米内光政・井上成美と海軍「良識派」を組み日独伊三国同盟・対米開戦に反対したが、開戦が決まると乾坤一擲の真珠湾攻撃に快勝し持論の航空主兵論の正しさを証明、ミッドウェー海戦で躓き茫然自失のまま撃墜死した海軍善玉論の象徴
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
山本 五十六
1884年 〜 1943年
40点※
家系・子孫
- 山本五十六は越後長岡藩の中級藩士(家禄100石)高野貞吉の六男で、誕生時の父親の年齢に因み「五十六」(歳)と名付けられた(少年期、本人は嫌がったという)。越後長岡藩は7万4千石ながら牧野康成・忠成を藩祖とする三河以来の譜代名門で、幕末の11代藩主牧野忠恭は京都所司代・老中を歴任したが藩財政悪化に伴い退任し河井継之助に藩政を丸投げした。河井継之助は能吏ではあったが完全に時流を見誤り、横浜のイギリス武器商人からアームストロング砲・ガトリング砲・エンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入したことで野心を起し中立割拠を表明、官軍に恭順を迫られると反抗して奥羽越列藩同盟へ奔り北越戦争が勃発、長岡藩領は焼土と化し河井は領民に恨まれつつ敗死した。恭順後の長岡藩を差配した小林虎三郎は、佐久間象山の洋式兵学塾で吉田松蔭(寅次郎)と共に「象門の二虎」と称された秀才で、「米百表」を注込んだ「国漢学校」に少年期の山本五十六も学んでいる。さて戊辰戦争後、牧野忠恭は養子の牧野忠訓に藩主を譲り、筆頭家老河井継之助・上席家老山本帯刀を新政府へ差出し長岡藩は存続を赦された(2万4千石へ減封)。その半世紀後、海軍佐官に出世した山本五十六は、牧野忠篤(牧野忠恭の没後家督を継いだ五男)子爵の口添えにより、斬刑に処された山本帯刀の名跡を継いだ(30歳過ぎまで高野五十六だった)。山本家は長岡藩士ながら将軍御目見得を許された直参格の名門で、始祖は武田信玄の軍師山本勘助(三河牛窪の土豪)の弟であるという。山本五十六は、一目惚れで結婚した礼子との間に二男二女をもうけた。嫡子の山本義正は東大農学部へ進むも山本五十六元帥の遺志によりパイロットを志し海軍へ志願、近眼のため叶わず海軍整備予備学生で終戦を迎え、戦後は勤め人となった。
山本五十六と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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