検察のドンの立場で軍部に加担し左翼と政党を排撃、念願の首相に上り詰めたが独ソ不可侵条約に遭遇し「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残して退陣した観念右翼の総帥
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
平沼 騏一郎
1867年 〜 1952年
30点※
平沼騏一郎と関連人物のエピソード
- 東大法学部を主席で卒業した平沼騏一郎は司法省へ進み司法次官・検事総長・司法相・枢密院議長と累進、陸軍・右翼の支持を背景に首相に上り詰めたが、独ソ不可侵条約でドイツの二面外交に翻弄され僅か8ヶ月で退陣した。平沼騏一郎は中立たるべき法曹家ながらガチガチの国粋主義(観念右翼)を隠さず、民主主義・社会主義・共産主義・ナチズム・ファシズムなど外来思想を悉く嫌悪し、右翼団体「国本社」で大衆啓蒙に努め、「検察のドン」の立場を駆使して社会主義者や政党勢力の排撃に奔走した。平沼騏一郎は、「大逆事件」で幸徳秋水ら12人の死刑を求刑し、「企画院事件」で左翼官僚を弾圧(余波で小林一三商工相と岸信介商工次官が辞任)、若槻禮次郞・濱口雄幸の政党内閣を攻撃し、陸軍と共謀した「帝人事件」スキャンダルで斎藤実内閣を打倒、天皇機関説問題・国体明徴運動で西園寺公望ら天皇側近を揺さぶり、西園寺が首相指名権を手放し政党との対立で近衛文麿が第一次政権を投出すと平沼に念願の組閣大命が降された。が、平沼騏一郎内閣はナチス・ドイツからの同盟提案で右往左往するなか青天の霹靂の独ソ不可侵条約に遭遇、ヒトラーに愚弄された平沼首相は面目を失い「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」の名言のみを残し退場した。ドイツを憎む平沼騏一郎は、第二次・第三次近衛文麿内閣の閣内にあって日独伊三国同盟に反対し、陸軍統制派の「国家総動員体制」や近衛首相の「新体制運動」(大政翼賛会に結実)にはナチス流国家社会主義の模倣と異を唱えた。対米開戦後、重臣会議に列した平沼騏一郎は陸軍統制派との因縁から一応和平派陣営に属し、東條英機内閣打倒やポツダム宣言受諾に一票を投じたが、常に態度不鮮明な平沼を昭和天皇は「結局、二股かけた人物というべきである」と軽蔑した。東京裁判で投獄された平沼騏一郎は精神を病み1952年に病没したが(終身禁固刑)「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と独善的な歴史認識を開陳している。
- 社会主義運動家グループが天皇暗殺を企てたとして一斉検挙され、幸徳秋水ら12人が死刑となった(大逆事件)。高まる労働運動の封殺を狙う桂太郎政府は、社会主義者らの児戯に等しい計画をあげつらい関与者に厳罰を求め、右翼検事の平沼騏一郎が捜査を主導し死刑を求刑した。大逆事件後、社会主義運動は大衆に危険視され大きく後退、山縣有朋・桂太郎は警視庁に特別高等課を設置し弾圧を強化した(悪名高い「特高警察」の誕生)。
- 10年間のフランス留学で自由主義に染まった西園寺公望は、親分の岩倉具視に遠ざけられ、放蕩生活を送りつつ自由党機関紙『東洋自由新聞』の社長に就任、岩倉の妨害ですぐに辞任したが、板垣退助歓迎パーティに出席するなど自由党土佐派との交流は続いた。死を目前に後継者不在の岩倉具視は西園寺公望の懐柔策に転じ伊藤博文に政界復帰工作を懇請、伊藤は立憲制視察の外遊に西園寺を加え、民権派から体制派へ転向した西園寺は岩倉の後継資格を獲得、伊藤の腹心となり政友会総裁を継いで首相に上り詰めた。伊藤博文暗殺で山縣有朋・陸軍長州閥の権勢が高まり影響力を失った西園寺公望は政友会総裁を原敬に譲り政界を退いたが、山縣有朋・松方正義が没すると唯一存命の元老西園寺の存在感は高まり、牧野伸顕・木戸幸一(内相)・鈴木貫太郎(侍従長)ら天皇側近の重臣グループを束ね広田弘毅内閣まで10余年も首相指名の重責を担った。