在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
孫正義と関連人物のエピソード
- 日本の自動車生産が米国を抜いて世界一となった1890年の翌年、元役者のロナルド・レーガンが共和党から米大統領に就任した。軍産複合体が担ぐレーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)で「悪の帝国」と呼ぶソ連に過剰な軍拡戦争を仕掛け、同時に富裕層減税も行ったため瞬く間に財政赤字と累積債務が激増、さらに米国製造業の国際競争力低下と日本製品の躍進で巨額の貿易赤字も抱えアメリカは「双子の赤字」に陥った。日米貿易摩擦は以前にも度々起り、それでもアメリカは自由貿易の原則を堅持していたのだが、レーガン政権は「米国産業が輸入品に負けるのは、米国が悪いのではなく、相手国が悪いからだ・・・負けるとすれば相手国が市場閉鎖など不公正なことを行っているからにちがいない。相手国の不公正な制度は米国政府自身が特別チームでも作って大いに叩いたらよい」との傲慢なドグマに捕われ、貿易赤字の元凶とみた日本経済を敵視し破壊する暴挙に乗出した。1981年「自主規制」の押付けで象徴的な乗用車輸出を崩し、中曽根康弘首相を手懐けたレーガン政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ「プラザ合意」で急激な円高を強要、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強要し、スーパー301条で対日制裁を強化した。アジア製品の減価で日本の輸出産業は「円高不況」に陥ったが米国製品の輸出も伸悩み、逆に日本では積極的金融・財政政策で内需が喚起され「バブル景気」が発生、1989年にはアメリカの象徴ロックフェラーセンターやコロンビア映画を日本企業が買収する事態となった。業を煮やしたアメリカは保護貿易の枠さえ踏越え金融・不動産・流通などGHQ以来の「日本経済の再解体」を決意、FRBのBIS規制と日米構造協議が決定打となって1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。「防衛協力」で散々貢いだ挙句に経済破壊の内政干渉を黙って受入れた中曽根康弘首相は、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係と1806日の長期政権を築いたが、その代償は余りに大きく日本は「2度目の亡国」へ引込まれた。
- 冷戦終結が確実になると、米国・軍産複合体は、ゴルバチョフが語ったように「新しい敵を探さなければならない」事態となった。そしてこの1991年、シカゴ外交評議会が行った「米国にとっての死活的脅威はなにか」という世論調査で「日本の経済力」が「ソ連の軍事力」を大きく上回って断トツ1位という結果となった(一般人:日本の経済力60%・中国の大国化40%・ソ連の軍事力33%・欧州の経済力30%、指導者層:63%・16%・20%・42%)。
- 1991年ソ連崩壊で冷戦が完結し、新たな敵を求める米軍と親ブッシュ政権は「ならず者国家」を設え「湾岸戦争」を強行したが、CIAは米国覇権主義「グローバリズム」「新自由主義」に乗り「経済安全保障」分野へ軸足を移すことで組織維持に成功した。1992年末の『経済スパイとしてのCIA』には「新たな要請の約40%が経済問題である」「1990年代においては経済がインテリジェンスの主要分野になるだろう。われわれが軍事安全保障のためにスパイするなら、どうして経済安全保障のためにスパイできないのだ」といったCIA要人の談話が掲載されている。1991年の米国世論調査で「米国の死活的脅威」の断トツ1位となった「日本の経済力」がCIAの新標的であることは疑い無く、1993年発足のクリントン政権は同盟国日本から中国へ重点を移し露骨な円高誘導と「年次要望改革書」で内政干渉を強め、CIAも駆使して日本経済を「失われた10年」へ引込んだ。