「対外硬」と口八丁で参議に出世、自滅するも政党政治家として首相となり、脱亜論に乗せられて対華21カ条要求をしでかした「反日」の元凶
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大隈 重信
1838年 〜 1922年
20点※
大隈重信と関連人物のエピソード
- 大隈重信は、語学力と外国人相手の「対外硬」で明治政界に売出した。佐賀藩の上級藩士だった大隈重信は、江藤新平・副島種臣・大木喬任らと尊攘派グループを組み、お家大事の『葉隠』教育に反抗し藩校弘道館を追われたが、藩の蘭学寮に学びフルベッキの英学塾「致遠館」で教頭格となった。井伊直弼に肩入れした鍋島直正は佐賀に逼塞し藩士の政治活動を禁じたが鳥羽伏見戦後に官軍参加を表明、脱藩罪を赦された大隈重信は長崎裁判所に派遣され副参謀として関税問題などにあたった。この頃、幕府長崎奉行所が浦上のキリシタン68人を逮捕した「浦上四番崩れ」が外交問題化しパークス英公使は明治政府に信徒の赦免を強要、薩長人は叱られ役を嫌がり井上馨が推薦した大隈重信を参与兼外国事務局判事に採用した。発奮した大隈重信は恫喝外交のパークスを相手に「信教問題は内政干渉」と突撥ね(結局本件は木戸孝允が片付けたが)、英語音痴の政府首脳にあって外交折衝の第一人者となった。大隈重信は井上馨や伊藤博文ら長州人と親しく西郷隆盛ら無骨な薩摩人を敬遠したが、小松帯刀の推挙により薩長人敬遠で空席の外国官副知事(外務次官)に就任、木戸孝允にも認められ参議兼大蔵卿に昇進した。が、無能な紙幣濫発がインフレを招き政府財政は破綻に瀕した。伊藤博文と共に大久保利通に仕えた大隈重信は、大久保の横死後薩長平等の原則に乗り主席参議に担がれたが、国会開設問題の暴走で長州閥に見放され、開拓使官有物払下げ事件では民権派に煽られ黒田清隆を非難、薩長は提携して「明治十四年政変」を起し大隈一派を政府から一掃した。福澤諭吉に師事する大隈重信は立憲改進党の党首に担がれ、井上馨から外相職を奪うも条約改正に行詰り玄洋社員に爆弾を投げられ右脚を失った。一命を取留めた大隈重信は、岩崎弥之助・三菱の援助で東京専門学校(早稲田大学)を創設し、日清戦争では伊藤博文内閣を軟弱外交と非難、板垣退助と合同して「隈板内閣」を成立させるも内部分裂により4ヶ月で瓦解、70歳を前に政界引退を表明したが井上馨の誘惑に飛付いて第二次大隈内閣を組閣し薩長藩閥のために働き「対華21カ条要求」の愚を犯した。
- シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れると、元老の井上馨は「反政府と護憲の大火事を消すには、早稲田のポンプを使うしかない」と山縣有朋や松方正義の反対を抑え大隈重信を首相に擁立、薩長藩閥の手先と化した大隈は衆議院解散により政友会議員を半減させて井上の期待に応え山縣の言うままに二個師団増設を断行、褒美に侯爵を与えられた。そして「対外硬」の大隈重信首相と加藤高明外相は、第一次世界大戦で列強の手がアジアに回らない間隙を突いて袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告、山東半島におけるドイツ権益の承継、遼東半島と満州における日本権益の99年延長、漢冶萍公司(中国最大の製鉄所)への経営参画、政治・経済・軍事に係る日本人顧問の受入れなど国際常識に反する無茶な要求を突きつけた。当然ながら欧米列強の干渉で画餅に帰し大隈重信内閣の国内向け対外硬パフォーマンスに終わったが、対華21カ条要求は中国民衆のナショナリズムに火をつけ欧米列強へ向かうべき怒りが日本に集中し「五・四運動」など大規模抗日運動に発展、根深い反日意識は日中戦争泥沼化の原因となり、受諾日の5月9日は現代中国で「国恥記念日」とされ「侵略」の象徴となっている。恫喝外交のパークス英公使らに対するハッタリと強談判で出世の糸口を掴んだ大隈重信は、おそらく福澤諭吉の『脱亜論』でアジア蔑視思想に染まり、日清戦争では伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省も日本の領土として要求せよなどと下関条約にケチをつけた。83歳まで長寿を保った大隈重信は「失敗とか成功とかいうことは、人の客観、主観によって相違がある。また、時の経過、時潮の流れによっては、一時の失敗もあるいは大きな成功ともなる・・・すべてはタイムが解決する。功名誰か論ずるに足らんや、である」と実に無責任な言葉を残し、盛大な「国民葬」で送られた。大隈重信の大衆迎合的対外硬パフォーマンスは加藤高明や(直接の関係は無いが)「史上最悪の外交官」松岡洋右へと受継がれ、軍部・マスコミと結託して幣原喜重郎らの協調外交を葬った。
- 大隈重信は字を書くことを極度に嫌い、藩校弘道館在学中から明治政府の大官になっても署名花押さえ書かず、真筆の文書は伯爵辞令の請書と少年期の送別色紙への寄書きくらいしか残っていない。蘭学寮でオランダ語や英語を学んで成績抜群だった大隈重信は1860年の幕府遣米使節で佐賀藩から出す随員の候補にあがったが、報告書を書かないだろうからと選に漏れたという。
- 国学者で佐賀藩校弘道館教授の枝吉神陽が発起人となり義祭同盟を結成、江藤新平・大隈重信・副島種臣(枝吉の実弟)・大木喬任・島義勇ら38人の尊攘派藩士が加盟した。南朝の忠臣楠正成を讃える祭祀の奨励を表向きの目的としたが、実態は佐賀藩尊攘派の政治結社であり、長州における松下村塾に比肩されることもある。しかし、佐賀藩主鍋島直正の意を動かして挙藩運動に乗出すことはできず、逆に危険視され形骸化していった。江藤新平・大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らは、佐賀藩内では革新派と目され、明治維新後は薩長の専横に反抗する勢力を代表する形で参議に出世したが、幕末の志士活動においてはほとんど何もしていない。専制君主の鍋島直正が藩士の政治活動を抑制したことが主因だが、土佐藩の中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎や久留米藩の平野国臣のように脱藩して浪人運動に身を投じる選択肢はあり、実際に江藤・大隈・副島は脱藩を経験したが不徹底であった。「大風呂敷」の大隈重信は後年「徳川慶喜に会って大政奉還を実現させようとした」などと語ったが、実情は薩長の回りをウロチョロした程度で全くのホラ話である。
- 鍋島直正は、大老井伊直弼の暗殺で中央政局から離脱するも佐賀藩の富国強兵と洋式軍備導入に専念し、戊辰戦争が起ると幕末最強の最新兵器を投入し「薩長土肥」に滑り込んだ開明的専制君主である。志士活動を封印された江藤新平・大隈重信・副島種臣・大木喬任らは薩長藩閥に切歯扼腕し鍋島直正の出遅れを恨んだが、最強軍備を蓄えた佐賀藩は血を流すことなく明治政府で漁夫の利を占め多くの実務官僚を輩出した。幕府は長崎を直轄領としたが警備役を命じられた佐賀藩は代々膨大な出費を強いられ、フェートン号事件では藩主鍋島斉直が閉門に処されたが、佐賀藩は逸早く西洋文明に覚醒し「蘭癖」の鍋島直正が出て幕末随一の技術力と洋式軍備を整えた。鍋島斉直の十七男ながら若年で佐賀藩主を継いだ鍋島直正は、先ず藩校弘道館の拡充を指示して人材の涵養を図り、経費節減・債務減免や交易促進など大胆な藩政改革により破綻に瀕した財政を再建、日本初の反射炉を建設して洋式砲の鋳造を開始し、技術開発のため「精煉方」(招聘した田中久重は東芝を創業)および「三重津海軍所」(国産初の実用蒸気船「凌風丸」を建造)を開設、ペリー艦隊が迫ると長崎沖合に砲台を築き大砲の大量生産に着手した。「技術立国」を果した鍋島直正は中央政界へ進出、幕府の品川台場(砲台)や伊豆韮山反射炉に技術供与して老中安倍正弘の信任を獲得し、大老井伊直弼の親友となり将軍継嗣問題で従兄弟の島津斉彬ら一橋派「四賢候」に勝利したが、桜田門外の変が起ると身の危険を察知して佐賀へ引込み嫡子の鍋島直大に佐賀藩主を譲った。以後の鍋島直正は黙々と洋式軍備を蓄え(自家製より輸入が主体)、藩士の尊攘運動を抑え幕府・薩摩藩双方の出兵要請を黙殺したが、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝すると決然と参戦を表明し江藤新平に出陣を命令(徳川慶喜は「鍋島直正はずるい人だった」と述懐)、洋式銃器で武装した精強佐賀軍は函館戦争まで転戦し最新鋭のアームストロング砲は上野彰義隊や会津若松城の攻略に威力を発揮した。鍋島直正は、薩長土肥の4藩主連署の版籍奉還に従い、初代開拓使長官に就いたが、廃藩置県の直後に58歳で病没した。
