叩き上げの水雷屋から、海軍内部の調整役として斎藤実の後継首相となったが二・二六事件で退陣、大戦の最終局面で東條英機内閣打倒に動いた終戦の功労者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照岡田 啓介
1868年 〜 1852年
60点※
岡田啓介の寸評
岡田啓介の史実
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1868年
福井藩士岡田喜藤太の嫡子に岡田啓介が出生
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1884年
岡田啓介が旧制福井中学を卒業
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1885年
岡田啓介が叔父の青山貞を頼って上京し海軍兵学校(15期)に入学
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1888年
鎮台制を師団制に改編
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1889年
岡田啓介が海軍兵学校を卒業し艦隊勤務に就く
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
川上操六がドイツから帰国し参謀本部次長に復職、独軍参謀総長モルトケ直伝のドイツ式軍制改革や参謀本部強化を推進
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1891年
山本権兵衛が西郷従道海相のもと海軍省大臣官房主事に就き海軍の分離独立改革を断行
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1893年
日清戦争準備の作戦会議、伊藤博文首相が川上操六(陸軍)・山本権兵衛(海軍)の開戦論を採用
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1893年
海軍軍令部設置
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1894年
岡田啓介が巡洋艦「浪速」(東郷平八郎艦長)分隊長任官
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1894年
東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」が高陞号撃沈事件を起す
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
山本権兵衛が海軍省軍務局長就任
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1898年
第二次山縣有朋内閣発足、山本権兵衛が海相・斎藤実が海軍次官就任
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1900年
第四次伊藤博文内閣(政友会)発足、山本権兵衛が海相・斎藤実が海軍次官就任
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、山本権兵衛が海相・斎藤実が海軍次官就任
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1901年
北京議定書調印
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1904年
仁川沖海戦
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1904年
日露戦争開戦
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1904年
秋山真之が第一艦隊兼連合艦隊先任参謀に昇進し東郷平八郎司令官のもと作戦立案を担う
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1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣
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1904年
第一次日韓協約締結
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1904年
岡田啓介が重巡洋艦「春日」副長任官
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1904年
遼陽会戦
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1905年
旅順攻略
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1905年
血の日曜日事件~ロシア革命が始まる
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1905年
奉天会戦
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1905年
日本海海戦
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
加藤友三郎が山本権兵衛の引きで海軍軍令部軍務局長に就任
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足、山本権兵衛に代わって斎藤実が海軍大臣就任
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1906年
加藤友三郎が山本権兵衛の引きで海軍次官に就任
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1906年
岡田啓介が海軍水雷学校教官任官
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1907年
帝国国防方針において海軍が「八八艦隊」建造計画を決定
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、斎藤実が海軍大臣就任
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1908年
岡田啓介が海軍水雷学校校長就任
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
岡田啓介が重巡洋艦「春日」艦長就任
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足、斎藤実が海軍大臣就任
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
岡田啓介が戦艦「鹿島」艦長就任
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、斎藤実が海軍大臣就任
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足、斎藤実が海軍大臣就任
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1914年
シーメンス事件、第一次山本権兵衛内閣が退陣し山本および斎藤実海相が予備役編入
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足、八代六郎が海軍大臣就任(加藤友三郎に途中交代)
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
岡田啓介が第二水雷戦隊司令官として青島攻略戦に参加
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1914年
パナマ運河開通
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1915年
岡田啓介が海軍省人事局長就任
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足、加藤友三郎が海軍大臣就任
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1917年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1918年
秋山真之死去
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1918年
シベリア出兵
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1918年
原敬内閣(政友会)発足、加藤友三郎が海軍大臣就任
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1919年
斎藤実が朝鮮総督就任(~1931)、京城到着時に爆弾を投げられる
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
岡田啓介が艦政本部長就任
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足、加藤友三郎が海軍大臣就任
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1921年
加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使がワシントン海軍軍縮条約調印を断行
