創業者の乾恒雄から「オリックス」を承継し「改革利権」で肥大化した「規制改革の旗手」、小泉構造改革を牽引したが「村上ファンド」「かんぽの宿」で正体露見
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宮内 義彦
1935年 〜 年
40点※
宮内義彦と関連人物のエピソード
- 日本の自動車生産が米国を抜いて世界一となった1890年の翌年、元役者のロナルド・レーガンが共和党から米大統領に就任した。軍産複合体が担ぐレーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)で「悪の帝国」と呼ぶソ連に過剰な軍拡戦争を仕掛け、同時に富裕層減税も行ったため瞬く間に財政赤字と累積債務が激増、さらに米国製造業の国際競争力低下と日本製品の躍進で巨額の貿易赤字も抱えアメリカは「双子の赤字」に陥った。日米貿易摩擦は以前にも度々起り、それでもアメリカは自由貿易の原則を堅持していたのだが、レーガン政権は「米国産業が輸入品に負けるのは、米国が悪いのではなく、相手国が悪いからだ・・・負けるとすれば相手国が市場閉鎖など不公正なことを行っているからにちがいない。相手国の不公正な制度は米国政府自身が特別チームでも作って大いに叩いたらよい」との傲慢なドグマに捕われ、貿易赤字の元凶とみた日本経済を敵視し破壊する暴挙に乗出した。1981年「自主規制」の押付けで象徴的な乗用車輸出を崩し、中曽根康弘首相を手懐けたレーガン政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ「プラザ合意」で急激な円高を強要、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強要し、スーパー301条で対日制裁を強化した。アジア製品の減価で日本の輸出産業は「円高不況」に陥ったが米国製品の輸出も伸悩み、逆に日本では積極的金融・財政政策で内需が喚起され「バブル景気」が発生、1989年にはアメリカの象徴ロックフェラーセンターやコロンビア映画を日本企業が買収する事態となった。業を煮やしたアメリカは保護貿易の枠さえ踏越え金融・不動産・流通などGHQ以来の「日本経済の再解体」を決意、FRBのBIS規制と日米構造協議が決定打となって1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。「防衛協力」で散々貢いだ挙句に経済破壊の内政干渉を黙って受入れた中曽根康弘首相は、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係と1806日の長期政権を築いたが、その代償は余りに大きく日本は「2度目の亡国」へ引込まれた。
- 中曽根康弘は、小派閥の領袖ながら1806日の長期政権を築いた「政界の風見鶏」、レーガン米大統領に追従し「ロン・ヤス」関係を築いたが、対日経済制裁と「プラザ合意」を受入れ「バブル経済」「失われた10年」の元凶となった。中曽根康弘は東大法学部から内務省へ進み海軍へ志願転出、1947年民主党から衆議院議員に初当選し、日の丸を立てた白塗りの自転車で徘徊し「青年将校」と称された。河野一郎に属した中曽根康弘は「国権回復論」を唱え吉田茂の従米政権を批判したが、欧米遊学でキッシンジャーや正力松太郎と通じ米国の「原子力平和利用」に便乗、1955年原子力基本法を成立させ、1959年科学技術庁長官で初入閣し原子力委員会委員長を兼ねた。中曽根康弘は、吉田茂直系の池田勇人政権で不遇を託ち、河野一郎の死に伴い1966年中曽根派を結成し佐藤栄作政権を批判したが運輸相ポストに釣られ転向、改憲・自主防衛論を封印し要職を歴任した。