、友情が厚くそんな点で人々に傑出していた。」と評している。愛妻家で新婦の千賀を連れて霧島の栄之尾温泉に滞在、日本初の新婚旅行ともいわれる。小松帯刀といえば坂本龍馬との情誼が有名だろう。神戸海軍操練所・海軍塾が幕命で閉鎖された際、親分の勝海舟は坂本龍馬以下30余名の塾生を小松帯刀に託し、小松は坂本らを大坂薩摩藩邸に引取り親密な間柄となった。公武合体を見限り討幕へ傾いた西郷隆盛・大久保利通は長州藩への接近を図り、幕府の圧力で輸入取引を塞がれた長州藩のために薩摩藩名義で武器や艦船を購入し提供したが、小松帯刀はダミーとして亀山社中を設立し洋式操船術を学んだ坂本らに貿易・輸送実務を任せ、薩長の仲介役となった坂本は薩長同盟に奔走した。寺田屋事件で重傷を負い薩摩藩に匿われた坂本龍馬は愛人の寺田屋お龍を伴い霧島山や温泉場を巡訪、「日本初の新婚旅行」といわれるが実は小松帯刀が先達である。生来病弱な小松帯刀は維新後間もなく病没したが、西郷隆盛・大久保利通の上司である小松が存命なら西南戦争の悲劇は避けられたかも知れない。
坂本龍馬と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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