1995年10月15日の『ニューヨーク・タイムズ』:「昨年春の自動車問題を巡って行われたクリントン政権と日本の激しい交渉のなかで、情報機関のチームが米国交渉団に随行した。毎朝、情報機関のチームはミッキー・カンター通商代表に、東京のCIAと国家安全保障局が盗聴して集めた情報を提示した。経済的な優位を得るために同盟国をスパイすることがCIAの新しい任務である。クリントン大統領は経済分野での諜報活動に高い優先順位を与えた。財務省および商務省はCIAから大量の重要情報を入手した」・・・対日経済諜報は公然の事実であった。対する日本では宮澤喜一首相は吉田茂直系の従米派で政権を握る小沢一郎もブッシュ政権の言いなり、湾岸戦争への130億ドル献金とPKO協力法・自衛隊派遣を強行し「日米構造協議」で公共投資増額を受容した。日本経済は最早敵では無く、子ブッシュ米政権とCIAは2001年「9.11」を好餌に「テロとの戦い」へ移行、情報通信技術の発達が「同盟国に対する諜報活動」の暴走を招き通信傍受システム「エシュロン」が登場、2014年スノーデン元CIA職員の告発で全人類規模の通信傍受活動が露見した。
- 「年次改革要望書」「金融ビッグバン」「小泉構造改革」と続いた規制緩和ブームの実態は米国の強引な内政干渉であったが、非効率な官営事業・規制産業の合理化というメリットも大きく、金融・不動産の分野で大蔵規制の牙城を崩した宮内義彦・オリックスの功績は大きい。新聞再販・球界再編で宮内義彦と衝突した渡邊恒雄は「宮内ごときと大巨人が日本シリーズで対決?穢れる。不愉快。オリックスはまともな正業ではない」と放言したが、規制利権の権化の怒りは「規制改革の旗手」の面目躍如だろう。とはいえ、宮内義彦は公職の「規制改革審議会」議長を10余年も務めた「歴代内閣の指南役」でありながら「改革利権」を貪りオリックスは最大受益者となった。しかし小泉内閣退陣の2006年から宮内義彦は因果応報に襲われ、子分の村上世彰がライブドア事件に絡むインサイダー取引で逮捕され盟友の福井俊彦日銀総裁への利益供与も発覚した。「村上ファンド」はオリックス傘下に発足し私募投信解禁後M&Aの尖兵となったが、宮内義彦はニッポン放送買収劇で有頂天の村上世彰を見限り資金と人材を引上げた。巨額のニッポン放送株式を抱え進退極まった村上世彰は、ライブドアの堀江貴文をカモに売抜け150億円の売却益を獲得したが、やり過ぎてお縄となった。宮内義彦は公職辞任で説明責任を逃れたが、2009年鳩山邦夫総務相が「かんぽの宿」70施設のオリックス不動産への不正入札(2400億円→109億円)を暴露、盟友の西川善文日本郵政社長が糾弾され久々の改革利権は画餅に帰した。鳩山邦夫は「『かんぽの宿』疑惑は、単なる入札疑惑ではない。『小泉・竹中構造改革』が日本を米国金融資本に売り渡した疑惑だ」と喝破し、中立の野中広務まで「郵政民営化の利権に群がるハゲタカがらみの疑惑は西川(善文)から遡って、生田(正治)氏時代からの神戸人脈を解明しなければならない」と宮内義彦追及の烽火をあげた。翌年日経新聞が「ゆうちょ銀行が米国債を大量購入していた事実」をスクープ、「売国奴」疑惑は図星となり小泉構造改革は地に落ちたが、巨悪の小泉純一郎・竹中平蔵・宮内義彦に司直の手は及ばない。
- 宮内義彦は、貿易商の父に英語を仕込まれ、関西学院大学を出てワシントン大学でMBAを取得したが大手商社には入れなかった。ニチメンに入社した宮内義彦は、英語堪能ゆえに米国USリーシングへ研修に出され1964年「オリエント・リース」設立に伴い出向、創業者乾恒雄の腹心としてニチメン・三和銀行からの「独立戦争」に勝利し、1980年45歳で3代目社長を譲られ1989年「オリックス」への改称を機に独裁権を握った。乾恒雄のオリエント・リースは、自力営業でOA機器リース市場を開拓し、銀行が敬遠するパチンコとラブホテルを上得意にノンバンク最大手へ成長、リース・融資・生命保険を組合せた「クロス販売」で高収益を確立した。跡を継いだ宮内義彦はバブルに踊らず不動産融資の担保掛目7割を堅持し深手を免れたが、地価反転期を見誤って不動産買叩きに乗出し大損害を蒙った。