富山の農民から商才一つで安田財閥を築き上げ「銀行王」と称されたが、吝嗇を世間に妬まれ経営近代化と後継者育成に難を残したまま暴漢の凶刃に斃れた一代の天才実業家
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安田 善次郎
1838年 〜 1921年
80点※
安田善次郎と関連人物のエピソード
- 幕末当時の金銀交換比率は日本国内の6~7に対し欧米諸国は15~20、当然ながら欧米商人は裁定取引に狂奔し割安な日本で金を買漁りボロ儲けした。経済音痴の徳川幕府は無策で放置していたが、百万両もの金が海外流出するに及んで漸く重い腰を上げ、古金貨を回収して金含有率を落とした万延小判に改鋳する計画を立てた。が、維新の混乱で大手両替商が勢いを失う状況下で引受け手が現れず、新興の安田商店にも声が掛り、安田善次郎は幕府役人から所要資金を借入れ独占的に古金銀回収取扱方を引受けた。この決断により、安田商店は年間3~4千両(当時1両約1万円)の収益源を獲得すると共に正確な両替作業で信用を高め、安田善次郎が後年「これで私は身代をこしらえた」と語ったように創業期の経営を軌道に載せることに成功した。さらに、リスクをとって幕府御用を務めた実績は、明治維新後に安田商店が政府御用を引受ける出発点となった。
- 明治改元間もない1968年末、貧乏な新政府は由利公正の献策を容れ不換紙幣「太政官札」の発行で急場を凌ぐ策に出た。額面1割の利息を13年間に渡り正貨で支払うという好条件だったが、新政府の信用が未確立で、幕末諸藩が乱発した藩札が紙切れ同然になった記憶が生々しく残る時期でもあり、大手両替商に敬遠され引受募集は難航した。新興両替商「安田商店」の安田善次郎は、新政府の権威は間もなく確立すると読み決然と太政官札引受に参加したが、世間の思惑通りすぐに額面割れを起し、新政府の失策もあり1869年4月には正貨の半分以下に大暴落した。金札を大量に抱込んだ安田善次郎は破産の危機に陥ったが、同様に窮した新政府が金札と正貨の等価交換を義務付け「金札兌換打歩禁止令」で罰則規定を設け厳しく取締ったことにより、辛うじて金札相場は正貨と同等水準まで持直した。窮地から一転、勝負に勝った安田善次郎は1年で9千両もの巨利を掴み安田商店の資産は3倍増、それ以上に経済音痴の新政府に恩を売り信用を得たことが大きかった。
- 江戸幕府瓦解後の東京都心部は空き地が多く一等地でも格安価格、投機のチャンスと見た安田善次郎はコツコツと不動産を買集めた。大手町一丁目交差点・日本橋と呉服橋の交差点・数寄屋橋交差点等々、今日も東京都心の主要交差点付近にみずほフィナンシャルグループや安田不動産所有の物件がやたらと目につくが、安田善次郎から続く蓄積の賜物である。
- 明治政府御用本両替商への昇格を果した安田善次郎の次なる目標は、公金取扱いの為替方の指定を得ることであった。為替方業務は三井組・小野組・島田組など老舗の有力両替商の寡占状態にあり、新興の安田商店が割込むのは容易ではなかったが、安田善次郎は秩禄公債を中心に信用力の高い政府公債を買募り、これを担保に供することで官庁が安心して公金を預けられる仕組みを編出し、公債保有高と公金預り額がスパイラル的に増大する好循環が出来上がって、官公庁や自治体の為替方指名を次々と獲得した。かくして安田善次郎は両替商から近代的銀行家への脱皮を果し、後に東京都をはじめ多くの公的機関のメインバンクの座を占め「公金の富士」と称される富士銀行の独特の発展が始まった。
- 安田善次郎は、大蔵省の渋沢栄一らが進める国立銀行奨励策に慎重姿勢であったが、1876年の秩禄処分を機に政府を動かして国立銀行条例改正を実現させ、参入メリットを膨らませたうえで第三国立銀行の設立に踏切った。第三国立銀行の設立時資本金20万円のうち9万円を安田善次郎が引受け、残りは川崎八右衛門(川崎財閥の祖)や松下一郎右衛門(後の東京電燈社長)から出資を募り、行員の大半は安田商店から出向させた。第三国立銀行は、1897年に八十二銀行を吸収し、1923年安田銀行に統合されるまで存続した。第三国立銀行で成功を収めた安田善次郎は、第五・第十四・第十七・第二十八・第四十一・第百・第百三・第百十二など多くの国立銀行設立を指導し、外国為替取扱専門の横浜正金銀行(後の東京銀行)の発起人に名を連ね、創立事務御用掛・監事として草創期の日本銀行の実務も差配、台湾銀行・北海道拓殖銀行・日本興業銀行など国策銀行プロジェクトに創立委員として参画した。銀行の設立ブームが終焉し淘汰期に入ると、安田善次郎は百三銀行など多くの経営不振行を再建しつつ事業吸収で安田財閥の業容を拡大、名実共に「銀行王」「金融界の大立者」に上り詰めた。
