維新期に武器商人として台頭、陸軍長州閥に食込み国内外の戦乱に乗じて巨富を積み、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎の庇護のもと大倉財閥を築いた大胆不敵な「冒険商人」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照大倉 喜八郎
1837年 〜 1928年
70点※
大倉喜八郎の寸評
大倉喜八郎の史実
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1837年
越後新発田の名主大倉千代助の三男に大倉喜八郎が出生
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1853年
ペリー来航
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1854年
17歳の大倉喜八郎が江戸に出て中川鰹節店の奉公人となる
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1857年
大倉喜八郎が乾物店大倉屋を開業
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1858年
安田善次郎が江戸に出て日本橋の玩具問屋の奉公人となる、大倉喜八郎と知合う
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1860年
安田善次郎が日本橋の銭両替商兼鰹節商・広田屋林之助商店に奉公に入る
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1864年
安田善次郎が日本橋人形町に両替商兼乾物商・安田屋を開店
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1864年
禁門の変、禁裏御守衛総督徳川慶喜・京都守護職松平容保の指揮のもと薩会連合軍が長州軍を撃退し一会桑政権樹立
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
徳川慶喜が長崎・横浜・函館開港の勅許を獲得
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1866年
薩長同盟
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1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
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1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
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1866年
大倉喜八郎が乾物店を廃業し小泉屋鉄砲店で見習い修行
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1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866年
安田善次郎が日本橋小舟町に店舗を購入、安田商店に改称し両替専業となり、幕府の古金銀回収取扱方を務める
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1867年
大倉喜八郎が大倉銃砲店開業、官軍御用達となり巨利を得る
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1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
王政復古の大号令
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
徳川慶喜が松平容保・松平定敬を伴って大阪城を脱出し軍艦で江戸へ逃げ帰る
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎し主戦派の松平容保・松平定敬・小栗忠順らを江戸から追放し恭順派の勝海舟に全権委任、徳川家達に徳川宗家の家督を譲る
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1868年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868年
奥羽越列藩同盟が成立
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1868年
西郷隆盛・大村益次郎の官軍が上野彰義隊を殲滅
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置
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1868年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
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1868年
旧幕府海軍の榎本武揚らが軍艦8隻を奪い江戸を脱出、仙台で旧幕府軍を吸収し箱館五稜郭で蝦夷共和国樹立を宣言するが旗艦の開陽丸が座礁沈没
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868年
安田善次郎の安田商店が太政官札引受に参加し相場回復で巨利を得る
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1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
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1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1868年
徳川昭武・渋沢栄一の欧州遊歴一行が新政府の命により渋々帰国
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
版籍奉還
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1869年
大隈重信大蔵大輔の招きで渋沢栄一が大蔵省出仕、改正掛の革新運動を牽引
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1871年
大倉喜八郎が建設業に進出(大成建設の前身)、新橋駅建設工事の一部を請け負う
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1871年
郵便制度開始
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1871年
新貨条例布告、円が通貨単位となる
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1871年
廃藩置県
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1871年
岩倉使節団派遣、井上馨が留守政府の大蔵大輔に就き大蔵省を掌握
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1872年
大倉喜八郎が欧米旅行、岩倉使節団の大久保利通・伊藤博文らと交際
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1872年
安田商店が東京都心部の不動産投資を開始
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1872年
井上馨・渋沢栄一の主導で銀座煉瓦街の建設が始まる
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1872年
渋沢栄一の主導で官営工場富岡製糸場操業開始
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1872年
渋沢栄一の主導で三井小野組合銀行(後の第一国立銀行)が設立され国立銀行条例制定
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1872年
山城屋事件、絶体絶命の山縣有朋は西郷隆盛に救われ初代陸軍卿に就任し徴兵令準備に奔走
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1873年
大蔵省・渋沢栄一の主導により三井組・小野組・島田組の出資で抄紙会社(王子製紙の前身)設立
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1873年
岩崎弥太郎が三菱商会を設立
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1873年
大倉喜八郎が欧米旅行から帰国、銀座に大倉組商会設立
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1873年
岩倉使節団が帰国
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1873年
明治六年政変
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1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
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1873年
最初の世界恐慌、帝国主義列強による世界分割競争が始まる
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1873年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1873年