- 15歳で佐賀藩主に就いた鍋島直正は、父の鍋島斉直の存命中は思い切った藩政改革に着手できなかったが、直ちに藩校弘道館の拡充を指示し藩士教育に力を注いだ。佐賀藩のスパルタ教育は有名で、藩士に弘道館での就学を義務付けたうえ、成績良好でないと藩庁の上級職につけないシステムであった。日本一の藩校といえば熊本藩の時習館であり、弘道館も発足当初は時習館に倣ったが、鍋島直正の改革により弘道館は近代的教育機関に発展し時習館を凌駕した。明治維新後、政治活動に専心した薩長土と比較して佐賀藩は優秀な実務官僚を多く輩出したが、志士活動で実績が乏しい佐賀藩士が薩長に互して出世できたのは佐賀藩の教育熱と鍋島直正の恩恵といえるだろう。参議に上り詰めた大隈重信・副島種臣・江藤新平・大木喬任は佐賀藩内では尊攘派であったが志士実績は皆無といってよく、専制君主の鍋島直正に抑え付けられたとはいえ土佐藩の中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎や久留米藩の平野国臣のように脱藩浪士として名を成した佐賀藩士もいない。なお、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の「葉隠」は佐賀藩士山本常朝の著作で、新渡戸稲造の「武士道」で有名になったが、武士の死に様を説くとか切腹を美化するといった哲学書ではなく、武士の処世マニュアル的色彩が濃く、鍋島氏への徹底的な忠誠を奨励する教科書であった。「釈迦も孔子も楠も信玄も、かつて鍋島家に奉公したることなき人々なれば、崇敬するに足りず」という恐ろしく偏頗な内容で、天下国家を論じる幕末の時勢には全く馴染まず、大隈重信らは「葉隠」を核とする教育方針に猛反発し藩庁に改革を願出たが、守旧派が支配する佐賀藩庁に拒絶された。藩校弘道館から追放された大隈重信は、蘭学寮を経て長崎へ遊学、フルベッキに学んだ洋学と語学力をもって明治政府で台頭した。「葉隠」が日本人一般に普及したのは第二次大戦末期のことで、軍部が不合理な特攻攻撃(自爆攻撃)を正当化するため「武士道=死=特攻」の部分だけを抜き出して宣伝に努めたことによる。
- 鍋島直正は「蘭癖」といわれるほどの開明派であったが、ペリー来航に際して幕府から意見を求められると「夷荻ども傲傲の振る舞い、断固打ち払い」を主張し、長州藩の攘夷決行(下関事件)を高く評価した。。政敵となる「四賢候」と同様に「まずは武威を示し然る後に洋式軍備を導入し外夷を打払うべし」という「大攘夷」を唱えたか、或いは対外交渉窓口は長崎という原則の遵守を強調したのかも知れない。鍋島直正は洋式兵器の自藩製造を志し「精煉方」を開設したが、叔父の鍋島茂義(支藩の武雄藩主)の影響も大きかった。鍋島茂義は、長崎町年寄として下向した高島秋帆に弟子入りして西洋式砲術や科学技術を学び、オランダ人と親密に交流、雄藩に先駆けて武雄藩の軍備と軍制を洋式化した傑物であり、精煉方では自ら蒸気船建造の責任者に任じた。なお、幕府と雄藩は競って洋式兵器製造に取組んだが、先ず必要な設備は鉄製砲身の鋳造に欠かせない反射炉であり、幕府(伊豆韮山)と薩長は反射炉の実用化に成功したが、先駆となって技術開発をリードしたのは鍋島直正の佐賀藩であった。佐賀藩は、幕府や他藩が及ばない水準まで鋳造技術を高め、アームストロング砲に代表される最新式の洋式大砲・鉄砲の自藩製造に唯一成功、また洋式蒸気船の開発にも取組み国産初の実用蒸気船「凌風丸」の建造を成功させた。ただし、幕末時点では佐賀藩でも製造より輸入の方が安上りで、戊辰戦争に投入された銃器・軍艦の主体は輸入品であった。佐賀藩の精煉方で技術革新を牽引したのは「東洋のエジソン」田中久重である。田中久重は久留米出身の細工職人で、上方へ出て機械仕掛けの技術を磨き「からくり儀右衛門」と称され大評判をとった。西洋技術も習得した田中久重は、緒方洪庵の適塾に学んだ佐野常民の勧めで鍋島直正の佐賀藩に出仕し、精煉方の技術開発職に就いて反射炉や凌風丸の建造を主導、日本初の蒸気機関車・蒸気船の模型も製作した。1864年故郷の久留米藩へ転籍し西洋技術導入に貢献、1873年東京に移住し東芝の前身とされる「田中製造所」を創立した。
- 日本との国交を拒絶する李氏朝鮮に修好条約締結を迫るため西郷隆盛は自身の派遣を閣議決定したが(征韓論)、遣欧使節より帰国した岩倉具視・木戸孝允・大久保利通と大隈重信・大木喬任らの内治優先論に覆され西郷派遣は無期限延期となり、これを不服とする西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎ら参議と征韓論に同調する軍人・官僚600余名が大挙辞職し下野する大事件に発展した(明治六年政変)。征韓論の背景には廃藩置県で失業した50万人に及ぶ士族の雇用問題があった。政変後、革新の木戸孝允と保守の岩倉具視が相克し岩倉寄りの大久保利通が木戸を宥めつつ独裁的指導力を発揮する構図となった(大久保政府)。木戸孝允は、西郷・大久保を巻込んで廃藩置県を成遂げると「廃藩置県を断行して四民平等をなした以上は、教育を進めて人文を開き、もって立憲国にしなければならない」と憲法制定を政治目標に定め、学制と国民皆学の充実を図り、言論出版を奨励し、軍事においては大村益次郎のフランス流市民兵構想を後援した(大村は暗殺され山縣有朋らが「天皇の軍隊」に仕立てる)。木戸孝允の基本理念は大久保利通の殖産興業・富国強兵に通じるものであったが、乏しい政府財政と人的資源を巡って優先順位や進め方で両者は対立、粘り強い戦略家の大久保が長州の伊藤博文・井上馨や肥前の大隈重信を自陣へ引込んで勝利し木戸孝允はヘソを曲げて放り出した(土佐の板垣退助や後藤象二郎は征韓論に与し下野)。木戸孝允と大久保利通の関係について、徳富蘇峰は「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる。要するに一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」と語り、松平春嶽は薩摩藩への恨み節もあろうが「木戸は至って懇意なり。練熟家にして、威望といい、徳望といい、勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、衆人の異論なからしむるは、大久保といえども及びがたし。木戸の功は、大久保の如く顕然せざれど、かえって、大久保に超過する功多し。いわゆる天下の棟梁というべし」と評した。