- 安田善次郎は、欧米の生命保険会社を参考に、旧幕臣で朝野新聞社長の成島柳北らの賛同を得て、限定少数の財界人同志のための互助組織で死亡時に遺族に香典を送る「偕楽会」を創設、会員が500名に達すると「共済五百名社」へ改称した。山岡鉄舟が第一号会員となったように当初は旧幕臣扶助の意味合いが強く、安田善次郎の信用で会員数こそ増加したが、社会的地位のある高年齢者が会員の大多数を占めたため保険収支が悪化し共済五百名社の経営は行詰まった。そこで安田善次郎は、日本生命診察医の矢野恒太を招聘し抜本的な事業改革を依頼、組織も改組し安田一族の全額出資により改めて「共済生命保険合資会社」を設立した。社長には同族の安田善四郎が就いたが、経営の主導権は支配人の矢野恒太が担い2年間の欧米視察を経て本格的な事業改革に取組み業績を上向かせた。喜んだ安田善次郎は、矢野恒太を総支配人格に昇格させ安田系会社の支配人中最高額の月俸を与えたが、古参幹部の不満で社内不和が起り已む無く矢野を退職させた。共済生命保険合資会社は、安田善次郎の没後に「安田生命保険」へ改称し、今に続く「明治安田生命保険相互会社」の母体となった。一方、安田を追われた矢野恒太は、一旦官途に就くも生命保険への夢断ちがたく、1902年に日本で最初の相互会社形式による「第一生命保険」を創業し「保険学の泰斗」と称された。なお、安田善次郎の共済五百名社と福澤諭吉の肝煎りで翌年発足した明治生命保険会社、どちらに「日本初の生命保険会社」の名を冠すべきか長い議論があったが、両社合併し明治安田生命が発足したことで論争は終息した。
- ほとんど知られていないが、安田善次郎は北海道釧路市建設の立役者であった。経営破綻した第四十四国立銀行を第三国立銀行に吸収合併した安田善次郎は、担保にとった釧路の硫黄鉱山の事業可能性に着目し自ら経営に乗出し、標茶に最新式の硫黄精錬所を設け、釧路鉱山から標茶間に鉄道・トロッコ軌道・水路を整備し輸送路を構築、さらに硫黄精錬に必要な石炭を確保するため釧路地方の春鳥・白糠炭鉱を買収した(安田炭鉱)。小さな昆布漁村だった釧路は北海道有数の産業都市に発展し、硫黄採掘と炭鉱事業を成功させた安田善次郎は第四十四国立銀行から引継いだ不良債権を大幅に上回る収益を獲得した。
- 安田財閥を築いた安田善次郎は、安田一族の資産管理団体「安田保善社」を設立した。20万円から100万円へ増資した安田銀行の資本金を安田保善社の基金と定め、半分の50万円を安田保善社総長名義とし残りを「安田十家族」に分割保有させた。安田十家族は、同家六家(安田善次郎の宗家および安田善四郎・善之助・真之介・三郎彦・忠兵衛)、分家二家(安田文子・善助)、類家二家(太田弥五郎・藤田袖子)で構成され結束を固めた。さらに安田善次郎は同族支配を堅持すべく主要企業幹部の月例懇親会を開催した。当初参加社が安田銀行・第三銀行・帝国海上保険・東京火災保険・共済生命保険・東京建物・明治商業銀行・安田商事の8社だったことから「八社会」と呼ばれ、財閥解体まで安田財閥の経営中枢として機能し芙蓉グループへ受継がれた。
- 安田善次郎が一代で築いた安田財閥は、鉱工業部門が財閥化を牽引した三井・三菱・住友と異なり、ほぼ純粋な金融財閥として独自の発展を遂げ四大財閥の一角を占めるまでに成長した。一時後継者に据えられた娘婿の安田善三郎は鉱工業部門の拡大を図ったが安田一族・古参幹部との対立で追放され、独裁者に復帰した安田善次郎は「他業不兼営」を掲げ金融部門以外の事業から撤退し特化傾向は一層強まった。安田善次郎の暗殺劇から7年後の1928年末時点の四大財閥の金融資本力(預金+保険準備金)は安田1,427百万円・三井977百万円・三菱915百万円・住友860百万円となり、中核の安田銀行(富士→みずほ)は1923年から1971年まで日本最大の資金量を誇り安田生命や東京建物などを擁する安田財閥・芙蓉グループを形成した。また、奉公人からの叩き上げである安田善次郎は、ライバルの三井・三菱が人材採用に熱心に取組んだのとは対照的に、高学歴者の採用に消極的で「高い俸給を払って、英才を集めて仕事に従事させる必要は認めない」と公言し司令官たる自分の命令に絶対服従であれば十分という個人商店スタイルを貫いた。専業特化と独裁制で天才実業家は如何なく能力を発揮したが、後継者は全く育たず、安田善次郎の急死で安田財閥は大混乱に陥った。
- 安田善次郎は大富豪には珍しく花柳界嫌いで艶聞も無く(三菱2代目の岩崎弥之助も同様)、豪遊家で多くの妾を囲った親友の大倉喜八郎や渋沢栄一とは対照的だった。あるとき大倉喜八郎は飲み友達の政府高官らと相謀り、多額の褒美を餌に柳橋一の美技に因果を含め安田善次郎を誘惑するよう差向けた。が、宴席の安田善次郎は美技の色仕掛けに全く乗らず「貴女も一流になろうと思っているのなら、ここで艶聞でも広まっては大変でしょう」と説教を始める始末で、一同呆れ果て引下がったという。一方で安田善次郎は、終生愛した旅行のほか水泳・乗馬・剣道・茶道・生花・謡曲・俳句・和歌・漢詩・囲碁・絵画などあらゆる芸事に手を広げ、真面目な趣味を通じて大いに交際範囲を広げた。ただ、質素倹約に徹した安田善次郎は納得のいかない無駄金を一切使わなかった。若い頃から財界では有名なケチだったが、貧困者救済の医療団体済生会(済生会病院の前身)への寄付を渋ったことが大きく報じられ「安田善次郎=ケチ」の世評が固まってしまい、このため熱望した男爵位も得られず仕舞だった。とはいえ「陰徳を積む」を旨とする安田善次郎は世間が知らない社会奉仕活動を数々行ったと擁護する向きもあり、浅野総一郎・大倉喜八郎・後藤新平ら事業仲間は安田の死を大いに悼み、東京湾沿岸部埋立事業で多大な支援を受けた浅野総一郎は鶴見臨海鉄道線に「安善町駅」を設けている。事業外でも安田善次郎は書画骨董の蒐集や文化芸術活動の支援に金を惜しまず、福地源一郎など困窮した知人の扶助にも努めたというが、一般大衆から見れば金持ちの道楽に過ぎず、やはり「金の亡者」とはいわないまでも「筋金入りの吝嗇家」の評価は妥当であろう。安田善次郎は厭世家気取りのチンピラに刺殺され、冷淡な世間は同情どころか犯人を英雄視するに及び、世間の嫉妬視を恐れる安田一族と保善社は「陽徳を積む」方向へ転じ東大安田講堂・東京市政調査会館(現市政会館・日比谷公会堂)の寄進など目立つ社会奉仕活動に勤しんだ。