1972年「角福戦争」で田中角栄を勝たせた中曽根康弘は存在感を高め通産相に就任、続く三木武夫内閣では幹事長のくせに「三木おろし」に加担し、「四十日抗争」では福田赳夫に付いたが土壇場で大平正芳首相へ寝返って田中派に恩を売り、1982年「田中曽根康弘内閣」「角影内閣」を組閣した。極端な従米路線を採る中曽根康弘首相は、対韓経済援助40億ドルの肩代りを買って出、NTT・JT・JRの三公社民営化で「新自由主義」に迎合、日本を米国の「不沈空母」と発言した。が、忠勤も虚しくレーガン米政権は日本経済を敵視し「再破壊」を発動、無抵抗の中曽根康弘政権は制裁関税・自主規制・輸入強制に続き1985年プラザ合意で破壊的な円高を容認し、対抗的な金融・財政政策の拡大で「バブル経済」を招来した。1987年政権を竹下登に譲った後も中曽根康弘は自派閥に院政を敷いたが、後継者の渡辺美智雄は2度の自民党総裁選に敗れ、求心力低下で造反議員が続出し「中曽根さん、あんたはもう高崎へ帰りなさいよ」と罵倒された。ロッキード事件・リクルート事件をすり抜けた中曽根康弘は「御意見番」の地位を保ったが、2003年小泉純一郎首相に引導を渡され漸く引退した。
- 少壮期に「国権回復論」を唱え吉田茂の従米政権を批判した中曽根康弘は、改憲・再軍備派に期待されたが、政権に就くと極端な従米路線を採りGHQ以来の「日本経済再解体」に全面協力した。中曽根康弘個人はロナルド・レーガン大統領(共和党)と「ロン・ヤス」と気安く呼合い各国首脳の「招待外交」で存分にアピール出来たが、日本は経済面で高すぎる代償を払わされた。若き中曽根康弘は改憲・タカ派で鳴らし「吉田ドクトリン」批判で保守本流に対抗したが、かたやキッシンジャーら米国要人と誼を通じ正力松太郎と共に原子力行政を牽引した。1982年首相となった中曽根康弘は、翌年アメリカの対韓経済援助40億ドルを肩代わりし、日本の防衛に無関係なP3C等軍備の代替購入と対米武器技術供与を決定、「不沈空母」発言が批判を浴びたが釈明すらしなかった。米国の要求は「防衛協力」に留まらず、中曽根康弘政権(蔵相竹下登・宮沢喜一、外相安倍晋太郎・倉成正)は「経済音痴」では済まされない大失策を犯した。1981年発足のレーガン政権は、ソ連に対する軍事的優位を確立すべく「戦略防衛構想」(SDI)で軍拡を推進しつつ、同盟国の日本も敵視し経済破壊へ方針転換、直ちに乗用車輸出の「自主規制」を押付けた。中曽根康弘の従米政権発足で攻勢を強めたレーガン米政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ、輸出競争力を奪うべく「プラザ合意」で急激な円高を押付け、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強制、スーパー301条で対日制裁を強化した。それでも貿易赤字が減らず日本のバブル景気に業を煮やしたレーガン政権は、貿易赤字削減を逸脱して金融・不動産・流通など日本の経済システムの解体に踏込み、中曽根康弘政権はNTT・JT・JRの三公社民営化などで迎合、「BIS規制」と「日米構造協議」が決定打となり1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。露骨な内政干渉を唯々諾々と受入れた中曽根康弘首相と竹下登・安倍晋太郎・宮澤喜一ら主要閣僚は「二度目の亡国」を招いたと非難されても仕方ないだろう。