- 大久保利通は、強靭な意志力でシナリオを描き粘り強くキーマンを動かして明治維新を成遂げた「維新の三傑」、声望は西郷隆盛に及ばないが功績と手腕は最高である。鹿児島城下の加治屋町で3歳年長の西郷隆盛と共に育ち尊攘派グループ「精忠組」を結成、デビューは島津斉彬の懐刀として活躍した西郷に遅れたが斉彬没後は主役となった。斉彬の突然死に西郷ら同志が希望を失うなか、大久保利通は、次代を担う島津久光に目を付け趣味の囲碁を自らも習得して接近を図り、島津斉興の死で久光が実権を握ると側近に抜擢され、自ら推挙した門閥閣僚の小松帯刀と共に薩摩藩を尊攘藩に改造した。大久保利通は、我が強く統制好きな久光の下で苦労しながら公武合体運動を推進め、突出脱藩を主張する有馬新七ら精忠組急進派を命懸けの説得で抑えて挙藩一致体制を堅持、久光を説伏せて西郷隆盛の赦免を勝取り薩摩藩同志の抑え役兼他藩への周旋役に据えた。島津久光は文久のクーデターで幕府政治を改革し参預会議により宿願の公武合体を成就したが、八月十八日政変・禁門の変で長州藩を追放した徳川慶喜は専横を強め、尊攘派に恨まれた久光は憤慨して政局を放棄、藩政を託された大久保利通と西郷隆盛は長州征討に固執する幕府を見限り薩長同盟を結んで討幕路線へ転換、岩倉具視と連携して朝廷を確保し一気に王政復古、戊辰戦争、明治政府樹立を達成した。新政府での大久保利通は、ラジカルな木戸孝允と士族に同情する西郷隆盛の意見調整に腐心しつつ、欧米視察を通じて殖産興業・富国強兵の必要性を確信、明治六年政変で岩倉と共謀して西郷の征韓論を覆し反抗勢力を一掃して初代内務卿兼参議に就き独裁政権を樹立した(大久保政府)。ドライな大久保利通は、台湾出兵で薩摩士族のガス抜きを図りつつも秩禄処分を断行、全ての特権を奪われた不平士族の反乱が相次いだが断固たる姿勢で各個撃破し西南戦争で西郷と薩摩志士を処断、史上空前の内乱の渦中で不敵にも第一回内国勧業博覧会を開催したが、翌年不平士族に襲撃され落命した(紀尾井坂の変)。大久保利通の内治優先・殖産興業路線は弟子の伊藤博文と大隈重信へ引継がれた。
- 大久保利通は、大蔵省と工部省から殖産興業部門を分離し、司法省から警保寮(警察)も巻き取って、絶大な権限を有する内務省を設置、自ら初代内務卿となり辣腕を振るった。西郷隆盛ら征韓派が一掃され木戸孝允も病気で働けない状況のなか大久保は独裁体制を確立、参議の伊藤博文と大隈重信が側近として大久保を支えた。大久保政府の主眼は内地優先論に基づく殖産興業にあり、鉄道網の整備を進め、官営模範工場や農事試験場を設立して軽工業や農業の近代化を推進した。また岩崎弥太郎の三菱を手厚く保護し、国内海運業の育成と外国勢力の排除に努めた。外交面では、征韓論を抑えたものの、薩摩藩の不平士族のガス抜きのため台湾出兵を断行し、大久保自ら清国に乗込んで有利な講和条約をまとめた。征韓論争に敗れ帰郷した要人を核に各地で不平士族が蜂起し佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き日本史上最悪の内戦となった西南戦争が勃発したが、大久保は怯まず断固たる姿勢で対応し新造の鎮台兵を動員して速やかに各個鎮圧し国内の治安を回復した。大久保利通は最も現実的な政治家だが、明確な長期ビジョンと意志を持っていた。大久保は「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り発展を待つ時期だ。」と語り、岩倉具視への手紙には「国家創業の折には、難事は常に起るものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」と記した。福地源一郎は大久保に「北洋の氷塊」の渾名を奉り「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」と評している。
- 大隈重信が木戸孝允と大久保利通を評して曰く「木戸は創業の人なり。大久保は守成の人なり。木戸は自動的の人なり。大久保は他動的の人なり。木戸は慧敏闊達の人なり。大久保は沈黙重厚の人なり。もし、主義をもって判別せば、木戸は進歩主義を執る者にして、大久保は保守主義を奉ずる者なり。諸般の事物に対しては、その意見議論、まったく衝突し、その衝突は自(おのずか)ら二人の代表せる薩長の軋轢となり、その軋轢は延いて、進歩主義と保守主義との一消一長を為し、遂には維新革命の事業より、立憲政制の端をも開くに至れり」
- 西南戦争は、西郷隆盛を盟主に担ぐ旧薩摩藩士が起した不平士族反乱で日本史上最大の内乱事件である。徴兵令、廃刀令、秩禄処分と続いた士族の特権剥奪政策に対する不満は全国に蔓延し、佐賀の乱を皮切りに既に各地で不平士族反乱が起っていたが、薩摩藩は維新の功労があるだけに不満は大きく、さらに他藩より武家率が数倍も高く武士の絶対数が多かったことも災いし(全国士族の1割とも)、空前の大規模反乱に発展した。征韓論争に敗れて鹿児島に退いた西郷隆盛は、暴発を抑えるため私学校を作って統制に努めたが、逆に求心力となって続々と不平士族が参集、鹿児島は中央政府から独立した「私学校王国」の様相を呈した。そして遂に暴発事件が起ると、西郷は、篠原国幹・村田新八・桐野利秋・辺見十郎太ら私学校党幹部に身を委ね、「陳情」を名分に中央への進軍を開始した。大久保利通率いる明治政府は、即座に断固鎮圧の断を下し、鹿児島県逆徒征討総督の有栖川宮熾仁親王以下、実質的な指揮官(参軍)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命、徴兵制で発足したばかりの鎮台兵を大挙派兵し、また旧士族を急募して編成した警察兵も続々と投入した。戦域は鹿児島県から熊本県、宮崎県、大分県にまで拡大、戦死者は官軍6,403人・西郷軍6,765人に及び、激戦の末に西郷隆盛はじめ反乱軍の幹部は悉くが戦死、反乱は鎮圧された。このとき戦った官軍には、司令官の大山巌中将・谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐のほか、児玉源太郎少佐・川上操六少佐・奥保鞏少佐・乃木希典少佐など後の大物軍人が数多く従軍した。西南戦争で政府が費やした戦費は4156万円の巨額に及び深刻な財政難に陥って富国強兵政策の重大な足枷となった。さらに、西南戦争の最中に木戸孝允は「西郷、いいかげんにせんか」の言葉を残して病没、その西郷隆盛も間もなく戦死、残った大久保利通も翌年不平士族の凶刃に斃れた。柱石たる「維新の三傑」を一気に喪った悪影響は計り知れず、明治日本にとって最も不幸な大災難であった。ただ、岩崎弥太郎の三菱・大倉喜八郎・三井など政商たちに戦時特需をもたらし飛躍の契機を与えたことは、せめてもの救いであった。
- 西郷隆盛は、身長五尺九寸八分(1.8m)体重二九貫(119キロ)の堂々たる体格で、目が大きく「うどめさ(巨眼さん)」と慕われた。しかし西郷嫌いの大隈重信にいわせると「不細工な体躯」となる。西郷隆盛の相撲好きは有名だが、祖父は藩内にきこえた怪力で相撲の名手だったという。大隈重信は、岩倉使節団派遣後の留守政府で西郷隆盛に継ぐ副総理格として政務を差配したが、政治に関心さえ示さず任せ切りの西郷に反発し「西郷は政治家として無能だった」とまで言い切っている。一方の西郷隆盛は大隈重信を「三菱の番頭さん」と呼び軽視した。
- 戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 大隈重信が伊藤博文と井上馨の二人を評して曰く「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった・・・井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから、敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから、伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事の中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」。