- 第一次世界大戦のバブル景気は戦後も暫く続き、東京株式市場は過熱感を抱えつつも高値を保っていたが、「銀行王」安田善次郎が膨大な保有株のほとんどを一斉に売りに出したため株式相場は大暴落、ベンチマークの平均株価を8百円台から一気に半値以下へ叩落とす凄まじい破壊力であった。多くの成金が振い落されたが、張本人の安田善次郎は株価が大底を打ったところで買戻しに転じ、売値の三分の一の株価でポートフォリオを組直すことに成功した。さらに、突然の株価暴落は安田銀行主導で進められていた満鉄の増資計画にも影響を及ぼし、安田銀行は大量に出た失権株のほとんどを暴落価格で引受けたが満鉄株もすぐに値を戻した。個人資産日本一の安田善次郎は一連の「株価操縦」で更に巨富を積み増したが、インフレ進行で困窮民が激増し米騒動が全国に広がる状況下で世間の激しい恨みを買い、翌年の安田善次郎刺殺事件の引金となった。
- 大磯の別荘「寿楽庵」に滞在中の安田善次郎は、押掛けて来た右翼青年との面会に応じたが、突然刃渡り8寸ほどの短刀で斬付けられた。82歳ながら健康体の安田善次郎は逃走するも追いつかれ背後から咽喉部に止めの一撃を受け絶命、犯人の朝日平吾は現場を離れた直後に西洋カミソリで喉を掻切り壮絶死を遂げた。朝日平吾は、安田善次郎がで巨利を博した「相場操縦」に巻込まれ株式相場で大損を出し投身自殺騒ぎを起していた。佐賀県出身の朝日平吾は旧制福岡中学から日本大学へ進むも満州に渡るなど無頼生活を送り、当時死病といわれた結核に侵されたことで極端な厭世家となり、「神州義団」を名乗るエセ右翼に落ちぶれ富豪の邸宅に押掛けては金銭をせびる行動を繰返し、安田善次郎の前には渋沢栄一を訪ねたが100円の小遣いで追払われていた。「金の亡者」と嫌われた安田善次郎の死に世間はほとんど同情を寄せず、逆に殺人犯は英雄視され、この2ヵ月後に起る原敬首相刺殺事件の呼水になったともいわれる。不慮の死を遂げた「銀行王」安田善次郎だが、今日に繋がる安田財閥と膨大な遺産を残した。死亡時の安田善次郎の個人資産は2億円超といわれ、その年の年間国家予算1,591百万円の8分の1に相当する巨万の富を一代で築いたことになる。が、安田善次郎はケチといわれつつ生涯質素倹約に徹し、芸者遊びを嫌い、1872年1月1日から1921年の死の前日まで49年間、毎日几帳面に日記を書き続けた自律の人でもあった。現在も安田家に飾られているという安田善次郎自筆の俳画には、みみずくの絵の横に「小鳥ども 笑わば笑え われはまた 世の憂きことは 聞かぬみみずく」の句が添えられている。
- 大久保利通は、大蔵省と工部省から殖産興業部門を分離し、司法省から警保寮(警察)も巻き取って、絶大な権限を有する内務省を設置、自ら初代内務卿となり辣腕を振るった。西郷隆盛ら征韓派が一掃され木戸孝允も病気で働けない状況のなか大久保は独裁体制を確立、参議の伊藤博文と大隈重信が側近として大久保を支えた。大久保政府の主眼は内地優先論に基づく殖産興業にあり、鉄道網の整備を進め、官営模範工場や農事試験場を設立して軽工業や農業の近代化を推進した。また岩崎弥太郎の三菱を手厚く保護し、国内海運業の育成と外国勢力の排除に努めた。外交面では、征韓論を抑えたものの、薩摩藩の不平士族のガス抜きのため台湾出兵を断行し、大久保自ら清国に乗込んで有利な講和条約をまとめた。征韓論争に敗れ帰郷した要人を核に各地で不平士族が蜂起し佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き日本史上最悪の内戦となった西南戦争が勃発したが、大久保は怯まず断固たる姿勢で対応し新造の鎮台兵を動員して速やかに各個鎮圧し国内の治安を回復した。大久保利通は最も現実的な政治家だが、明確な長期ビジョンと意志を持っていた。大久保は「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り発展を待つ時期だ。」と語り、岩倉具視への手紙には「国家創業の折には、難事は常に起るものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」と記した。福地源一郎は大久保に「北洋の氷塊」の渾名を奉り「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」と評している。
- 松方正義の政治的功績は「松方財政」即ちインフレ収束と中央銀行創設に尽きる。西郷隆盛が嫌う島津久光の側近で志士活動に参加しなかった松方正義の中央進出は遅れたが、日田県知事として政府の資金調達活動に忠実に働いたことなどが認められ大久保利通の推挙で民部省大丞に任じられた。民部省解散に伴い井上馨(大蔵大輔)・陸奥宗光(租税頭)の大蔵省へ移った松方正義は、薩長藩閥に不平満々の陸奥とは対照的に地租改正などに黙々と取組んだ。江藤新平の汚職追及で井上馨が辞め参議筆頭の大隈重信が大蔵卿に就任、明治六年政変で陸奥宗光も去り松方正義が次席に上った。明治政府は紙幣増発で財源を捻出し鉄道網・郵便制度・学校・官営工場・官庁街建設などの殖産興業施策を矢継ぎ早に行ったが、西南戦争の膨大な戦費負担で財政が逼迫、大隈重信ら志士上りで財政音痴の政府首脳は安易な不換紙幣発行に頼り(戦費42百万円に対し紙幣増刷27百万円・国立銀行借入15百万円)急激にインフレが進行した。無能な大隈重信は外債発行による政府紙幣整理を策し松方正義と衝突、松方は伊藤博文の計いで内務卿へ転出し渡仏して国家財政の基礎を学んだ。