伊藤博文の国際協調・平和主義を継ぐ西園寺公望は軍部の抑止に努めたが、初暴走の張作霖爆殺事件から躓いた。昭和天皇の意を受けた西園寺公望は田中義一首相に事件究明を迫り辞任要求を突きつけるも突如撤回、犯罪の追認行為は一夕会幕僚や青年将校の増長を促し満州事変、五・一五事件、二・二六事件、盧溝橋事件と続く軍部暴走の着火点となった。茫然自失の牧野伸顕内相に「自分は臆病なり」と語ったことから陸軍の脅迫に屈したことが窺える。重臣グループが「君側の奸」と標的にされた五・一五事件の後、怯えた西園寺公望元老は静岡興津の「坐漁荘」に籠るも隠然たる影響力を保持し、内閣交代の度に新聞記者は「興津詣で」を繰返した。西園寺公望の興津院政を支えた住友財閥は貴族院議員原田熊雄を坐漁荘に派遣し近衛文麿・木戸幸一らとの連絡係を務めさせた。原田熊雄の『西園寺公と政局-原田熊雄日記』は昭和史の第一級資料である。西園寺公望は、二・二六事件後の首相指名を近衛文麿に断られ政界引退、第二次近衛内閣の日独伊三国同盟締結を座視し直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。
- 軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
- 大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
- 組閣当初にナチス・ドイツから三国同盟提案を受け、平沼騏一郎内閣は翻弄された。陸軍は、アメリカとの関係悪化に配慮しつつも、ソ連を牽制するため三国同盟の締結を強硬に主張した。一方、海軍では、伏見宮博恭王を戴く反英米の艦隊派が優勢であり、岡敬純軍務局第一課長を筆頭に三国同盟を推す意見が強かった。こうした三国同盟派に待ったをかけたのが、米内光政・山本五十六・井上成美の海軍良識派トリオであり、海軍内の下克上を抑えつつ、平沼騏一郎内閣に働きかけて「五相会議」を繰返し、三国同盟阻止に奔走した。特に山本五十六は、新聞などにも登場してズケズケと物を言ったためにテロリストの標的となり、相次ぐ脅迫状に死を決意したほどであったが、屈しなかった。
- 平沼騏一郎内閣の施政時、荒木貞夫委員長のもと陸軍の肝煎りで「国民精神総動員委員会」が設置された。贅沢の禁止、坊主頭の強制、パーマネントの禁止等々、軍部は国民生活の細部にまで監視を強めるようになり、戦時体制ムードが日を追って強くなった。
- 日中戦争勃発以降、軍需生産が最優先とされたた民需の生活物資が不足、遂に配給制が導入され自由に物を買えない次代が到来した。国家総動員法に基づき平沼騏一郎政府が1940年に砂糖とマッチの配給制を開始、1941年には米穀・清酒・木炭、1942年までにほぼ全ての生活物資が配給制となった。1944年に入って戦局が悪化すると生活物資不足と食糧難が一層深刻化し庶民は非正規に流通する闇物資を求めるよりほかに手がなくなった。闇物資の価格は高騰し、米価は大戦末期の1年間で10倍以上に跳ね上がった。
- 満州西北部のノモンハンを中心とするホロンバイル草原で、関東軍・満州国軍と、極東ソ連軍・モンゴル軍とが激突した。満州国を認めないソ連軍とモンゴル遊牧民には国境意識が希薄であり、偶発的な小競り合いが頻発するなか些細な「国境紛争」で片付くはずだった。「北守南進論」を採る陸軍中央はソ連との衝突を回避する方針で植田謙吉関東軍司令官に不戦を厳命したが、戦争がなく無聊をかこつ関東軍作戦参謀の服部卓四郎と辻政信は命令を無視して第23師団以下に戦闘命令を下し無用の大戦闘を引起した。ソ連のスターリンは、ドイツがポーランドに侵攻する前に日本軍を叩き潰して東方の安全を確保すべく徹底抗戦を決意、名将ジェーコフを総指揮官に最新鋭の機械化戦車部隊・重砲部隊・航空機部隊を投入した。