- 松方正義の政治的功績は「松方財政」即ちインフレ収束と中央銀行創設に尽きる。西郷隆盛が嫌う島津久光の側近で志士活動に参加しなかった松方正義の中央進出は遅れたが、日田県知事として政府の資金調達活動に忠実に働いたことなどが認められ大久保利通の推挙で民部省大丞に任じられた。民部省解散に伴い井上馨(大蔵大輔)・陸奥宗光(租税頭)の大蔵省へ移った松方正義は、薩長藩閥に不平満々の陸奥とは対照的に地租改正などに黙々と取組んだ。江藤新平の汚職追及で井上馨が辞め参議筆頭の大隈重信が大蔵卿に就任、明治六年政変で陸奥宗光も去り松方正義が次席に上った。明治政府は紙幣増発で財源を捻出し鉄道網・郵便制度・学校・官営工場・官庁街建設などの殖産興業施策を矢継ぎ早に行ったが、西南戦争の膨大な戦費負担で財政が逼迫、大隈重信ら志士上りで財政音痴の政府首脳は安易な不換紙幣発行に頼り(戦費42百万円に対し紙幣増刷27百万円・国立銀行借入15百万円)急激にインフレが進行した。無能な大隈重信は外債発行による政府紙幣整理を策し松方正義と衝突、松方は伊藤博文の計いで内務卿へ転出し渡仏して国家財政の基礎を学んだ。3年後の明治十四年政変で大隈重信が失脚、伊藤博文に財政再建を託され参議兼大蔵卿に就いた松方正義は、緊縮財政と増税で収支均衡を図り官営事業売却で資本回収と税収増を促進、蓄えた剰余金で不換紙幣の償却を進め正貨の準備銀を買入れ兌換制度に備えた。一方、松方正義は日本銀行を設立して紙幣発行権を一元管理下に置き銀兌換紙幣(日本銀行券)に統一し銀本位制を確立した。一連の松方財政でインフレは収束し財政危機を脱したが、反動デフレが進行し農産物価格の暴落で小作農が急増、過激な政党活動が蔓延し秩父事件などの農民反乱を引起した。「財政の第一人者」となった松方正義は、最初の伊藤博文内閣から2度の松方内閣を含む6内閣で蔵相を占め、日清戦争では勅令で軍事公債5千万円を発行し伊藤を助けた。伊藤博文に属した松方正義は「黒幕内閣」「後入斎」などと揶揄され薩摩閥でも重みが無かったが、元老・公爵に上り詰め89歳まで長寿を保った。
- 渋沢栄一が静岡藩「商法会所」の頭取に就いて半年余り過ぎた頃、明治政府から突如出仕命令が届いた。大蔵大輔(大蔵次官)の大隈重信が会ったこともない渋沢栄一の噂を聞き招聘したものだった。渋沢栄一は始めたばかりの商法会所に未練があったが「八百万の神の一柱に加われ」という大隈重信の説得に応じ大蔵省租税正(主税局長)に任官した。開設間もない新政府の人事はめまぐるしく、渋沢栄一出仕時の大蔵省幹部は伊達宗城大蔵卿(旧伊予宇和島藩主)・大隈重信大蔵大輔・伊藤博文大蔵小輔だったが、間もなく大蔵卿は大久保利通に交代、米国出張へ出た伊藤に代わって井上馨が大蔵小輔となり、大久保が岩倉使節団に出ると井上が参議兼大蔵大輔に昇進し事実上のトップとなった。「建白魔」の渋沢栄一は革新官僚グループ「改正掛」の中核となり、洋行経験があり話の分る井上馨と肝胆相照らす間柄となり、井上の腹心として銀座煉瓦街建設・官営富岡製糸場開設・国立銀行創設などの開明政策に辣腕を振った。が、岩倉使節団が帰国すると大蔵省の実権は大久保利通へ移って改正掛の独走にブレーキが掛けられ、脇の甘い井上馨は江藤新平司法卿に汚職を追及され辞任(尾去沢銅山汚職事件)、井上に殉じた渋沢栄一は僅か4年で官僚生活を手仕舞い自ら創設した第一国立銀行に入った。
- 渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも称される財務官僚・実業家でる。藍玉の製造販売も手掛ける武蔵の豪農に生れた渋沢栄一は、少年期から商売に親しみつつ、従兄尾高惇忠の影響で尊攘運動に身を投じ同志と共に高崎城襲撃・横浜焼打ちを企てるが頓挫し逃亡(従兄の渋沢成一郎は上野彰義隊頭取となり箱館戦争まで転戦)、一橋家重臣の平岡円四郎に拾われた。一橋家に仕官した渋沢栄一は忽ち「建白魔」となり領内の農民兵徴募や財政改革を任されて成功を収め、主君の徳川慶喜にも評価された。徳川慶喜の将軍就任に伴い幕府御家人に大出世した渋沢栄一は、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜実弟)の随員に選ばれる大幸運に恵まれ、維新の動乱期を優雅な外遊生活で過ごした。帰国した渋沢栄一は徳川宗家と慶喜が移された静岡に移住するも仕官は断り、石高拝借金の合本組織運用を提案し静岡商法会所の頭取となって資本主義の実践に着手した。がその矢先、渋沢栄一は大蔵大輔の大隈重信に突然スカウトされ新政府に出仕、改正掛の革新運動を牽引し、岩倉使節団に出た大久保利通に代わり大蔵省のトップに就いた井上馨の腹心となり、銀座煉瓦街建設、富岡製糸場開設、第一国立銀行設立・国立銀行条例制定など洋化政策を主導した。が、岩倉使節団が帰国すると大蔵省は再び大久保利通の掌中に帰し、井上馨は尾去沢銅山汚職事件で引責辞任、渋沢栄一は井上に殉じ実業界へ転じた。第一国立銀行に天下った渋沢栄一は、三井組の吸収工作撃退で実権を掌握して頭取に就き本格的な財界活動に入った。西南戦争後、薩長藩閥と大隈重信=三菱の対立が激化し、井上馨に連なる渋沢栄一は矢面に立たされ窮地に陥ったが、明治十四年政変で薩長藩閥が勝利を収め政府から大隈一派を追放、「三菱海上王国」も共同運輸会社に吸収された。以降の渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に順風満帆の活躍を続け財界人で唯一子爵を受爵、自ら60社近い事業を立上げ、東京証券取引所・東京瓦斯・東京海上火災保険・王子製紙・東京急行電鉄・秩父セメント・秩父鉄道・京阪電気鉄道・キリンビール・サッポロビール・東洋紡績・帝国ホテルなど500社以上の設立に関与した。
- 陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。
- 開拓使長官の黒田清隆が、開拓使に属する事業や施設を不当な廉価で薩摩系政商の五代友厚らへ払下げようとしていることが発覚(約1400万円を投じた官有事業が約39万円と「簡保の宿」より酷い安値、しかも支払い条件は無利息30年割賦)、民権派新聞の糾弾で払下げは中断され藩閥専制への批判が沸騰した。「維新の三傑」没後、佐賀藩出身の大隈重信が主席参議に推されたが薩長平等の建前を保つため担がれたに過ぎず政権基盤は脆弱だった。大隈重信は伊藤博文・井上馨と親密で長州閥を後ろ盾に出世の階段を上ってきたが国会開設問題で暴走し信用を喪失、その矢先に開拓使官有物払下げ事件が起り福澤諭吉ら民権派に煽てられた大隈は黒田清隆を非難したため情報リークを疑われ薩摩閥からも見放された。黒田清隆・西郷従道は即座に報復へ動き伊藤博文・井上馨と提携して明治天皇臨席の緊急閣議を開催、大隈重信の参議職を罷免し大隈派の官僚群を追放するクーデターを決行した(明治十四年の政変)。これにより完全な薩長藩閥政府が現出したが、首班の伊藤博文は薩長の「超然主義」の限界を悟り自由民権運動との協調を図るべく官有物払下げの中止を発表したうえ「国会開設の詔」で憲法制定および10年以内の国会開設を国民に約束、民権派は沸立ち板垣退助は自由党を結成し、下野した大隈重信は福澤諭吉・慶應義塾派が結成した立憲改進党の党首に担がれた。黒田清隆・西郷従道ら薩長閥の矛先は大隈重信の資金源である岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社へ向けられた。
