維新期に武器商人として台頭、陸軍長州閥に食込み国内外の戦乱に乗じて巨富を積み、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎の庇護のもと大倉財閥を築いた大胆不敵な「冒険商人」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
大倉 喜八郎
1837年 〜 1928年
70点※
家系・子孫
- 大倉家は越後新発田の豪農で苗字帯刀を許された名主の家柄、大倉卯一郎の代に薬種・砂糖・錦・塩の商売で大きく稼ぎ質店も経営した。卯一郎曾孫の大倉喜八郎は、学友の父が藩の目付役に下駄履きのまま土下座したのを咎められ閉門謹慎に処された事件を機に「大商人になって武士を見返してやろう」と決意し、安穏な生活を捨て姉がくれた20両を手に単身江戸へ上った。志が叶い大商人となった大倉喜八郎は妻3人との間に多くの子を生し、多くは夭逝したが六男二女が成人、喜八郎の死に伴い嫡子の大倉喜七郎が大倉財閥と男爵家を継いだ。大倉喜七郎は、慶應義塾から米国ケンブリッジ大学へ進み、帝国ホテル会長に就任した。大倉喜七郎は悪しき2代目の典型で、留学中から自動車道楽に執心し、画壇の大旦那となって美術品の蒐集に励みつつオーケストラやバレエ団を結成、果ては私財を投じ大倉山ジャンプ競技場を建設した。単なるボンボンの大倉喜七郎が財閥解体後の難局を乗切れるはずもなく、大成建設など企業単位では幾つか存続したものの大倉財閥は事実上崩壊した。公職追放を解かれた大倉喜七郎は帝国ホテル復帰を熱望したが果たせず、残った遺産でホテルオークラを創業した。なおオークラ敷地内には、大倉喜八郎の古美術品寄贈で設立された「大倉集古館」がある。さて時代は下り、大倉喜八郎の創業事業である大倉商事は、準大手商社として存続したがバブル崩壊で経営難に陥り、1996年大倉喜彦(喜八郎の曾孫)を社長に担ぎ再建の道を探るも1998年遂に自己破産に追込まれた。全盛期に傘下企業200社を誇った大倉財閥は、2代目体制の敗戦対応失敗で紐帯を失い、大倉商事の倒産で完全に命脈を絶たれた。大倉財閥の流れを汲む企業には大成建設(大倉土木)・帝国ホテル・ホテルオークラ・あいおいニッセイ同和損害保険(千代田火災海上)・日清オイリオグループ(日清製油)・帝国繊維(帝国製麻)・日油・サッポロビール・特種東海製紙(東海パルプ)・ニッピ・中央建物などがあるが関係は薄く、三井・三菱・住友・安田とは比ぶべくもない。なお大倉喜彦はその後、中央建物社長やホテルオークラなど旧系列数社の役員ポストを与えられている。
大倉喜八郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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