「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公
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山内 容堂
1827年 〜 1872年
0点※
家系・子孫
- 土佐山内氏は、秀郷流藤原氏を称し、備後山内氏の分家山内宗俊の五男俊家を家祖とする。戦国時代、山内盛豊は、尾張守護代の岩倉織田家の家老で黒田城主であったが、格下の清洲織田家から出た織田信長に侵攻され主家と共に滅ぼされた。領地を追われ流浪した三男の山内一豊は、織田信長に出仕し、豊臣秀吉の子飼に連なり遠州掛川6万石に累進、妻(見性院)の内助の功の方が有名なくらい武勲は乏しいが、小山評定で福島正則の次に東軍参加を表明し掛川城の明渡しを申出たことで運が開け関が原合戦後に土佐20余万石へ大増封された(幕末には24万2千石)。江戸時代に入り相当経過しても山内一豊の大出世は他藩士から不審・嫉妬視され、あるとき諸藩士の会合でからかわれた土佐藩士が「拙者らもそれは不審に思っていますが、大方くれた人が阿呆であったのでござろう」と返し相手を黙らせたという。次代は下って幕末、13代藩主山内豊熈、その弟で14代藩主を継いだ山内豊惇が相次いで急死し、豊惇弟の山内豊範が僅か3歳であったため22歳の山内容堂(豊信)が末期養子となり15代藩主となった。容堂の父山内豊著は、12代藩主山内豊資の弟で山内南家を興したが、知行は1500石と藩主一門にしては小身だった。山内容堂は公家の三条実万(実実の父)の養女を娶ったが嗣子を生さず、安政の大獄で山内豊範が隠退させられると山内豊範が16代藩主を承継した。明治維新後、山内豊範は侯爵に叙され、山内分家から子爵2家・男爵2家を輩出した。なお、山内家は清華家(摂関を占めた五摂家に次ぐ上級公家で左大臣まで出せた)の三条家と重縁の間柄であり、山内豊資の妹は三条実万の正室、山内容堂の正室は実万の養女、容堂の妹は実万長子の三条公睦(実美の兄)の正室であった。武市半平太・後藤象二郎らによる土佐藩の朝廷工作は概ね三条家を通じて行われ、長州藩の久坂玄瑞・木戸孝允に担がれた三条実美は禁門事変で長州へ逃亡したが(七卿落ち)明治維新で返咲き新政府の最上位に就いた。
山内容堂と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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