著しく軍備が劣る日本軍は大苦戦、前線で戦った連隊長のほとんどが戦死または自決し大損害を出して撤退した。ソ蒙軍の損害も大きく日本軍の7720人を上回る戦死者を出したが、実態は日本軍の完敗であった。植田謙吉司令官をはじめ関東軍幹部は責任を問われ退役したが、首謀者の服部卓四郎と辻政信は免責どころか東條英機・田中新一の庇護で陸軍中枢の参謀本部作戦課に呼戻され、ノモンハン事件の反省無きまま南進政策に精を出した。作戦参謀としてシンガポールに赴任した辻政信は「華僑虐殺事件」を引起し、終戦直前のビルマ戦線で敵兵の人肉食を強要、敗戦が決すると僧侶に化けて戦犯追及を逃れ、ほとぼりが冷めると日本に舞戻り逃避行記『潜行三千里』がベストセラー、ワシントン講和後に衆議院議員4期と参議院議員1期を勤め岸信介首相を「東條英機内閣の閣僚だった」と糾弾したが、ラオス視察中に行方不明となり死亡が宣告された。東京裁判での起訴を免れた服部卓四郎はGHQに取込まれ、ウィロビー(G2)肝煎りの「服部機関」で米国の意向に添った太平洋戦史の編纂にあたり、自ら出鱈目な『大東亜戦争全史』を出版した。日本の再軍備に際してウィロビーはマッカーサーに服部卓四郎を参謀総長に推薦したが、吉田茂の猛反対で事無きを得た。
- 天津のイギリス租界内で、日本人に便宜を図った関税委員が反日中国人に殺害される事件が起った(天津事件)。日本は犯人の引渡しを求めたが、イギリス領事館が拒否したため、北支那方面軍の山下奉文参謀長と武藤章参謀副長らの強硬派が乗出し、国際紛争に発展した。日本国内では反英的な論調が盛んとなり、東京朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)をはじめとする大新聞各社がイギリスに対して強硬な共同声明を出すに至った。イギリスは日本との決定的対立を避けるために抵抗を止め、クレーギー駐日英大使が東京で有田八郎外相と会談、日本の要求を全面的に受入れて和解協定を結んだ。これで一件落着と思われた矢先に、突如としてアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきた。ルーズベルト政権のハル国務長官は、近衛文麿首相の「東亜新秩序声明」や「イギリスは日本に降参した」とか「徹底的外交の勝利」といった日本の論調に露骨な不快感を示し、中国、イギリスその他を支援して日独伊に敵対行動をとることを表明した。日本は主要な軍需物資である鉄・石油・機械類を輸入に依存しており、特にアメリカからの輸入が各品目とも輸入額の約4分の3を占めていた。第一次近衛文麿内閣の悪乗りが招いた対米関係の悪化は日本にとって致命傷であり、万難を排してでも妥協点を探るべきであったが、逆に陸海軍は資源の代替供給源を求め南進政策を推進し第三次近衛内閣のもと南部仏印進駐を断行する。
- ポーランドと英仏両国は、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した場合、ドイツに宣戦布告することを合意した。ポーランド侵攻を決意するヒトラーは英仏とソ連からの挟撃を一時回避すべくソ連に不可侵条約を提案、スターリンは当初無視したが、ノモンハン事件で日本軍の脅威を退けると電撃的に締結に踏切った。駐独日本大使の大島浩をはじめドイツからの三国同盟提案に揺れる日本側には青天の霹靂であり、ヒトラーに愚弄された平沼騏一郎首相は完全に面目を失い「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」の名言を残し退陣した。