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足、加藤首相は海軍大臣を兼務(財部彪に途中交代)
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1922年
加藤友三郎首相が日本軍のシベリア撤兵を断行
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1923年
関東大震災
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1923年
岡田啓介が海軍次官就任
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足、財部彪が海軍大臣就任
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1923年
加藤友三郎死去
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1923年
虎ノ門事件
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足、村上格一が海軍大臣就任
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足、財部彪が海軍大臣就任
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1924年
岡田啓介が第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官就任
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1925年
普通選挙法制定
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足、財部彪が海軍大臣就任
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1926年
岡田啓介が横須賀鎮守府司令長官就任
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1927年
ジュネーブ海軍軍縮会議
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足、岡田啓介が海軍大臣就任
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1927年
永田鉄山らが陸軍内に「二葉会」を結成
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1927年
鈴木貞一・石原莞爾らが陸軍内に「木曜会」を結成
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1928年
石原莞爾が関東軍作戦参謀に就任
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
海相を辞した岡田啓介が軍事参議官となる
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足、財部彪が海軍大臣就任(安保清種、濱口雄幸に途中交代)
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1929年
農産物価格が暴落し農家が大打撃を受ける
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1930年
幣原喜重郎外相と海軍条約派がロンドン海軍軍縮条約調印を断行
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1930年
鳩山一郎・犬養毅ら政友会が統帥権干犯問題を引起し東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(軍拡反米英派)が海軍主流となる
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1930年
濱口雄幸首相銃撃事件
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1930年
山本五十六が海軍航空本部技術部長に就任し航空兵力拡充を推進
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足、安保清種が海軍大臣就任
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1931年
永田鉄山軍事課長ら「五課長会」が「満蒙問題解決方策の大綱」を決定し関東軍へ「1年間の隠忍自重方針」を通達
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1931年
中村震太郎大尉殺害事件、万宝山事件、陸軍首脳が武力解決を決意
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
朝鮮駐留軍の林銑十郎司令官が独断で越境増援、若槻禮次郞内閣が追認
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1931年
軍事費の急増が始まる
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
石原莞爾ら満州事変首謀者が「満蒙問題解決案」を策定
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任、大角岑生が海軍大臣就任
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1932年
関東軍が満州全域を制圧
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1932年
第一次上海事変
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1932年
軍拡反米英派(艦隊派)首領の伏見宮博恭王が海軍軍令部長(総長へ改称)就任(~1941)
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1932年
血盟団事件
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1932年
満州国建国
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1932年
国際連盟が満州国にリットン調査団を派遣
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1932年
上海天長節爆弾事件
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足、岡田啓介が海軍大臣就任(大角岑生と途中交代)
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
永田鉄山・統制派と小畑敏四郎・皇道派の対立が始まる
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1933年
塘沽停戦協定締結
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1933年
「海軍の父」山本権兵衛が死去(享年81)
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1934年
東郷平八郎死去
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足
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1934年
中国共産党の紅軍が長征を開始、毛沢東が実権を掌握
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1934年
統制派が『陸軍パンフレット』刊行
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1935年
天皇機関説問題、国体明徴運動
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1935年
陸軍統制派の首領永田鉄山が殺害される(相沢事件)
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1935年
ナチス・ドイツが再軍備を宣言
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1936年
自動車製造事業法施行、日産自動車と豊田自動織機自動車部が許可会社指定を受ける
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1936年
二・二六事件、斎藤実内大臣が殺害される(享年77)
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速
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1936年
軍部大臣現役武官制が復活
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1936年
日独防共協定調印
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1936年
