兄島津斉彬の公武合体運動を引継ぎ文久のクーデターを断行するが将軍徳川慶喜と決裂し討幕に踏切った薩摩藩の大御所、西郷隆盛に嫌悪され寺田屋騒動で家臣を誅殺したが大久保利通・小松帯刀を駆使した明治維新の立役者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照島津 久光
1817年 〜 1887年
80点※
島津久光の寸評
島津久光の史実
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1817年
10代薩摩藩主島津斉興の五男島津久光が江戸藩邸にて出生(生母は側室お由羅の方)、島津斉彬は8歳上の嫡兄
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1818年
島津久光が種子島久道の養子となり公子(藩主の子)の待遇を受ける
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1822年
島津久光が生母お由羅の方と共に鹿児島へ移され成人するまで在住
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1825年
異国船打払令
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1825年
島津斉興が島津久光を島津宗家に復帰させる
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1825年
島津久光が重富島津家の次期当主島津忠公の娘千百子の婿養子となり薩摩藩主の資格を獲得
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1830年
鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1846年
フランスが琉球の開国を要求
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1848年
島津斉彬派が薩摩藩の琉球密貿易を老中阿部正弘に密告
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1849年
島津斉興・久光派の調所広郷が死去
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1849年
お由羅の方呪詛疑惑騒動
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1849年
お由羅騒動
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1850年
薩摩藩で島津斉彬の襲封を支持する西郷隆盛・大久保利通らが若手藩士グループを結成(精忠組に発展)
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1850年
12代将軍徳川家慶・老中阿部正弘が薩摩藩主島津斉興に引退勧告
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1851年
島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手
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1851年
佐賀藩が洋式技術導入のため精煉方を開設
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1852年
オランダ商館長が長崎奉行にペリー来航を予告、佐賀藩主鍋島直正が軍備を増強
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
徳川家定が13代将軍就任、将軍継嗣問題が勃発
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
ロシア艦隊が長崎に来航し通商を求める
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1854年
薩摩藩主島津斉彬が参勤交代で江戸入り、中小姓として随行した西郷隆盛を江戸藩邸で御庭方役に任じ直属の謀臣に抜擢
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
薩摩藩主島津斉彬が一門の島津敬子(篤姫)を将軍徳川家定に入輿させる・西郷隆盛が諸業務を担当
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1857年
薩摩藩主島津斉彬が下級藩士の西郷隆盛・大久保利通を徒目付に登用
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1857年
阿部正弘死去
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1858年
佐賀藩主鍋島直正が洋式船舶の建造・修理・運用のため三重津海軍所を開設
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
佐賀藩主鍋島直正が大老井伊直弼と交流を深める
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
徳川家茂が14代将軍就任、一橋派が将軍継嗣問題に敗北
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1858年
薩摩藩主島津斉彬が幕府抗議のため藩兵5千を動員し上洛を計画
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1858年
西郷隆盛・有馬新七が島津斉彬に先発して上洛し準備工作
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1858年
薩摩藩主の島津斉彬が急死し率兵上洛計画が頓挫(享年50。毒殺説あり)、養嗣子(島津久光の子)の島津忠義が12代藩主に就任し10代藩主の島津斉興(斉彬・久光の父)が実権を奪回
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1858年
西郷隆盛が月照を伴い鹿児島へ帰国するが島津斉興の佐幕転換により月照・西郷の入水事件が発生
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1858年
島津久光の了解のもと菊池源吾へ変名した西郷隆盛が奄美大島に潜居(幕府の捕吏から逃すためで罪人扱いではなかった)
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1858年
江戸城無断登城事件、大老井伊直弼が無断で江戸登城した徳川斉昭・徳川慶喜・松平春嶽・徳川慶勝を謹慎に処す
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
安政の大獄で大老井伊直弼が一橋派諸侯の処分を断行、徳川斉昭・慶喜は蟄居に処される
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1859年
安政の大獄により吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らが処刑される
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1859年
島津斉興の死により島津久光が藩主島津忠義の国父として薩摩藩の実権を掌握
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1859年
大久保利通が有馬新七ら精忠組の突出脱藩騒動を抑える
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
島津久光が大久保利通を謁見し勘定方小頭格に任じる
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
桜田門外の変の指揮者関鉄之助が鹿児島来訪、有馬新七らが再び突出脱藩騒ぎを起すが大久保利通が制止
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1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1861年
島津久光が島津宗家に復帰、国父の称号を得る
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1861年
薩摩藩の実権を掌握し率兵上洛を期す島津久光が人事改革を断行し反抗勢力を一掃して小松帯刀・大久保利通らを抜擢
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1862年
上洛を期す島津久光の召還命令により西郷隆盛が鹿児島へ帰還
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1862年
西郷隆盛が島津久光の率兵上洛の準備と動静視察のため先発
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1862年
島津久光が公武合体実現のため薩摩藩兵を率いて上洛
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1862年
島津久光が西郷隆盛を遠島に処す
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1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
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1862年
生麦事件
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1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
島津久光が江戸から京都へ戻るが薩摩不人気の世情に憤慨し帰国
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1862年
会津藩主松平容保が京都守護職として入洛
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1863年
京都守護職松平容保の配下に壬生浪士組(新撰組)結成
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
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1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
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1863年
長州藩の高杉晋作が奇兵隊を創設、一流蘭学者の大村益次郎が長州藩諸隊の洋式軍制改革・軍備増強を推進
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1863年
尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺される
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1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
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1863年
福井藩の松平春嶽・横井小楠が挙藩上洛計画を企てるが中根雪江ら守旧派の反対で決行直前に中止