- 西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と「三井の番頭」井上馨の主導により、政府出資に加え渋沢栄一・益田孝・雨宮敬次郎・大倉喜八郎・川崎正蔵ら主要財界人から出資を募り資本金600万円で「共同運輸会社」が設立された。社長・副社長はじめ多くの海軍人が送込まれ事実上海軍の一部ともいえる組織であり、国家規模の露骨な三菱潰しに岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社は存亡の淵に立たされた。当時、岩崎弥太郎が後援する大隈重信の立憲改進党と板垣退助の自由党は対立しており、自由党系の新聞が「海坊主退治、偽党撲滅」の論陣を張ったため世論も三菱に冷淡だった。共同運輸との熾烈な顧客争奪戦はタダ同然の廉価競争へ陥り三菱の海運収益は3年で半減、西郷従道はしぶとく抵抗を続ける岩崎弥太郎を国賊呼ばわりしたが岩崎は「俺を国賊と呼ぶのか。ならば俺も所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼払い、残りの財産は全部自由党に寄付してやる。そうなれば、薩長藩閥政府はたちまちにして転覆するだろう」と放言した。が、共同運輸側も業績悪化で無配に陥り、現場で凌ぎを削る両社船舶の衝突事故が発生、政府内でも厭戦ムードが濃くなった。死闘のなか岩崎弥太郎は胃癌の悪化で壮絶死、後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して「日本郵船」が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助は残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、晩年には日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 岩崎弥之助は、兄の岩崎弥太郎が興した海運業を日本郵船に引渡したが、膨大な遺産を元手に鉱山買収と造船業を核に多角的経営を成功させ短期間で三菱財閥の礎を築いた敏腕経営者である。出発時の事業は銅山(吉岡銅山)・水道(千川水道会社)・炭鉱(高島炭鉱)・造船(長崎造船所)・銀行(第百十九銀行)の5部門で、「三菱社」を設立した岩崎弥之助は唯一まともな吉岡銅山から手を付けた。東大出身者を鉱山長に迎え最新の採掘・精錬法と設備の導入で吉岡銅山の産出量は倍増、並行して短期集中的に鉱山買収を推進し、興共・瀬戸・樫村、尾去沢・大葛・細地・槙峰・多田・木浦・佐渡・生野を獲得した三菱は日本屈指の金銀銅メーカーへ躍進した。岩崎弥之助は炭鉱にも注力し、最新技術で高島炭鉱を優良化させ、新入・鯰田・碓井・佐与・上山田・方城・古賀山・端島・油戸を相次いで買収、三菱の国内産出シェアは1割に達した。さらに岩崎弥之助は製造業にも手を広げ、政府のお荷物だった長崎造船所を45万9千円で譲受けると、外国人技師と大卒技術者を雇用し、多数の社員をイギリスへ派遣して本場の造船技術を習得させ、日本一の技術力を得て6000トン級巨船の建造に成功した(日本郵船「常陸丸」)。三菱は新たに神戸造船所を開設し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫した。岩崎弥之助は、海運業特化で失敗した岩崎弥太郎の轍を踏まぬよう主力の鉱業・造船のほか倉庫・保険・銀行・不動産・農場(小岩井農場)など多種多様な事業を展開、日本郵船も三菱傘下に取戻した。「丸の内の大地主」三菱地所の創業者もまた岩崎弥之助であり、丸の内一帯10万余坪の土地を128万円の巨費を投じて陸軍省から買取り、コンドル設計の「三菱第一号館」を皮切りに近代的オフィスビルを次々と建設し「日本初のオフィス街」を現出させた。「三菱合資会社」への改組を機に岩崎弥太郎の遺言に従い岩崎久弥に三菱3代目を禅譲した岩崎弥之助は、三菱の政治的基盤を固めるため各派閥への全方位外交を展開、松方正義と大隈重信を仲立ちして「松隈内閣」を成立させ紐帯として日銀総裁に就き、大隈の東京専門学校を援助し早稲田大学へ昇格させた。
- 岩崎弥之助は、生来素直で温厚沈着な性格で、豪放磊落で敵だらけの岩崎弥太郎とは対照的だった。三菱を継いだ岩崎弥之助は、海運業独占で排除された岩崎弥太郎の特化路線を捨てて鉱山・造船・不動産・銀行など多角化戦略に切替え、大隈重信への肩入れが過ぎて薩長閥に潰された弥太郎を反面教師に政界で全方位外交を展開した。大隈重信の進歩党を支援しつつ、岳父の後藤象二郎と自由党を応援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘の繁子を嫁がせ薩摩閥にも食込んだ。また、東大法学部率のエリート外務官僚である加藤高明や幣原喜重郎を青田買いし、それぞれに弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期戦略で三菱勢力の政界浸透を図った。三菱合資会社への改組を機に三菱3代目を岩崎久弥に禅譲した後、岩崎弥之助は政界活動に本腰を入れ、大隈重信と松方正義の間を取持って第二次松方正義内閣(隈板内閣)を成立させ川田小一郎(三菱幹部)に代わって第4代日銀総裁に就任した。日銀総裁としての岩崎弥之助は、日清戦争で獲得した賠償金(ポンド建て受取)を原資に金本位制移行を断行したほか、中小銀行の統廃合・担保品付手形割引の廃止・日銀の個人取引開始・初の金融市場操作などを実施、後に「名総裁」と讃えられる業績を残した。日露戦争では、軍需を期待すべき三菱財閥のドンとしては必然か、岩崎弥之助は強硬な開戦論を唱え加藤高明ら対外硬派を後押しした。
- 岩崎弥之助は、岩崎一族の男児を親元から引離して本郷竜岡町の寄宿舎「雛鳳館」に入れ厳しいスパルタ教育を施した。三菱商船学校から優秀な「御学友」も選抜し、風呂焚きや洗濯など家事全般を自分達で行わせ、食事は召使が哀れむほどの粗食、有名な英語教師・漢学者・思想家らを家庭教師につけ猛勉強させた。岩崎久弥(弥太郎の嫡子)は、米国ペンシルベニア大学に5年間留学したが住居は安下宿であった。親友のロバート・グリスコム(後の駐日大使)も日本の苦学生と侮っていたが、二人で欧州旅行へ行きロシアの高級毛皮店を訪れた際、寡黙な岩崎久弥は「帽子全部と婦人用の外套・ケープがほしい」と店中の品を床一杯に並べさせたうえで「これで全部かね。全部頂きましょう」と無造作に言いグリスコムを仰天させた。雛鳳館で甘やかされずに育った岩崎久弥と岩崎小弥太は優秀な三菱総帥となり、仲間意識と質実剛健を重んじる美風は三菱社員へも浸透し、今日でも三菱系は「組織の三菱」を誇り仲間内から物を買う風潮が強い。さて、岩崎弥之助は一般の教育事業にも熱心で、日本女子大学の発起人として多額の資金を援助し、大隈重信が創立した東京専門学校に基金1万5千円を寄付し早稲田大学への昇格を後押しした。早稲田大学と福澤諭吉の慶應義塾は今も三菱社員を輩出し続けている。岩崎弥之助は文化活動にも取組み、膨大な和漢書・刀剣・書画の蒐集に励んで「静嘉堂文庫」の基礎を成し、多くの芸術家のパトロンになった。
