日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取
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大内 義興
1477年 〜 1529年
60点※
家系・子孫
- 大内氏は、6世紀に渡来した朝鮮王族(百済聖明王の子琳聖太子とも任那爾利久牟王とも)の末裔で、上陸地の周防多々良浜に因んで多々良姓を称し、住地の周防吉敷郡大内村(山口近郊)から名字を採り、平安末期には周防の支配者となった。9代目の大内弘世は南朝から足利尊氏・北朝に帰順して防府・周防の守護職を獲得し本拠を山口へ移転、次の大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して南北朝合一に貢献し日明・朝鮮貿易の元締となって富強を飛躍的に増大させ周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国を領する守護大名となった。室町期の大内氏は幕府の干渉で家督争いが頻発し北九州を巡る大友氏・少弐氏との抗争で衰えたが、14代目の大内政弘(妻は山名宗全の養女)は応仁の乱で西軍主力として活躍し周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配圏に収め、大内教幸の反乱を討平し権臣の陶弘護を謀殺して家中を掌握した。政弘の嫡子大内義興は、挙兵上洛して足利義稙を将軍に復位させ管領代・山城守護を兼ねたが、尼子経久に領国を脅かされて山口へ帰還、尼子軍を破って安芸・備後を制圧した後に病没した。義興は冤罪で誅殺した内藤弘矩の娘を娶り、嫡子義隆をもうけた。娘は重臣の吉見隆頼(のち弟の正頼へ再嫁)、細川持隆(阿波守護)、足利義維(堺公方)などに嫁がせ、大友義鑑に嫁いだ娘は宗麟・義長を産んだ。大内義隆は、京都を凌ぐ文化都市に発展した山口で大内氏の全盛期を謳歌したが、重臣(元男色相手)の陶晴賢の謀反で嫡子義尊と共に殺害され戦国大名大内氏はあっけなく滅亡、陶は大内義長を傀儡当主に担ぎ大内家を簒奪したが主従共に毛利元就に滅ぼされた。宗麟の後方撹乱策に利用され毛利氏に討たれた大内輝弘は政弘の次男高弘の子(義興の甥)である。大内政弘・義興・義隆の嫡流は断絶したが、10代義弘の次男大内持盛の子孫が生残り、故地に因んで山口に改姓した重政が名家を惜しむ徳川家康に拾われて常陸国牛久1万5千石の藩主となり幕末まで存続した。
大内義興と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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