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1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
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1863年
島津久光が小松帯刀を家老に抜擢、藩政改革を主導させる
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1863年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
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1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
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1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1864年
高杉晋作が来島又兵衛・久坂玄瑞らの激発を抑えるべく京都で長州藩復権運動、島津久光要撃を企てる
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1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
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1864年
徳川慶喜が将軍後見職を辞して江戸幕府を離れ禁裏御守衛総督となり京都政局を牛耳る
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1864年
天狗党の乱~武田耕雲斎ら水戸尊攘派の暴発と瓦解
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1864年
池田屋事件
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1864年
禁門の変
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
島津久光が西郷隆盛を赦免し藩政に復帰させる
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1864年
馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる
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1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立
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1865年
長州藩が亀山社中を介して大量の洋式兵器とユニオン号を購入
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1865年
西郷隆盛が下関での木戸孝允との会談をドタキャン、薩長和解工作のため黒田清隆を長州へ派遣
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1865年
薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らが上京し宮廷工作で幕府の長州再征を妨害
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1866年
薩長同盟
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1866年
薩英戦争に敗れた薩摩藩の小松帯刀がイギリスに急接近、島津久光がイギリス公使パークスを鹿児島に招待し友好関係を確認
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1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
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1866年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
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1866年
高杉晋作が大島口奇襲で勝利
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1866年
大村益次郎が浜田城制圧
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1866年
高杉晋作の活躍で老中小笠原長行が守る小倉城が陥落し長州藩の勝利が決定的となる(高杉は肺結核が悪化し翌年病没)
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1866年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
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1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866年
孝明天皇崩御
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1867年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
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1867年
坂本龍馬の亀山社中が薩摩藩から土佐藩へ転籍し土佐海援隊に改編
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1867年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
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1867年
京都で島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の四候会議開催
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1867年
将軍徳川慶喜と四候の二条城会談が決裂、薩摩藩が武力討幕の方針を固める
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1867年
島津久光が病気療養の名目で鹿児島に帰国
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1867年
薩土密約
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1867年
薩土同盟
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1867年
中岡慎太郎が京都の土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を結成
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1867年
土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静に大政奉還の建白書を提出
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1867年
西郷隆盛が不逞浪士を江戸へ遣わし幕府を挑発、謀略に掛った江戸市中取締の庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼打ち
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1867年
薩摩藩・西郷隆盛が土佐藩・後藤象二郎からの出兵延期要請を拒否
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
西郷隆盛と木戸孝允が山口で討幕挙兵を確認、西郷は薩摩へ
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1867年
薩摩藩主島津忠義が周防国三田尻で長州藩世子毛利広封と会見し討幕出兵を協約
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1867年
薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)
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1867年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
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1867年
坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が京都近江屋で見廻組に襲われ死去
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1867年
王政復古の大号令
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1867年
三職の設置、薩摩藩主島津忠義が参議に任じられる
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1867年
長州藩が朝廷により公式に赦免され藩主毛利敬親は従四位・参議に復帰
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1867年
小御所会議(最初の三職会議)で薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛と朝臣の岩倉具視が徳川慶喜の辞官納地を強行採決
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1867年
大阪城に退去した徳川慶喜が辞官納地を拒否、諸外国に徳川政権による外交継続を宣言
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
徳川慶喜が松平容保・松平定敬を伴って大阪城を脱出し軍艦で江戸へ逃げ帰る
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1868年
土佐藩の板垣退助が迅衝隊を率い独断で戊辰戦争に参戦、東山道先鋒総督府参謀として官軍を指揮
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1868年
陸奥宗光の献策により維新政府が外交団と協議、各国は局外中立を表明
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
西郷隆盛が東征大総督府下参謀(実質的司令官)に任命される
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1868年
徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎し主戦派の松平容保・松平定敬・小栗忠順らを江戸から追放し恭順派の勝海舟に全権委任、徳川家達に徳川宗家の家督を譲る
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1868年