- 加藤高明は、東大法学部を主席で卒業したが薩長藩閥政府を嫌気して官僚に進まず三菱に入社、すぐにイギリス遊学に出され5年後に帰国すると岩崎春治の婿に迎えられた。舅の「海運王」岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に憤死し、弟の岩崎弥之助が海運業から撤退し三菱社を立上げたばかりであった。薩長藩閥に敗れた岩崎弥之助は政官界への勢力扶植を図り、加藤高明は外遊中に知遇を得た陸奥宗光の勧めで外務省に出仕し大隈重信外相(三菱系)の秘書官となった。第二次伊藤博文内閣が陸奥宗光を外相に抜擢すると、加藤高明も駐英公使に抜擢され不平等条約改正と日清戦争に奔命、陸奥は病没したが第四次伊藤内閣に外相で初入閣した。日清戦争講和で加藤高明は「対外硬」の本領を現し、親分の伊藤博文・陸奥宗光を相手に山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開している。日露開戦が迫ると加藤高明は桂太郎内閣を弱腰と非難し最強硬に開戦を主張、不戦論の伊藤博文とは対極の立場となったが巧みに立回って関係を維持し、講和交渉が始まると無茶な要求で妨害、新聞に煽られた民衆は暴徒化し日比谷焼打事件を起した。既に強大な三菱に加藤高明の助勢など不要だったが、日清・日露戦争は三菱ら財閥を大いに潤した。なお、桂太郎内閣発足に伴い外相を退いた加藤高明は、第7回総選挙は高知県・第8回は横浜市から出馬し1年余だが衆議院議員を務めている。三菱ファミリーの加藤高明は政治資金に飢えた政党連にモテモテだったが、公認を断った政友会には恨まれ大御所の板垣退助から公開絶縁状を叩きつけられた。横浜市で「金権選挙」と攻撃された加藤高明はまさかの落選、次点繰上げで議員ポストは得たものの世論と新聞の威力を痛感し、岩崎弥之助に頼んで東京日日新聞(毎日新聞)を買収し社長に就任した。英紙『タイムズ』を模倣するだけの新聞経営は大赤字で行詰ったが、加藤高明は外交問題の論説を受持ち対外硬政策を喧伝、ポーツマス会議が始まると「償金とサハリン割譲をロシアに認めさせろ、戦闘を再開しても要求を貫徹せよ」と煽り「軟弱外交は失敗だった」と決め付けた。
- 東大法学部を主席で卒業した加藤高明は、岩崎弥之助に青田買いされ岩崎弥太郎の長女春治と結婚し三菱社員となったが、陸奥宗光外相の引きで外務官僚に転じ駐英公使・大使として日清戦争と条約改正に奔走、第四次伊藤博文内閣に外相で初入閣した。「対外硬」急先鋒の加藤高明は桂太郎内閣の日露戦争講和を「軟弱外交は失敗した」と攻撃し世論を扇動、国際関係の悪化を招き西園寺公望内閣で外相辞任に追込まれたが、なんと桂太郎に鞍替えして外相に返咲き、第二次大隈重信内閣の第一次世界大戦参戦と「対華21カ条要求」で主導的役割を果した。国際常識を無視した対華21カ条要求の暴挙は、当然ながら列強に圧殺され国内向けパフォーマンスに終始したが、日中戦争泥沼化と今日まで続く「反日」の元凶となり末代まで禍根を残した。加藤高明は伊藤博文・陸奥宗光に属したが、政友会総裁を継いだ西園寺公望に対外硬を敬遠されると駐英大使・外相の餌に釣られ桂太郎に乗換え、桂の急死で打算が狂ったが桂の同志会(憲政会)を継ぎ反政友会政党の首領に納まった。西園寺公望が唯一の元老となり首相指名権を握ると「苦節十年」寝返りのツケを払わされたが、宿敵の政友会と合同して清浦奎吾の「超然主義内閣」を倒し念願の首相職を手に入れた(護憲三派による第二次護憲運動)。加藤高明は帝大卒・官僚出身の首相第一号、後継の若槻禮次郞が第二号である。外相ポスト欲しさに伊藤博文・大隈重信・桂太郎(山縣有朋)の間を浮遊し、首相ポスト欲しさに政友会と手を組んだ加藤高明の無節操はむしろ見事だが、金権政治が進むなか三菱の財力ゆえに不誠実が許されチヤホヤされ続けたとも言える。政権目当ての「護憲三派体制」はすぐに崩壊し2年後に加藤高明首相は急死、後継の若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣したが政友会との政権争い明け暮れ、政治ソッチノケの二大政党の対立抗争は政党政治の崩壊を招いた。なお、加藤内閣で成立した普通選挙法は原敬・犬養毅・尾崎行雄ら政党人の努力の結晶であり、加藤高明に個人として特筆すべき業績は無い。
- 福澤諭吉は豊前中津藩の下級武士ながら欧米遊学経験と英語力を武器に立身出世を果した。幕末明治期の世界情勢は世界に冠たる大英帝国と新興大国アメリカを中心とする新秩序の確立期にあったが、幕府の鎖国政策で蘭書以外へのアクセスを阻止された日本では英語習得と英米新秩序への対応が遅れていた。緒方洪庵の「適塾」で蘭学を猛勉強し塾頭も務めた福澤諭吉は、中津藩の要請で築地鉄砲洲の藩屋敷に蘭学塾を開講、幕閣の目に留り通商条約批准の遣米使節で軍艦奉行木村摂津守の随員に選ばれ勝海舟艦長の「咸臨丸」で渡米した。英米新秩序を知った福澤諭吉は帰国後すぐに蘭学塾を英学塾へ改め、英語に飢えた学生の受け皿となり「慶應義塾」へ繋がる大発展、木村摂津守の引きで幕府外国方に就任し文久遣欧使節の随員に選ばれ直参旗本に出世した。明治維新後、福澤諭吉は新政府の招聘を断り慶應義塾で教育活動に専念、かたわら森有礼の「明六社」に参加し、『西洋事情』『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを刊行して大衆の洋化啓蒙活動を牽引し、慶應義塾と共に福澤派の牙城となる『時事新報』を創刊した。福澤諭吉は政治活動に一定の距離を置いたが、「脱亜論」に基づくイギリス流立憲主義を提唱し、三菱の岩崎弥太郎と共に後藤象二郎や大隈重信を支援した。明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、福澤諭吉は専横を強める伊藤博文・井上馨ら薩長藩閥と絶交し、福澤派・慶應義塾グループを母体に立憲改進党を発足させ大隈を党首に担いだ。大隈重信・犬養毅・矢野文雄・尾崎行雄ら福澤諭吉の門人は政界に隠然たる勢力を形成し、三菱はじめ財界へも荘田平五郎・豊川良平ら多くの門下生を提供した。固い結束を誇り今日も政財界の一角を占める慶應義塾「三田会」の親玉という点において、福澤諭吉が日本国に及ぼした影響は計り知れないものがある。また福澤諭吉は東大閥から締出された北里柴三郎を救い国立伝染病研究所および北里研究所の開設を主導、北里は慶應義塾大学医学科(医学部)の創設に尽くし無給で初代学部長兼付属病院長を務め福澤の恩義に報いている。
- 外圧を跳ね返すために明治維新を達成した日本においては、アジア諸国が連帯して西欧列強の侵略に対抗すべしとする「興亜論」が支配的であった。福澤諭吉もその論客の一人であり、朝鮮独立党支援にも動いたが、甲申事変が失敗に終わり朝鮮民衆の排日姿勢が強まるのをみて従来の方針を一変、『時事新報』の社説で「脱亜論」を発表した。「亜細亜東方の悪友を謝絶する」といった強い論調で近代化を進めない清や朝鮮を非難する一方、日本は近代化路線を邁進して西欧列強の仲間入りを果し、他のアジア諸国に対しては西欧列強と同じ手法で接すべしと主張した。折りしも、日本国内では文明開化が進むにつれてアジア蔑視の風潮が起りつつあって、「脱亜論」が世論の主流となり、対清開戦機運が醸成されていった。没後のことなので福澤諭吉に責任はないが、「脱亜論」は大隈重信・加藤高明らの「対外硬」へと受継がれ、「対華21カ条要求」の暴挙へと繋がったとみることもできる。
