「蘭癖」と豪奢で藩財政を破綻させたが曾孫の島津斉彬を薫陶し雄藩薩摩への道を開いた破天荒大名
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島津 重豪
1745年 〜 1833年
50点※
島津重豪と関連人物のエピソード
- 島津重豪は、「蘭癖」と陰口されるほどの西洋好きで金に糸目を付けず西洋の文物を買集め、また贅沢な生活や政治活動(徳川将軍家等との閨閥づくり)により、薩摩藩は年収13万両に対して500万両・年利息50万両もの借金を抱え財政は破綻に瀕した。嫡子の島津斉宣は薩摩藩主を継ぐと財政再建のため緊縮を図ったが、島津重豪は斉宣を隠居させて孫の島津斉興を擁立し後見人として死ぬまで実権を握り続けた。が、借金経営が永久に続くはずもなく三都の商人は薩摩藩へ金を貸さなくなり、遂に藩財政は行き詰まって藩士は大幅減俸、領民への苛斂誅求は度を超え他藩領への逃散が相次いだ。あるとき、島津重豪は金二分ほどの入用があって江戸の七屋敷を隈なく探させたが金はなく「ああ、おれの貧乏もこれほどまでになったか」と嘆息したという。さすがの島津重豪もお手上げとなり、能吏の調所広郷を登用し財政再建を厳命した。重豪は間もなく没したが、調所は無茶苦茶な厳命を剛腕で遣遂げ、500万両の借金を踏倒し(250年賦・無利子償還)、砂糖の専売制や琉球貿易の促進により準備金150万両を備蓄するほどに盛返した。
- 島津重豪の「蘭癖」は多方面に及び、藩校造士館・医学館・天文館を開設したほか膨大な『成形図説』(博物全書)や『南山俗語考』(中国語辞典)を編纂するなど進歩的な学術・教育奨励政策を推進し、自身はローマ字を書きオランダ語を話すことができたと伝わる。また、奢侈好みの島津重豪は「薩摩藩の方言や風俗は野蛮だ。上方の風俗を見習うべし」「薩摩人の固陋を矯正する」と称し城下に相撲興行場・芝居小屋・遊女屋を設け遊興や贅沢を奨励した。娘の茂姫を入輿させた徳川家斉は歴代将軍の中で最も豪奢な生活をした人だが、隠居して大御所となるとき「わしは薩摩藩の岳父殿(島津重豪)のようにやりたい」と羨んだという。島津重豪の豪奢ぶりを物語るエピソードである。
- 膨大な借金で手の施しようがなくなった島津重豪は、臨時雇いの茶道方あがりの調所広郷を費用掛に登用し手腕を見定めて勝手方重役に抜擢し財政再建を厳命、調所は罵倒に耐えつつ商人を巡訪し浜村屋孫兵衛の支援を得て急場凌ぎの資金調達に成功、高名な済学者の佐藤信淵(元は出羽雄勝郡出身の医者)を招聘し荒療治の策を得た。調所広郷が窮余の一策として断行した250年賦・無利子償還は「薩摩藩の借金踏み倒し」と呼ばれ三都商人ら債権者の大反発を招いたが、一部の有力商人には密貿易品を扱わせるなど損失補填や便宜を図って取引関係を維持し米売買などの基幹業務を保全した。剛腕で債務整理を片付けると、調所広郷は重商主義改革を推進し藩の収入を大きく増やした。まず奄美大島・喜界島・徳之島の三島砂糖の惣買入制(専売制)を敷き、耕作から保管・運送・販売に至る経路を一元管理化して経費削減と増収を達成した。次に、島津重豪の小遣い稼ぎ(琉球支配委託料)を名目に琉球を通じた中国貿易の許可を獲得、認可上限の3万両を超えて取引を拡大し巨利を積んだが、後に超過部分が「密貿易」と断罪され調所の破滅を招いた。農政改革でも成果をあげたが、奄美群島の農民から砂糖を安く買い叩いたうえに重税を課し、薩摩藩内の領民にも苛斂誅求を行い村落ごと他藩領へ逃散する事件が頻発した。500万両の借金を踏倒したうえ準備金150万両を蓄えた調所広郷は筆頭家老へ上り詰め、斉興派と斉彬派の対立が起ると微妙な立場に立たされたが、島津重豪に似て蘭癖で政治好きの島津斉彬が藩主に就くと苦労が水泡に帰すと考え斉興に与した。親の斉興を弾劾できない島津斉彬は調所広郷を攻撃し老中阿部正弘と謀って琉球密貿易を密告するという苦肉の策を強行、江戸へ弁明に赴いた調所は斉興に罪が及ぶことを恐れ芝藩邸で服毒自殺した。図太い斉興は藩主に居座り、斉彬派は側室由羅による斉彬一家の呪詛調伏を弾劾したが、激怒した斉興は首謀者10名を切腹させ斉彬派を一掃した(お由羅騒動)。斉彬は孤立したが、老中阿部正弘と幕閣は強権発動で斉興を隠居させ斉彬を薩摩藩主に据えた。