西郷隆盛が独断で先鋒軍を率いて先発し箱根を占拠
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1868年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868年
奥羽越列藩同盟が成立
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1868年
西郷隆盛・大村益次郎の官軍が上野彰義隊を殲滅
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1868年
木戸孝允の版籍奉還の献策を長州藩主毛利敬親が承諾
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置、島津久光が議定に任じられる
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1868年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
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1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
王政復古の賞典禄下賜、島津久光は上京し従三位・参議に叙任
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1869年
版籍奉還
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1870年
小松帯刀が死去
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1871年
廃藩置県
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1871年
島津久光が分家を許され島津宗家とは別に玉里島津家を創立
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1872年
島津久光が鹿児島巡幸中の明治天皇に14カ条の建白書を奉呈
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1873年
明治六年政変、島津久光は西郷隆盛を慰撫
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1876年
島津久光が鹿児島に帰国
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1876年
岩倉具視が華族会館館長に就き旧公家偏重の優遇政策を推進、旧大名・士族の反発を招く
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1877年
西南戦争、西郷隆盛が鹿児島城山にて自害(享年51)、島津久光は中立表明するも新政府を非難
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1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1884年
華族令公布、島津忠義の島津宗家と島津久光の玉里島津家が最高位の公爵を受爵
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1887年
島津久光に贈従一位
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1887年
島津久光が鹿児島にて死去(享年71)
島津久光の交遊録
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島津重豪
藩財政を破綻させた曽祖父
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島津斉宣
重豪嫡子
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島津斉興
父・斉宣嫡子
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島津斉彬
本当は敬愛した異母兄
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島津忠義
薩摩藩主を継いだ久光長子
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篤姫
将軍徳川家定に入輿させた従妹
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黒田長溥
重豪実子で年下の大叔父・福岡藩主
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調所広郷
気の毒な能吏
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西郷隆盛
憎悪した精忠組首領
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大久保利通
重用した精忠組首領
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小松帯刀
信頼する家臣
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有馬新七
粛清した家臣
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吉井友実
精忠組
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伊地知正治
精忠組
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有村俊斎
精忠組
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平野国臣
扇動者
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岩倉具視
大久保盟友の薩摩系公卿
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三条実美
長州系公卿
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徳川家斉
重豪娘婿の11代将軍
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徳川家慶
12代将軍
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徳川家定
13代将軍
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徳川家茂
14代将軍
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徳川斉昭
一橋派の首領
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徳川慶喜
宿命的ライバルの15代将軍
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勝海舟
薩長和解を勧めた幕臣
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大久保一翁
勝の同志
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藤田東湖
斉昭謀臣
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安倍正弘
斉彬盟友
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松平春嶽
四賢候
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橋本左内
春嶽謀臣
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山内容堂
四賢候
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吉田東洋
容堂謀臣
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武市半平太
土佐勤皇党首領
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坂本龍馬
薩摩系土佐浪士
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中岡慎太郎
長州系土佐浪士
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後藤象二郎
大政奉還建白者
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伊達宗城
四賢候
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松平容保
慶喜腹心の京都守護職
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松平定敬
容保実弟の京都所司代
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井伊直弼
斉彬宿敵
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鍋島直正
佐賀藩主
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毛利敬親
長州藩主
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木戸孝允
薩長同盟のパートナー
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高杉晋作
薩長同盟のパートナー
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久坂玄瑞
長州尊攘派首領
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大村益次郎
薩摩嫌いの長州軍首脳
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周布政之助
長州執政
島津久光と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 100点
島津久光は、薩摩藩の人事を刷新して大久保利通や小松帯刀を抜擢、率兵上洛して公武合体運動に乗出し文久のクーデターにより幕政改革を断行した。西郷隆盛ら扱いにくい島津斉彬遺臣を統御しつつ働かせた政治手腕も光る。参預会議破綻後は決然と武力討幕路線に切替え、王政復古と討幕を成遂げた。西郷や大久保に担がれた結果とはいえ、薩摩藩主としての武力討幕の決断は維新史屈指の壮挙であった。勤皇藩と認識されていた水戸藩や長州藩を含め諸藩はどこでも尊攘派と佐幕派が藩内で熾烈な主導権争いを繰広げたが、薩摩藩だけは島津久光のリーダーシップによって早い時期から挙藩一致体制ができあがっており、大久保利通や西郷隆盛は恵まれた立場で政治活動に邁進することができた。
減点 -20点
政治的にやむを得なかったとはいえ寺田屋事件で家臣を誅殺した島津久光の汚点はぬぐいがたい。西郷隆盛の遠島処分や寺田屋騒動に象徴される「統制好き」「浪人嫌い」の島津久光の性格は次第に時流にそぐわなくなり、1864年の帰国後は政治的意欲を失って大久保利通らに担がれる存在となった。王政復古後は完全に時代に取残されて一層保守頑迷な老人となり、不平と鬱屈の日々のなか世を去った。