3年後の明治十四年政変で大隈重信が失脚、伊藤博文に財政再建を託され参議兼大蔵卿に就いた松方正義は、緊縮財政と増税で収支均衡を図り官営事業売却で資本回収と税収増を促進、蓄えた剰余金で不換紙幣の償却を進め正貨の準備銀を買入れ兌換制度に備えた。一方、松方正義は日本銀行を設立して紙幣発行権を一元管理下に置き銀兌換紙幣(日本銀行券)に統一し銀本位制を確立した。一連の松方財政でインフレは収束し財政危機を脱したが、反動デフレが進行し農産物価格の暴落で小作農が急増、過激な政党活動が蔓延し秩父事件などの農民反乱を引起した。「財政の第一人者」となった松方正義は、最初の伊藤博文内閣から2度の松方内閣を含む6内閣で蔵相を占め、日清戦争では勅令で軍事公債5千万円を発行し伊藤を助けた。伊藤博文に属した松方正義は「黒幕内閣」「後入斎」などと揶揄され薩摩閥でも重みが無かったが、元老・公爵に上り詰め89歳まで長寿を保った。
- 日露開戦に際し、軍事物資の過半を欧米からの輸入に依存する日本は決済用ポンドの獲得を急務とし、林薫駐英公使はロンドン・シティで外債発行すべく日英同盟に基づきランズダウン英外相に債務保証を求めた。日本はインド原綿・イギリス軍艦の最大購入者で帝国経営に欠かせない存在であったが「金持ち喧嘩せず」のイギリスは中立を理由に債務保証を拒否、桂太郎政府は苦境に立たされた。無官ながら「戦時財政の総監督役」の井上馨は、日銀副総裁で英語堪能な高橋是清を抜擢し戦費調達の大役を託した。高橋是清は腹心の深井英五を伴い横浜を出帆、米国行き便船には伊藤博文の命を受けた金子堅太郎も乗っていた。シティに乗込んだ高橋是清は林薫(ヘボン塾同窓)や末松謙澄・長男高橋是賢の協力を得て戦費調達に奔走、日露戦争の下馬評はロシアの圧倒的有利で難航したが、戦局が日本に傾き始めたこともあり、ニューヨークの金融業クーン・レープ商会のロンドン支配人ジェイコブ・シフを自陣に引込んだ。シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ユダヤ人迫害を続ける帝政ロシアを日本が苦しめれば、そのうち革命が起るだろうと考えた。なお、ロスチャイルドはユダヤ資本が日本を支援するとユダヤ人虐待が激化すると考え、高橋是清の活動を暗に妨害した。大物シフの全面的支援を得た高橋是清は関税収入を担保に巨額の外債発行に成功、日露戦争終結までに戦費約20億円のうち10億7千万円を調達し、1907年戦後処理用として2億3千万円を追加調達、累計額は13億円に上った。なお、ロシアもシティに乗込み日本と資金調達合戦を繰広げたが、ユダヤ人迫害と社会主義暴動(第一次ロシア革命)を敬遠され失敗している。一方、日本国内では桂太郎首相や井上馨が戦費調達に奔走したが、財界は公債引受を断った。開戦前「安田の一語、日露戦争を止ましむ」と顰蹙を買った「銀行王」安田善次郎は、日露戦争勝利が決ると低利新発国債による高利外債の期限前償還を提案、第二回起債分1億円を安田銀行で引受けて汚名を雪ぎ勲二等瑞宝章を贈られた。「時代の寵児」高橋是清は男爵に叙され、日銀総裁・蔵相を経て原敬暗殺後の政友会総裁に担がれ首相に上り詰めた。
- 戦前の財政家といえば松方正義・高橋是清・井上準之助が有名だろう。松方正義は、伊藤博文の後援のもと無能な大隈重信に代わって大蔵卿に就き西南戦争の膨大な戦費負担で破綻に瀕した政府財政を緊縮財政と紙幣整理(日本銀行への紙幣発行権の集約と銀本位制の確立)で再建、「財政の第一人者」と称され首相・元老・公爵に栄達した。志士上りが多く財政音痴の薩長閥首脳のなかで経済が分かる松方正義は逸材であったが、実務官僚としてやるべきことをやったに過ぎず、その後の反動デフレには有効な対策を採れなかった。井上準之助は、帝大から日本銀行へ進んだエリート官僚で、上司の高橋是清の引立てで日銀総裁となり、高橋蔵相と連携して金融恐慌を収束させた。が、第二次山本権兵衛内閣と濱口雄幸内閣で蔵相を務めた井上準之助は、世界恐慌の最中に金解禁を断行しデフレ不況に拍車を掛けた。松方正義と井上準之助が緊縮財政・デフレ政策を採用したのに対し、「野人」から銀行家・財務官僚となった高橋是清は積極的な財政出動と金融緩和でデフレ退治に成功した。高橋是清は政友会総裁に担がれ首相となったが、政治には不向きで持参金欲しさに陸軍長州閥の田中義一に政友会総裁を禅譲、軍事費の引締めへ転じたことで「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。財政・金融政策の積極・緊縮には功罪あるが、現在に至るまで平時におけるデフレ政策の成功事例は少なく財政出動・量的緩和などの有効性が世界的常識となっている。が、輸出立国の現代日本では円高回避・デフレ阻止が最重要課題であるにも関わらず、バブルに懲りた日本銀行主流派はインフレ退治に執着し「失われた20年」を放置、安倍晋三内閣の「異次元金融緩和」で漸く円高不況から脱出した。さて、松方正義・高橋是清・井上準之助の優劣は、結果をみると明らかに高橋の積極財政に軍配、外債による日露戦費調達の大殊勲もあり高橋が本物の「財政の第一人者」という評価になるだろう。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 伊藤博文と井上馨は長州藩の志士時代から行動を共にし親友関係は終生続いた。