- 強固な対米英協調主義者で三国同盟反対の姿勢を崩さない米内光政首相は、畑俊六陸相が辞任し陸軍が後任陸相選出を拒否したため軍部大臣現役武官制により倒閣に追込まれ、陸軍に受けの良い「亡国の貴公子」近衛文麿が第二次内閣を組閣した。近衛文麿自身は中国蔑視・反英米主義者ではあるものの確たる政治信念はなかったが、大島浩(後の駐独大使)・白鳥敏夫(後の駐伊大使)・徳富蘇峰・中野正剛・末次信正(海軍艦隊派)・久原房之助(後の大政翼賛会総務)ら親独・反英米の大物連を取巻きとしたため近衛内閣の使命は自ずから三国軍事同盟と国家総動員の新体制運動(大政翼賛会に結実)となった。近衛文麿首相は、外相に反英米派急先鋒の松岡洋右を復活させ、陸相には統制派最年長の東條英機を採用した。海相には対英米協調派の吉田善吾が留任したが、松岡洋右外相・陸軍のみならず海軍の艦隊派からも突上げられノイローゼとなって辞任、後任海相には及川古志郎が就任した。なお、財界から阪急・東宝グループを築いた小林一三が商工相で入閣したが、統制経済を牽引する商工次官の岸信介と衝突、企画院事件で共倒れとなった。小林一三は政治から手を引いたが、「革新官僚」岸信介は続く東條英機内閣で商工相に昇進した。
- 第二次内閣を組閣した近衛文麿は、反米英の松岡洋右を外相・東條英機を陸相に据え、使命に掲げるナチス・ドイツとの同盟を強力に推し進めた。米内光政・山本五十六・井上成美ら海軍良識派に近い吉田善吾海相は反対したが海軍内でも岡敬純・石川信吾に突上げられノイローゼとなり辞任、後任海相の及川古志郎には陸軍が米内光政内閣を倒したように海相拒否で対抗する手もあったが、石川信吾・豊田貞次郎らの強迫でナアナアとなり、陸軍が出した海軍予算確保の餌に釣られた。直後の海軍首脳会議で連合艦隊司令長官の山本五十六は最後の抵抗を試みたが伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり、皮肉にもバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍が敗れた当日それを知らない日本海軍は同盟承認を最終決定した。かくして、陸軍は明治以来の仮想敵国ソ連の牽制、海軍は米英との建艦競争予算の確保、松岡洋右外相は首相就任に向けた大衆・軍部へのアピールと、三者三様の思惑を近衛文麿首相がまとめあげ日独伊三国同盟が成立したが、最強国アメリカを正面敵に回す痛恨事であった。最後の元老で近衛文麿を後継者にした西園寺公望は「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り2ヵ月後に世を去った。アメリカは即座に報復し軍事物資などの経済封鎖を強化(ABCD包囲網)、石油が無ければ一日も軍艦を動かせない海軍は強硬派の岡敬純・石川信吾および海軍国防政策委員会の独壇場となり、田中新一ら陸軍反米派と提携し産油地獲得と援蒋ルート遮断を目的に南部仏印進駐を強行した。陸海軍も近衛文麿内閣もアメリカは強攻策に出ないと信じたが甘い期待は裏切られ、対日開戦を決意したアメリカは石油輸出全面禁止を敢行、自分の首を絞めた日本は勝ち目の無い対米開戦へ追込まれた。万策尽きた近衛文麿が政権を投出すと、木戸幸一内大臣は東條英機を後継首相に推挙し重臣会議(若槻禮次郞・岡田啓介・広田弘毅・林銑十郎・阿部信行・米内光政・原嘉道)は「天皇に忠実」という理由で最悪の人選を受入れた。
- 1941年、日独伊三国同盟にソ連を加え米英に対抗しようと夢想する松岡洋右外相は、ベルリンからの帰路モスクワへ立寄りソ連のスターリンを訪問した。独ソ関係が不穏で会談拒否も考えられたが、スターリンは快く松岡洋右を引見し席上電撃的に日ソ中立条約を受諾、当日中に調印まで済ませしてしまった。スターリンは諜報によりナチス・ドイツのソ連侵攻を掴んでいたとみられ、日独との両面戦争を何としても回避したい状況で松岡洋右の提案は渡りに船だった。