維新期に武器商人として台頭、陸軍長州閥に食込み国内外の戦乱に乗じて巨富を積み、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎の庇護のもと大倉財閥を築いた大胆不敵な「冒険商人」
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大倉 喜八郎
1837年 〜 1928年
70点※
大倉喜八郎と関連人物のエピソード
- 幕末の混乱にビジネスチャンスを見出した大倉喜八郎は、乾物屋を店仕舞して小泉屋鉄砲店で見習修行し翌年20歳で「大倉銃砲店」を創業した。資金不足で見込み発注が出来なかった開業当初、大倉喜八郎は注文を受けると護身用の拳銃を懐に横浜まで駕籠を飛ばし、買付けた武器を徹夜で江戸へ運んだ。鳥羽伏見の戦いが起ると、大倉喜八郎は官軍に取入って御用達となり奥州征討軍の輜重を任された。上野彰義隊に拉致された大倉喜八郎は「金さえもらえれば彰義隊にも売る」と啖呵を切って斬殺の危機を逃れ、奥羽越列藩同盟の監視をかい潜って官軍側の津軽藩や弘前藩へ鉄砲を運び込むなど、危険に満ちた商売だった。のち津軽藩は大倉喜八郎の恩を多とし大倉組商会設立時に5万両を出資し大株主になっている。さて、戊辰戦争で軍資金と官軍の信用を獲得した大倉喜八郎は、欧米視察を経て1873年「大倉組商会」を設立、陸軍長州閥ら政府首脳と親交を深めつつ業容を拡大し、死と隣合せの戦時輸送と武器販売で大倉財閥の礎を築いた。台湾出兵で輜重に任じた大倉喜八郎は共に乗込んだ部下500人のうち128人を喪い、西南戦争中には大久保利通の命で大飢饉の朝鮮へ救助物資を運んだが、船舶不足で帰国便を得られず已む無く小型イカ釣り漁船で船出すると途中大嵐に遭い遭難死寸前のピンチに見舞れた。
- 物理学者で「日本のエジソン」と称された藤岡市助のアイデアに賛同した大倉喜八郎・三野村利助ら財界人が発起人となって出資を募り1886年「東京電燈」が設立された(東京電力の前身)。米国トーマス・エジソンの電気事業開始から遅れること僅か6年の快挙であった。翌年早くも電力供給に成功した藤岡市助の東京電燈は、東京の5ヶ所に火力発電所の設置を進め200kWの大出力を誇る浅草発電所の建設にも着手、1891年には契約件数が1万4千を突破し「浅草凌雲閣」には電力駆動のエレベーターが登場した。東京電燈に続き大阪・神戸・京都・名古屋・九州と日本各地に相次いで電力会社が設立され、渋沢栄一の「大阪紡績」など大規模工場から本格的な電力導入が進み製造業発展の牽引役となった。戦前を通じて発電方法の主力は石炭火力だが、1892年開業の琵琶湖水力発電所を皮切りに発電コストの低い水力発電所が全国各地に建設され、電気料金の低下が電力普及に拍車を掛けた。電力は一般家庭へも広がり1916年の普及率は東京・大阪で80%、全国でも40%に達した。電機コンロ・アイロン・扇風機などの家庭用電化製品も発売され、芝浦製作所(東芝)など国産メーカーも存在感を示したが、非常に高価なため一般家庭への普及は進まず、戦前の庶民にとって電気といえば電灯(定額灯)だった。満州事変勃発後の電気産業は軍需一色となり、家電の普及と国産品製造の本格化は第二次大戦後の松下電器・東芝・シャープ・ソニーらの勃興まで待たなければならなかった。
- 大倉喜八郎は経済界に人材の乏しいことを嘆き、自分のように丁稚奉公から叩き上げるのではなく近代商業の基礎を学んだ経済人の養成を図るべく熱心に教育振興活動に取組み、大倉商業学校(現東京経済大学)・大阪大倉商業学校・ソウルの善隣商業学校を創設し学校や研究団体への寄付も惜しまなかった。また、大倉喜八郎は文芸活動にも取組み、自ら蒐集した日本・中国・インドの古美術コレクションを寄贈し「大倉集古館」を開設している(現存するが2014年から休館中)。
- 中国革命運動が堰を切り辛亥革命が勃発したが、各地で別々に発生した武装反乱はまとまりに欠け、武昌派と上海派が主導権争いで対立した。しかし、革命資金調達のためアメリカにいた孫文が帰国すると革命諸派は挙って歓迎し、孫文は南京で臨時大総統に就任し中華民国樹立を宣言した。一方、既に瀕死の状態で防衛力を喪失した清朝は、李鴻章から北洋軍閥を引継いだ袁世凱に内閣総理大臣・湖広総督の最高位を授け反乱鎮圧を懇請した。拝命した袁世凱は段祺瑞・馮国璋を差向けつつも形勢を観望、中華民国側から臨時大総統禅譲の言質を取ると反旗を翻し、紫禁城を包囲しラストエンペラー宣統帝溥儀を退位させ清朝を滅亡させた。辛亥革命の果実をかっさらった袁世凱は紫禁城に入場し孫文から臨時大総統の地位を強奪、北洋軍閥の武力を背景に中華民国の実権を掌握し、有力者の宋教仁を暗殺し孫文を追放して反抗勢力を一掃し独裁権力を確立した(第二革命)。満州以南に権益を持たない当時の日本には対岸の火事であったが、目敏い大倉喜八郎は孫文の革命政府に気前良く300万円(現在の60億円相当)を贈り誼を通じている。大倉喜八郎は、戊辰戦争で陸軍長州閥に食込み西南戦争・日清戦争・日露戦争に乗じて大蔵財閥を成した武器商人である。
- 南満州鉄道会社(満鉄)は、ポーツマス条約で獲得した東清鉄道南満州支線(旅順-長春間)等の鉄道と付属地の炭坑の経営を目的として、政府の過半数出資により設立された国策会社である。満鉄株は熱狂的な人気を博し、第1回株式募集では10万株に対して1077倍もの応募を集め、大倉喜八郎(長州閥系武器商人)のように1人で全額を申込む者もあった。満鉄上場は株式ブームに火をつけ、第一次大戦では満鉄を含む軍需関連株が高騰し多くの「株成金」が出現した。初代満鉄総裁には台湾総督府民政長官として植民地経営を成功させた後藤新平が就任した。満鉄周辺には野心的な官僚や事業家が参集して関連事業を拡げ鉄道・鉱山のほか都市開発・製鉄所・農地開拓・商社・アヘンなど多種多様な分野に拡大、満州事変の勃発で軍政へ移行する1931年まで満鉄は満州計略の中核を担った。なお、アメリカは、日露戦争講和で日本を援けたが、中国進出への遅れを挽回するため日本の満州権益に関心を示し、早くも満鉄設立に際してアメリカ人実業家エドワード・ヘンリー・ハリマンとの共同経営を持ち掛けた。日本政府は、桂・ハリマン協定によりこの提案を受入れようとしたが、小村寿太郎外相の反対により拒否した。アメリカでは反日機運が高まって日本人移民排斥運動が始まり、対外硬派の加藤高明外相が辞任する事態となった。
