雄藩薩摩藩の礎を築き、西郷隆盛や大久保利通を登用、雄藩連合による公武合体運動に乗出した四賢候筆頭の名君
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照島津 斉彬
1809年 〜 1858年
80点※
島津斉彬の寸評
島津斉彬の史実
-
1809年
10代薩摩藩主島津斉興の嫡子島津斉彬が江戸薩摩藩邸で出生(島津久光は8歳下の庶弟)
-
1825年
異国船打払令
-
1828年
薩摩藩が財政破綻に瀕しお手上げ状態となった島津重豪が調所広郷を藩政改革主任に登用
-
1829年
徳川斉脩の急死に伴い弟の徳川斉昭が9代水戸藩主に就任、水戸学に基づき尊皇攘夷運動を牽引
-
1830年
鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる
-
1830年
島津重豪が調所広郷に財政再建を厳命
-
1833年
島津重豪が江戸高輪邸にて死去(享年89)
-
1837年
水戸藩主徳川斉昭と水戸学派が実権を掌握し藩校弘道館を開設し藩政改革を始動
-
1838年
松平斉善の急逝に伴い松平春嶽が末期養子となり16代福井藩主に就任、中根雪江ら改革派が藩政改革を始動
-
1840年
アヘン戦争(~1842)
-
1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
-
1844年
水戸藩守旧派の工作により幕府が徳川斉昭を隠居・謹慎処分、嫡子の徳川慶篤が10代藩主となる
-
1845年
水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる
-
1846年
フランスが琉球の開国を要求
-
1848年
島津斉彬派が薩摩藩の琉球密貿易を老中阿部正弘に密告
-
1849年
島津斉興・久光派の調所広郷が死去
-
1849年
お由羅の方呪詛疑惑騒動
-
1849年
お由羅騒動
-
1850年
薩摩藩で島津斉彬の襲封を支持する西郷隆盛・大久保利通らが若手藩士グループを結成(精忠組に発展)
-
1850年
12代将軍徳川家慶・老中阿部正弘が薩摩藩主島津斉興に引退勧告
-
1850年
佐賀藩の枝吉神陽・大隈重信・副島種臣・江藤新平・大木喬任・島義勇らが義祭同盟を結成
-
1850年
佐賀藩が日本初の反射炉の実証炉を建設し洋式砲の鋳造を開始
-
1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
-
1851年
島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手
-
1851年
佐賀藩が洋式技術導入のため精煉方を開設
-
1852年
オランダ商館長が長崎奉行にペリー来航を予告、佐賀藩主鍋島直正が軍備を増強
-
1852年
ジョン万次郎が琉球に上陸、島津斉彬の謁見を経て、土佐藩に仕官
-
1853年
「からくり儀右衛門」こと田中久重が佐賀藩精煉方に着任
-
1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
-
1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
-
1853年
徳川斉昭が江戸防備のため大砲74門を幕府に献上、老中安倍正弘の要請により幕府海防参与に就任
-
1853年
海防参与徳川斉昭の献策により幕府が大船建造を解禁
-
1853年
徳川家定が13代将軍就任、将軍継嗣問題が勃発
-
1853年
老中阿部正弘に抜擢された江川坦庵が佐賀藩主鍋島直正の技術支援を得て伊豆韮山に反射炉を設置
-
1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
-
1854年
ロシア艦隊が長崎に来航し通商を求める
-
1854年
薩摩藩主島津斉彬が参勤交代で江戸入り、中小姓として随行した西郷隆盛を江戸藩邸で御庭方役に任じ直属の謀臣に抜擢
-
1855年
安政の大地震、徳川斉昭のブレーン藤田東湖が圧死
-
1855年
徳川斉昭の要求により南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭、堀田正睦が老中首座就任