- 犬養毅は慶應義塾在学中に西南戦争の従軍記事で名を上げ、大隈重信の郵便報知新聞や末広鉄腸の朝野新聞で花形記者となった。結党時から改進党に参加した犬養毅は第一回総選挙に出馬し、暴漢の襲撃に遭いながら(護衛係が仕込杖で撃退)演説一本槍で当選、以後42年間18回連続当選を果した(慶應仲間の尾崎行雄に次ぐ記録)。犬養毅は尾崎行雄と友に改進党・進歩党を牽引、薩摩閥と結び第二次松方正義内閣で大隈重信外相を実現させ(松隈内閣)、板垣退助の自由党と合同し(憲政党)第一次大隈内閣(板隈内閣)で初の政党内閣が成立、犬養は文相で初入閣した。が、憲政党は内部分裂し野合政権は4ヶ月で瓦解、星亨ら多数派の自由党系が進歩党系を追放し伊藤博文の政友会に合流した。犬養毅らは憲政本党(→国民党→革新倶楽部)を発足させたが、尾崎行雄ら多くの党員が政友会へ奔り大隈重信も退隠、さらに桂太郎が同志会(→憲政会→民政党)を結成すると大半の幹部を奪われジリ貧となった。国民党の犬養毅と政友会の尾崎行雄は第一次護憲運動で第三次桂太郎内閣を倒し「憲政の神様」と囃されたが(大正政変)、少数政党の犬養は脇役に過ぎず政友会・憲政会の二大政党の狭間で迷走を続けた。第二次護憲運動で二大政党が合同し加藤高明内閣が発足、相乗りした犬養毅は逓信相で入閣するも護憲三派の野合は忽ち崩壊し、70歳の犬養は普通選挙法成立を花道に政界引退を表明し革新倶楽部は政友会に吸収された。が4年後、張作霖爆殺事件で中国問題がこじれ田中義一が急死すると、床次竹二郎・鈴木喜三郎・望月圭介の後継争いに窮した政友会は分裂回避のため犬養毅を暫定総裁に擁立、世界恐慌と満州事変で機能停止した民政党の第二次若槻禮次郞内閣に代わり犬養内閣が発足した。かつて孫文を支援した「中国通」の犬養毅首相は国民の期待を集め総選挙で圧勝、高橋是清蔵相の金輸出再禁止と軍事費拡大で景気回復を果したが、荒木貞夫の陸相就任で永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚が陸軍を掌握し第一次上海事変・満州国建国を強行、海軍将校のテロで犬養首相は殺害され(五・一五事件)政党内閣は終焉した。
- 犬養毅は、「中国革命の父」孫文を支援したことで知られ、孫文を継いだ蒋介石にも独自のパイプを持つ中国通と目された。また、インド人革命家ラス・ビハリ・ボースは、日本亡命時に犬養毅らの庇護を受け、新宿中村屋の相馬家の婿となりカレーを伝授、インドに帰国後に対英独立運動の指導者となり東條英機政権の「大東亜会議」に加盟した。ボースの援軍要請を受けた東條英機首相が配下の牟田口廉也に命じインパール作戦を発動したとされる。さて、慶應義塾・大隈重信に属した犬養毅は福澤諭吉の「脱亜論」が説くアジア蔑視観の影響下にあったが、大陸浪人の宮崎滔天や玄洋社の頭山満との交流を通じて「アジア主義」革命運動のシンパとなり、広州武装蜂起に失敗し東京に逃げて来た孫文を保護し「中国同盟会」結成のお膳立てをした。その後、孫文は辛亥革命で清朝を滅ぼし南京で中華民国建国を宣言し臨時大総統に就いたが、武力を握る袁世凱との政争に敗れ再び日本に亡命し犬養毅らに匿われた。逆境にめげない孫文は、東京で中国革命党(→国民党)を組織して広東に舞戻り、革命拠点を築いて中国統一を目指した。孫文は志半ばで病没したが、後継者の蒋介石が北伐を敢行、張作霖(日本軍の傀儡)ら軍閥勢力を一掃して北京政府を倒し南京に一応の中国統一政権「国民政府」を樹立した。
- 開拓使官有物払下げ事件で自由民権運動が沸騰し薩長閥が国会開設の詔を発布した翌年、民権派との融和を期す伊藤博文は数人の随員を従え自らドイツ・オーストラリアを歴訪、ウィーン大学のシュタイン教授、グナイスト、モッセらの法学者からドイツ(プロイセン)流の憲法理論や政治制度を学んだ。なお伊藤博文は、岩倉具視よりフランス流自由主義にかぶれた西園寺公望の懐柔を依頼され随員に加えた。反動勢力を率いた岩倉具視が没し、帰国した伊藤博文は、華族令を定めて貴族院の土台を作り、民権派との妥協を嫌う山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らを説伏せ、来るべき国会開設に対し強力な行政府を備えるべく内閣制度を発足させた。権力の所在が曖昧で意思決定に難のある太政官制を廃し、各省庁の長が国務大臣として内閣を構成し国務大臣を束ねる内閣総理大臣を政府の最高責任者とする近代的な行政府制度が現出した。伊藤博文が自ら初代内閣総理大臣に就き、国務大臣は薩長のバランスに配慮して長州閥4人(伊藤博文・井上馨、山縣有朋・山田顕義)に対し薩摩閥5人(松方正義・大山巌・西郷従道・森有礼・榎本武揚は旧幕臣だが黒田清隆の配下)および土佐1人(谷干城)とし、太政官の最高位(太政大臣)にあった三条実美には名誉職の内大臣をあてがった。戊辰戦争以来薩長に伍して来幅を利かせてきた公家層を政治の実質から締出した意義も大きかった。伊藤博文は3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り、憲法問題に専念するため枢密院を設立し初代議長に就任した。
- 国会開設の詔を受けて国会期成同盟が発展解消し自由党が発足、大御所の板垣退助が総理に就き、中島信行(元海援隊士)・片岡謙吉・後藤象二郎ら土佐人のほか河野広中・星亨らが幹部となった。自由党は、フランス流自由主義を標榜して急進的な政体改革を主張し、士族や豪農を支持層とした。大隈重信の立憲改進党とは、薩長藩閥・有司専制(官僚支配)を批判し政党政治の実現を目指す点で一致していたが、主義主張の相違から対立することも多かった。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 後藤象二郎は、山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻させた。武市半平太に暗殺された土佐藩執政の吉田東洋は義理の叔父で、板垣退助は竹馬の友、下僚の岩崎弥太郎を商事に引込み弟の岩崎弥之助に娘を嫁がせた。中岡慎太郎の遺志を継いだ板垣退助が戊辰戦争に独断参戦し土佐藩は「薩長土肥」へ食込み、板垣退助と後藤象二郎は新政府首脳に採用されたが、明治六年政変で征韓派に属し下野、板垣は薩長藩閥に対抗すべく民衆を動員して自由民権運動を牽引し後藤も行動を共にした。良く言えば豪快な後藤象二郎は、豪遊で公金を散財し、高島炭鉱など事業で失敗を重ね借金まみれだった。板垣退助が立憲政治・議会制度視察のため洋行を志向し金策中との情報を得た山縣有朋は、陸軍省御用商人でもある三井の番頭に命じ2万ドルの大金をあるとき払いの催促なしで拠出させ、金を受取った後藤象二郎は板垣を促しヨーロッパへ旅立った。が、山縣有朋のリークだろう、洋行費が政府から出ているとの噂が立ち自由党内は騒然、後藤象二郎は2万ドルの件を隠し一人で費消したうえにシラを切り、板垣退助は支持者から3千ドルを借りて弁済にあてたが窮地に追込まれた。山縣有朋の分断工作は図に当り自由党は分裂、板垣退助の権威は失墜し総理の地位も失った(後に復帰)。伊藤博文が最初の内閣を発足した翌年、後藤象二郎は民権諸派に大同団結運動を提唱したが、次の黒田清隆内閣で逓信大臣の餌に飛付いて懐柔され、第二次伊藤博文内閣で農商務大臣に就くも収賄事件で引責辞任、60歳で生涯を閉じた。大町桂月は後藤象二郎を「たとえていえばナイル河の水で、氾濫して人びとをさわがせるが、土地を肥やしもする」と評したが、後半部分は三菱への便宜供与を指すかも知れない。新貨条例の施行を前に後藤象二郎から新政府が各藩札を買上げるとの情報を得た岩崎弥太郎は、10万両を調達し安値で買叩いた藩札を政府に転売して巨利を積んだというが、後藤の放漫経営で破綻した高島炭鉱を押付けられ(後に巨利を生むが)死ぬまでに相当な金を貢いだと考えられる。
- 国会開設の詔を受けて立憲改進党が結成された。大御所の大隈重信が党首に座り河野敏鎌・前島密・犬養毅・矢野文雄ら幹部が党務を差配、大隈重信に近い岩崎弥太郎の三菱が後ろに控え豊富な資金源を擁した。立憲改進党は、自由党より穏健なイギリス流立憲主義を主張し、慶應義塾出身者など都市部の知識人を基盤とした。板垣退助の自由党とは、薩長藩閥・有司専制(官僚支配)を批判し政党政治の実現を目指す点で一致していたが、主義主張の相違から対立することも多かった。
