「蘭癖」と豪奢で藩財政を破綻させたが曾孫の島津斉彬を薫陶し雄藩薩摩への道を開いた破天荒大名
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
島津 重豪
1745年 〜 1833年
50点※
家系・子孫
- 島津氏は近衛氏の荘官として平安時代から南九州を支配する古豪で、初代島津忠久が源頼朝により薩摩・大隅・日向3国の守護に任じられ、元寇以来の九州領主の土着推進政策に従って島津一族も移住を進め、同族間で凌ぎを削りながら勢力を拡大した。島津氏では忠久の頼朝落胤説を伝えるが権威付けのための仮冒とみられ(豊後大友氏も頼朝落胤説を伝える)、秦氏の子孫惟宗氏の裔とする説が有力である。戦国大名の島津氏は、島津一族伊作家の忠良に始まる。応仁の乱後、内輪もめと土豪の台頭で薩摩・大隅守護の島津宗家は衰亡し、薩州家島津実久の専横に圧迫された14代当主島津勝久は有力者島津忠良の嫡子貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の抗戦と勝久の寝返りで貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、内戦は13年に及んだ。凡愚な勝久が国人衆に見放され再び実久と抗争を始めると、忠良(日新斎)・貴久は反攻を開始、加世田別府城・市来鶴丸城の戦いに勝利して実久を降伏させ、鹿児島内城に入って島津宗家の家督と守護職を奪回、火種の勝久も追放した。島津貴久は、有力国人入来院重聡の娘を娶り、忠良が「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と嘱目した「島津四兄弟」をもうけた。16代当主を継いだ嫡子島津義久は、最初の妻に叔母(忠良の娘)・継室に種子島時尭の娘を迎えたが男児に恵まれなかった。豊臣秀吉に剃髪降伏した義久に代わって第17代当主となった島津義弘は、次男忠恒に家督を継がせ(嫡子久保は朝鮮役で病死)、この系統が幕末の島津斉彬・忠義まで薩摩藩主を継承した。久保・忠恒は義久の娘亀寿の入婿となっている。島津歳久は秀吉の怒りに触れて誅殺されたが、養子忠隣が島津日置家を伝えた。庶子の島津家久は耳川・沖田畷・戸次川戦勝の立役者で義弘と双璧を成したが九州征伐の渦中に病死、嫡子豊久は関ヶ原で壮絶死したが養子忠栄が永吉家を伝えた(次男忠仍は相続を遠慮)。なお、島津製作所の島津家は、播磨の飛び領管理の功で義弘から島津姓と丸十字紋を許された井上惣兵衛の裔という。
- 島津重豪は、娘の茂姫を将軍徳川家斉に入輿させたのをはじめ、子や孫を有力大名の養子や夫人に送込んだ。将軍家の正室は皇室・五摂家が慣例で大名家から迎えた前例は無かったが、重豪は金銀をばら撒いて慣例を破り、水戸藩に頼んで『大日本史』に島津氏の先祖は源頼朝の庶子と記載させ、鎌倉に立派な頼朝の墓を建てて箔付けした。重豪の縁戚外交・豪奢・「蘭癖」は藩財政の破綻を招いたが、幕末最有力の閨閥は曾孫の島津斉彬・久光が中央政局へ乗出す基盤ともなった。重豪は、嫡子の島津斉宣に薩摩藩主を継がせたが財政緊縮を図ったため隠居させ、斉宣嫡子の斉興を藩主に据え死ぬまで実権を保持した。斉興嫡子の斉彬の利発さに期待し手元に置いて可愛がったという。さて、調所広郷の藩政改革で藩財政は回復したが、藩主として散々苦労した島津斉興は極端な守旧派となり、重豪の薫陶で西洋好き・政治好きとなった嫡子の斉彬(生母は正室の弥姫)を嫌い庶子の久光(生母は側室お由羅の方)の擁立を画策、薩摩藩は真二つに割れ両派の抗争は長年に及んだ。