- 2003年選挙に滅法強い小沢一郎を得た民主党は同年の「マニフェスト選挙」で躍進、2005年の「郵政選挙」では「小泉旋風」に屈したが、2007年参院選で過半数議席を獲得し「衆参ねじれ国会」が現出、2009年の総選挙で憲政史上最高の議席占有率64.2%を獲得し政権交代を達成した。数だけの政権交代に懲りた小沢一郎は自民党との政策対比戦略を採用、小泉純一郎政権の地方切捨てに地方経済重視で対抗し、従米外交を捨て「国連中心主義」「東アジア共同体構想」を提唱、2009年「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第七艦隊で十分だ。あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う。米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事項についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と発言した(第七艦隊発言)。が、その10日後に「西松建設献金問題」が発生、公設秘書逮捕で小沢一郎は民主党代表を引責辞任し直後に鳩山由紀夫内閣が発足した。祖父鳩山一郎の遺志を継ぐ鳩山由紀夫首相は小沢一郎幹事長と共に従米脱却に邁進、内政干渉ツール「年次改革要望書」を廃止して在日米軍基地削減と「有事駐留」転換を図り、自主憲法制定を唱え中国に急接近したが、「普天間基地移設問題」で袋叩きに遭い鳩山首相は「最低でも県外」発言の撤回と共に辞任に追込まれた。組閣早々「尖閣問題」に躓いた菅直人内閣は従米回帰へ傾き東日本大震災・福島原発事故で政権担当能力の無さを露呈、小沢一郎は民主党代表選で対抗したが突然の「陸山会事件」で党員資格を剥奪された。「菅おろし」は成功したが、野田芳彦・前原誠司ら松下政経塾・従米派の天下となり野田政権へ移行、2012年小沢一郎グループ50人は民主党を脱党した。直後の総選挙で民主党は大敗し政権ごっこは終焉、小沢一郎は無罪が確定し「国策捜査」が明白となったが衰退著しく2013年の総選挙で「生活の党」は小沢以外全員落選の惨敗を喫し政党要件さえ失って脱原発の山本太郎一派と合流した。
- 1991年ソ連が軍拡競争で自滅し冷戦が完結、軍拡の名分を失ったアメリカでは軍事費縮小と経済再建予算増額を求める至極妥当な世論が高まり、ゴルバチョフが示唆したように「新しい敵を探さなければならない」事態に直面した。石油富豪で「軍産複合体」の一員である父ブッシュの共和党政権は、イラク・イラン・アフガニスタン・リビア・北朝鮮ら「ならず者国家」を新たな脅威に仕立て、「湾岸戦争」で乾坤一擲の巻返しに出た。イラクのサダム・フセイン政権は、もともとアメリカが仇敵イランへの対抗馬として軍事大国に育てた経緯があり、増長したフセインは米軍の介入は無いと信じ「クウェート侵攻」を強行したが、新たな敵を求めるブッシュ政権の好餌となった。日本の経済力を「米国の死活的脅威」の筆頭に掲げるアメリカは、湾岸戦争を口実に海部俊樹・宮澤喜一内閣から膨大な上納金を巻上げたうえ、「国際社会は日本の財政的貢献を評価しなかった」というアマコスト駐日大使らの偏重情報で宮澤内閣を揺さぶり「PKO協力法」で自衛隊のカンボジア派遣を引出した。小沢一郎幹事長・橋本龍太郎蔵相は「積算根拠もないままに」ブレディ米財務長官の要求額を支払い続け湾岸戦争協力金は130億ドルに膨らんだが、それでもアメリカは「遅すぎる、少なすぎる」と批判し更なる人的貢献を求めた。父ブッシュ政権は、軍縮世論を封じるため過剰に「ならず者国家」の脅威を煽り、「国防費の維持は不可欠→軍事費負担をアメリカに押付け経済競争に勝った日本はケシカラン→日本への防衛協力要求と経済破壊政策は正当」との強引なロジックで世論の矛先を日本へ向け超軍事大国の維持に成功した。1993年父ブッシュ政権は1期で倒れたが、続くビル・クリントンの民主党政権は対日懲罰を強め、2001年発足の子ブッシュ政権は「9.11」の口実を得て「予防戦争」「テロとの戦い」を開始しアフガニスタン戦争・イラク戦争の暴挙を犯した。日本ではブッシュの「ポチ」小泉純一郎が政権に就き、対テロ戦争に迎合し2003年イラク戦争に自衛隊を派遣、急激なアメリカ化と市場開放(小泉構造改革)は日本経済を破壊し「格差社会」の弊害も呼込んだ。