渋沢栄一が井上馨に殉じて退官し第一国立銀行総監役に就任
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1873年
大倉喜八郎の大倉組商会が大倉組へ改組
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1874年
大倉喜八郎の大倉組がロンドン支店を開設し(日本商社の海外支店第一号)インド・朝鮮貿易にも進出
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1874年
佐賀の乱
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1874年
三菱が西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野の海上輸送を一手に引受ける
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1874年
西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野、大倉組商会が軍隊輜重で巨利を得る
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1875年
黒田清隆開拓使長官の主導により榎本武揚駐露特命全権公使が樺太・千島交換条約を締結
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1875年
江華島事件
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1874年
安田善次郎の安田商店が政府公債保有を拡大し公金取扱いの為替方指定を獲得
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1874年
横浜の蚕卵紙相場が暴落、渋沢栄一が政府資金による買上げ・焼却処分で終息させる
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1874年
三井組・井上馨の謀略により小野組・島田組が倒産、渋沢栄一の第一国立銀行は先手を打って優良担保を確保し連鎖倒産を免れる
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1874年
小野組・島田組倒産により金融恐慌発生、井上馨が三井組救済に奔走
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1874年
第一国立銀行が三井組の吸収工作をシャンド裁定で撃退、指揮した渋沢栄一が三井八郎右衛門に代わり第一国立銀行頭取就任
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1875年
大久保利通政府が岩崎弥太郎の三菱商会を保護育成会社に指定、日本国郵便蒸気船会社を吸収した郵便汽船三菱会社が海運業を独占
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1876年
大久保利通政府が黒田清隆全権特使の艦砲外交により李氏朝鮮と日朝修好条規を締結
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1876年
秩禄処分
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1876年
神風連の乱
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1876年
秋月の乱
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1876年
萩の乱
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1876年
国立銀行条例改正、国立銀行の隆盛が始まる
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1876年
三井銀行および三井物産設立
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1876年
安田善次郎が第三国立銀行を設立し「銀行王」への道を踏出す
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1877年
渋沢栄一が三井物産社長の益田孝を伴い上海出張、長崎で大倉喜八郎と出会う
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1877年
三井組総帥の三野村利左衛門が井上馨に後事を託し死去
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1877年
西南戦争、大倉組商会が軍隊輜重で巨利を得る
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1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1878年
福地源一郎・渋沢栄一ら有力財界人の出願により東京株式取引所設立
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1878年
会頭渋沢栄一と大倉喜八郎が発起人となり東京商法会議所(商工会議所)発足
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1880年
西南戦争後の財政再建策を巡り渋沢栄一・井上馨・薩長閥と岩崎弥太郎・大隈重信の陣営が対立
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1880年
渋沢栄一らが郵便汽船三菱会社に対抗すべく風帆船会社を設立するが大隈重信・岩崎弥太郎に切崩され経営は難航
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1880年
安田善次郎の主導で共済五百名社発足(安田生命保険の前身)
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1881年
福澤諭吉の肝煎りで明治生命保険会社設立
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1881年
開拓使官有物払下げ事件
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
松方正義が参議兼大蔵卿に就任し松方財政が始まる
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1881年
横浜の生糸業者が外国商館と対立、渋沢栄一が解決に奔走
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1882年
薩長藩閥政府が岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社に「第三命令書」を交付し事業妨害
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1882年
福澤諭吉・慶應義塾派が立憲改進党を結成し大隈重信を党首に担ぐ
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1882年
西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と井上馨が三菱潰しのため共同運輸会社を設立、大倉喜八郎も出資
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1882年
安田善次郎が釧路硫黄鉱山経営に乗出す
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1882年
松方正義主導で日本銀行開業、安田善次郎・三野村利助が創立事務御用掛を務める
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1884年
松方デフレによる不況深刻化
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1884年
郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の船舶が衝突事故を起し薩長藩閥政府が和解に乗出す
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1885年
銀本位制に移行
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1885年
岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に東京六義園にて死去(享年51)、弟の岩崎弥之助が三菱を承継
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1885年
西郷従道農商務卿の和解勧告を岩崎弥之助が受入れ共同運輸会社が郵便汽船三菱会社を併合し日本郵船会社が発足
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1886年
岩崎弥之助が三菱社設立
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1886年
藤岡市助・大倉喜八郎らが東京電燈(現東京電力)設立、5年後には契約者数1万4千を突破
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1886年
企業勃興~起業ブームが始まる
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1887年
大倉喜八郎が日本土木会社設立