井上馨は220石取りの歴とした上士身分で「雷公」と渾名された癇癪持ちだが、気さくな人柄で農民出身の伊藤博文にも対等に接し「聞多(井上)」「利輔(伊藤)」と呼び合う間柄であった。井上馨の裏工作で伊藤博文もイギリス留学を許されたが、往きの船中で伊藤は下痢に悩まされ、井上は荒れる甲板から用を足す伊藤の体をロープで支え必死に励ました。西洋文明に圧倒された伊藤博文と井上馨は忽ち尊攘派から開国派へ転じ、高杉晋作の藩政奪回「長州維新」を支えた。長州藩主の毛利敬親は何故か癇癪持ちの井上馨を可愛がり意見をよく聴いたといい、馬関戦争の不戦講和・第一次長州征討の武備恭順(いずれも反対派に潰された)・薩長同盟など、敬親への献策役はいつも井上に託された。明治維新後の井上馨は、鹿鳴館外交をぶち上げるも不平等条約改正に失敗、財界へ転じると貪官汚吏の筆頭格となり西郷隆盛から「三井の番頭」と面罵されたが、伊藤博文は身を挺して井上を庇い続け、伊藤のお陰で政治的致命傷を免れた井上は元老のまま長州志士中最長寿を全うした。
- 渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも称される財務官僚・実業家でる。藍玉の製造販売も手掛ける武蔵の豪農に生れた渋沢栄一は、少年期から商売に親しみつつ、従兄尾高惇忠の影響で尊攘運動に身を投じ同志と共に高崎城襲撃・横浜焼打ちを企てるが頓挫し逃亡(従兄の渋沢成一郎は上野彰義隊頭取となり箱館戦争まで転戦)、一橋家重臣の平岡円四郎に拾われた。一橋家に仕官した渋沢栄一は忽ち「建白魔」となり領内の農民兵徴募や財政改革を任されて成功を収め、主君の徳川慶喜にも評価された。徳川慶喜の将軍就任に伴い幕府御家人に大出世した渋沢栄一は、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜実弟)の随員に選ばれる大幸運に恵まれ、維新の動乱期を優雅な外遊生活で過ごした。帰国した渋沢栄一は徳川宗家と慶喜が移された静岡に移住するも仕官は断り、石高拝借金の合本組織運用を提案し静岡商法会所の頭取となって資本主義の実践に着手した。がその矢先、渋沢栄一は大蔵大輔の大隈重信に突然スカウトされ新政府に出仕、改正掛の革新運動を牽引し、岩倉使節団に出た大久保利通に代わり大蔵省のトップに就いた井上馨の腹心となり、銀座煉瓦街建設、富岡製糸場開設、第一国立銀行設立・国立銀行条例制定など洋化政策を主導した。が、岩倉使節団が帰国すると大蔵省は再び大久保利通の掌中に帰し、井上馨は尾去沢銅山汚職事件で引責辞任、渋沢栄一は井上に殉じ実業界へ転じた。第一国立銀行に天下った渋沢栄一は、三井組の吸収工作撃退で実権を掌握して頭取に就き本格的な財界活動に入った。西南戦争後、薩長藩閥と大隈重信=三菱の対立が激化し、井上馨に連なる渋沢栄一は矢面に立たされ窮地に陥ったが、明治十四年政変で薩長藩閥が勝利を収め政府から大隈一派を追放、「三菱海上王国」も共同運輸会社に吸収された。以降の渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に順風満帆の活躍を続け財界人で唯一子爵を受爵、自ら60社近い事業を立上げ、東京証券取引所・東京瓦斯・東京海上火災保険・王子製紙・東京急行電鉄・秩父セメント・秩父鉄道・京阪電気鉄道・キリンビール・サッポロビール・東洋紡績・帝国ホテルなど500社以上の設立に関与した。
- 1872年、渋沢栄一ら大蔵省革新官僚は、三井組・小野組に出資させて合本組織による三井小野組合銀行(後の第一国立銀行)を試験的に発足させたうえ、欧米流の近代的民間銀行の創設を促すため国立銀行条例を制定した。国立銀行は米国ナショナルバンク制度に倣った民営銀行で(「ナショナル」の直訳で「国立」と命名)、独自の銀行券発行が認められ発券銀行としての役割も担った。当初は「太政官札」の乱発で紙幣の信用そのものが下がっていたため、「国立銀行券」の大半は金貨に兌換されて流通せず、信用創造が働かず国立銀行の経営は振るわなかった。が1876年、秩禄処分により大量発行された金禄公債の流通促進が政府の重要課題となり、財界へ転じた第一国立銀行の渋沢栄一や安田商店の安田善次郎の働きかけにより国立銀行条例が改定され、正貨兌換条項の削除や銀行券発行枠の拡大(資本金の6割から8割へ)など経営条件が緩和された。メリットが膨らんだことで国立銀行への新規参入が相次ぎ3年後には153行へ急増、金融制度も順次整備され経済活性化を牽引したが、一方で発券銀行の急増は当然ながらインフレを誘発し、西南戦争の膨大な戦費負担が追討ちとなり政府財政は著しく悪化した。
- 輸出産業の中核である製糸業の育成強化のため、大蔵省の渋沢栄一の主導により、蒸気駆動の輸入製糸機を備えた官営富岡製糸場が建設され大規模生産を開始した。渋沢栄一は、従兄の渋沢成一郎(上野彰義隊頭取、函館戦争で投獄されるが赦免)と義兄の尾高惇忠を現場監督に採用した。官営富岡製糸場を皮切りに日本各地に紡績工場が建設され明治経済の屋台骨となった。『女工哀史』や『あゝ野麦峠』で製糸業女工の悲惨な労働環境がクローズアップされ世の同情を集めたが、そもそも貧窮を宿命づけられた寒村女性に生活手段を与えたもので雇用創出策としても評価すべき事業であった。
