流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、没後25年で家を滅ぼされ毛利元就の引立て役に落ちたが瞠目すべき天才武将
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尼子 経久
1458年 〜 1541年
80点※
尼子経久と関連人物のエピソード
- 山中鹿介幸盛は、「七難八苦を授けたまえ」と月に祈り一騎打ちで武名を上げ、3度の尼子再興軍で毛利氏に挑み、最後は織田信長に見捨てられ上月城合戦で敗死した不撓不屈の勇将である。江戸時代を通じて軍記物や講談で人気を偶像化され、頼山陽・勝海舟・板垣退助などから絶賛され、第二次大戦期には教科書にも採用され忠君愛国の代名詞となった。山中鹿介は、尼子経久死の4年後に尼子一族山中家に生れ、8歳にして人を斬り、13歳の初陣で首を得る早熟ぶりを発揮した。病弱な兄に代わって山中家の家督と「三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑」を相続すると、毛利の豪傑菊池音八・品川大膳を一騎討ちで討取り、怖気ずく重臣連を叱咤して特攻作戦を画策したが、1566年21歳のとき出雲月山富田城が陥落し戦国大名尼子氏は滅亡した。諸国遍歴に出た山中鹿介・立原久綱ら尼子残党は、京都東福寺にいた尼子勝久を還俗させて主君に担ぎ、1569年大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、毛利の北九州攻めの虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻するが富田城を落とせず、大友と和睦した毛利の大軍が来襲、渦中に毛利元就は死去したが、猛将吉川元春に敗北した(第一回尼子再興)。臣従を偽って助命された山中鹿介は、監視の目を潜って伯耆尾高城を脱走、諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成し、海賊働きで軍資金を蓄え、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り、但馬の山名祐豊も毛利と和睦、若桜鬼ヶ城で奮戦するも挽回ならず逃走した(第二回尼子再興)。山中鹿介と尼子再興軍は、織田信長に臣従し、明智光秀に属して転戦した後、豊臣秀吉の中国侵攻軍に加えられた。そして1578年、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、山中鹿介は斬殺された(第三回尼子再興)。尼子再興軍を承継した部下の亀井茲矩は、徳川家康に転じて4万石の大名となった。清酒の発明から大名貸しで日本屈指の財閥となった鴻池家には、鹿介の遺児山中幸元を家祖とする伝承がある。
- 毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。
- 吉川元春は、12歳の初陣から64戦無敗を誇り父毛利元就の山陰経略を担って出雲尼子氏を滅ぼし三度の尼子再興軍を粉砕した中国地方最強武将である。弟の小早川隆景と共に元就・輝元を支える「毛利両川」と称された。1541年吉田郡山城の戦いで12歳にして初陣を飾り、母の実家吉川氏の養嗣子となり吉川興経・千法師父子を殺害して家中を掌握、安芸新庄に日野山城を築いて本拠とし、1555年厳島の戦いで義兄弟の陶晴賢を討った。石見攻略を託された吉川元春は大内方諸豪を平らげて石見銀山で尼子晴久と対峙、1562年大友宗麟を撃退した毛利軍が山陰へ押寄せると守将の本城常光を族滅して石見を制圧し、1566年出雲月山富田城に籠る尼子義久を降伏させ一気に山陰道を蹂躙、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中の10ヵ国制覇を達成した。1569年龍造寺隆信と通謀した毛利元就は豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景は拠点の立花山城を攻略するも立花道雪の奮戦で戦線膠着、大友宗麟の後方撹乱策で山中鹿介の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)が起り九州戦線を放棄した。