- 1991年ソ連崩壊で冷戦が完結し、新たな敵を求める米軍と親ブッシュ政権は「ならず者国家」を設え「湾岸戦争」を強行したが、CIAは米国覇権主義「グローバリズム」「新自由主義」に乗り「経済安全保障」分野へ軸足を移すことで組織維持に成功した。1992年末の『経済スパイとしてのCIA』には「新たな要請の約40%が経済問題である」「1990年代においては経済がインテリジェンスの主要分野になるだろう。われわれが軍事安全保障のためにスパイするなら、どうして経済安全保障のためにスパイできないのだ」といったCIA要人の談話が掲載されている。1991年の米国世論調査で「米国の死活的脅威」の断トツ1位となった「日本の経済力」がCIAの新標的であることは疑い無く、1993年発足のクリントン政権は同盟国日本から中国へ重点を移し露骨な円高誘導と「年次要望改革書」で内政干渉を強め、CIAも駆使して日本経済を「失われた10年」へ引込んだ。1995年10月15日の『ニューヨーク・タイムズ』:「昨年春の自動車問題を巡って行われたクリントン政権と日本の激しい交渉のなかで、情報機関のチームが米国交渉団に随行した。毎朝、情報機関のチームはミッキー・カンター通商代表に、東京のCIAと国家安全保障局が盗聴して集めた情報を提示した。経済的な優位を得るために同盟国をスパイすることがCIAの新しい任務である。クリントン大統領は経済分野での諜報活動に高い優先順位を与えた。財務省および商務省はCIAから大量の重要情報を入手した」・・・対日経済諜報は公然の事実であった。対する日本では宮澤喜一首相は吉田茂直系の従米派で政権を握る小沢一郎もブッシュ政権の言いなり、湾岸戦争への130億ドル献金とPKO協力法・自衛隊派遣を強行し「日米構造協議」で公共投資増額を受容した。日本経済は最早敵では無く、子ブッシュ米政権とCIAは2001年「9.11」を好餌に「テロとの戦い」へ移行、情報通信技術の発達が「同盟国に対する諜報活動」の暴走を招き通信傍受システム「エシュロン」が登場、2014年スノーデン元CIA職員の告発で全人類規模の通信傍受活動が露見した。
- 田中角栄の祟りか、自民党最大派閥を簒奪し首相に就いた竹下登は1987年「リクルート事件」で退陣し、1992年共謀者の金丸信も「東京佐川急便事件」で失脚し翌年小沢一郎の造反で細川護熙内閣が成立、「55年体制」の終焉を見届けた田中角栄は4ヵ月後に亡くなった。が、祖父の近衛文麿にソックリな細川護熙は1年足らずで政権を投出し、非自民連立の羽田孜内閣も64日で瓦解、1994年自民党(河野洋平総裁)は社会党と連立を組んで村山富市内閣を成立させ政権与党に返咲いた。革新政党の存在意義を放棄し「村山談話」(侵略戦争を謝罪)で迷走を極めた村山富市内閣は2年保たず、1996年竹下登から「経世会」(旧田中派)を継いだ橋本龍太郎が自民党政権を復活させた。橋本龍太郎は、湾岸戦争時の海部俊樹内閣の蔵相で小沢一郎幹事長と共に「積算根拠もないままに」130億ドルもの金をアメリカに貢いだ従米派、首相に就任すると「日米同盟」強化を掲げ「防衛協力」を粛々実行した。