- 1882年に渋沢栄一の呼掛けで発足した大阪紡績(現東洋紡)は、株式発行によって膨大な資金を集め、最新・最大級の紡績機を導入した大規模工場を建設、また実用化間もない電力を大々的に導入し、24時間操業も行った。大阪紡績は大成功を収め、それに倣って次々と紡績会社が設立され、紡績業は主要な輸出産業へと発展した。世界の紡績業は産業革命発祥のイギリスがリードしてきたが、日本は100年遅れで産業革命に乗出したためリング紡績機など最新技術をそのまま導入することとなり、旧来型のミュール紡績機からの転換が進まず設備の老朽化が著しいイギリスより有利な状況で紡績業に参入することができた。また、中小事業者が乱立するイギリスに比べ、日本では渋沢栄一をはじめとする財界人が協力して大規模工場の建設を進め、三井物産を筆頭に商社による綿花の大量仕入れも奏功、人件費の安さも手伝って、日本の紡績業は国際市場で比較優位を確立するに至り、主要市場である中国からイギリス製品を駆逐していった。日本の綿製品の輸出量は、1928年にはイギリス製品の37%に達し、1932年には92%と肉薄、1936年には141%と完全に抜き去った。だが、日本の繊維産業の躍進は深刻な経済摩擦を生み、1929年の世界恐慌以降、イギリスは露骨なブロック経済化によって日本製品の排除を進め、インド市場から締出された日本はそのはけ口を満州に求め、日英対立は戦争レベルまでエスカレートすることとなった。そして、遂に第二次世界大戦が勃発すると、インドなど欧米列強植民地への輸出が完全に封鎖され、さらに戦局悪化により輸送路が途絶えたために中国大陸への輸出も激減、隆盛を誇った日本の繊維産業は壊滅的打撃を蒙った。
- 物理学者で「日本のエジソン」と称された藤岡市助のアイデアに賛同した大倉喜八郎・三野村利助ら財界人が発起人となって出資を募り1886年「東京電燈」が設立された(東京電力の前身)。米国トーマス・エジソンの電気事業開始から遅れること僅か6年の快挙であった。翌年早くも電力供給に成功した藤岡市助の東京電燈は、東京の5ヶ所に火力発電所の設置を進め200kWの大出力を誇る浅草発電所の建設にも着手、1891年には契約件数が1万4千を突破し「浅草凌雲閣」には電力駆動のエレベーターが登場した。東京電燈に続き大阪・神戸・京都・名古屋・九州と日本各地に相次いで電力会社が設立され、渋沢栄一の「大阪紡績」など大規模工場から本格的な電力導入が進み製造業発展の牽引役となった。戦前を通じて発電方法の主力は石炭火力だが、1892年開業の琵琶湖水力発電所を皮切りに発電コストの低い水力発電所が全国各地に建設され、電気料金の低下が電力普及に拍車を掛けた。電力は一般家庭へも広がり1916年の普及率は東京・大阪で80%、全国でも40%に達した。電機コンロ・アイロン・扇風機などの家庭用電化製品も発売され、芝浦製作所(東芝)など国産メーカーも存在感を示したが、非常に高価なため一般家庭への普及は進まず、戦前の庶民にとって電気といえば電灯(定額灯)だった。満州事変勃発後の電気産業は軍需一色となり、家電の普及と国産品製造の本格化は第二次大戦後の松下電器・東芝・シャープ・ソニーらの勃興まで待たなければならなかった。
- 生糸・綿糸・綿織物・絹織物などの繊維産業は、明治維新から第二次世界大戦に至るまで輸出総額の過半を占め、獲得した外貨は軍艦などの兵器や産業機械の輸入を促し殖産興業を牽引した。初期の繊維産業は家内制手工業が中心だったが、産業資本の成長(財閥形成)と電力会社の勃興により日露戦争を境に大規模工場への集約化が進み大量生産へシフト、豊田佐吉の自動織機など安価な国産機械の普及も後押しとなり、日本の繊維産業は品質価格両面で高い国際競争力を獲得、1909年には製糸輸出が中国(イギリス資本)を抜いて世界一となった。日露戦争後の反動不況はあったが、第一次世界大戦で実害を受けず繊維産業などで特需を満喫した日本は1919年に初めて債権国となり、戦前11億円の債務超過から1920年には約27億円の大幅な債権超過となった。その後、1929年に始まった「世界恐慌」で繊維産業は世界的不況に陥ったが、日本は満州事変後の軍需バブルで逸早く不況を脱し、紡績業輸出は1932年に「世界の工場」イギリスに肉薄し1936年には完全に凌駕、内需振興の軍拡政策で重化学工業も興隆した。が、中国市場を奪われた大英帝国は特恵関税による保護主義政策で(ブロック経済)日本を中国侵出へ奔らせ、第二次大戦勃発に伴い連合国は対日輸出入を完全封鎖、戦局悪化で中国への輸送路も絶たれ、日本の繊維産業は壊滅状態となった。なお、ほとんどの繊維関連企業が破滅するなか、豊田佐吉の長男豊田喜一郎は鮮やかに事業転換を成遂げトヨタ自動車の礎を築いている。
- 大久保利通政府の急速な殖産興業政策に西南戦争の膨大な戦費負担が拍車を掛け政府財政は逼迫、松方正義外務卿の単純な引締め政策が深刻な悪循環を招いたが、1880年代後半に日本経済は「松方デフレ」から脱却し、政策で優遇された鉄道と紡績業を中心に株式会社設立ブームが起り「企業勃興」期に入った。日清・日露戦争による軍需景気を背景に企業勃興は勢いを増し、渋沢栄一ら財界人主導で間接金融システムや証券取引所の整備が進み株式売買高も順調に膨らんだ。今日の大企業にはこの企業勃興期に創業した会社が多く、銀行・鉄道・紡績の各社から資生堂(1872年)・王子製紙(1873年)・東芝(1875年)・セイコーホールディングス(1881年)・東京ガス(1885年)・博報堂(1895年)・サントリー(1899年)・NEC(1899年)・森永製菓(1899年)・松竹(1902年)・第一生命(1902年)・豊田自動織機(1906年)・味の素(1907年)・日立製作所(1908年)・スズキ(1909年)・味の素(1909年)・出光興産(1911年)等々、枚挙に暇がない。世襲財閥による開発独裁を嫌い資本の分散(株式会社)を奨励した渋沢栄一は、自らも500社以上の設立に関与し「日本資本主義の父」と称された。