広田弘毅内閣が「北守南進政策」を決定
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1936年
永野修身海相の引きで山本五十六が海軍次官就任(~1939)
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
日中戦争不拡大を説く石原莞爾が失脚し華北分離を主張する武藤章・田中新一ら統制派が陸軍中央を掌握
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1937年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937年
石原莞爾の停戦案を近衛文麿首相と陸軍統制派が拒否
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1937年
大本営設置
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1937年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1938年
岡田啓介が海軍退役
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1938年
日本軍が武漢三鎮を占領するが蒋介石の国民政府は重慶へ退避
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足
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1939年
ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の提案を受ける
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1939年
ノモンハン事件勃発
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足
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1939年
山本五十六が連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官就任
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1940年
岡田啓介が重臣会議に列す
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足
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1940年
日本が汪兆銘を擁立して南京に中華民国政府を樹立
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)
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1940年
アメリカが対日屑鉄輸出を全面禁止、ABCD包囲網による経済封鎖が本格化
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1940年
「バトル・オブ・ブリテン」でイギリスがナチス・ドイツの本土上陸作戦を阻止
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任
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1940年
海軍の出師準備発令
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1940年
最後の元老西園寺公望死去
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1940年
岡敬純・石川信吾ら対米強硬派が海軍を完全掌握し海軍国防政策委員会を設置
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1941年
伏見宮博恭王に代わり永野修身が海軍軍令部総長就任
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1941年
松岡洋右外相がスターリンを訪問し電撃的に日ソ中立条約調印
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1941年
野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉が松岡洋右外相の妨害により停止
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1941年
独ソ戦開戦
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1941年
第三次近衛文麿内閣(公家)発足、松岡洋右外相を放逐
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1941年
関東軍特種演習~対ソ連開戦に備えた関東軍増強
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1941年
南部仏領インドシナ進駐開始
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1941年
アメリカが対日石油輸出全面禁止
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1941年
御前会議で「帝国国策遂行要領」を定め対米開戦決意
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1941年
東條英機内閣(陸軍)発足
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1941年
アメリカの最後通牒(ハル・ノート)で日米交渉が決裂し御前会議で対米開戦決定
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1941年
ナチス・ドイツ軍がモスクワ攻略に失敗し後退が始まる
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1941年
日本海軍の真珠湾攻撃・陸軍のマレー侵攻で太平洋戦争勃発
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1942年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1942年
日本軍がインドネシア全域を占領し石油供給源を獲得(シーレーン断絶で宝の持ち腐れとなる)
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1942年
ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
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1943年
スターリングラード攻防戦でソ連軍がドイツ軍を撃退
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1943年
日本軍がソロモン沖海戦で敗北しガダルカナル島撤退
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1943年
山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜死
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1943年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1943年
米英中が「カイロ宣言」発表
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1944年
トラック島の海軍拠点が陥落、首相兼陸相の東條英機が杉山元から参謀総長職を奪い嶋田繁太郎海相も軍令部総長を兼務
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1944年
東條英機の意を受けた牟田口廉也が無用無謀のインパール作戦を強行
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1944年
マリアナ沖海戦敗北・サイパン島陥落で日本の敗戦が決定的となる
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1944年
伏見宮博恭王の示唆により軍令部で特攻作戦の計画が具体化
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1944年
小磯國昭内閣(陸軍)発足
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1944年
小磯國昭内閣が徴兵年齢を拡大し「根こそぎ動員」
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1944年
レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅し南方補給路が断絶(伏見宮博恭王元帥の示唆で「特攻作戦」始動)