- 大久保利通は、大蔵省と工部省から殖産興業部門を分離し、司法省から警保寮(警察)も巻き取って、絶大な権限を有する内務省を設置、自ら初代内務卿となり辣腕を振るった。西郷隆盛ら征韓派が一掃され木戸孝允も病気で働けない状況のなか大久保は独裁体制を確立、参議の伊藤博文と大隈重信が側近として大久保を支えた。大久保政府の主眼は内地優先論に基づく殖産興業にあり、鉄道網の整備を進め、官営模範工場や農事試験場を設立して軽工業や農業の近代化を推進した。また岩崎弥太郎の三菱を手厚く保護し、国内海運業の育成と外国勢力の排除に努めた。外交面では、征韓論を抑えたものの、薩摩藩の不平士族のガス抜きのため台湾出兵を断行し、大久保自ら清国に乗込んで有利な講和条約をまとめた。征韓論争に敗れ帰郷した要人を核に各地で不平士族が蜂起し佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き日本史上最悪の内戦となった西南戦争が勃発したが、大久保は怯まず断固たる姿勢で対応し新造の鎮台兵を動員して速やかに各個鎮圧し国内の治安を回復した。大久保利通は最も現実的な政治家だが、明確な長期ビジョンと意志を持っていた。大久保は「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り発展を待つ時期だ。」と語り、岩倉具視への手紙には「国家創業の折には、難事は常に起るものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」と記した。福地源一郎は大久保に「北洋の氷塊」の渾名を奉り「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」と評している。
- 松方正義の政治的功績は「松方財政」即ちインフレ収束と中央銀行創設に尽きる。西郷隆盛が嫌う島津久光の側近で志士活動に参加しなかった松方正義の中央進出は遅れたが、日田県知事として政府の資金調達活動に忠実に働いたことなどが認められ大久保利通の推挙で民部省大丞に任じられた。民部省解散に伴い井上馨(大蔵大輔)・陸奥宗光(租税頭)の大蔵省へ移った松方正義は、薩長藩閥に不平満々の陸奥とは対照的に地租改正などに黙々と取組んだ。江藤新平の汚職追及で井上馨が辞め参議筆頭の大隈重信が大蔵卿に就任、明治六年政変で陸奥宗光も去り松方正義が次席に上った。明治政府は紙幣増発で財源を捻出し鉄道網・郵便制度・学校・官営工場・官庁街建設などの殖産興業施策を矢継ぎ早に行ったが、西南戦争の膨大な戦費負担で財政が逼迫、大隈重信ら志士上りで財政音痴の政府首脳は安易な不換紙幣発行に頼り(戦費42百万円に対し紙幣増刷27百万円・国立銀行借入15百万円)急激にインフレが進行した。無能な大隈重信は外債発行による政府紙幣整理を策し松方正義と衝突、松方は伊藤博文の計いで内務卿へ転出し渡仏して国家財政の基礎を学んだ。3年後の明治十四年政変で大隈重信が失脚、伊藤博文に財政再建を託され参議兼大蔵卿に就いた松方正義は、緊縮財政と増税で収支均衡を図り官営事業売却で資本回収と税収増を促進、蓄えた剰余金で不換紙幣の償却を進め正貨の準備銀を買入れ兌換制度に備えた。一方、松方正義は日本銀行を設立して紙幣発行権を一元管理下に置き銀兌換紙幣(日本銀行券)に統一し銀本位制を確立した。一連の松方財政でインフレは収束し財政危機を脱したが、反動デフレが進行し農産物価格の暴落で小作農が急増、過激な政党活動が蔓延し秩父事件などの農民反乱を引起した。「財政の第一人者」となった松方正義は、最初の伊藤博文内閣から2度の松方内閣を含む6内閣で蔵相を占め、日清戦争では勅令で軍事公債5千万円を発行し伊藤を助けた。伊藤博文に属した松方正義は「黒幕内閣」「後入斎」などと揶揄され薩摩閥でも重みが無かったが、元老・公爵に上り詰め89歳まで長寿を保った。
- 戦前の財政家といえば松方正義・高橋是清・井上準之助が有名だろう。松方正義は、伊藤博文の後援のもと無能な大隈重信に代わって大蔵卿に就き西南戦争の膨大な戦費負担で破綻に瀕した政府財政を緊縮財政と紙幣整理(日本銀行への紙幣発行権の集約と銀本位制の確立)で再建、「財政の第一人者」と称され首相・元老・公爵に栄達した。志士上りが多く財政音痴の薩長閥首脳のなかで経済が分かる松方正義は逸材であったが、実務官僚としてやるべきことをやったに過ぎず、その後の反動デフレには有効な対策を採れなかった。井上準之助は、帝大から日本銀行へ進んだエリート官僚で、上司の高橋是清の引立てで日銀総裁となり、高橋蔵相と連携して金融恐慌を収束させた。が、第二次山本権兵衛内閣と濱口雄幸内閣で蔵相を務めた井上準之助は、世界恐慌の最中に金解禁を断行しデフレ不況に拍車を掛けた。松方正義と井上準之助が緊縮財政・デフレ政策を採用したのに対し、「野人」から銀行家・財務官僚となった高橋是清は積極的な財政出動と金融緩和でデフレ退治に成功した。高橋是清は政友会総裁に担がれ首相となったが、政治には不向きで持参金欲しさに陸軍長州閥の田中義一に政友会総裁を禅譲、軍事費の引締めへ転じたことで「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。財政・金融政策の積極・緊縮には功罪あるが、現在に至るまで平時におけるデフレ政策の成功事例は少なく財政出動・量的緩和などの有効性が世界的常識となっている。が、輸出立国の現代日本では円高回避・デフレ阻止が最重要課題であるにも関わらず、バブルに懲りた日本銀行主流派はインフレ退治に執着し「失われた20年」を放置、安倍晋三内閣の「異次元金融緩和」で漸く円高不況から脱出した。さて、松方正義・高橋是清・井上準之助の優劣は、結果をみると明らかに高橋の積極財政に軍配、外債による日露戦費調達の大殊勲もあり高橋が本物の「財政の第一人者」という評価になるだろう。
- 明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
- 長州藩奇兵隊の元隊士で陸軍省(兵部省)御用商人となった山城屋和助が、陸軍省から借りた膨大な公金を使込み陸軍省内部で割腹自殺、事前に帳簿と長州系軍人への貸金証文を焼却したため事件は迷宮入りとなった(山城屋事件)。山城屋に公金を貸した山縣有朋は、桐野利秋ら薩摩系陸軍人の厳しい追及で近衛都督辞任に追込まれ失脚必至、生涯最大のピンチに見舞われたが、山縣の徴兵令を支持する西郷隆盛に救われ、翌年の徴兵令施行に伴い陸軍卿(陸軍大臣)に昇進し失脚どころか焼太りする大幸運に恵まれた。うるさ型の木戸孝允が岩倉使節団で外遊中だったことも幸いした。西郷隆盛は、薩長のバランスに配慮したとも、山縣有朋の軍政の才を高く評価していたともいわれる。西南戦争で政府軍を指揮した山縣有朋は、実戦指揮を執る桐野利秋を斃し山城屋事件の恨みを晴らしたが、恩人の西郷隆盛まで死なせることになった。さて、長州藩36万石は村田清風の藩政改革を経て「実力100万石」の富裕藩となり、木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら周旋役は藩の公金で豪遊し京都市民の人気をさらったが、金にルーズで公私混同の悪弊は明治維新後も受継がれた。西郷隆盛に「三井の番頭」と面罵された井上馨が貪官汚吏の代表格だが、山縣有朋(および陸軍長州閥)も三井・大倉喜八郎ら政商と癒着して汚職にまみれ、東京で「椿山荘」京都で「無鄰菴」の豪華庭園造りに励み、奇兵隊軍監時代に隊士の給料を着服していたことを幹部の三浦梧楼に暴露された。西南戦争後に論功行賞の遅れと減給に怒った近衛砲兵隊士が暴動を起したが(竹橋事件)、逸早く勲章をもらい椿山荘建築に精を出す山縣有朋陸軍卿ら軍首脳への不満が背景にあったと思われる。一方、明治日本の大立者となった伊藤博文は、遊び好きだが蓄財にも派閥作りにも恬淡で、同情した明治天皇が小遣いを賜うほどであった。明治天皇は西郷隆盛・板垣退助・山岡鉄舟・乃木希典ら無骨な清貧タイプを好んだが、とりわけ伊藤博文への新任は篤かったという。
