江戸城を拠点に東奔西走し古河公方足利成氏を降して関東管領上杉氏に勝利をもたらしたが(享徳の乱)、下克上を恐れる主君に謀殺された戦国初期関東の最高実力者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
太田 道灌
1432年 〜 1486年
60点※
家系・子孫
- 太田氏は、扇谷上杉家の家宰(筆頭重臣)を世襲した家柄で、道灌の父太田資清は文武両道の智将で「東国無双の案者(知恵者)」と称された。資清の嫡子太田道灌は、父の盟友で山内上杉家家宰の長尾景仲の娘を妻に迎え、両上杉家連携のかすがいとなった。弟の太田資忠は道灌を支えて奮戦したが、長尾景春の乱で戦死した。道灌の嫡子太田資康は、元服と同時に都鄙合体で和睦した足利成氏へ人質に出され、父が主君扇谷上杉定正に謀殺され長享の乱が起ると山内上杉顕定に身を転じた。父仇の定正が死去すると扇谷家に帰参し江戸城に戻ったが、舅の三浦義同が北条早雲に攻められると援軍に馳せ参じ、相模三浦で戦死したとも、権勢を妬む主君扇谷上杉朝良に暗殺されたとも伝わる。資康の後嗣太田資高は、扇谷上杉家を見限り、後北条氏2代目氏綱に従い娘を妻に迎えた。太田道灌の子孫は幾流にも分れ後北条氏・里見氏・佐竹氏に属したが、養子資家の子孫が武蔵岩槻城主となり太田資正などが出て最も栄えた。後北条氏滅亡後、徳川家康の家臣となった太田重正とその後嗣で譜代大名に列した資宗は、道灌・資康・資高の嫡流を称したが疑問視する向きが強い。
太田道灌と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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