反乱討伐に戻った吉川元春は、元就病没の大不運に見舞われるなか弔い合戦と称して山陰戦線に踏み留まり尼子再興軍を撃滅して出雲・石見・伯耆を回復、逃亡した山中鹿介が因幡鳥取城を奪うが城主の山名豊国を寝返らせ鹿介を敗走させた。1577年黒田官兵衛の要請に応じた織田信長が毛利攻めを開始し豊臣秀吉軍団が播磨へ来襲、吉川元春・小早川隆景は三木城主別所長治を寝返らせ上月城を落として山中鹿介と尼子再興軍を討果すが、元春の危惧通り備前の宇喜多直家が寝返り三木城陥落で播磨を断念、山陰に転じた秀吉軍団に鳥取城を攻め破られたが元春は決死の覚悟で伯耆国境を防衛した。1582年備中高松城が水攻めで落城寸前に陥るなか突如秀吉が和睦を提案、元春は涙を呑んで清水宗治切腹を了承したが間もなく信長討死が発覚、追撃を主張するも隆景に退けられた。天下人秀吉に臣従した毛利家で吉川元春は隠居して従軍を拒絶したが、最期に膝を屈して九州征伐に赴き豊前小倉城で陣没した。
- 小早川隆景は、父元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て120万石を保ち五大老に任じられた智将、「器量の無い毛利輝元は天下の軍事に関わらず領国を堅守すべし、違えれば所領を失い身も危うし」との遺命に背いた愚甥は関ヶ原合戦の西軍総大将に担がれるが南宮山の毛利軍は参戦せず小早川秀秋の寝返りで勝利を献上、輝元は不戦のまま大阪城を明渡すも防長36万石に押込められた。11歳で小早川氏の養子に出され1550年17歳のとき後嗣の又鶴丸を出家させ反対派を粛清して家督を簒奪、安芸・備後沿岸部の支配を確立した毛利元就は大内家から独立し、1555年旧主大内義隆を滅ぼした陶晴賢を討滅、小早川隆景は村上水軍を味方に付けて海上封鎖を成功させた(厳島の戦い)。防長計略を終えた元就は1566年旧主尼子氏を攻め滅ぼし、山陽道を託された小早川隆景は豊前門司城の戦いで大友宗麟を撃破し伊予の反乱も制圧するが、立花道雪の奮戦と山中鹿介の後方撹乱に屈して九州戦線を放棄、1571年大黒柱の元就を喪った。1575年小早川隆景は主君浦上宗景を追放して備前を掌握した宇喜多直家と同盟し、織田信長へ寝返った三村元親(直家は父の仇)を滅ぼして備中を押え播磨へ侵出、信長包囲網に加盟して石山本願寺への兵糧補給を敢行し、豊臣秀吉・黒田官兵衛と対峙した。三木城主別所長治を寝返らせ上月城に籠る山中鹿介を討って優勢に立ったが、宇喜多の寝返りで要の三木城が落城、荒木村重・本願寺顕如も信長の軍門に降り、鳥取城を落とされ備中高松城は秀吉の水攻めに晒された。1582年毛利攻めに向かう信長が明智光秀謀反で落命、小早川隆景は備中・備後・伯耆の割譲を条件に和睦を受入れて追撃せず、秀吉は中国大返しで仇討ちを果し賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討伐、隆景は天下人秀吉に帰順し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵され、天下統一戦に従軍して筑前・筑後・肥前1郡の37万石を与えられた。朝鮮役では6番隊を率いて出征し立花宗茂と共に碧蹄館の戦いに勝利、秀吉が輝元の養嗣子に押付けてきた小早川秀秋(秀吉正室北政所の甥)を自分の養嗣子に迎えて毛利家を守り3年後に病没した。
- 天下を獲った織田信長軍団以外で、一代で最大版図を築いた毛利元就の下克上ストーリーはスケール壮大で最も面白い。殊に神業ともいうべき権謀術数は痛快で逸話も多いが、温厚で律儀な一面のせいか卑劣さは感じられない。毛利元就の人生は、疑えば疑えることだらけだ。先ず、父毛利弘元に続き兄で当主の興元も「酒毒」で若死にしている。興元存命なら元就の出世はなかっただろう。続く幸松丸は9歳で亡くなったが、先立って外祖父高橋興光を滅ぼしていることや、既に実権を握る元就の襲封に反発する家臣が多かったことを考えると、謀殺の可能性大とすべきだろう。