さらにバブル崩壊後の経済再建を期待された橋本龍太郎政権は「不良債権処理」「グローバリゼーション」の名の下に米国主導の「金融ビッグバン」「規制緩和」を推進したが、「ハゲタカ・ファンド」など外資の跳梁跋扈を招いただけで日本経済の傷口を広げた。しかし自意識の強い橋本龍太郎は国内マスコミの前ではアメリカと対等を演じ、「天安門事件」後の中国に西側閣僚で初めて訪問(当時蔵相)、政権に就くと日米首脳会談でクリントン大統領に普天間飛行場返還を要求し「何回か、日本政府がもっている米国債を大幅に売りたいとの誘惑にかられたことがある」と爆弾発言、尤もな主張ながら驚いた米国株式市場は一時大幅安となった。「新党ブーム」は終わり人気者の橋本龍太郎は長期政権を期待されたが、1998年共和党の揺さぶりでイラク攻撃へ傾いたクリントン大統領に長野冬季五輪中の武力行使自粛を求めて怒りを買い、間もなく行われた参議院選挙で自民党が惨敗し引責辞任に追込まれた。後継首相には経世会盟友の小渕恵三が就任、2001年森喜朗内閣の後継選で橋本龍太郎の復帰が有力視されたが小泉純一郎の「劇場型政治」に敗北した。
- 小泉純一郎は、「劇場型政治」で史上断トツの内閣支持率を獲得し1980日の長期政権を樹立、子ブッシュ米政権に追従し「聖域無き構造改革」と宿願の「郵政民営化」を強行したが、公約の景気回復・行財政改革は進まず国体破壊・国債残高急増・格差社会を招く無残な結果に終わった。小泉純一郎は「刺青大臣」小泉又次郎の孫で父の急死で横須賀の地盤を継ぎ、福田赳夫の「清和会」に所属し1972年30歳で衆議院議員初当選、1988年厚生相で初入閣したが、山崎拓・加藤紘一と反経世会連合「YKK」を組み無謀な郵政民営化主張で変人扱いされた。2001年森喜朗(清和会)内閣の後継選で、「自民党をぶっ壊す」「構造改革なくして景気回復なし」と連呼する小泉純一郎が経世会の橋本龍太郎に逆転勝利(小泉旋風)、田中眞紀子人気も手伝い内閣支持率は80%を超えた。小泉純一郎首相は、亀井静香・平沼赳夫ら「抵抗勢力」を排斥し、米国流「新自由主義」の竹中平蔵とオリックスの宮内義彦を旗振り役に「小泉構造改革」を強行したが、郵政民営化・日本道路公団分割民営化・健康保険本人3割負担・個人情報保護法・製造業派遣解禁・法科大学院設置・商法改定(会社法)等々、いずれも実態は日本のアメリカ化・市場開放策に過ぎず、「景気回復」は空手形で大混乱と膨大な財政ロスをもたらした。外交面でも小泉純一郎首相は従米路線に邁進、「9.11テロ」発生と同時に対テロ戦争参加を表明し「テロ対策特別措置法」制定、2度の訪朝と「日朝平壌宣言」で使命に掲げた「拉致問題解決」を前進させたが、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼ぶブッシュ大統領に叱られ従順な「ポチ」となった。2003年ブッシュ米政権が「イラク戦争」の暴挙に及ぶと小泉純一郎首相は即座に自衛隊派遣を決定し、「日米同盟 未来のための変革と再編」で日米同盟を全世界の「予防戦争」へ拡大、ブッシュ邸招待を「ご褒美の卒業旅行」に2006年任期満了で勇退し北朝鮮外交で浮上した安倍晋三(岸信介の孫)に政権を譲った。2009年小泉純一郎は隠居し次男の小泉進次郎が衆議院議席と人気を承継、翌年ゆうちょ銀行の米国債大量購入が発覚し郵政民営化の真相が垣間見えた。