- 大倉喜八郎は、維新の動乱期に武器の輸入販売で台頭し、陸軍長州閥に食込み大倉財閥を築いた立志伝中の企業家である。越後新発田から17歳で単身江戸へ上った大倉喜八郎は、幕末の戦乱に乗じ大倉銃砲店を開業、鳥羽伏見戦が起ると官軍に取入って御用達となり、上野彰義隊に殺されかかるも啖呵でかわし、奥州征討軍の輜重を担い大儲けした。戊辰戦争後、大倉喜八郎は貿易視察のため欧米を巡遊し岩倉使節団の大久保利通や伊藤博文と交流、帰国すると大倉組商会を設立し、日本商社の海外支店第一号となるロンドン支店を開設、インド・朝鮮貿易にも進出した。山縣有朋・桂太郎・田中義一ら陸軍長州閥に大胆不敵さを買われた大倉喜八郎は、台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争で軍隊輜重を任され武器販売や兵站輸送で巨富を積んだ。「冒険商人」大倉喜八郎は自ら命懸けの戦時輸送に乗込み、多くの部下を喪い大嵐で遭難もしたが度重なる死線を潜り抜けた。戦乱の度に焼け太る大倉喜八郎は世間から「死の商人」「政商」「グロテスクな鯰」と呼ばれたが、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎ら財界首脳の支援も得て、明治末期には軍需関連・土木建築・鉱工業の三本柱で「大倉財閥」を形成、自ら50以上の会社設立に関与し傘下企業は200社へ膨張した。が、大倉商業学校(現東京経済大学)の創設など経済人養成に尽力した大倉喜八郎の意に反し、大倉財閥に人材は育たず、嫡子の大倉喜七郎は道楽者となった。日露戦争後、大倉喜八郎は陸軍長州閥に歩調を合わせ中国大陸進出を加速、喜八郎没後も大倉財閥は多種多様な大陸事業に巨費を投じたが、成功したのは本渓湖煤鉄公司のみだった。満州の重工業開発を牽引した鮎川義介は逸早く全面撤退し日産・日立を残したが、逃げ遅れた大倉財閥は注込んだ資産を全て中国に接収され、2代目体制は財閥解体の嵐に翻弄され大倉財閥は壊滅した。銀行を核に四大財閥の再編が進むなか、銀行部門の無い大倉財閥では大成建設・帝国ホテル・ホテルオークラ・日清オイリオグループ・帝国繊維・日油・サッポロビールなどの紐帯は復活せず、辛うじて存続した中核の大倉商事も1998年に倒産し大倉財閥は完全に消滅した。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 三菱商会の第一の成長要因は岩崎弥太郎の外国人脈に基づく豊富な資金力であり、膨大な設備投資を要する海運業への参入を可能にした。また、多くの土佐藩士を引受けた三菱商会では「士族の商法」が横行したが、岩崎弥太郎は「前垂れ」の着用を義務付け顧客本位のサービス戦略を徹底した。競争相手の日本国郵便蒸気船会社は、親方日の丸で勤労意欲が乏しいうえ、政府から払下げを受けた老朽船の割合が多く、さらに地租改正によって租税が金納となり年貢米輸送を独占していた郵船は大打撃を蒙った。近代的な会社組織の確立を目指す岩崎弥太郎は、国益奉仕の使命を謳い列強諸国に負けない海運事業を興すことを目的に掲げ、就業規則などの福利厚生施策を導入、社則のほか会計規程「三菱会社簿記法」も整備した。が、一方で岩崎家による社長独裁を宣言し、没後も三菱財閥の伝統となった。三井財閥は早くから三井家の当主のもと「番頭政治」といわれた役員寡頭体制を敷き、渋沢栄一は合本組織を好み自身を含む世襲制を排除した。岩崎弥太郎は人材を重視し、社員養成のため三菱商船学校・三菱商業学校・明治義塾を創設、社員の2割も外国人を雇い当時希少な大学卒業者を多く採用した。「はじめは一般の若者を採用していた。彼らはみな従順で、言われたことは素直に黙々とやってくれた。しかし教養がないものだから、事の軽重がわからずよく大失敗をしでかすことがあった。これに対して大卒者は、エリートゆえに高いプライドを持ち、客に対して高飛車で愛想もないが、深い知識があるのでいざというときの談判でも堂々と渡り合うことができた。一長一短はあるが、教養のない者に大卒者の気風を養わせるのはとても難しい。反対に、大卒者をしっかり教育して三菱色に染めていくのはたやすいことだ。」・・・岩崎弥太郎は福澤諭吉が唱える事業立国構想に共鳴し大きな影響を受けたという。福澤諭吉も「岩崎氏は噂に聞いたのとは全く違い、山師ではない。今日の様子では成功は疑いない。殊に店の前におかめ面を掲げ、店内に敬愛を重んじさせているのは、近頃の社長にはできぬことだ」と胸襟を開き、岩崎弥太郎は立憲改進党の資金源となり慶應義塾生を大量に雇用した。
