叩き上げの水雷屋から、海軍内部の調整役として斎藤実の後継首相となったが二・二六事件で退陣、大戦の最終局面で東條英機内閣打倒に動いた終戦の功労者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
岡田 啓介
1868年 〜 1852年
60点※
家系・子孫
- 岡田喜藤太は福井藩士で鳥羽伏見戦では農兵隊を率いたといわれ、嫡子の岡田啓介は戦乱の渦中に生れた。岡田啓介は先妻・後妻との間にそれぞれ一男一女を生したが、二人の妻と優秀な長男に先立たれている。長男の岡田貞外茂は、海兵・海大を共に次席で卒業した秀才で父と同じ「水雷屋」へ進み順調に昇進したが、太平洋戦争でマニラの前線視察中に搭乗機が撃墜され35歳で戦死した。長女の万亀が嫁いだ迫水久常は、東大から大蔵省・企画院へ進み岸信介らと統制経済を推進した「革新官僚」で、岳父岡田啓介の首相秘書官、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長を務め、公職追放を経て参議院議員となり池田勇人内閣で経済企画庁長官・郵政大臣を歴任した。なお、迫水久常の従弟にあたる丹生誠忠歩兵中尉は二・二六事件で反乱軍に加わり処刑されている。岡田啓介が後妻の郁に産ませた次男の岡田貞寛は海軍主計少佐、次女の喜美子は海軍人鈴木英の妻となった。鈴木英は、陸軍大将鈴木孝雄(鈴木貫太郎の弟)の嫡子で、義兄の岡田貞外茂と海兵同期で共に恩賜組のエリート、弟の鈴木武は岡田啓介の首相秘書官を務めている。二・二六事件で岡田啓介の身代わりとなり殺害された松尾伝蔵は岡田の妹稔穂の婿で、松尾の長女清子は瀬島隆三夫人である。陸軍エリートの瀬島隆三は岡田啓介首相を後ろ盾に大本営参謀へ昇進し、シベリア抑留から生還すると旧軍人脈を駆使して伊藤忠商事会長に上り詰め、山崎豊子の『不毛地帯』で有名人となった。大物ぶって沈黙を貫いたことが災いしソ連に関東軍将兵を売渡したと疑われた。内閣退陣後重臣会議に列した岡田啓介は、岡田貞外茂・迫水久常・瀬島龍三らから「大本営発表」でないリアルな戦局情報を収集し東條英機内閣打倒へ動いた。
- 鈴木貫太郎は徳川譜代の下総関宿藩士の家系で、和泉伏尾新田(飛領)代官の鈴木由哲の嫡子として赴任地で生れ、幼少期に関宿に転居した。鈴木貫太郎は海軍で大将に栄達した後、8年も侍従長を務めて昭和天皇・貞明皇后の信頼が篤く、一家あげて皇室と深い縁を結んだ。たか夫人は、東京女子師範学校附属幼稚園の教諭から皇孫御用掛にスカウトされ、幼少時の昭和天皇・秩父宮・高松宮の養育に任じた。昭和天皇は側近の鈴木貫太郎にたか夫人の安否をしばしば尋ねたといい、貞明皇后は首相就任を固辞する鈴木貫太郎に「どうか陛下の親代わりになって」と依願の言葉を賜ったという。鈴木貫太郎の次弟で陸軍大将に出世した鈴木孝雄は退役後に靖国神社宮司となり、三弟の鈴木三郎は関東都督府外事総長を退いたあと久邇宮御用掛に任じられている。なお、鈴木孝雄の嫡子鈴木英は岡田啓介の次女喜美子を妻とし、弟の鈴木武と共に岡田の東條英機内閣打倒・終戦工作を支えた。鈴木貫太郎の嫡子(一人息子)で男爵を継いだ鈴木一は官僚となり農林省山林局長・侍従次長・外務省出入国管理庁長官などを歴任、長女のさかえは陸軍大将の藤江恵輔に嫁いでいる。
岡田啓介と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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