- 2001年「9.11同時多発テロ」が発生、石油富豪で「軍産複合体」の一員である子ブッシュの米共和党政権は即座に「アルカイダ」の犯行と断定しアフガニスタン・タリバン政権にウサマ・ビン・ラーディンらの引渡しを要求、応じないと見るや僅か1ヶ月で「アフガニスタン戦争」に踏切った。米軍は2ヶ月で作戦を終えタリバン政権を崩壊させたが、ブッシュ政権はテロの温床と見做すタリバンの撲滅(石油利権の奪取)に固執し軍隊を駐留し内政に介入、民衆も巻込んだ泥沼の長期戦に嵌り込んだ。ブッシュ政権は米国民の狂気を煽り正体不明な「テロとの戦い」はイスラム圏全域へ波及、「湾岸戦争」で父ブッシュ政権が取逃したサダム・フセインへ矛先を転じ「イラク戦争」に突入した。「①イラクが大量破壊兵器を大量保有している、②イラクはアルカイダと協力関係にある、③先制攻撃しないとフセインはいつ世界を攻撃してくるかわからない」というアメリカの主張は根拠薄弱で、明らかな勇み足に露仏中独は猛反対し国連も同意しなかったが、ブッシュ政権は英豪ポーランドを抱込み伊蘭韓など30余国の「有志連合」でお茶を濁し2003年3月イラク攻撃を敢行、日本の小泉純一郎政権も自衛隊派遣で追従した。米軍は瞬く間にフセイン政権を倒し軍政を敷いたが、重しを除いたことでイスラム宗派対立と民族問題が噴出し内戦状態が出現、悩める米軍は2006年にフセイン・2011年にビン・ラーディンを殺害したが効果は無かった。さらに何処を探してもアメリカの開戦根拠は見つからず、中東の石油利権と軍需産業を代弁するブッシュ政権の「私闘」であることが明白となった。イスラム全域で反米感情が爆発し米軍や露仏からの武器流入でテロ組織が乱立する最悪の事態となり、2012年オバマ米政権は米軍を完全撤退しイラク戦争から手を引いたが、2015年シリア問題にもたつく間にイラク・バアス党の将校群を吸収したISが新たな主役に躍り出た。スティグリッツが「イラク戦費3兆ドルの衝撃」で予期したとおり多くの戦傷病者を抱えるアメリカは戦後も膨大な負担に悩まされ、引けない米軍は学資援助を餌に低所得層を狩り中東の前線へ送り続けている。
- 毎日新聞報道:「米政府系住宅金融機関二社が経営危機を迎えていた2008年8月下旬、日本政府が外貨準備を使って両社の支援を検討していたことが5日、関係者への取材でわかった。入札不調に終わる懸念があった二社の社債数兆円を、日本政府が買い支える計画だった。世界的な金融危機におちいる瀬戸際とはいえ、公的資金で外国の金融機関を救おうとしたことはきわめて異例で、経済的に密接不可分な日米関係の特殊性を明らかにする事実といえる」。この暴挙は、2008年9月1日の福田康夫首相の退陣表明で政府が機能不全に陥ったため、実現しなかったといわれている。急に政権を投げ出した福田康夫首相は厳しい批判に晒されたが、子ブッシュ大統領からのアフガニスタンへの自衛隊大規模派遣要求を拒絶し続けたことも考え合わせると、内閣自爆によって米国の野望を挫き国益を守った可能性が高い。それにしても、ここまで横暴な子ブッシュ大統領と蜜月関係を築き長期政権を保った小泉純一郎は、一体どれだけの日本国益を犠牲にしてアメリカに貢いだものか想像するだに恐ろしい。
- 中内功は、高度経済成長下「価格破壊」で流通革命を牽引した「ダイエー」の創業者だが、消費変化に取残されバブル投資に狂奔し破滅した。神戸高等商業学校を出た中内功は20歳で徴兵されフィリピンで死線を彷徨ったが、戦後マニラの捕虜収容所から神戸に帰還した。家業の「サカエ薬局」で現金仕入れを覚えた中内功は、1957年大阪千林駅前に「主婦の店ダイエー薬局店」を開業、安売り攻勢と牛肉特売で人気を博し、関西から日本全国へ店舗網を拡げ「何でも揃う」スーパー業態を確立した。1971年ダイエーは株式上場を果し翌年小売業売上高日本一を達成、中内功はあらゆる事業に手を拡げ1975年コンビニ「ローソン」を開業した。ダイエーの「価格破壊」を消費者は歓迎したがメーカーは猛反発、中内功は松下電器産業と「30年戦争」を戦いつつPB商品を拡大した。