土佐藩を脱藩して勝海舟に師事するが神戸海軍操練所の閉鎖に伴い薩摩藩の庇護下に入り亀山社中・薩長同盟に貢献、土佐藩に戻って大政奉還を差配し「世界の海援隊」を夢見たが暗殺された幕末一の人気者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
坂本 龍馬
1835年 〜 1867年
70点※
家系・子孫
- 坂本家は高知の豪商「才谷屋」の分家で、坂本龍馬の曽祖父八平直海の代に郷士株を買って武士身分となった。才谷屋のルーツは土佐長岡郡才谷村の本百姓で、江戸時代初期に八兵衛が高知へ出て質屋を開業、酒屋・呉服等も扱う大身代となった。坂本龍馬は紀貫之の子孫を称し墓碑名は「紀直柔」(諱)、明智秀満(光秀の婿養子)の末裔説や近江坂本由来説に確証はない。坂本龍馬は坂本八平直足の次男で、家督は長兄の坂本権平が継いだ。12歳のとき生母の幸が早世し、後妻の伊与は快活だったが龍馬は柔弱に育ち寺子屋を退学、三姉の乙女が基礎教養や武芸を教えたという。剣術修行で逞しく成長した坂本龍馬は、江戸へ遊学し北辰一刀流の千葉周作に入門、坂本を気に入った千葉は娘の千葉さな子の許婚にしたという。勝海舟に弟子入りした坂本龍馬は上方へ去り志士活動に奔走、七条新地の旅館「扇岩」で賄い婦をしていた楢崎龍を愛人とし、懇意の伏見寺田屋へ預け「寺田屋お龍」となった。龍は正式に祝言を挙げたと述懐したが真偽は不明、坂本暗殺後の行跡は不詳で再嫁したとも貧窮のなか寂しい晩年を過ごしたともいわれる。坂本龍馬は子を生さず、名跡を惜しむ田中光顕・土方久元らが直(龍馬の長姉千鶴の子)を跡目養子とし「坂本龍馬家」を継がせた。なお千鶴は自殺したが、脱藩する龍馬に家伝の刀を与えたのを咎められたためという。坂本直は、神戸海軍塾から坂本龍馬に随身し幕末は海援隊士として蝦夷地交易計画に従事、明治政府から箱館裁判所の権判事に採用され、東京府典事、宮内省雑掌、舎人などを歴任、晩年は高知で過ごした。坂本龍馬の功により叙爵の内示があったが、実現しなかったという。坂本権平の家督を継いだ坂本直寛(直の弟)は、土佐派の自由民権運動に身を投じ、キリスト教派が北海道北見の原野開拓のため設立した北光社の初代社長に就任、直の一家も引連れ移住した。後年はキリスト教伝道師となり北海道各地で福音を説いた。直の一子坂本直衛は、日本郵船などで国際航路の船員となったが、賭博のもつれから火夫長と喧嘩しピストルで射殺された。坂本龍馬家は坂本直道(直寛の長子)が継いだ。
坂本龍馬と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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