- 陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。
- 桂太郎は、陸軍長州閥・山縣有朋の腹心として首相となり日露戦争と韓国併合を断行、三度組閣し首相の通算在職日数2886日は歴代1位である(単独内閣では佐藤栄作が首位)。桂太郎は、長州藩の中級藩士の嫡子で、吉田松陰の親友だった叔父の中谷正亮のコネで同族の木戸孝允らに引立てられ、戊辰戦争では下級仕官ながら異例の賞典禄を授かり、長期のドイツ遊学を経て山縣有朋の側近に納まり、ドイツ式陸軍「天皇の軍隊」の建設を牽引した。少壮にして実務を担った陸軍省=軍政の桂太郎・参謀本部=軍令の川上操六(薩摩)・児玉源太郎(長州)は「陸軍の三羽鴉」と称された。軍政に明るい桂太郎は、軍部大臣現役武官制など山縣有朋の政党弾圧の裏方を担い覚え目出度く順調に昇進、日清戦争では山縣の第1軍旗下の第三師団長として出征し、台湾総督・東京湾防御総督を経て第三次伊藤博文内閣で陸相に就任、約3年陸相を務めた後に首相に栄達し、伊藤博文から政友会を継いだ西園寺公望と交互に3度組閣し政治的安定期は「桂園時代」と称された。桂太郎首相は、日露協商・満韓交換論を説く伊藤博文・井上馨を退けて日露戦争に踏切り、勝利によって英雄となり韓国併合を断行、先輩の井上馨や松方正義より早く公爵を授かり位人臣を極めた。とはいえ桂太郎の業績は日露戦争勝利に尽きるが、開戦を可能にした日英同盟は林薫駐英公使と小村寿太郎外相の手柄で、軍事は陸軍の大山巌・児玉源太郎・川上操六や海軍の山本権兵衛・東郷平八郎・秋山真之ら優秀な軍人の功績、さらに物資欠乏・継戦不能の日本を救ったポーツマス条約は伊藤博文が派遣した金子堅太郎の対米工作と難交渉をまとめた小村主席全権の偉業であり、山縣有朋と桂太郎は賠償金に固執し講和潰しを図るなど感覚がズレていた。政友会の護憲運動で第三次内閣を倒された桂太郎は(大正政変)政党の必要性を痛感し、政党嫌いの山縣有朋を宥め反政友会勢力を掻集め「桂新党」同志会を結成、桂は間もなく病没したが同志会(憲政会・民政党)は政友会の対抗馬に成長し加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣した。陸軍長州閥では山縣有朋が長寿を保ち没後は寺内正毅・田中義一が受継いだ。
- 児玉源太郎(長州藩支藩の徳山藩士)は、16歳の函館戦争で初陣を飾り25歳の西南戦争で熊本鎮台を死守した歴戦の勇、政治能力も抜群の陸軍長州閥期待の星であった。家督の姉婿が「俗論党」に殺され家名断絶・家禄没収の憂き目をみたが高杉晋作の長州維新で復権、児玉源太郎は「献功隊」下士官として戊辰戦争に参陣し、大村益次郎の京都河東操練所を経て新政府軍の将校となった。熊本鎮台の参謀に配された児玉源太郎は、佐賀の乱で瀕死の重傷を負いつつ神風連の乱の指揮を執り、西南戦争では参謀副長として谷干城司令長官を補佐し過酷な籠城戦を耐え抜いた。山縣有朋ら長州閥首脳は一佐官の児玉源太郎に期待を寄せ神風連の戦況より「児玉少佐ハ無事ナリヤ」と打電するほどであった。不平士族反乱の終息に伴い陸軍中央へ呼ばれた児玉源太郎は忽ち軍政の才を発揮、4歳上の桂太郎・川上操六と共に臨時陸軍制度審査委員会を主導し「陸軍の三羽烏」と称され、日清戦争では陸軍省枢要で川上操六の作戦遂行を補佐し、戦後処理・三国干渉対応・台湾総督府設立を主導した。台湾統治が難渋すると児玉源太郎は第4代総督に就任、後藤新平を民政局長に抜擢し民生向上と警察力強化のアメムチ政策により初めて植民地経営を成功させ、死の直前まで8余年も台湾総督を兼務した。児玉源太郎は第四次伊藤博文内閣に陸相で初入閣し続く第一次桂太郎内閣で内相へ転じたが、日露戦争が起ると自ら参謀本部次官への降格人事を行い満州軍総参謀長に就き出征、大山巌総司令官に軍令一切を託され勝利の立役者となった。が、奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ帰還、戦勝に浮かれる大本営に戦力払底を訴えて進撃論を封じ、伊藤博文・山本権兵衛海相と連携し渋る桂太郎首相をポーツマス講和へ導いた。日露戦争の英雄となった児玉源太郎は大山巌から陸軍参謀総長を引継ぎ、伊藤博文・井上馨ら穏健派元老の受けも良く日本の舵取り役を期待されたが、惜しくも翌年50歳の若さで世を去った。陸軍長州閥の児玉源太郎と薩摩海軍閥の山本権兵衛、同年生れの逸材二人が日本を率いていれば、歴史は変わったに違いない。
- 後藤新平は、胆沢県大参事で後に岳父となる安場保和に進学の機会を与えられ、親戚の高野長英の影響で医者となり、弱冠24歳で愛知県医学校(名古屋大学医学部)の校長兼病院長に就任、岐阜で遭難した板垣退助の診察にもあたった。が、欧米留学の経験が無いことに劣等感を募らせ、石黒忠悳を頼り内務省の医系技官へ転身、同僚の北里柴三郎とは生涯の親友となった。念願のドイツ留学を果した後藤新平は医学博士号を取得し、内務省衛生局長に昇進したが、相馬誠胤子爵の御家騒動(相馬事件)に巻込まれ突如官職を失った。しかし人間万事塞翁が馬、石黒忠悳軍医総監の推薦で後藤新平は官途に復帰し、日清戦争帰還兵の検疫業務を通じて陸軍長州閥のエース児玉源太郎に認められ飛躍の転機を掴んだ。日本政府は日清戦争で獲得した台湾に軍政を敷いたがマラリアとゲリラ暴動で難渋、台湾総督府の開設に奔走した児玉源太郎が自ら第4代総督に就任し、民政局長に抜擢された後藤新平は民政充実策と警察力強化のアメムチ政策で初めて植民地経営を成功させた。鈴木商店との癒着やアヘン専売の悪行も取沙汰されたが、土地制度改革、インフラ整備、台湾銀行・台湾製糖会社の設立、台湾縦貫鉄道の敷設など後藤新平が敷いた民政政策により、清朝が野蛮視した台湾は日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。政界へ転じた後藤新平は、児玉源太郎の死後も桂太郎・寺内正毅・田中義一ら長州閥に属し、初代満鉄総裁を経て第二次桂太郎内閣に逓信大臣兼初代鉄道院総裁で初入閣、寺内正毅内閣では内相から外相へ転任してシベリア出兵を断行し、拓殖大学学長を経て東京市長に就くと安田善次郎の支援を得て大規模都市開発「八億円計画」を立案した。関東大震災の復興を使命とする第二次山本権兵衛内閣は後藤新平を内相兼帝都復興院総裁に任命、後藤は短期間で首都機能を回復させ「大風呂敷」と揶揄されつつ今日の東京都心部の原型となる気宇壮大な近代都市建設を敢行した。植民地経営と関東大震災復興に確たる業績を残した後藤新平は、資格も野心も満々ながら何故か首相になれず、「政界の惑星」(恒星になれない)のまま71歳で永眠した。