M&Aに目覚めた中内功は同業のマルエツ・ユニード・忠実屋にハワイの商業施設まで買収し規模の拡大に邁進したが、消費ニーズの質的変化に適応できず「ダイエーには何でもあるが、欲しいものは何もない」状態に陥った。ジャスコ(イオン)やイトーヨーカ堂が台頭するなか、ダイエーは1983年から3期連続赤字で経営危機、中内功は「もう一度、俺を男にしてくれ」と号泣し河島博副社長(元ヤマハ社長)らに再建を託した。新経営陣の「V革」でダイエーが復活すると中内功は経営権を強奪し暴走開始、リッカーミシン買収、神戸オリエンタルホテル買収、流通科学大学創立、新神戸オリエンタルシティ建設、ホークス球団買収を僅か2年で片付け借入金を膨張させた。バブル崩壊後も止らない中内功は1992年リクルートの巨額買収を強行、福岡ドーム球場に巨費を投じ怪しい「バブル紳士」の金主にもなった。同族支配に固執する中内功は有力幹部を悉く追放し、ダイエーは自浄作用を失い1999年赤字転落で経営危機が再燃、中内功は会長へ退いたが後任社長の鳥羽董がインサイダー嫌疑で退任し銀行団は匙を投げた。2001年粘る中内功と一族は完全追放されたが時既に遅し、ダイエーの産業再生機構送りが決まった翌2005年、全てを失った中内功は波乱万丈の生涯を閉じた。
- 「Japan as Number One」と持て囃された日本式経営はバブル崩壊で失墜し、高度経済成長を象徴するソニーや松下電器産業も長引く円高不況で没落、「グローバリズム」「新自由主義」の美名のもと世界は米国覇権主義に染められた。政治経済の米国化と規制緩和の大波は日本にも押寄せ、小泉純一郎の従米政権のもと「改革利権」で肥大化した宮内義彦のオリックスや、堀江貴文のライブドアら怪しいベンチャー成金が台頭する事態となった。孫正義の「ソフトバンク」もM&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」で膨張し、規制緩和に乗じ巨大通信企業にのし上がったが、徒手空拳の創業から30余年でトヨタ自動車に次ぐ株式時価総額10兆円に到達した偉業は「日本史上最高の経営者」の名に値する。さらに孫正義は、米国企業家の模倣者でも単なる友人でもなく数少ないリーダーの一人であり、ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)、スティーブ・ジョブズ(アップル創業者)、ジェリー・ヤンおよびビッド・ファイロ(ヤフー創業者)、エリック・シュミット(グーグルCEO)、ルパート・マードック(豪メディア王)、マーク・アンドリーセン(ネットスケープ創業者)、ラリー・エリソン(オラクル創業者)、ジャック・マー(アリババ創業者)らと対等の交友関係を築いており、時価総額10兆円が安く思えるほどの人脈を誇る。松下幸之助や本田宗一郎など「ものづくり」で世界の賞賛を浴びた日本人経営者はいたが、「アメリカ人社会」やサービス分野では明らかに孫正義が先駆者であり現時点では日本人唯一の国際的企業家であろう。
- 孫正義は、佐賀県鳥栖市で密造酒・家内養豚を営む貧しい在日朝鮮人家庭に生れ過酷な幼少期を送ったが、父の安本(孫)三憲がサラ金とパチンコ経営で財を成し高等教育を施された。孫正義は名門久留米大附設高校へ進んだが在日差別に生存を脅かされ単身渡米、名門カリフォルニア大学バークレー校で猛勉強に励みつつ、自動翻訳機の製作や中古インベーダーゲーム機の輸入販売など起業活動に励んだ。卒業した孫正義は翌1981年東京に「日本ソフトバンク」を設立、パチンコ店の全国展開に挫折し重度の慢性肝炎で死線を彷徨ったが闘病3年で奇跡的に蘇生し、ハドソンとの契約やラオックスの売場確保でPCソフト市場を独占、「一太郎」の取扱いや自作のLCR「NCC-BOX」で業績を伸ばし、「ソフトバンク」への改称を機に日本に帰化した。