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1887年
安田善次郎が安田家の資産管理会社「安田保善社」設立
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1887年
井上馨の提唱により大倉喜八郎・渋沢栄一が帝国ホテル設立
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1887年
大倉喜八郎・渋沢栄一・浅野総一郎らが札幌麦酒株式会社(現サッポロビール)設立
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1893年
政府が官営富岡製糸場を三井へ払下げ
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1893年
日本土木会社が解散し大倉喜八郎の大倉土木組が事業承継(大成建設の前身)
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1893年
三菱社が三菱合資会社に改組、岩崎弥之助が岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲
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1894年
不平等条約改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発、大倉喜八郎の大倉組商会が軍隊輜重で巨利を博す
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1894年
日本郵船が三菱の傘下に入る
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1896年
豊田佐吉が動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を発明し繊維業界を席巻(2年後特許取得)
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1897年
松方正義首相・岩崎弥之助日銀総裁が貨幣法を制定し金本位制移行を断行
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1898年
大倉喜八郎が大倉商業学校(現東京経済大学)設立
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1899年
台湾銀行設立
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1900年
台湾製糖会社設立
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1901年
官営八幡製鉄所操業
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1901年
井上馨に組閣大命が下るが渋沢栄一の入閣拒否で頓挫
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
安田善次郎・大倉喜八郎が日本製麻株式会社(現在の帝国繊維)設立
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1904年
日露戦争開戦、大倉喜八郎の大倉組商会が軍隊輜重で巨利を博す
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1904年
井上馨の依頼を受け高橋是清が日露戦費調達のため渡欧米
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1905年
孫文が東京で中国同盟会を結成
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
大倉喜八郎が陸軍長州閥に追随し大陸進出を本格化させ本渓湖煤鉄公司を設立
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1905年
久原房之助が井上馨の援助で赤沢銅山(茨城県)を買収、日立鉱山へ改称し久原鉱業所開業
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1906年
井上勝・桂太郎ら長州閥主導で鉄道国有法が成立し幹線鉄道国有化
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1907年
大倉喜八郎が日清豆粕製造株式会社(現日清オイリオグループ)設立
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1907年
大倉喜八郎が日本皮革株式会社(現ニッピ)設立
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1907年
北浜銀行主導で箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)設立、岩下清周は浪人の小林一三を実質上の経営者に招聘
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1908年
岩崎弥之助死去
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1908年
東洋拓殖会社設立
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1909年
アメリカが満鉄の中立化を提唱
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1909年
三井合名会社設立
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1909年
日本の製糸業輸出が世界一となる
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1910年
鮎川義介が大叔父井上馨の援助により戸畑鋳物株式会社(日立金属の前身)設立
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1910年
小平浪平が久原房之助の出資を得て日立鉱山傘下に日立製作所創業
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1911年
大倉喜八郎の主導で帝国劇場開設
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1911年
不平等条約改正で完全平等達成(関税自主権の完全回復)
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1911年
中国で辛亥革命勃発
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡、大倉喜八郎が革命資金300万円供与
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
久原房之助が久原鉱業所(JXホールディングス・JX日鉱日石金属の前身)を設立し社長就任
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1913年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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1913年
小林一三の箕面有馬電気軌道(阪急)が宝塚新温泉内に「宝塚唱歌隊」結成(「宝塚歌劇団」へ改称)
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1914年
孫文が東京で中国革命党(後の国民党)を結成
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1915年
井上馨死去
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1915年
日本が漢冶萍公司の支配権を掌握
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1915年
大戦景気により東京株式市場暴騰
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1915年
大倉喜八郎が男爵を受爵
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1917年
渋沢栄一の主導により財団法人理化学研究所設立
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1917年
大倉喜八郎が持株会社大倉組を設立し大倉土木(現大成建設)・大倉商事(1998年自己破産)・大倉鉱業の直系3社をコンツェルン化
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1917年
大倉喜八郎が大倉集古館設立
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1918年
豊田佐吉の豊田自働織布工場が豊田紡織株式会社へ改組(現トヨタ紡織)
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1918年
インフレ進行で小作争議が蔓延し「米騒動」で寺内正毅内閣退陣
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1918年
シベリア出兵
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1920年
安田善次郎の保有株一斉売却で株式相場が暴落、安田は安値買戻しと満鉄株引受で巨利を得る
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