- 玄洋社の来島恒喜が、官邸に入る大隈重信外相の馬車に爆烈弾を投げつけ、その場で自決した。大隈重信は一命を取り留めたものの右脚切断の重傷を負い、外相襲撃の不祥事に遭い条約改正交渉に行詰まった黒田清隆首相は辞任、山縣有朋が組閣するまで三条実美が首相代行を務めた。「外交通」を自認し井上馨から外相職を奪った大隈重信は何も出来ないまま無念の降板、後任の青木周蔵(長州人)も成果を出せず、第二次伊藤博文内閣で外相に就いた陸奥宗光が悲願の不平等条約改正を成遂げた。
- 板垣退助と大隈重信を中心とする自由民権運動は、内実は薩長藩閥への反抗であり政府首脳にとって頭の痛い問題であった。山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らは「超然主義」を唱え一貫して政党勢力を弾圧したが、伊藤博文は藩閥政治の限界を悟り「国会開設の詔」で10年以内の国会開設を公約し藩閥サイドの工作を主導した。伊藤博文は、自ら渡欧して立憲政体を研究し、太政官制を廃して内閣制度を発足させ初代総理大臣に就任、枢密院議長に退いて大日本帝国憲法を制定し、公約どおり衆議院選挙と帝国議会開催を実現させた。その後も超然主義に固執し自らの軍閥形成と政党排除に邁進する山縣有朋との政争のなか、伊藤博文は、伊東巳代治・金子堅太郎・西園寺公望・原敬ら配下の官僚政治家および帝国党など「吏党」をベースに、星亨・尾崎行雄・片岡健吉ら憲政党自由派を糾合して、立憲政友会を結党した。これに先立ち、隈板内閣が瓦解したあと与党憲政党では星亨ら自由派が「領袖会議」クーデターで進歩派を追放、大隈重信の失脚と板垣退助の政治意欲喪失で憲政党を掌握した星亨は、第二次山縣有朋内閣の地租増徴に協力したが裏切られ、山縣の政敵で政党政治に理解を示す伊藤博文に接近、伊藤が政友会を結成すると憲政党を解党し合流した。自由民権運動のカリスマとして一時代を築いた板垣退助は政友会創立に伴い潔く政界から引退したが、未練タラタラの大隈重信は14年後に井上馨に担ぎ出され第二次内閣を組閣、薩長藩閥の傀儡に堕し「対華21カ条要求」をしでかした。
- 国会議事堂の四隅には板垣退助・伊藤博文・大隈重信の銅像が立つが(残りの一隅は空の台座)「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。土佐勤皇党の残党を率い戊辰戦争で活躍した板垣退助は、東山道指揮官として会津戦争を鎮圧したが、戦争負担に喘ぐ会津の民衆が藩を見捨てて官軍に味方するのを見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、征韓論争で下野すると「民撰議院設立建白書」を提出し土佐立志社を結成した。伊藤博文の「国会開設の詔」を受け板垣退助が結成した自由党は、薩長藩閥打倒と急進的な国体改革を目指す土佐人中心の社会主義的革新政党で、志士上りの過激活動家が多く西南戦争に呼応し(立志社)秩父事件や大阪事件を引起した。対する改進党は、福澤諭吉を理論的主柱とする慶應義塾出身者ら「文化的進歩人」の集団で、政府を追われた大隈重信を党首に担ぎ、国体改革云々より民意を背景に政治的発言力を高め薩長藩閥に物申そうという方向性で、外交は福澤の『脱亜論』を党是とし日露戦争を機に軍部以上の「対外硬派」となった。薩長藩閥打倒のため両党は大同団結し憲政党を結成、初の政党内閣「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)を成立させたが僅か4ヶ月で内部分裂し瓦解、カリスマ板垣退助は潔く引退し星亨ら自由党系は伊藤博文の政友会に合流し政権与党の基盤となった。シーメンス疑獄で山本権兵衛内閣が倒れると、元老院の井上馨は護憲運動を抑えるべく第二次大隈重信内閣を擁立、薩長藩閥の走狗に堕した大隈は衆議院解散で政友会議員を半減させて井上の期待に応え、二個師団増設を押通して山縣有朋を満足させ、第一次世界大戦が起ると加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」をやらかし後世に重大な禍根を残した。原敬・高橋是清の政友会内閣を経て護憲三派が合同し加藤高明内閣が発足したが又も内部分裂、金権政治で金欠の政友会は陸軍機密費の持参金を目当に陸軍長州閥の田中義一を首相に担ぎ、憲政会は分派工作で若槻禮次郞・濱口雄幸が政権奪回、満州事変の激震のなか政友会の犬養毅が組閣したが五・一五事件で横死、以後は軍部主導の内閣が続き政党政治は終焉した。
- 伊藤博文が実現に漕ぎ着けた最初の衆議院議員選挙において、有権者は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に制限され人口比1.1%の45万人に過ぎなかった。結果は、定数300人に対して板垣退助の立憲自由党130人・大隈重信の立憲改進党41人と民党勢力が過半数の議席を占め、初代衆議院議長には第一党の立憲自由党から中島信行(元土佐海援隊士)が就任した。なお、貴族院は皇族・華族・勅撰議員・多額納税者議員により構成され選挙によらず互選か勅撰で議員が選出された。
- 自由民権運動に理解のある伊藤博文が自由党懐柔の動きを見せたため、改進党は小政党を糾合し代議士99名の進歩党を発足させた。主導者の犬養毅・尾崎行雄は大隈重信を事実上の党首に据え、大隈の入閣要請で第二次伊藤博文内閣を揺さぶりつつ松方正義に接近、三菱の岩崎弥之助を動かして進歩党と薩摩閥の縁組をまとめた。伊藤博文は大隈重信入閣に動くも山縣有朋と板垣退助の反対で已む無く退陣、第二次松方正義内閣が発足した。大隈重信が外相に返咲き半政党内閣というべき「松隈内閣」が実現したが、藩閥と政党の合同には無理があり言論弾圧事件(二十世紀事件)を機に進歩党が離脱し内閣は4ヶ月で瓦解、第三次伊藤内閣に代わられた。
- 薩長藩閥に対抗し政党内閣を創るため板垣退助の自由党(衆議院議席数98)と大隈重信の進歩党(同91)が合同し憲政党を結成し、第5回衆議院総選挙で圧倒的多数の議席を獲得した。伊藤博文は民党勢力の協力なくして政権運営は無理だと悟り自ら政党を立上げることを決意、第三次伊藤博文内閣を総辞職させ政友会を立上げた。伊藤博文は憲政会の大隈重信と板垣退助のいずれかを後継首相に指名上奏、初の政党内閣である大隈重信首相・板垣退助内相の「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)が発足した。が、両党合同し結成された憲政党は内部分裂を起し隈板内閣は僅か4ヶ月で崩壊した。
- 第一次大隈重信内閣(隈板内閣)の政権与党である憲政党でクーデターが発生、星亨ら多数を占める自由党系が「領袖会議」で大隈重信首相・犬養毅文相ら進歩党系の除名を決議し大御所の板垣退助も了承、進歩党系は離党の已む無きに至り憲政本党を立上げたが大隈内閣は瓦解した。首謀者の星亨は外相就任を拒む大隈重信首相に恨みを募らせ、共和演説事件(自由党系の尾崎行雄文相が弾劾され進歩党系の犬養毅に文相交代)を機に分党に踏切った。この後、自由党系が牛耳る憲政党は伊藤博文の政友会に合流し政権与党として陽の当たる道を歩んだが、憲政本党は政友会の切崩しで多くの党員を奪われ大隈重信も総理を辞任、万年与党に落ちぶれ迷走することとなった。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
大隈重信と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照