1994年ソフトバンクの株式上場で資金力を得た孫正義は、神業的目利きと米国IT人脈を武器に、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」を始動した。1995年友人ジェリー・ヤンの「Yahoo!」起業に際し孫正義は社運を賭けて主要株主となり合弁で「Yahoo! JAPAN」(ヤフー株式会社)設立、両社とも僅か1年で株式上場を果し株価急騰で「ITバブル」の寵児となった。膨大な軍資金を掴んだ孫正義はソフトバンクを持株会社化し、小泉純一郎の米国化政策に乗りM&Aと子会社上場(北尾吉孝の「SBI」・弟孫泰蔵の「ガンホー」など)に邁進、テレビ朝日買収未遂で名を馳せ、自ら証券取引所「ナスダック・ジャパン」創設、日債銀買収で得た巨利を「ソフトバンクBB」に投じ、ダイエー球団を買収し「福岡ソフトバンクホークス」のオーナーとなった。規制緩和に乗じ「日本テレコム」「ボーダフォン」を買収した孫正義は情報通信を本業に定め「光の道」構想に邁進、2013年米国「スプリント」の買収で携帯キャリア世界3位へ躍進した。2014年中国「アリババ」の超大型上場で筆頭株主のソフトバンクはトヨタ自動車に次ぐ時価総額10億円を達成、日本一の大富豪となった孫正義は「メディア支配」を睨みつつ、東日本大震災を機に反原発・自然再生エネルギー事業の商機を窺う。
- 稲盛和夫は、世界的電子部品企業「京セラ」の創業者で「KDDI」創設も主導したM&A経営の泰斗だが、正体不明の「アメーバ経営」を唱え松下幸之助ばりの「盛和塾」「京都賞」に言論・財界・慈善活動で自己宣伝に励むも胡散臭さを拭えない。鹿児島の印刷屋に生れた稲盛和夫は鹿児島県立大学から京都の町工場「松風工業」に就職、3年で退職し1959年「京都セラミック」を設立した。京都には村田製作所など良き手本もあり、稲盛和夫は旺盛な「三種の神器」需要を追風に電子部品事業を拡大し1971年株式上場、「京セラ」へ改称し欧米へ販路を拡げた。電気通信事業自由化を商機と見た稲盛和夫は1985年第二電電(DDI)を設立、1997年に会長を退きDDIはKDD・IDOと合併しKDDIとなったが、筆頭株主の京セラは上場で巨利を博した。日本の米国化を予期した稲盛和夫はM&A戦略を始動、タイトー買収では業績を上げて株式上場しスクエニへの転売で大儲けした。携帯電話の勃興期を満喫する京セラにバブル崩壊は無縁で、稲盛和夫は小泉純一郎の米国化政策に乗じM&Aを加速、三田工業・東芝ケミカル・キンセキ・三洋電機・ソニーのTFT液晶ディスプレイ事業など携帯関連事業を次々傘下に加え、太陽光発電や中国市場へも手を拡げた。財界活動にも熱心な稲盛和夫は小沢一郎の民主党を支援、2010年JALが経営破綻すると鳩山由紀夫首相の肝煎りで会長に就任し(内閣特別顧問兼任)業績V字回復で2年後に再上場を果した。稲盛和夫の経営塾とノウハウ本は繁盛したが、公的資金注入の条件として労働組合に経営実態と乖離した賃金と年金の適正化を呑ませたに過ぎず、さらに京セラが再上場前のJAL株式を大量取得し膨大な評価益を稼いだインサイダー取引が露見した(不起訴)。稲盛和夫は1986年に社長を退き2009年取締役も退任、京セラでは6代も社長が代ったが同社HPには名前も載らず登場人物は創業者のみ、2015年末現在83歳の稲盛和夫は京セラに君臨し続けている。売名行為を嫌い一般には無名の村田昭、社員の貢献を綴る村田製作所のHPとは対照的で、稲盛和夫の京セラは「一将功なって万骨枯る」の観がある。
宮内義彦と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照