斉興は、斉彬が40歳を過ぎても家督相続を拒み「お由羅騒動」で斉彬派を壊滅させたが(西郷隆盛・大久保利通の父親も斉彬派の末端に連なる)、中央進出を志す斉彬は、大叔父(重豪の実子)の福岡藩主黒田長溥を通じて老中阿部正弘を抱込み、沖縄密貿易を密告する苦肉の策で斉興を追詰め(調所広郷が引責自害)将軍徳川家慶の名で隠退に追込んだ。ようやく薩摩藩主に就いた島津斉彬は、富国強兵・殖産興業を掲げて集成館事業などの近代化政策に取組み、西郷隆盛を抜擢して雄藩連合・公武合体運動に乗出したが、大老井伊直弼を打倒すべく率兵上洛を号令した直後に突然死した(毒殺説あり)。嗣子無く没した斉彬の遺言により島津忠義(久光の長子)が薩摩藩主を継ぎ、斉興の死に伴い「国父」島津久光が実権を掌握、斉彬の遺志を継いで幕末政局に乗出した。明治維新後は忠義の島津宗家と久光の玉里島津家が侯爵に叙され、一族は閨閥を壮大に拡げつつ今日に至る。昭和天皇の香淳皇后は忠義の孫、現当主の島津修久は近衛文麿の外孫で細川護煕とは従兄弟である。
- 島津斉彬・久光は共に島津斉興の実子だが斉彬は嫡子で久光は庶子、斉彬を嫌う斉興は久光の擁立を画策したが藩主ながら身分制の壁に阻まれた。斉興正室の弥姫(周子)は鳥取藩主池田治道の娘、和漢の教養ある賢婦人で自らの手で斉彬を育てたといい、姉妹は佐賀藩主の鍋島斉直に入輿し直正を産んだ。従兄弟の島津斉彬と鍋島直正は幼少期から共に優秀で競争心があったかも知れず、斉彬が一橋派に与したのに対し直正は大老井伊直弼の親友だった。鍋島直正は、桜田門外事変後は中央政局に距離を置き西洋軍備の導入と藩士教育に注力、戊辰戦争の帰趨が決してから官軍に鞍替えしたがアームストロング砲など最新兵器の威力で肥前佐賀藩は薩長土肥の一角に滑り込んだ。さて島津斉彬は、徳川斉敦(将軍徳川家斉の実弟で一橋家当主)の娘英姫を正室に迎え、六男二女を生したが悉く夭逝し男系は断絶した。一方、島津久光を産んだお由羅の方は、江戸庶民の出自で(父親は船問屋・大工・八百屋など諸説あり)江戸薩摩藩邸へ奉公に上り、藩主斉興のお手が付いて老女島野の養女として側室に入った。江戸藩邸の正室弥姫に対し由羅は薩摩の「お国御前」とされ参勤交代の度に同行するほど寵愛された。由羅の囁き故かは不明だが、斉興は久光擁立を企て薩摩藩を二分する抗争が勃発、斉彬は後援者の主席老中阿部正弘と謀り琉球密貿易を事件化して実力者の調所広郷を自害させ、兵道家(山伏)による斉彬一家の呪詛調伏を弾劾したが反撃され壊滅(お由羅騒動)した。結局、阿部正弘の強権発動で斉興は隠居し斉彬が家督を奪ったが、呪詛の霊験か六男二女は悉く夭逝し斉彬も率兵上洛の直前に突然死、健在の斉興は久光長子の島津忠義を薩摩藩主に据え実権を奪回した。斉彬は琉球解放を危惧した斉興に毒殺された疑いが強く、そう信じた西郷隆盛は久光を毛嫌いし楯突いて遠島に処された。島津久光は、正室千百子との間に四男を生し、長子の忠義が島津宗家を継ぎ他の3人は各々島津分家を相続した。久光は維新の大功により分家を許され公爵玉里家を創設、側室の山崎武良子に産ませた島津忠済に相続させた。
島津重豪と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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