- 長州藩の下級藩士に生れた寺内正毅は、少年期から長州藩軍に駆出され16歳で戊辰戦争を転戦した。寺内正毅と児玉源太郎は同じ長州出身で同年生、共に京都河東操練所で大村益次郎の薫陶を受け、後年寺内は娘を児玉の嫡子(児玉秀雄)に嫁がせ縁戚を結んだ。寺内正毅は、山田顕義(長州人で大村益次郎の愛弟子)に属し、兵制論争で山田が失脚すると山縣有朋に鞍替えして順調に出世を続け、西南戦争で右手に後遺症を負ってからは軍政や教育畑を歩み、初代教育総監から日露戦争時の陸相となり初代朝鮮総督を6年務めた後、山縣の傀儡首相に担がれた。日露戦争の英雄で陸軍長州閥を担うべき児玉源太郎の早世により凡庸な寺内正毅にお鉢が回ってきた次第だが、時代遅れの「超然主義」を振りかざす寺内首相は、顔貌が酷似するビリケン人形と非立憲(ひりっけん)に引掛けて「ビリケン内閣」と揶揄された。寺内正毅内閣は、ロシア革命に乗じて「シベリア出兵」を断行するも赤軍の猛反撃に遭い失敗、日本は第一次世界大戦の特需景気に沸いたが野放図な輸出は国内の物資不足を招き「米騒動」が全国へ波及、鎮圧軍を発動した寺内内閣は国民の非難を浴び総辞職に追込まれた。翌年寺内正毅は急逝し、三宅坂に北村西望作「寺内正毅元帥馬上像」が建てられたが(功山寺の高杉晋作一鞭回天像のマネか)、東京市民の轟々たる非難に晒され警視庁が厳戒態勢を敷く事態となった。辛くも生延びた寺内正毅像は、太平洋戦争中の金属没収に供され溶解への末路を辿った。
- 田中義一は長州藩出身だが、12歳のとき萩の乱で反乱軍に加わったことで前途を塞がれた。長崎・対馬・松山を転々し独学を続けたが、陸軍教導団で受験資格を獲得し2・3年遅れで陸軍士官学校に進学、校長は萩の乱で鎮圧軍を指揮した三浦梧楼だった。田中義一は晴れて陸軍長州閥に連なり、日清戦争では第一師団副官として動員計画を担い第一師団参謀に昇進、参謀本部勤務を経てロシア留学に出された。明朗な田中義一は部下に慕われ、30歳前の結婚まで兵卒と営内居住を共にした。陸軍主流(ドイツ留学→作戦担当)から外れた田中義一は陸士同期の山梨半造や大庭二郎に水を空けられたが、ロシアで情報収集任務と語学習得に励みつつ外遊生活を謳歌、海軍駐在武官の広瀬武夫と共に女優出身のロシア帝室付ダンサーからダンスを習び、ギリシア正教に入信、ロシア将校の妹と浮名を流した。日露開戦が迫ると、帝政ロシアの弱体化を確信する田中義一は開戦を主張、不戦(日露協商)派の伊藤博文に嫌われロシア革命に身を投じようと思い詰めたが、ロシア通ゆえに大本営参謀本部に召喚されロシアの動員能力を過小に偽り開戦を促した。日露戦争の軍令は児玉源太郎参謀総長の独壇場で参謀に活躍の場は無かったが、田中義一は山縣有朋・井上馨ら長州閥首脳に認められ陸軍省軍務局長を経て原敬内閣で陸相に栄達した。桂太郎・寺内正毅・山縣有朋の死で田中義一は陸軍長州閥首領へ躍り出たが、在郷軍人会で独自の勢力基盤を築き政友会とも協調関係を構築、普通選挙法で政友会が資金難に陥ると田中は陸軍機密費300万円の持参金を手土産に高橋是清から総裁を継ぎ首相に上り詰めた。高橋是清蔵相が積極財政で金融恐慌を収拾し「おらが首相」田中義一は大衆人気を博したが、足元の陸軍では長州閥打倒を掲げる永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚が台頭し張作霖爆殺事件が発生、昭和天皇の意を受けた田中首相は事件究明を図るも配下の白川義則陸相・阿部信行次官・杉山元軍務局長まで敵対する上原勇作元帥に靡き、天皇から叱責された田中は陸軍との対決を避け総辞職を選択、間もなく急死した(自殺説あり)。
- 戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも称される財務官僚・実業家でる。藍玉の製造販売も手掛ける武蔵の豪農に生れた渋沢栄一は、少年期から商売に親しみつつ、従兄尾高惇忠の影響で尊攘運動に身を投じ同志と共に高崎城襲撃・横浜焼打ちを企てるが頓挫し逃亡(従兄の渋沢成一郎は上野彰義隊頭取となり箱館戦争まで転戦)、一橋家重臣の平岡円四郎に拾われた。一橋家に仕官した渋沢栄一は忽ち「建白魔」となり領内の農民兵徴募や財政改革を任されて成功を収め、主君の徳川慶喜にも評価された。徳川慶喜の将軍就任に伴い幕府御家人に大出世した渋沢栄一は、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜実弟)の随員に選ばれる大幸運に恵まれ、維新の動乱期を優雅な外遊生活で過ごした。帰国した渋沢栄一は徳川宗家と慶喜が移された静岡に移住するも仕官は断り、石高拝借金の合本組織運用を提案し静岡商法会所の頭取となって資本主義の実践に着手した。がその矢先、渋沢栄一は大蔵大輔の大隈重信に突然スカウトされ新政府に出仕、改正掛の革新運動を牽引し、岩倉使節団に出た大久保利通に代わり大蔵省のトップに就いた井上馨の腹心となり、銀座煉瓦街建設、富岡製糸場開設、第一国立銀行設立・国立銀行条例制定など洋化政策を主導した。が、岩倉使節団が帰国すると大蔵省は再び大久保利通の掌中に帰し、井上馨は尾去沢銅山汚職事件で引責辞任、渋沢栄一は井上に殉じ実業界へ転じた。第一国立銀行に天下った渋沢栄一は、三井組の吸収工作撃退で実権を掌握して頭取に就き本格的な財界活動に入った。西南戦争後、薩長藩閥と大隈重信=三菱の対立が激化し、井上馨に連なる渋沢栄一は矢面に立たされ窮地に陥ったが、明治十四年政変で薩長藩閥が勝利を収め政府から大隈一派を追放、「三菱海上王国」も共同運輸会社に吸収された。以降の渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に順風満帆の活躍を続け財界人で唯一子爵を受爵、自ら60社近い事業を立上げ、東京証券取引所・東京瓦斯・東京海上火災保険・王子製紙・東京急行電鉄・秩父セメント・秩父鉄道・京阪電気鉄道・キリンビール・サッポロビール・東洋紡績・帝国ホテルなど500社以上の設立に関与した。