-
1855年
幕府がオランダから蒸気船観光丸の寄贈を受け長崎に海軍伝習所を開設、旗本の勝海舟ら1期生が入学
-
1855年
薩摩藩が日本初の国産蒸気船を開発
-
1855年
薩摩藩が国産2号となる洋式軍艦昇平丸(帆船)を建造、幕府に献上
-
1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
-
1856年
水戸藩の石川島造船所(IHIの前身)が洋式帆船「旭日丸」を建造し幕府に献上
-
1856年
薩摩藩主島津斉彬が一門の島津敬子(篤姫)を将軍徳川家定に入輿させる・西郷隆盛が諸業務を担当
-
1857年
薩摩藩主島津斉彬が下級藩士の西郷隆盛・大久保利通を徒目付に登用
-
1857年
薩摩藩主島津斉彬が徳川慶喜擁立工作のため西郷隆盛を上洛させる
-
1857年
阿部正弘死去
-
1858年
佐賀藩主鍋島直正が洋式船舶の建造・修理・運用のため三重津海軍所を開設
-
1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
-
1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
-
1858年
佐賀藩主鍋島直正が大老井伊直弼と交流を深める
-
1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
-
1858年
徳川家茂が14代将軍就任、一橋派が将軍継嗣問題に敗北
-
1858年
薩摩藩主島津斉彬が幕府抗議のため藩兵5千を動員し上洛を計画
-
1858年
西郷隆盛・有馬新七が島津斉彬に先発して上洛し準備工作
-
1858年
薩摩藩主の島津斉彬が急死し率兵上洛計画が頓挫(享年50。毒殺説あり)、養嗣子(島津久光の子)の島津忠義が12代藩主に就任し10代藩主の島津斉興(斉彬・久光の父)が実権を奪回
-
1864年
島津斉彬に照国大明神の神号が贈られる
-
1884年
華族令公布、島津忠義の島津宗家と島津久光の玉里島津家が最高位の公爵を受爵
-
1901年
島津斉彬に追贈正一位
島津斉彬の交遊録
-
島津重豪
敬愛した曽祖父
-
島津斉宣
重豪嫡子
-
島津斉興
敵対した父・斉宣嫡子
-
島津久光
本当は仲が良い異母弟
-
島津忠義
薩摩藩主を継いだ久光長子
-
篤姫
将軍徳川家定に入輿させた従妹
-
黒田長溥
重豪実子で年下の大叔父・窮地を救ってくれた福岡藩主
-
調所広郷
気の毒な政敵
-
西郷隆盛
抜擢した寵臣
-
大久保利通
期待の若手
-
ジョン万次郎
技術顧問
-
徳川家斉
重豪娘婿の11代将軍
-
徳川家慶
12代将軍
-
徳川家定
13代将軍
-
徳川家茂
14代将軍
-
徳川斉昭
一橋派の首領
-
徳川慶篤
斉昭嫡子・水戸藩主
-
徳川慶喜
斉昭七男・一橋派の旗印
-
会沢正志斎
斉昭の師
-
藤田東湖
斉昭謀臣
-
安倍正弘
公武合体運動の盟友
-
松平春嶽
四賢候にして一橋派の盟友
-
橋本左内
春嶽謀臣
-
山内容堂
四賢候にして一橋派の盟友
-
吉田東洋
容堂謀臣
-
伊達宗城
四賢候にして一橋派の盟友
-
鍋島直正
従兄弟にしてライバル
-
井伊直弼
宿敵
-
長野主膳
井伊謀臣
-
長野主膳
井伊謀臣
-
松平乗全
井伊の子分
-
松平忠固
井伊の子分
-
間部詮勝
井伊の子分
-
堀田正睦
井伊寄りの老中首座
-
水野忠央
井伊の盟友
島津斉彬と同じ時代の人物
-
維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 90点
島津斉彬は、薩摩藩を率いて中央政局に乗出し、雄藩連合による公武合体運動を推進した。藩主在任期間は短かったが、西郷隆盛や大久保利通ら偉材を世に出し、遺志を継いだ弟の島津久光が公武合体、転じて討幕を成遂げた。また、集成館事業など西洋文明導入による富国強兵・殖産興業の先覚者であり、幕府や諸藩、維新政府にも多大な影響を与えた。
減点 -10点
将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ、寿命が尽きて維新の動乱に参加できず、幕末随一の英明と覇気を誇りながら島津斉彬個人としては大きな政治的成果を挙げられなかった。