モスクワ滞在中の松岡洋右に対しチャーチル英首相は英米の生産力の強大さを示しドイツのソ連侵攻を警告したうえで「イギリスの敗北が決していないのにドイツと組むのは時期尚早ではないか」と諭す書簡を送ったが、なんと松岡は「八紘一宇の大目的実現のためにやっているのだから構うな」と近代国家の外相とは思えない暴論で反駁した。「大手柄」を挙げた松岡洋右は万歳三唱をもって日本国民に迎えられ、マスコミが「北の脅威が薄れた。さあ南進だ!」と煽立てたため日本は南進論一色に染まった。が、チャーチルの警告どおり時を置かず独ソ戦が勃発、1945年日本の敗戦が決定的になるとソ連は有効期間5年の日ソ中立条約を一方的に破棄し関東軍が去った満州を蹂躙、松岡洋右はスターリンやヒトラーに愚弄されただけとなり「トリックスター」の面目躍如たる顛末を迎えた。
- 第一回御前会議で「対英米戦を辞せず」と決定したのを受けて、近衛文麿首相は、強硬派で日本の外交を掻き乱してきた松岡洋右外相を外すため内閣を総辞職、すぐに松岡抜きの第三次近衛内閣を組閣した。「大東亜共栄圏」を掲げて対中強硬路線と南進政策を主張する松岡洋右は、第二次近衛内閣の外相に抜擢され、近衛首相と軍部の期待に応えて日独伊三国同盟締結と北部仏印進駐を主導した。しかし、松岡の外交思想は単に「漁夫の利」を求める場当たり的な機会主義的強権政治であり、国際政治情勢の変化によって右往左往し、政局を引っ掻き回した挙句に外相の地位を追われることとなった。ドイツ軍が欧州を席巻するなか、松岡外相の当初のシナリオは、「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を睨み、ドイツと同盟を結んで欧州戦争参戦の口実を整え、「南進政策」を推し進めてアジアの英仏蘭植民地を奪取する、ただし米ソとは不戦体制を構築するというものであった。しかし、ソ連とは日ソ中立条約を締結したものの、安全保障戦略上イギリスを失えないと判断したアメリカは大掛かりな経済・軍事支援に乗出し、大英帝国崩壊の可能性は消滅した。これで日独伊三国同盟は完全に裏目に出て、軍需物資の大半をアメリカからの輸入に頼る日本は窮地に陥り、南進政策は可能性の問題ではなく死活問題へと転化した。慌てた松岡外相は、南進政策反対と対米妥協に転じ、軍部が仕掛けたタイ仏印国境紛争の沈静化に動いたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打ち切らせた。アジアに対する強攻策も穏健策も否定する一方で、対米妥協をも否定するという意味不明の迷走を続けるなか、独ソ戦が勃発すると、今度はなんと対ソ開戦を主張した。「漁夫の利」を求める松岡には合理的であっても、対米妥協を図る近衛首相、南進政策に集中したい軍部から完全に見放され、閣外へ放逐されることとなった。松岡外相の「積極外交」は幕を閉じたが、その爪痕は甚大な禍根となり、関東軍特種演習(対ソ開戦に備えた関東軍増強)、南部仏印進駐、対米開戦へと続く亡国路線を決定付ける役割を果した。
- 第二回御前会議の結果を受けて、近衛文麿首相は野村吉三郎(海軍出身)駐米大使を通じて日米交渉を再開しようとしたが、時既に遅く、アメリカから相手にされなかった。近衛首相は閣議で対米妥協策を諮ったが、東條英機陸相から中国からの陸軍撤兵は「心臓停止」に等しく絶対に承認できない「人間、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だ」と突上げられ、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相は東條陸相に与し永野修身軍令部総長は「よくわからないので首相に一任」と責任を回避する情けない有様で、近衛首相は陸海軍の不一致を理由に土壇場で政権を放り出してしまった。後任首相は昭和天皇と木戸幸一内大臣の協議により決められたが、対米協調派の皇族軍人で軍部にも抑えが効く東久邇宮稔彦王が有力視されるなか、よりによって最大の主戦論者である東條英機を選んでしまった。