- 1872年、渋沢栄一ら大蔵省革新官僚は、三井組・小野組に出資させて合本組織による三井小野組合銀行(後の第一国立銀行)を試験的に発足させたうえ、欧米流の近代的民間銀行の創設を促すため国立銀行条例を制定した。国立銀行は米国ナショナルバンク制度に倣った民営銀行で(「ナショナル」の直訳で「国立」と命名)、独自の銀行券発行が認められ発券銀行としての役割も担った。当初は「太政官札」の乱発で紙幣の信用そのものが下がっていたため、「国立銀行券」の大半は金貨に兌換されて流通せず、信用創造が働かず国立銀行の経営は振るわなかった。が1876年、秩禄処分により大量発行された金禄公債の流通促進が政府の重要課題となり、財界へ転じた第一国立銀行の渋沢栄一や安田商店の安田善次郎の働きかけにより国立銀行条例が改定され、正貨兌換条項の削除や銀行券発行枠の拡大(資本金の6割から8割へ)など経営条件が緩和された。メリットが膨らんだことで国立銀行への新規参入が相次ぎ3年後には153行へ急増、金融制度も順次整備され経済活性化を牽引したが、一方で発券銀行の急増は当然ながらインフレを誘発し、西南戦争の膨大な戦費負担が追討ちとなり政府財政は著しく悪化した。
- 輸出産業の中核である製糸業の育成強化のため、大蔵省の渋沢栄一の主導により、蒸気駆動の輸入製糸機を備えた官営富岡製糸場が建設され大規模生産を開始した。渋沢栄一は、従兄の渋沢成一郎(上野彰義隊頭取、函館戦争で投獄されるが赦免)と義兄の尾高惇忠を現場監督に採用した。官営富岡製糸場を皮切りに日本各地に紡績工場が建設され明治経済の屋台骨となった。『女工哀史』や『あゝ野麦峠』で製糸業女工の悲惨な労働環境がクローズアップされ世の同情を集めたが、そもそも貧窮を宿命づけられた寒村女性に生活手段を与えたもので雇用創出策としても評価すべき事業であった。
- 1882年に渋沢栄一の呼掛けで発足した大阪紡績(現東洋紡)は、株式発行によって膨大な資金を集め、最新・最大級の紡績機を導入した大規模工場を建設、また実用化間もない電力を大々的に導入し、24時間操業も行った。大阪紡績は大成功を収め、それに倣って次々と紡績会社が設立され、紡績業は主要な輸出産業へと発展した。世界の紡績業は産業革命発祥のイギリスがリードしてきたが、日本は100年遅れで産業革命に乗出したためリング紡績機など最新技術をそのまま導入することとなり、旧来型のミュール紡績機からの転換が進まず設備の老朽化が著しいイギリスより有利な状況で紡績業に参入することができた。また、中小事業者が乱立するイギリスに比べ、日本では渋沢栄一をはじめとする財界人が協力して大規模工場の建設を進め、三井物産を筆頭に商社による綿花の大量仕入れも奏功、人件費の安さも手伝って、日本の紡績業は国際市場で比較優位を確立するに至り、主要市場である中国からイギリス製品を駆逐していった。日本の綿製品の輸出量は、1928年にはイギリス製品の37%に達し、1932年には92%と肉薄、1936年には141%と完全に抜き去った。だが、日本の繊維産業の躍進は深刻な経済摩擦を生み、1929年の世界恐慌以降、イギリスは露骨なブロック経済化によって日本製品の排除を進め、インド市場から締出された日本はそのはけ口を満州に求め、日英対立は戦争レベルまでエスカレートすることとなった。そして、遂に第二次世界大戦が勃発すると、インドなど欧米列強植民地への輸出が完全に封鎖され、さらに戦局悪化により輸送路が途絶えたために中国大陸への輸出も激減、隆盛を誇った日本の繊維産業は壊滅的打撃を蒙った。
- 生糸・綿糸・綿織物・絹織物などの繊維産業は、明治維新から第二次世界大戦に至るまで輸出総額の過半を占め、獲得した外貨は軍艦などの兵器や産業機械の輸入を促し殖産興業を牽引した。初期の繊維産業は家内制手工業が中心だったが、産業資本の成長(財閥形成)と電力会社の勃興により日露戦争を境に大規模工場への集約化が進み大量生産へシフト、豊田佐吉の自動織機など安価な国産機械の普及も後押しとなり、日本の繊維産業は品質価格両面で高い国際競争力を獲得、1909年には製糸輸出が中国(イギリス資本)を抜いて世界一となった。日露戦争後の反動不況はあったが、第一次世界大戦で実害を受けず繊維産業などで特需を満喫した日本は1919年に初めて債権国となり、戦前11億円の債務超過から1920年には約27億円の大幅な債権超過となった。その後、1929年に始まった「世界恐慌」で繊維産業は世界的不況に陥ったが、日本は満州事変後の軍需バブルで逸早く不況を脱し、紡績業輸出は1932年に「世界の工場」イギリスに肉薄し1936年には完全に凌駕、内需振興の軍拡政策で重化学工業も興隆した。が、中国市場を奪われた大英帝国は特恵関税による保護主義政策で(ブロック経済)日本を中国侵出へ奔らせ、第二次大戦勃発に伴い連合国は対日輸出入を完全封鎖、戦局悪化で中国への輸送路も絶たれ、日本の繊維産業は壊滅状態となった。なお、ほとんどの繊維関連企業が破滅するなか、豊田佐吉の長男豊田喜一郎は鮮やかに事業転換を成遂げトヨタ自動車の礎を築いている。
- 大久保利通政府の急速な殖産興業政策に西南戦争の膨大な戦費負担が拍車を掛け政府財政は逼迫、松方正義外務卿の単純な引締め政策が深刻な悪循環を招いたが、1880年代後半に日本経済は「松方デフレ」から脱却し、政策で優遇された鉄道と紡績業を中心に株式会社設立ブームが起り「企業勃興」期に入った。日清・日露戦争による軍需景気を背景に企業勃興は勢いを増し、渋沢栄一ら財界人主導で間接金融システムや証券取引所の整備が進み株式売買高も順調に膨らんだ。今日の大企業にはこの企業勃興期に創業した会社が多く、銀行・鉄道・紡績の各社から資生堂(1872年)・王子製紙(1873年)・東芝(1875年)・セイコーホールディングス(1881年)・東京ガス(1885年)・博報堂(1895年)・サントリー(1899年)・NEC(1899年)・森永製菓(1899年)・松竹(1902年)・第一生命(1902年)・豊田自動織機(1906年)・味の素(1907年)・日立製作所(1908年)・スズキ(1909年)・味の素(1909年)・出光興産(1911年)等々、枚挙に暇がない。世襲財閥による開発独裁を嫌い資本の分散(株式会社)を奨励した渋沢栄一は、自らも500社以上の設立に関与し「日本資本主義の父」と称された。