1995年オリックスは3期連続減益に陥り宮内義彦は不動産部門を縮小したが、米国の構造改革圧力に触れ「規制緩和は戦後最大のビジネスチャンス」と矛先転換、1996年橋本内閣が「年次改革要望書」で「金融ビッグバン」を受入れると「規制改革審議会」議長に就任し2006年の小泉内閣退陣まで「規制改革の旗手」を務めた。宮内義彦は外圧を背景に大蔵規制破壊を主導し、適債基準撤廃で直接金融へシフトし資金力を高めたオリックスは銀行・生保・証券業の垣根を破りM&Aに邁進、不良債権バルクセールや日債銀買収で暴利を貪り「日本版リート」も創設し急成長を遂げた。小泉純一郎の従米政権で宮内義彦は竹中平蔵と両輪を為し「聖域なき構造改革」を牽引、金融・不動産で「改革利権」を満喫したオリックスは最大受益者となり、子分の村上世彰を尖兵にM&Aに狂奔、農業・病院の株式会社化を試行しエネルギー事業へも手を拡げた(盟友エンロンの破綻で頓挫)。しかし小泉劇場と共に新自由主義ブームも終焉、「日本のリーマンブラザーズ」オリックスはリーマンショックに直撃され、「村上ファンド」「かんぽの宿」でメッキが剥れた宮内義彦は逮捕を噂されるなか2014年「功労金」44億円をもらい取締役とCEOを退任した。
- 稲盛和夫は、世界的電子部品企業「京セラ」の創業者で「KDDI」創設も主導したM&A経営の泰斗だが、正体不明の「アメーバ経営」を唱え松下幸之助ばりの「盛和塾」「京都賞」に言論・財界・慈善活動で自己宣伝に励むも胡散臭さを拭えない。鹿児島の印刷屋に生れた稲盛和夫は鹿児島県立大学から京都の町工場「松風工業」に就職、3年で退職し1959年「京都セラミック」を設立した。京都には村田製作所など良き手本もあり、稲盛和夫は旺盛な「三種の神器」需要を追風に電子部品事業を拡大し1971年株式上場、「京セラ」へ改称し欧米へ販路を拡げた。電気通信事業自由化を商機と見た稲盛和夫は1985年第二電電(DDI)を設立、1997年に会長を退きDDIはKDD・IDOと合併しKDDIとなったが、筆頭株主の京セラは上場で巨利を博した。日本の米国化を予期した稲盛和夫はM&A戦略を始動、タイトー買収では業績を上げて株式上場しスクエニへの転売で大儲けした。携帯電話の勃興期を満喫する京セラにバブル崩壊は無縁で、稲盛和夫は小泉純一郎の米国化政策に乗じM&Aを加速、三田工業・東芝ケミカル・キンセキ・三洋電機・ソニーのTFT液晶ディスプレイ事業など携帯関連事業を次々傘下に加え、太陽光発電や中国市場へも手を拡げた。財界活動にも熱心な稲盛和夫は小沢一郎の民主党を支援、2010年JALが経営破綻すると鳩山由紀夫首相の肝煎りで会長に就任し(内閣特別顧問兼任)業績V字回復で2年後に再上場を果した。稲盛和夫の経営塾とノウハウ本は繁盛したが、公的資金注入の条件として労働組合に経営実態と乖離した賃金と年金の適正化を呑ませたに過ぎず、さらに京セラが再上場前のJAL株式を大量取得し膨大な評価益を稼いだインサイダー取引が露見した(不起訴)。稲盛和夫は1986年に社長を退き2009年取締役も退任、京セラでは6代も社長が代ったが同社HPには名前も載らず登場人物は創業者のみ、2015年末現在83歳の稲盛和夫は京セラに君臨し続けている。売名行為を嫌い一般には無名の村田昭、社員の貢献を綴る村田製作所のHPとは対照的で、稲盛和夫の京セラは「一将功なって万骨枯る」の観がある。
- 永守重信は、HDD用モーターで75%の世界シェアを握る「日本電産」の創業者にして、不振工場の買収と再建で急成長を遂げた「M&Aの達人」、日産の鮎川義介を彷彿させる。マスコミの露出は多い永守重信だが、マネーゲームに手を出さない真当な実業家であり、同類の孫正義・柳井正に敬われ「ほら吹き3兄弟」を自称する。京都の貧家に生れた永守重信は苦学して洛陽工業高校・職業訓練大学校を卒業し、音響機器のティアックに6年勤めた後、1973年京都市に「日本電産」を設立し精密小型モーターの製造を開始した。積極経営の永守重信は海外進出と工場増設に邁進し、一時経営危機に陥るもHDDやOA機器の旺盛な需要に支えられ事業拡大、1984年米国トリン社の買収でM&Aを始動し1988年株式上場を果した。