池田勇人から保守本流・宏池会を引継ぎ盟友田中角栄の支持で首相に就任、従米路線へ回帰し「日米同盟」強化と中国への「贖罪外交」を進めたが福田赳夫との不毛な政争の渦中に絶命した「アーウー宰相」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
大平 正芳
1910年 〜 1980年
20点※
家系・子孫
- 大平正芳は香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の生れで「讃岐の貧農の倅」と自称したが、生家は貧農というほどではなく普通の農家だった。向学心旺盛な大平正芳は、家計に負担を掛けないため海軍兵学校を受験するが失敗、高松高等商業学校へ進み卒業後化粧品事業に関与したが再び学業を志し、鎌田共済会および香川県育英会の奨学金を得て23歳で東京商科大学(一橋大学)へ進学した。大平正芳は、鈴木三樹之助(三木証券創業者)の次女志げ子を妻に迎え三男一女をもうけた。大平正芳は長男の大平正樹を後継者にと望んだが欧州外遊中に難病に罹り26歳で早世した。大平正芳の急死後、大蔵省時代からの腹心で長女芳子の婿である森田一が旧香川2区の地盤を継いで衆議院議員となった。
大平正芳と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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