- 鮎川義介は大叔父の井上馨と陸軍長州閥の支援のもと日産・日立グループを創始した「企業再生ファンド」の先駆者である。鮎川義介は山口で井上馨に扶育され東大工学部へ進んだが、三井財閥への勧誘を断り、出自と学歴を隠して芝浦製作所(東芝)の一職工となった。が、「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。ならば日本で学んでいても仕方がない」と悟った鮎川義介は単身渡米し見習工として鋳物技術を学び、帰国すると井上馨の援助で北九州市に戸畑鋳物を設立し可鍛鋳鉄工場を開業、当初は資金繰りにも苦労したが、第一次大戦や関東大震災の特需で軌道に乗り技術分野拡大と工場買収で業容を拡大させた。戸畑鋳物で経営手腕を現した鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥に懇請され破綻に瀕した妹婿久原房之助の事業(久原財閥)を引受けると忽ち経営再建に成功、持株会社の日本産業(日産)に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命などを連ね「日産コンツェルン」を形成した。銀行融資がままならないなか鮎川義介は日産の株式上場で一般大衆から資金を集め(公衆持株)、積極投資が事業拡大・株価上昇と更なる資金を呼込む好循環を確立、日産は経営不振企業の買収と再建を繰返し軍需・重化学工業主導で雪ダルマ式に膨張した。日中戦争が始まると、鮎川義介は石原莞爾ら陸軍首脳の要請に応じ日産の重工業部門を満州へ全面移転、受皿の満州重工業開発(満業)の総裁に就任し「弐キ参スケ」に数えられたが、石原失脚で日中戦争は泥沼へ嵌り日本は無謀な対米戦争へ突入、ドイツの敗北を予見した鮎川義介は1942年間一髪のタイミングで満州撤退を断行した。東條英機内閣の顧問も務めた鮎川義介はA級戦犯容疑で投獄され経営復帰は叶わなかったが、資本と経営基盤を国内に温存した日産は第二次大戦後も生残り、日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で躍進し、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。
- 石原莞爾ら陸軍首脳は満州経営の主導権を満鉄から奪取すべく、鮎川義介の日産コンツェルンを満州へ招致した。石原莞爾の狙い軍用の自動車産業だったが、鉱工業一貫生産を期す鮎川義介は日産重工業部門の全面移転を決意し、1937年受皿の満州重工業開発株式会社(満業)を設立し自ら総裁に就任した。鮎川義介は満州開発資金の3分の1乃至半分を欧米から募り「金質」を戦争抑止力にしようと図ったが、陸軍の反対で実現しなかった。また鮎川義介は陸海軍や外務省(松岡洋右ら)の「大陸派」と連携し、ドイツで迫害を受けるユダヤ人を満州へ誘致し米国の政策を左右するユダヤ移民との連帯により対米開戦回避を図る「河豚計画」にも加担していた。河豚計画も頓挫したが、日産・満業の事業は成功を収め、重工業開発を牽引した鮎川義介は東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(国務院総務長官)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)と共に「弐キ参スケ」と称され満州支配の支柱となった。が、石原莞爾の失脚で「五族協和」の夢は破れ日中戦争は泥沼化、専横を強める関東軍を見限った鮎川義介は1939年には満州撤退の検討を始め、日産傘下の日本食糧工業(日本水産)取締役の白洲次郎らと話すうち欧州戦争はドイツ敗北・英仏勝利と確信した。ミッドウェー敗戦を知らない日本国民が未だ戦勝気分に沸く1942年、鮎川義介は満州からの全面撤退を決断し、各事業部門を国内と満州に分割再編したうえで満州重工業開発総裁を辞任し資本を引上げた。膨大な設備投資を重ねた満州からの撤退は大きな痛みを伴ったが、鮎川義介の間一髪の大英断により日産は破滅を免れ資本と事業基盤の国内温存に成功、第二次大戦後も事業活動を継続した日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で大発展を遂げ、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。なお、大倉喜八郎は鮎川義介と同様に陸軍長州閥に従い中国大陸へ事業を移したが満州事変を前に没し、逃げ遅れた大倉財閥は壊滅した。
- 小平浪平は、欧米技術の模倣を嫌悪し「国産技術立国」の理想を追求し続けた日立製作所創業者である。東大工学部を卒業し発電設備技術者となった小平浪平は、秋田県の藤田組小坂鉱山・広島水力電気を経て「電気工学を学んだ者の羨望の的」東京電燈(現東京電力)送電課長に栄進したが、どの職場でも外国製機械と外国人技師への依存に反発し、「痩せても枯れても自力で機械を作る」ため1906年元上司の久原房之助が開業した久原鉱業所日立鉱山に入社した。鉱山経営に不可欠な電源開発を託された小平浪平は発電所建設を陣頭指揮したが、排水ポンプ用の電動機(モーター)に故障が多く難渋、大半がGEやWestinghouseなど外国製だったことに反骨心を刺激され「故障しないモータが日本人の手で作れるはずだ、作れないのは、作ろうとしないからだ」と修理改良に乗出した。故障を克服し自信を得た小平浪平はモーターの国産化を決意し、1910年久原房之助を口説いて出資金を引出し現日立市に「日立製作所」創業(企業名より地名が先)、交通不便な僻地で工場も掘立小屋同然だったが、帝大教授陣を抱込んで倉田主税(2代目社長)・駒井健一郎(3代目社長)ら優秀な技術者を獲得し、見習工養成所(現日立工業専修学校)も開設した。設備も経験も不足するなか国産初の大型電動機製造に成功した日立製作所は、創意工夫で技術力を高めつつ発電設備・電動機市場に割安な国産製品を浸透、大物工場の全焼で小平浪平は経営危機に直面したが、翌1920年久原房之助義兄の鮎川義介が経営難の久原財閥を承継し窮地を脱した。「日産コンツェルン」に再編された日立製作所は成長を加速、電気機関車製造に進出し、小平浪平が「日立精神を守る」と製造拠点を留めたことで関東大震災を免れ東芝などが壊滅的被害を蒙るなか復興需要で急伸、日中戦争に伴う軍需景気と日産の満州重工業開発に乗り一流重機メーカーへ発展を遂げた。第二次大戦後、小平浪平は公職追放に遭い、1951年相談役で復帰したが世襲経営を否定し「日立製作所がおれの論文であり、記念だよ。ほかに何もいらぬ」と言残し同年77歳で世を去った。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 三菱商会の第一の成長要因は岩崎弥太郎の外国人脈に基づく豊富な資金力であり、膨大な設備投資を要する海運業への参入を可能にした。また、多くの土佐藩士を引受けた三菱商会では「士族の商法」が横行したが、岩崎弥太郎は「前垂れ」の着用を義務付け顧客本位のサービス戦略を徹底した。