日本電産躍進の原動力は「時間を金で買う」M&Aによる生産体制拡大・新分野開拓であったが、肝腎な買収後の経営で永守重信は鬼才を発揮した。永守重信は「優秀な技術を持つが経営不振の企業」に買収対象を絞り、筆頭株主兼経営者として現場に乗込む方式で多くを経営再建へ導き優秀な系列企業群と連結業績を膨らませた。永守重信の経営再建術は欧米流の単純なリストラとは異なり「倍働け」「一番以外はビリ」「すぐやる・必ずやる・出来るまでやる」という母親仕込みの精神注入が核心だが、思想文化の異なる世界各地で現に成功を収めており精神論では片付けられない凄みを帯びる。リーマンショックと超円高で日本電産は破綻に瀕したが永守重信は解雇以外で乗切り、円安転換で業績は急回復し2015年株価は上場来高値を更新した。2015年末現在、日本電産はHDDやOA機器の小型モーターで世界一の座を磐石にし海外販売比率は8割に到達、M&A実績は日本24社・海外15社を数えるが、71歳の永守重信は社長に健在で「休みたいなら辞めれば良い」との至言が労働組合の反発を招きつつ、売上高2兆円を目指し自動車や家電製品向け中大型モーターの拡充や中国展開に奔走している。世襲制を否定する永守重信は元シャープ社長の片山幹雄を後継候補に迎えたが、息子が2人あり動向が注目される。
- 柳井正は、早稲田大学政経学部からジャスコに入社したが1年もたず 、1972年山口県宇部市に戻り家業の紳士服店「小郡商事」に就業、青山・アオキとの競争を避けてカジュアル衣料へ転換し、香港視察を機にGUP式SPA(製造小売業)のチェーン展開を志した。1984年社長を継いだ柳井正は直ちに「ユニクロ」を開業し中国地方へ多店舗展開、香港現法を通じて中国に開発輸入体制を構築し、1991年「ファーストリテイリング」へ改称し1994年株式上場を果した。1998年発売の「フリース」が3年間で2600万枚の驚異的売上を記録し、アパレル業界に価格破壊を起した柳井正は東京へ本拠を移し全国展開に邁進、ユニクロは忽ち500店舗を突破しロンドン・上海を手始めに海外市場へ乗出した。ベーシック衣料の少品種生産・大量販売と国産並の品質管理で低価格と高収益の両立に成功した柳井正だが、市場飽和と「ユニバレ」で急減速、新業態開発やブランド買収も振るわず大幅減益に陥った。2002年柳井正は会長兼CEOへ退いたが、2005年「安定成長」を説く新社長の玉塚元一(のちローソン社長)を解任し社長復帰、経営陣の若返りと積極路線回帰を断行した。柳井正は商業施設「ミーナ」や「ユニクロ・グローバル旗艦店」で店舗の大型化を推進、海外事業も漸く黒字化し「ヒートテック」「ブラトップ」で女性市場開拓も進み成長軌道を回復した。デフレ不況もファーストリテイリングには追風となり2013年株式時価総額が流通企業最大の4兆円に到達、柳井正は親友の孫正義に続き世界的大富豪にランクインした。2015年時価総額は6兆円に迫り、ユニクロは国内844店・海外16カ国864店(中国414・韓国163・欧米78)へ拡大し海外販売比率は4割を突破、「セオリー」「GU」も一本立ちした。デフレ悪玉論や「ブラック企業」批判に晒されつつ、柳井正は「国際流通業トップ10入り」を掲げて世界展開を加速しM&Aに虎視眈々、国内では「超大型店」を軸に1千店舗体制を目指し疾走を続ける。柳井正は「世襲はしない」と公言してきたが、2013年社長引退の公約を撤回し2人の息子を執行役員に就けている。
孫正義と同じ時代の人物
-
戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
鈴木 一朗(イチロー)
1973年 〜 年
90点※
オリックスで7年連続首位打者に輝き米国MLBへ渡り10年連続200本安打とゴールドグラブ賞を達成、日米通算4千本安打を突破しMLB殿堂入りも確実視される日本スポーツ界の至宝
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