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1945年
米英ソがヤルタ会談(ソ連の対日参戦を秘密合意)
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1945年
陸海軍統帥部が「本土決戦完遂基本要綱」を決定
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1945年
東京大空襲はじめ米軍の空爆で全国主要都市が焼け野原と化す
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1945年
硫黄島陥落で日本軍は本土制空権も完全喪失
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1945年
沖縄戦が始まる
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1945年
ソ連が日ソ中立条約廃棄を通告
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1945年
鈴木貫太郎内閣(海軍)発足
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1945年
ドイツが連合国に降伏
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1945年
鈴木貫太郎政府がソ連を仲介とする日米和解工作に動く
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1945年
連合国がポツダム宣言発表
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1945年
トルーマン米大統領が広島に原子爆弾投下
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1945年
ソ連が日ソ中立条約を破り満州・樺太・朝鮮へ侵攻
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1945年
トルーマン米大統領が長崎に原子爆弾投下
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1945年
日本がポツダム宣言に基づく降伏を通告
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1945年
玉音放送
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1945年
マッカーサー連合軍最高司令官が着任し連合軍進駐開始
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1945年
日本代表の重光葵外相が降伏文書に調印し第二次世界大戦終結、ソ連は満州侵略を止めず北朝鮮まで制圧
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1945年
GHQが東條英機を逮捕し戦犯狩り始動
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1945年
連合軍総司令部(GHQ)による間接統治開始(~1952)
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1946年
極東国際軍事裁判(東京裁判)開始(~1948)
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1948年
東條英機(享年63)らA級戦犯7名の死刑執行、他の戦犯容疑者は釈放
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1952年
岡田啓介が死去(享年84)
岡田啓介の交遊録
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山本権兵衛
海軍の父
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広瀬武夫
海兵同期
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財部彪
海兵同期
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斎藤実
海軍仲間
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加藤友三郎
海軍仲間
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鈴木貫太郎
海軍仲間
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安保清種
海軍仲間
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大角岑生
海軍仲間
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米内光政
海軍仲間
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山本五十六
海軍仲間
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井上成美
海軍仲間
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東郷平八郎
困った爺さん
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伏見宮博恭王
暴走貴族
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加藤寛治
愚か者
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末次信正
愚か者
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嶋田繁太郎
愚か者
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西園寺公望
キングメーカー
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高橋是清
頼れる蔵相
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林銑十郎
組閣時の陸相
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広田弘毅
陸軍のロボット
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東條英機
倒閣目標
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若槻禮次郞
倒閣仲間
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宇垣一成
倒閣仲間
岡田啓介と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 60点
岡田啓介は海軍兵学校15期へ進んだが素行不良で成績も中位、山本権兵衛に目を掛けられた同期主席の財部彪(山本の女婿)や17期の秋山真之に大きく水を空けられた。艦隊勤務から横須賀海兵団の軍楽隊に左遷された岡田啓介は腐って昼寝ばかりしていたが、欠員補充で東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」の砲術士官に回され「高陞号撃沈事件」に遭遇し日清戦争に出征、日露戦争では重巡洋艦「春日」の副長として日本海海戦を戦い、第一次大戦では第二水雷戦隊司令官として青島攻略戦に参加した。岡田啓介は叩き上げの「水雷屋」で政治とは無縁だったが、シーメンス事件で海軍上層部が失脚したため海軍省に呼ばれ人事局長に就任、艦政本部長から財部彪海軍大臣の次官へ上り司令長官ポストを経て田中義一内閣で海相に栄達した。ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると、無派閥の岡田啓介は条約派(国際協調)と艦隊派(反英米軍拡)の調整に奔走したが、海相に復した条約派のエース財部彪は予備役に追込まれ東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握った。海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため条約派の斎藤実が組閣すると岡田啓介は調整役を期待され海相に復帰、陸軍と右翼の攻撃(帝人事件)で斎藤内閣が倒れると岡田に組閣の大命が下された。満州事変後の軍拡景気で日本は逸早く世界恐慌を脱し、天皇機関説問題や国体明徴運動の扇動で国民が軍国主義に染まるなか、岡田啓介首相は母体である海軍の艦隊派にも突上げられ防戦一方、二・二六事件で一命を拾うも思考停止に陥り政権を投出した。広田弘毅・近衛文麿内閣が軍部に追従し傷口を拡げるなか、岡田啓介は重臣会議に列し米内光政・鈴木貫太郎ら海軍良識派を後援したが伏見宮博恭王ら艦隊派の優位は動かせなかった。対米開戦の大詰めで東郷茂徳外相からの海軍内強硬派の説得要請を黙殺した岡田啓介であったが、敗戦必至の状況に陥ると米内光政・鈴木貫太郎と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣の終戦工作をサポート、サンフランシスコ平和条約の発効・GHQ解散を見届け世を去った。