このとき弟の就勝(元綱とする説もあり)と与党を殺害したともいう。安芸に勢力を伸ばし国人の盟主となった毛利元就にとって、安芸守護の名目を保つ武田氏は最も目障りだった。直接手は下していないが、自派の熊谷信直が武田光和に叛逆し退陣中に光和が急死、毛利派優位の武田家臣団は混乱し後嗣を立てられずに雲散霧消した。吉田郡山城の戦いでは反抗勢力を皆殺しにし、権臣井上元兼一族30人の誅殺も断行している。小早川家と吉川家との養子縁組は各家臣と組んだ露骨な謀略で事後に反対派を粛清しているが、吉川家簒奪は妻妙玖の死の直後という点が心憎い。毛利元就最大の転機は陶晴賢謀反・大内義隆滅亡だが、予て陶叛逆の噂は高く、事変後は即座に陶に属し働いている。尼子と陶の提携・挟撃を恐れる元就は、両家の要である尼子新宮党と江良房栄を除くことを企て、尼子晴久に新宮党を、陶に江良を討たせる計略を成功させている。勝負を賭けた陶晴賢との決戦では、圧倒的な兵数の劣勢を挽回するため狭い厳島におびき寄せる策を立て見事に成就させた。敵方スパイの逆利用や、偽の密書を懐に忍ばせた使者を敵陣で殺して発覚させるといった計略を用いたともいう。「三本の矢」は後世の作為だが、筆まめで律儀な毛利元就は一族郎党に手厚い訓戒を残している。そのなかで「毛利氏が大になったから家臣は面従しているに過ぎない、毛利一族は固く団結して決して心を許すな」という遺訓は謀略王ならではであろう。
- 大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。
- 宇喜多直家は、流浪の身から有力者を次々謀殺して身代を奪い主君浦上宗景を追放して備前を乗取った悪逆無道の卑劣漢、毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保つが嫡子秀家が関ヶ原合戦に敗れ子孫は流刑地の八丈島で逼塞した。祖父宇喜多能家は浦上氏を播磨・備前・美作の領袖へ導いた勇将だったが、大物崩れで浦上村宗が討取られ尼子経久の侵攻で主家が没落するなか後継の浦上政宗に嫌われ政敵の島村盛実に殺害された。5歳の宇喜多直家は流浪の身に転落したが元服後に浦上宗景(政宗の弟)に出仕すると、毛利元就と同盟し政宗に取って代った宗景の下で勢力を伸ばし、沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々と謀殺して所領を奪い邪魔者の浦上政宗・清宗父子も始末した。主君宗景を凌ぎ備前の実権を握った宇喜多直家は、美作を争う三村家親(毛利被官で備中領袖)を鉄砲で暗殺し、1567年父の仇を討つべく備前へ来襲した三村元親を撃退し毛利氏と対峙した(明禅寺合戦。直家唯一のまともな戦功)。1569年浦上宗景・赤松義祐が播磨の赤松政秀を攻撃、織田軍が来援すると宇喜多直家は宗景に反旗を翻すが、姫路城を攻めた政秀が黒田官兵衛に逆襲され龍野城を落とされ滅亡(毒殺)、辛くも助命された直家は臥薪嘗胆で主家簒奪の機を窺った(青山・土器山の戦い)。織田信長の脅威が山陽道に及び浦上宗景と播磨の小寺政職・黒田官兵衛・別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)らが織田に帰順すると、1575年宇喜多直家は毛利と同盟して対抗、直家憎しで織田へ奔った三村元親を討ち滅ぼし、宗景を敗走させて備前を制圧(天神山城の戦い)、宗景の嫡子浦上宗辰に娘を娶わせ偽りの和議に誘って毒殺した。が、1577年毛利討伐を決意した信長が豊臣秀吉軍団を派遣すると忽ち織田へ寝返り、娘婿の三星城主後藤勝基を毒殺して美作を制圧、三木合戦を織田軍勝利へ導いた。翌年宇喜多直家は備前岡山城で病没、嫡子宇喜多秀家は秀吉に厚遇され五大老・朝鮮役総大将に抜擢され関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦したが敗亡、流刑地の八丈島で生涯を終えた。
尼子経久と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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