競争相手の日本国郵便蒸気船会社は、親方日の丸で勤労意欲が乏しいうえ、政府から払下げを受けた老朽船の割合が多く、さらに地租改正によって租税が金納となり年貢米輸送を独占していた郵船は大打撃を蒙った。近代的な会社組織の確立を目指す岩崎弥太郎は、国益奉仕の使命を謳い列強諸国に負けない海運事業を興すことを目的に掲げ、就業規則などの福利厚生施策を導入、社則のほか会計規程「三菱会社簿記法」も整備した。が、一方で岩崎家による社長独裁を宣言し、没後も三菱財閥の伝統となった。三井財閥は早くから三井家の当主のもと「番頭政治」といわれた役員寡頭体制を敷き、渋沢栄一は合本組織を好み自身を含む世襲制を排除した。岩崎弥太郎は人材を重視し、社員養成のため三菱商船学校・三菱商業学校・明治義塾を創設、社員の2割も外国人を雇い当時希少な大学卒業者を多く採用した。「はじめは一般の若者を採用していた。彼らはみな従順で、言われたことは素直に黙々とやってくれた。しかし教養がないものだから、事の軽重がわからずよく大失敗をしでかすことがあった。これに対して大卒者は、エリートゆえに高いプライドを持ち、客に対して高飛車で愛想もないが、深い知識があるのでいざというときの談判でも堂々と渡り合うことができた。一長一短はあるが、教養のない者に大卒者の気風を養わせるのはとても難しい。反対に、大卒者をしっかり教育して三菱色に染めていくのはたやすいことだ。」・・・岩崎弥太郎は福澤諭吉が唱える事業立国構想に共鳴し大きな影響を受けたという。福澤諭吉も「岩崎氏は噂に聞いたのとは全く違い、山師ではない。今日の様子では成功は疑いない。殊に店の前におかめ面を掲げ、店内に敬愛を重んじさせているのは、近頃の社長にはできぬことだ」と胸襟を開き、岩崎弥太郎は立憲改進党の資金源となり慶應義塾生を大量に雇用した。
- 岩崎弥之助は、兄の岩崎弥太郎が興した海運業を日本郵船に引渡したが、膨大な遺産を元手に鉱山買収と造船業を核に多角的経営を成功させ短期間で三菱財閥の礎を築いた敏腕経営者である。出発時の事業は銅山(吉岡銅山)・水道(千川水道会社)・炭鉱(高島炭鉱)・造船(長崎造船所)・銀行(第百十九銀行)の5部門で、「三菱社」を設立した岩崎弥之助は唯一まともな吉岡銅山から手を付けた。東大出身者を鉱山長に迎え最新の採掘・精錬法と設備の導入で吉岡銅山の産出量は倍増、並行して短期集中的に鉱山買収を推進し、興共・瀬戸・樫村、尾去沢・大葛・細地・槙峰・多田・木浦・佐渡・生野を獲得した三菱は日本屈指の金銀銅メーカーへ躍進した。岩崎弥之助は炭鉱にも注力し、最新技術で高島炭鉱を優良化させ、新入・鯰田・碓井・佐与・上山田・方城・古賀山・端島・油戸を相次いで買収、三菱の国内産出シェアは1割に達した。さらに岩崎弥之助は製造業にも手を広げ、政府のお荷物だった長崎造船所を45万9千円で譲受けると、外国人技師と大卒技術者を雇用し、多数の社員をイギリスへ派遣して本場の造船技術を習得させ、日本一の技術力を得て6000トン級巨船の建造に成功した(日本郵船「常陸丸」)。三菱は新たに神戸造船所を開設し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫した。岩崎弥之助は、海運業特化で失敗した岩崎弥太郎の轍を踏まぬよう主力の鉱業・造船のほか倉庫・保険・銀行・不動産・農場(小岩井農場)など多種多様な事業を展開、日本郵船も三菱傘下に取戻した。「丸の内の大地主」三菱地所の創業者もまた岩崎弥之助であり、丸の内一帯10万余坪の土地を128万円の巨費を投じて陸軍省から買取り、コンドル設計の「三菱第一号館」を皮切りに近代的オフィスビルを次々と建設し「日本初のオフィス街」を現出させた。「三菱合資会社」への改組を機に岩崎弥太郎の遺言に従い岩崎久弥に三菱3代目を禅譲した岩崎弥之助は、三菱の政治的基盤を固めるため各派閥への全方位外交を展開、松方正義と大隈重信を仲立ちして「松隈内閣」を成立させ紐帯として日銀総裁に就き、大隈の東京専門学校を援助し早稲田大学へ昇格させた。
- 岩崎弥之助は、生来素直で温厚沈着な性格で、豪放磊落で敵だらけの岩崎弥太郎とは対照的だった。三菱を継いだ岩崎弥之助は、海運業独占で排除された岩崎弥太郎の特化路線を捨てて鉱山・造船・不動産・銀行など多角化戦略に切替え、大隈重信への肩入れが過ぎて薩長閥に潰された弥太郎を反面教師に政界で全方位外交を展開した。大隈重信の進歩党を支援しつつ、岳父の後藤象二郎と自由党を応援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘の繁子を嫁がせ薩摩閥にも食込んだ。また、東大法学部率のエリート外務官僚である加藤高明や幣原喜重郎を青田買いし、それぞれに弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期戦略で三菱勢力の政界浸透を図った。三菱合資会社への改組を機に三菱3代目を岩崎久弥に禅譲した後、岩崎弥之助は政界活動に本腰を入れ、大隈重信と松方正義の間を取持って第二次松方正義内閣(隈板内閣)を成立させ川田小一郎(三菱幹部)に代わって第4代日銀総裁に就任した。日銀総裁としての岩崎弥之助は、日清戦争で獲得した賠償金(ポンド建て受取)を原資に金本位制移行を断行したほか、中小銀行の統廃合・担保品付手形割引の廃止・日銀の個人取引開始・初の金融市場操作などを実施、後に「名総裁」と讃えられる業績を残した。日露戦争では、軍需を期待すべき三菱財閥のドンとしては必然か、岩崎弥之助は強硬な開戦論を唱え加藤高明ら対外硬派を後押しした。
- 安田善次郎は、富山の農民から一代で安田財閥を築いた天才商人である。安田善次郎は渋沢栄一と並ぶ「金融界の大立者」だが官僚経験も留学経験も無い叩き上げで、死ぬまで個人商店スタイルを貫き、三井・三菱のような政商ではないが奇跡的に四大財閥の一角に成上がった。矢野龍渓は『安田善次郎伝』で「御一新後の新日本に於て、一度も洋行せずして、大事業を成遂げた人物が唯二人ある」として大隈重信と安田善次郎の名を挙げている。家業を捨て上京した安田善次郎は丁稚奉公を経て28歳で両替商「安田商店」を創業、幕府の古金銀取扱方・新政府の太政官札引受・東京都心部の不動産買収など、維新の混乱を追風に着々と業績を伸ばし、公金取扱いの為替方指定で有力両替商に台頭した。担保に供する公債保有高と公金預り額がスパイラル的に増大するシステムを編出した安田善次郎は、官公庁や自治体の為替方指名を次々と獲得し「公金の富士」の礎を築いた。政府の動きを読んだ安田善次郎は条例改正を待って国立銀行業務に参入し第三国立銀行を設立、多くの国立銀行や政策銀行の設立に携わり、創立事務御用掛・監事として草創期の日本銀行の実務も差配した。銀行の勃興期が終わると、安田善次郎は百三銀行など経営不振行の経営再建に乗出し、金融界の救世主と感謝されつつ事業吸収を重ね「銀行王」となった。安田善次郎は浅野総一郎・大倉喜八郎・後藤新平ら新興企業家の金主となって銀行業を拡大し生命保険業にも進出、安田財閥は鉱工業主導の三井・三菱・住友と異なり純粋な金融財閥として独自の発展を遂げ、1923年から1971年まで最大資金量を誇った安田銀行(富士→みずほ)を中核に安田生命・東京建物などが連なる芙蓉グループを形成した。安田善次郎は国家予算の8分の1に相当する膨大な個人資産を築いたが、経営の近代化や多角化を嫌い「大卒者不要」と断じて「安田十家族」の同族経営に固執、「相場操縦」で第一次大戦後のバブル崩壊を仕組み巨富を積み増したが、世間に憎まれチンピラの襲撃で落命した。安田善次郎の死で安田財閥は大混乱に陥ったが、大番頭が招聘した結城豊太郎が経営近代化を断行し窮地を救った。
