流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、没後25年で家を滅ぼされ毛利元就の引立て役に落ちたが瞠目すべき天才武将
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尼子 経久
1458年 〜 1541年
80点※
家系・子孫
- 尼子氏は、近江源氏佐々木氏の末流で、佐々木道誉の孫高久が所領の近江犬上郡尼子から名字を採った。出雲は鎌倉時代初期から佐々木氏の管国で、一時山名氏に奪われたが、応仁の乱後に佐々木(京極)氏が奪回し、高久の次男持久を出雲守護代に任じ月山富田城に拠らしめた。軍記物によると・・・持久を継いだ嫡子の尼子清定は、領民に対して暴悪であったばかりでなく、主家京極氏に叛逆して税収を全部横領、大軍に攻められて敗走し行方知れずのまま世を去った。清定には経久・久幸の二男があり、山深い生母の実家へ落ち延びたが、厄介者に居場所は無く、成長すると養家を出て諸国を流浪、乞食坊主に身をやつして餓死を免れつつ、復讐心と尼子家再興の意志を研ぎ澄ましたという。出雲を回復した尼子経久は、吉川経基の娘を妻に迎え、政久・国久・興久の三男をもうけた。嫡子尼子政久は、智勇に優れた頼もしい跡取りであったが、出雲磨石城攻城戦で運悪く落命、激怒した経久は次男国久に猛攻を命じ城兵悉くを誅殺し、政久の死を惜しみ遺児晴久を後継者とした。尼子国久は、月山富田城東北の新宮谷に拠って戦闘集団新宮党を率い、経久没後は尼子の柱石と頼られたが、権勢を妬む晴久が毛利元就の離間策に嵌り一族諸共殺害した。墓穴を掘った尼子晴久は完全にジリ貧となり、山陽道を制圧し山陰攻めに転じた毛利元就に追い詰められ、悲憤のうちに月山富田城で陣没した。その5年後、後継の嫡子義久が毛利氏に降伏し、(同時ではないが)山陽・山陰11ヶ国に支配を及ぼした戦国大名尼子氏は滅亡した。毛利元就は、尼子氏族滅を主張する吉川元春・小早川隆景らの強硬論を退け、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟を助命、義久は関ヶ原合戦後1292石の大禄を与えられて毛利家重臣に列した。義久には男児が無く、倫久の子元知が養嗣子となり、元知の子就易の代に本姓の佐々木に改めて幕末まで存続した。毛利家家臣の福永氏も尼子氏の末裔といわれる。山中鹿介が尼子再興軍の旗印に担ぎ出した尼子勝久は、国久と共に誅殺された嫡子誠久の五男である。
- 山中氏は、主家京極氏に叛逆し討伐された守護代尼子清定の弟幸久の末で尼子一族(近江源氏佐々木氏)に連なる。幸久は暴君清定の勘気を蒙り布部山に隠遁したが、子孫の山中一族は出雲に広がり、山中勝重は尼子経久の月山富田城攻略に加わったともいう。山中鹿介幸盛の父満幸は幸久の五世孫で、白鹿城主で4千貫(毛利元就の生家は3千貫)を食む尼子氏重臣であったが、鹿介誕生の翌年早世したため一家は困窮した。次男の山中鹿介は、尼子家筆頭重臣の亀井秀綱に入婿して養子となったが、長兄の幸高が病弱で引退したため復籍して山中家を継いだ。尼子再興軍参謀格の立原久綱は母の弟、生延びて豊臣秀吉・徳川家康に仕え因幡鹿野藩3万8千石の初代藩主に出世した亀井茲矩は相婿(妻の妹を養女にし嫁がせた)である。山中鹿介没後、嫡子幸元は伊丹の山中信直(鹿介の伯父)に養育され、出自を秘匿して鴻池直文と名を改め同地で酒造業を始めた(異説あり)。日本初の清酒の発明により大躍進し(叱られた手代が腹いせに濁酒の樽にかまどの灰を投じると偶然透明芳醇な清酒ができたという)、清酒の江戸回漕を手始めに海運業に乗り出すと参勤交代制発足に伴う需要急増の波に乗った。鴻池直文の男児はそれぞれ家を立てて醸造業・海運業に手を広げたが、大名貸・両替商に転進した八男正成の鴻池善右衛門家が最も繁栄し、幕府及び全国110藩(全藩の約4割)に融資を行い蔵米管理を請け負って日本屈指の財閥へ発展した。
尼子経久と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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