愚かな決断をした木戸幸一の真意は不明だが、強硬派ながら天皇への忠節が厚い東條に任せれば天皇の意を汲んで開戦回避に尽力するだろうとの思惑があったとみられ、天皇は木戸の奏上に「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。首相となった東條英機は、陸相と参謀総長を兼務し、対米開戦を諌めた網本浅吉陸軍少将を追放するなどして反対勢力を一掃した。組閣直後は天皇の意に適うべく対米開戦回避に努めたが、戦争の決意を固めたアメリカを相手に中国・仏印からの完全撤退の他に打開策は無く、強硬な陸軍統制派を基盤とする東條首相には開戦以外の選択肢は残されていなかった。
- 「日米諒解案」が挫折した後も野村吉三郎駐米大使はワシントンに留まりハル米国務長官と妥協点を探る交渉を続けたが時既に遅し、開戦準備を終えたアメリカは突如交渉を打切り「日本軍が仏印と中国から撤退しない限り経済封鎖を解除しない」とする最後通牒(ハル・ノート)を東條英機政府に突きつけた。要するに満州事変以前への原状回復を迫る、当時の外交常識に反する超強硬姿勢であり、アメリカも日本が呑むとは考えておらず日本を挑発して開戦に踏切らせようとの意図があった。完全に手詰まりとなった東條英機内閣は、若槻禮次郞や米内光政ら良識派重臣の最後の諫止を黙殺し、第四回御前会議において対米開戦を決定した。なお、当時アメリカは日本の外交暗号「パープル」の解読に成功しており、日本サイドの情報は筒抜けであった。近衛文麿・東條英機内閣が対米開戦に踏切った背景にはナチス・ドイツ軍への過剰な期待があったが、確かにソ連の敗北は必至と思える戦況があった。東部戦線を片付けたドイツは西部戦線に兵力を集中しイギリスを撃破するはずであり、欧州に足場を失えばアメリカも戦意喪失し早期講和に応じるだろう・・・こうした希望的観測を陸海軍を含む日本全体が共有していた。が、東條英機内閣が第四回御前会議で対米開戦を決定した数日後、ドイツ軍はスターリンが陣取るモスクワまで30kmに迫りながら悪天候とソ連軍の猛反撃により後退を開始、ドイツ優位で進んできた独ソ戦の趨勢は一変し、甘い他力本願戦略には対米開戦を前に狂いが生じた。
- 日本軍がマレー侵攻と真珠湾攻撃を敢行、英米蘭中が日本に宣戦布告、これを受けて独伊が米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1941年において、アメリカのGNPと鉄鋼生産量はいずれも日本の12倍、持久戦・総力戦になれば全く勝つ見込みのない戦争であった。山本五十六連合艦隊司令長官が自ら立案した日本海軍による真珠湾攻撃は、結果的には鮮やかな戦果を挙げたが、非常にリスクの高い冒険的作戦であった。持久戦では勝ち目がないと確信する山本五十六は、日本近海で敵艦隊を待ち伏せし大鑑巨砲で決戦に挑むという軍令部の作戦の非を悟り、「桶狭間とひよどり越と川中島とをあわせ行うの已むを得ざる羽目に、追込まれる次第に御座候」と覚悟を定め乾坤一擲の大博打に挑んだのである。真珠湾攻撃が成功すれば早期講和に持ち込み、もし惨敗しても戦争は続行不能、いずれにせよ戦争を早期に終わらせるための攻撃作戦であった。山本五十六の悲壮な決意を知らない海軍中枢の幕僚らは、自分らの作戦に固執して真珠湾攻撃の阻止を図ったが、山本らが良い加減な永野修身海相を押し切って実現させた。なお、宣戦布告文書の手交が真珠湾攻撃開始に1時間遅れたため、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンで現在に至るまでアメリカの反日政策に利用されることとなったが、これは日本大使館員の怠慢が原因であり、日頃の野村吉三郎大使への反抗的態度が思いもよらぬ大問題に発展したというお粗末極まりない話であった。