- 安田善次郎は大富豪には珍しく花柳界嫌いで艶聞も無く(三菱2代目の岩崎弥之助も同様)、豪遊家で多くの妾を囲った親友の大倉喜八郎や渋沢栄一とは対照的だった。あるとき大倉喜八郎は飲み友達の政府高官らと相謀り、多額の褒美を餌に柳橋一の美技に因果を含め安田善次郎を誘惑するよう差向けた。が、宴席の安田善次郎は美技の色仕掛けに全く乗らず「貴女も一流になろうと思っているのなら、ここで艶聞でも広まっては大変でしょう」と説教を始める始末で、一同呆れ果て引下がったという。一方で安田善次郎は、終生愛した旅行のほか水泳・乗馬・剣道・茶道・生花・謡曲・俳句・和歌・漢詩・囲碁・絵画などあらゆる芸事に手を広げ、真面目な趣味を通じて大いに交際範囲を広げた。ただ、質素倹約に徹した安田善次郎は納得のいかない無駄金を一切使わなかった。若い頃から財界では有名なケチだったが、貧困者救済の医療団体済生会(済生会病院の前身)への寄付を渋ったことが大きく報じられ「安田善次郎=ケチ」の世評が固まってしまい、このため熱望した男爵位も得られず仕舞だった。とはいえ「陰徳を積む」を旨とする安田善次郎は世間が知らない社会奉仕活動を数々行ったと擁護する向きもあり、浅野総一郎・大倉喜八郎・後藤新平ら事業仲間は安田の死を大いに悼み、東京湾沿岸部埋立事業で多大な支援を受けた浅野総一郎は鶴見臨海鉄道線に「安善町駅」を設けている。事業外でも安田善次郎は書画骨董の蒐集や文化芸術活動の支援に金を惜しまず、福地源一郎など困窮した知人の扶助にも努めたというが、一般大衆から見れば金持ちの道楽に過ぎず、やはり「金の亡者」とはいわないまでも「筋金入りの吝嗇家」の評価は妥当であろう。安田善次郎は厭世家気取りのチンピラに刺殺され、冷淡な世間は同情どころか犯人を英雄視するに及び、世間の嫉妬視を恐れる安田一族と保善社は「陽徳を積む」方向へ転じ東大安田講堂・東京市政調査会館(現市政会館・日比谷公会堂)の寄進など目立つ社会奉仕活動に勤しんだ。
- 大磯の別荘「寿楽庵」に滞在中の安田善次郎は、押掛けて来た右翼青年との面会に応じたが、突然刃渡り8寸ほどの短刀で斬付けられた。82歳ながら健康体の安田善次郎は逃走するも追いつかれ背後から咽喉部に止めの一撃を受け絶命、犯人の朝日平吾は現場を離れた直後に西洋カミソリで喉を掻切り壮絶死を遂げた。朝日平吾は、安田善次郎がで巨利を博した「相場操縦」に巻込まれ株式相場で大損を出し投身自殺騒ぎを起していた。佐賀県出身の朝日平吾は旧制福岡中学から日本大学へ進むも満州に渡るなど無頼生活を送り、当時死病といわれた結核に侵されたことで極端な厭世家となり、「神州義団」を名乗るエセ右翼に落ちぶれ富豪の邸宅に押掛けては金銭をせびる行動を繰返し、安田善次郎の前には渋沢栄一を訪ねたが100円の小遣いで追払われていた。「金の亡者」と嫌われた安田善次郎の死に世間はほとんど同情を寄せず、逆に殺人犯は英雄視され、この2ヵ月後に起る原敬首相刺殺事件の呼水になったともいわれる。不慮の死を遂げた「銀行王」安田善次郎だが、今日に繋がる安田財閥と膨大な遺産を残した。死亡時の安田善次郎の個人資産は2億円超といわれ、その年の年間国家予算1,591百万円の8分の1に相当する巨万の富を一代で築いたことになる。が、安田善次郎はケチといわれつつ生涯質素倹約に徹し、芸者遊びを嫌い、1872年1月1日から1921年の死の前日まで49年間、毎日几帳面に日記を書き続けた自律の人でもあった。現在も安田家に飾られているという安田善次郎自筆の俳画には、みみずくの絵の横に「小鳥ども 笑わば笑え われはまた 世の憂きことは 聞かぬみみずく」の句が添えられている。
- 三井・三菱・住友などが持株会社・コンツェルン方式を採用し財閥経営の近代化を進めるなか、安田財閥は個人商店スタイルに固執する安田善次郎のもと「関係するところの事業は、他の英雄豪傑を加えるを欲せず。権力を一身に集め、重役に任ずるものは子弟・安田善某、安田善某・・・」という有様で、一度は後継者に就いた婿養子の安田善三郎も一族不和を理由に追放され、前時代的な「のれん・前垂れ主義」の旧態を保ち続けた。独裁者の安田善次郎が暴漢の凶刃に斃れると「安田王国にはただ狼狽だけがあった」と評される大混乱に陥り、実子の安田善之助・善五郎・善雄が安田保善社・安田銀行・第三銀行のトップに就き集団指導体制を敷いたが、安田一族を含め社内には安田財閥を担うべき人材が皆無だった。古参幹部の原田虎太郎は蔵相の高橋是清に人材周旋を依頼し、人選を任された日銀総裁の井上準之助は日銀理事・大阪支店長の結城豊太郎に白羽の矢を立てた。大物財界人を期待した安田側は冷淡だったが、結城豊太郎は経営独裁を条件に安田入りし、保善社専務理事・安田銀行副頭取の要職に就いて実権を掌握すると敢然と経営近代化に乗出した。結城豊太郎は、安田善次郎の「大卒者不要」論を捨てて大学・高等専門学校卒業生の定期採用に踏切り、即戦力確保のため海外視察派遣制度や外部招聘にも注力した。事業面では傘下銀行の大合併など事業統廃合による合理化を推進、結城豊太郎の孤軍奮闘により安田財閥は関東大震災から金融恐慌へ至る波乱局面を何とか乗切った。が、「喉もと過ぎると」結城専制に不満を抱く安田一族と古参幹部が蝟集し、浅野財閥の経営危機に乗じ内部クーデターが発生、結城豊太郎は功成って追放される憂き目に遭った。安田財閥を去った結城豊太郎は、高橋是清・井上準之助ラインで官界に復帰し日本興業銀行総裁・蔵相・日銀総裁を歴任、第二次大戦後は悠々自適の余生を送り1951年に永眠した。最後の総帥として財閥解体に対処し芙蓉グループの礎を築いた安田一(安田善次郎の嫡孫)は、安田財閥を救った結城豊太郎の業績を讃え感謝の辞を贈っている。
大倉喜八郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照