史上最高の内閣支持率を背景に長期政権を担い、米国に迎合して郵政民営化等「聖域無き構造改革」と「対テロ戦争」を推進、景気回復・行財政改革どころか国債残高急膨張だけを残した「劇場型政治」創始者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
小泉 純一郎
1942年 〜 年
0点※
家系・子孫
- 三浦六浦の農家に生れた小泉由兵衛は、海軍工廠が建ち軍港都市化する横須賀に移り住み人足斡旋業兼鳶職「小泉組」を立上げた。次男の小泉又次郎が後を継ぎ全身刺青の「親分」で名を売ったが、民政党の暴力組織「院外団」から市議・県議へ進み「日比谷焼打事件」で国政を志し1908年衆議院議員初当選、民政党内閣で逓信相となり「刺青大臣」と呼ばれた。代議士就任に際し小泉又次郎は小泉組を弟の岩吉に譲って身辺整理し芸妓屋を営むナヲと結婚、金銭欲が薄く貧乏な又次郎の政治資金は小泉組とナヲが工面した。小泉又次郎は芸者好きの艶福家ながら一子も出来ず、女中ハツの私生児(隠し子説あり)芳江を養女に貰った。小泉芳江は、養父を手伝ううちハンサムな民政党事務員鮫島純彌と駆落ちし大騒動の末に婿養子に迎えた。鮫島純彌改め小泉純也は故郷の鹿児島から衆議院議員となったが、翼賛政治会に関った罪で小泉又次郎と共に公職追放に遭遇し一家は忽ち困窮した。1951年公職追放解除の年に小泉又次郎は病没し、横須賀の地盤を継いだ小泉純也は演説上手で「安保男」と囃され衆議院に復籍、1964年60歳で初入閣(防衛庁長官)を果し5年後に病没した。小泉純也・芳江夫妻には二男三女があったが次女隆子を除いて自立せず政治で飯を食う状態、イギリス留学中の長男小泉純一郎が急遽呼戻されたが直後の衆院選に落選した。小泉純一郎は福田赳夫(亡父が属した岸信介派の後継者)の書生となり『小泉又次郎伝』で地元民に哀訴、食扶持を失った横須賀の小泉一家は母芳江の統率のもと三女信子と次男正也が地元固め・長女道子が家事全般という役割分担で政治活動に邁進し、3年後の衆院選勝利で家族は公設秘書等の職にありついた。小泉純一郎はエスエス製薬社長の孫娘宮本佳代子と恋愛結婚し小泉孝太郎(タレント)・小泉進次郎(衆議院議員)・佳長の三男をもうけたが、佳代子は良妻賢母ながら小泉家の団結に弾かれ離縁された。なお、小泉純一郎の甥(力也の子)小泉正也はホストクラブの無許可経営で逮捕され、小泉道子の前夫竹本公輔は窃盗常習犯で入出獄を繰返している。
小泉純一郎と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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