- 岩崎弥之助は、兄の岩崎弥太郎が興した海運業を日本郵船に引渡したが、膨大な遺産を元手に鉱山買収と造船業を核に多角的経営を成功させ短期間で三菱財閥の礎を築いた敏腕経営者である。出発時の事業は銅山(吉岡銅山)・水道(千川水道会社)・炭鉱(高島炭鉱)・造船(長崎造船所)・銀行(第百十九銀行)の5部門で、「三菱社」を設立した岩崎弥之助は唯一まともな吉岡銅山から手を付けた。東大出身者を鉱山長に迎え最新の採掘・精錬法と設備の導入で吉岡銅山の産出量は倍増、並行して短期集中的に鉱山買収を推進し、興共・瀬戸・樫村、尾去沢・大葛・細地・槙峰・多田・木浦・佐渡・生野を獲得した三菱は日本屈指の金銀銅メーカーへ躍進した。岩崎弥之助は炭鉱にも注力し、最新技術で高島炭鉱を優良化させ、新入・鯰田・碓井・佐与・上山田・方城・古賀山・端島・油戸を相次いで買収、三菱の国内産出シェアは1割に達した。さらに岩崎弥之助は製造業にも手を広げ、政府のお荷物だった長崎造船所を45万9千円で譲受けると、外国人技師と大卒技術者を雇用し、多数の社員をイギリスへ派遣して本場の造船技術を習得させ、日本一の技術力を得て6000トン級巨船の建造に成功した(日本郵船「常陸丸」)。三菱は新たに神戸造船所を開設し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫した。岩崎弥之助は、海運業特化で失敗した岩崎弥太郎の轍を踏まぬよう主力の鉱業・造船のほか倉庫・保険・銀行・不動産・農場(小岩井農場)など多種多様な事業を展開、日本郵船も三菱傘下に取戻した。「丸の内の大地主」三菱地所の創業者もまた岩崎弥之助であり、丸の内一帯10万余坪の土地を128万円の巨費を投じて陸軍省から買取り、コンドル設計の「三菱第一号館」を皮切りに近代的オフィスビルを次々と建設し「日本初のオフィス街」を現出させた。「三菱合資会社」への改組を機に岩崎弥太郎の遺言に従い岩崎久弥に三菱3代目を禅譲した岩崎弥之助は、三菱の政治的基盤を固めるため各派閥への全方位外交を展開、松方正義と大隈重信を仲立ちして「松隈内閣」を成立させ紐帯として日銀総裁に就き、大隈の東京専門学校を援助し早稲田大学へ昇格させた。
- 岩崎弥之助は、生来素直で温厚沈着な性格で、豪放磊落で敵だらけの岩崎弥太郎とは対照的だった。三菱を継いだ岩崎弥之助は、海運業独占で排除された岩崎弥太郎の特化路線を捨てて鉱山・造船・不動産・銀行など多角化戦略に切替え、大隈重信への肩入れが過ぎて薩長閥に潰された弥太郎を反面教師に政界で全方位外交を展開した。大隈重信の進歩党を支援しつつ、岳父の後藤象二郎と自由党を応援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘の繁子を嫁がせ薩摩閥にも食込んだ。また、東大法学部率のエリート外務官僚である加藤高明や幣原喜重郎を青田買いし、それぞれに弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期戦略で三菱勢力の政界浸透を図った。三菱合資会社への改組を機に三菱3代目を岩崎久弥に禅譲した後、岩崎弥之助は政界活動に本腰を入れ、大隈重信と松方正義の間を取持って第二次松方正義内閣(隈板内閣)を成立させ川田小一郎(三菱幹部)に代わって第4代日銀総裁に就任した。日銀総裁としての岩崎弥之助は、日清戦争で獲得した賠償金(ポンド建て受取)を原資に金本位制移行を断行したほか、中小銀行の統廃合・担保品付手形割引の廃止・日銀の個人取引開始・初の金融市場操作などを実施、後に「名総裁」と讃えられる業績を残した。日露戦争では、軍需を期待すべき三菱財閥のドンとしては必然か、岩崎弥之助は強硬な開戦論を唱え加藤高明ら対外硬派を後押しした。
- 後藤新平は、胆沢県大参事で後に岳父となる安場保和に進学の機会を与えられ、親戚の高野長英の影響で医者となり、弱冠24歳で愛知県医学校(名古屋大学医学部)の校長兼病院長に就任、岐阜で遭難した板垣退助の診察にもあたった。が、欧米留学の経験が無いことに劣等感を募らせ、石黒忠悳を頼り内務省の医系技官へ転身、同僚の北里柴三郎とは生涯の親友となった。念願のドイツ留学を果した後藤新平は医学博士号を取得し、内務省衛生局長に昇進したが、相馬誠胤子爵の御家騒動(相馬事件)に巻込まれ突如官職を失った。しかし人間万事塞翁が馬、石黒忠悳軍医総監の推薦で後藤新平は官途に復帰し、日清戦争帰還兵の検疫業務を通じて陸軍長州閥のエース児玉源太郎に認められ飛躍の転機を掴んだ。日本政府は日清戦争で獲得した台湾に軍政を敷いたがマラリアとゲリラ暴動で難渋、台湾総督府の開設に奔走した児玉源太郎が自ら第4代総督に就任し、民政局長に抜擢された後藤新平は民政充実策と警察力強化のアメムチ政策で初めて植民地経営を成功させた。鈴木商店との癒着やアヘン専売の悪行も取沙汰されたが、土地制度改革、インフラ整備、台湾銀行・台湾製糖会社の設立、台湾縦貫鉄道の敷設など後藤新平が敷いた民政政策により、清朝が野蛮視した台湾は日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。政界へ転じた後藤新平は、児玉源太郎の死後も桂太郎・寺内正毅・田中義一ら長州閥に属し、初代満鉄総裁を経て第二次桂太郎内閣に逓信大臣兼初代鉄道院総裁で初入閣、寺内正毅内閣では内相から外相へ転任してシベリア出兵を断行し、拓殖大学学長を経て東京市長に就くと安田善次郎の支援を得て大規模都市開発「八億円計画」を立案した。関東大震災の復興を使命とする第二次山本権兵衛内閣は後藤新平を内相兼帝都復興院総裁に任命、後藤は短期間で首都機能を回復させ「大風呂敷」と揶揄されつつ今日の東京都心部の原型となる気宇壮大な近代都市建設を敢行した。植民地経営と関東大震災復興に確たる業績を残した後藤新平は、資格も野心も満々ながら何故か首相になれず、「政界の惑星」(恒星になれない)のまま71歳で永眠した。
安田善次郎と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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