- 調所氏は藤原北家流の藤原調所(ちょうそ)恒親を祖とする。恒親は神職として京都から大隅国へ赴任し、調所職(ちょうそしき)という徴税職も兼ねたことから調所を名字とした。川崎家から入嗣した調所広郷が相続したのは、調所大炊左衛門の養子調所内記の次男調所善右衛門を家祖とする調所家であり、薩摩藩士とはいえ家格は最下層で家禄は10石程だった。沖縄密貿易事件で調所広郷が非業の死を遂げた後、遺族は藩の主導権を握った斉彬派に憎悪され徹底的な迫害を受けた。筆頭家老の家禄と屋敷を召上げられたうえ当初より家格を下げられ、一時は一家離散の境遇に落とされた。しかし、広郷三男の調所(ちょうしょ)広丈は苦境を乗越え志士活動に奔走、薩摩藩士として戊辰戦争・函館戦争にも従軍し、維新後は北海道開拓使に七等官出仕、開拓史で順調にキャリアを積み1882年に札幌県令に栄進、札幌農学校初代校長にも就いた。1886年の開拓史廃止に伴い元老院議官に転じ、高知県知事・鳥取県知事を経て貴族院議員となり、1900年に男爵を受爵し雪辱を果した。
- 島津斉彬は、曽祖父の島津重豪の薫陶で幼少から西洋文明に親しみ、西欧列強の帝国主義を知って日本の国難を憂い中央政界進出を志したが、重豪とは違い生活は質素であったという。好奇心旺盛で多趣味な島津斉彬は、蘭学のほかにも絵画・和歌・茶道・囲碁・将棋・釣り・朝顔栽培を嗜み、大柄の怪力で武芸もよくした。老中阿部正弘・将軍徳川家慶を動かし強硬手段で薩摩藩主に就いた島津斉彬は、隠居に追込んだ父の島津斉興に気を遣い閣僚をそのまま引継いだが、一方で西郷隆盛や大久保利通など有能な下級藩士を登用し育成した。勝海舟は斉彬の資質を高く評価し、薩摩藩が維新に多くの人材を出したのは斉彬の教化によるものだと語っている。島津斉彬は鹿児島市磯地区を中心にアジア初の近代的洋式工場群を建設した(集成館事業)。特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、反射炉・溶鉱炉の建設に始まり、鉄砲・大砲に武器弾薬、洋式帆船に機械水雷の製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。鹿児島城下の民家全部の燈火をガス燈にする計画だったという。斉彬没後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、後に小松帯刀が再興に尽力した。薩摩藩は、薩英戦争の苦い経験から洋式技術導入の重要性を再認識し、集成館機械工場を再建、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の産業革命をリードした。
- 島津斉彬・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城は幕末四賢候と称される。四賢候は公武合体による雄藩連合体制(譜代大名が牛耳ってきた幕府政治への参画)を目指し、将軍継嗣問題と絡めて一時政局をリードした。しかし、南紀派の井伊直弼が大老に就任して徳川家茂の将軍擁立を強行、徳川慶喜を推した四賢候ら一橋派は敗北し安政の大獄で弾圧された。四賢候の手足となって中央政局で活躍したのは謀臣の西郷隆盛(薩摩藩)・橋本左内(福井藩)・吉田東洋(土佐藩)・藤田東湖(水戸藩)らであった。松平春嶽は後年「世間では四賢侯などというが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったという。
- 島津久光は、質朴・剛健で保守的な性格であり、利発で学問好きだったが専ら国学と漢学を好み洋楽は嫌いだった。こうした性格が守旧派の父島津斉興に気に入られ、開明的な兄島津斉彬との後継争いを招く原因となった。斉彬が没したとき既に42歳と高齢だった島津久光は藩主に就かず、長子の島津忠義を斉彬に入嗣させ藩主とした。藩政を奪回した島津斉興は薩摩藩を保守佐幕路線へ急転回させ斉彬派を弾圧して西郷隆盛・月照の入水事件などを引起したが(久光のせいではない)、斉興の死により実権を握った「国父」の島津久光は兄斉彬の雄藩連合・公武合体運動を踏襲し中央政局へ踏出した。参勤交代・江戸住みの経験が無く中央政局に疎い島津久光の政治的手腕を疑う藩士が多く、西郷隆盛は「ジゴロ(田舎者)に斉彬公の真似は無理でごわす」と面罵したが、久光は敢然と反抗勢力を追払い大久保利通・小松帯刀を要路に就け率兵上洛を挙行した。京都から江戸へ乗込んだ久光は、クーデターで幕府政治改革を強行、一橋派の徳川慶喜と松平春嶽を幕閣の中枢に送込み、参預会議を発足させて見事に公武合体を果した(文久の改革)。
島津重豪と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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