鮎川義介が久原財閥を承継し日産コンツェルンを形成
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1920年
小平浪平の日立製作所が鮎川義介の日産傘下で再編され株式会社へ改組
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1920年
日本が初めて債権国となる
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1920年
渋沢栄一が子爵に昇叙
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1921年
安田善次郎が大磯の別荘で右翼生年に刺殺される(享年82)
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1921年
神戸三菱・川崎両造船所ストライキ(戦前最大規模の労働争議)
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1921年
大河内正敏が理化学研究所3代目所長に就任
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1923年
関東大震災
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1925年
豊田佐吉・豊田喜一郎の父子が「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」を発明し特許取得
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1925年
大倉喜八郎が満州・蒙古・中国を巡遊
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1926年
孫文の死に伴い蒋介石が広東の国民政府を掌握し北伐開始
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
大倉喜八郎が朝鮮を視察旅行
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1927年
片岡直温蔵相の失言により金融恐慌が発生
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1927年
蒋介石が南京国民政府を樹立、第一次国共合作崩壊
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1927年
高橋是清蔵相が金融恐慌を沈静化、高橋は蔵相を依願退職
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
大倉喜八郎が死去(享年91)
大倉喜八郎の交遊録
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大久保利通
最初の恩人
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伊藤博文
恩人
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井上馨
大恩人
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山縣有朋
陸軍のお得意様
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桂太郎
陸軍のお得意様
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寺内正毅
陸軍のお得意様
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田中義一
陸軍のお得意様
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鮎川義介
長州系財界仲間
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久原房之助
長州系財界仲間
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小平浪平
鮎川・久原の部下
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渋沢栄一
井上馨派の盟友
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安田善次郎
庇護者
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浅野総一郎
財界仲間
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三野村利左衛門
三井幹部
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三野村利助
三井幹部
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中上川彦次郎
三井幹部
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益田孝
三井幹部
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團琢磨
三井幹部
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岩崎弥太郎
商売敵
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岩崎弥之助
三菱2代目
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小林一三
阪急の奇才
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豊田佐吉
自動織機発明家
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豊田喜一郎
佐吉の息子
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大隈重信
三菱派
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福澤諭吉
大隈の黒幕
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松方正義
財政仲間
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西郷従道
三菱潰し仲間
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黒田清隆
三菱潰し仲間
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高橋是清
財政仲間
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後藤新平
財政仲間
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藤岡市助
東京電燈仲間
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孫文
革命を後援
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蒋介石
孫文の後継者
大倉喜八郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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年
基礎点 70点
大倉喜八郎は、維新の動乱期に武器の輸入販売で台頭し、陸軍長州閥に食込み大倉財閥を築いた立志伝中の企業家である。越後新発田から17歳で単身江戸へ上った大倉喜八郎は、幕末の戦乱に乗じ大倉銃砲店を開業、鳥羽伏見戦が起ると官軍に取入って御用達となり、上野彰義隊に殺されかかるも啖呵でかわし、奥州征討軍の輜重を担い大儲けした。戊辰戦争後、大倉喜八郎は貿易視察のため欧米を巡遊し岩倉使節団の大久保利通や伊藤博文と交流、帰国すると大倉組商会を設立し、日本商社の海外支店第一号となるロンドン支店を開設、インド・朝鮮貿易にも進出した。山縣有朋・桂太郎・田中義一ら陸軍長州閥に大胆不敵さを買われた大倉喜八郎は、台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争で軍隊輜重を任され武器販売や兵站輸送で巨富を積んだ。「冒険商人」大倉喜八郎は自ら命懸けの戦時輸送に乗込み、多くの部下を喪い大嵐で遭難もしたが度重なる死線を潜り抜けた。戦乱の度に焼け太る大倉喜八郎は世間から「死の商人」「政商」「グロテスクな鯰」と呼ばれたが、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎ら財界首脳の支援も得て、明治末期には軍需関連・土木建築・鉱工業の三本柱で「大倉財閥」を形成、自ら50以上の会社設立に関与し傘下企業は200社へ膨張した。が、大倉商業学校(現東京経済大学)の創設など経済人養成に尽力した大倉喜八郎の意に反し、大倉財閥に人材は育たず、嫡子の大倉喜七郎は道楽者となった。日露戦争後、大倉喜八郎は陸軍長州閥に歩調を合わせ中国大陸進出を加速、喜八郎没後も大倉財閥は多種多様な大陸事業に巨費を投じたが、成功したのは本渓湖煤鉄公司のみだった。満州の重工業開発を牽引した鮎川義介は逸早く全面撤退し日産・日立を残したが、逃げ遅れた大倉財閥は注込んだ資産を全て中国に接収され、2代目体制は財閥解体の嵐に翻弄され大倉財閥は壊滅した。銀行を核に四大財閥の再編が進むなか、銀行部門の無い大倉財閥では大成建設・帝国ホテル・ホテルオークラ・日清オイリオグループ・帝国繊維・日油・サッポロビールなどの紐帯は復活せず、辛うじて存続した中核の大倉商事も1998年に倒産し大倉財閥は完全に消滅した。