- 戦局が悪化しても強硬論を曲げない東條英機首相(陸相と参謀総長を兼務)に対し、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣は結束して倒閣工作に動いた。東條独裁下の陸軍は頑強に抵抗したが、東條英機首相が自ら「防衛は安泰」と豪語したサイパン島が呆気なく陥落し敗戦が決定的になると、重臣会議は意を決して粘る東條を引きずり降ろした。「戦争遂行内閣」の後継首相は陸軍から出すこととなったが「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜す」という投遣りな選考の結果、宇垣一成の穏健派に連なる小磯國昭に組閣の大命が降された。陸相には強硬派の杉山元が就任したが、小磯國昭の能力不足を補うため元首相で海軍良識派の米内光政が海相に復帰し「小磯・米内連立内閣」といわれた。小磯國昭は、陸士(12期)を出て日露戦争に従軍、陸大の席次は55人中33番と凡庸だったが、長州閥の系譜を引く宇垣一成に属し派閥争いが盛んな陸軍にあって人柄と人付合いの良さで台頭、要職の軍務局長・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官を歴任した。小磯國昭大将は予備役に退いたが、調整能力を買われて平沼騏一郎・米内光政内閣に拓務相で入閣し、朝鮮総督を経て首相へ上り詰めた。小磯國昭に特筆すべき業績は無いが、朝鮮総督として同化政策(皇民化政策)を推進したことや、陸軍航空本部員として欧州視察を経験し空軍力の充実を持論としたことなどが知られている。さて、実は戦争終結を期待された小磯國昭内閣は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍を懐柔すべく「一撃を加えた上で有利に対米講和を進める」建前を示し徴兵年齢拡大(根こそぎ動員)を断行したが相手にされず、本土爆撃が本格化するなか愚にも付かない「本土決戦完遂基本要綱」を容認した。米内光政海相・重光葵外相や近衛文麿・木戸幸一ら重臣にも見放された小磯國昭首相が何も出来ないまま、レイテ沖海戦で海軍が壊滅し東京大空襲・硫黄島陥落・沖縄侵攻・日ソ中立条約廃棄通告と戦局は見る間に悪化し、戦艦大和撃沈の日に小磯内閣は退陣した。終戦後、小磯國昭は東京裁判で終身刑判決を受け1950年に巣鴨プリズンで獄死した。
- 敗戦必至の戦局が徒に長引くなか、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が東條英機内閣を打倒し、無能な小磯國昭内閣に代わり昭和天皇の信任篤い鈴木貫太郎の「終戦内閣」が成立、ナチス・ドイツの降伏、ソ連の日ソ中立条約廃棄、沖縄戦敗北、空襲で国中が焼け野原と化すに及び漸く陸軍は「本土決戦」を断念した。鈴木貫太郎内閣と陸軍は中立条約締結国のソ連を仲介とする日米和平交渉に最後の望みを繋いだが、ヤルタ会談で米英に8月9日の対日参戦を約束済みのスターリンが仲介などするはずはなかった。かくして鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾を決めたが降伏条件で紛糾、「天皇制護持」のみで妥結を図る東郷茂徳外相らに対し、阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長は「占領は小兵力且つ短期間」「武装解除および戦犯の処置は日本人の手で行う」との条件追加を声高に主張した。議事が膠着するなか、鈴木貫太郎首相は強引に御前会議を開いて昭和天皇の「聖断」を仰ぎ、天皇は慣例を破って自らの意見を述べ天皇制護持だけを条件とする東郷外相案に賛意を示した。その8月10日のうちに外務省は中立国を介し天皇制護持のみを条件にポツダム宣言を受諾する旨を通知、連合国から承認の回答を得た。陸軍幕僚らは連合国の回答をあげつらって悪あがきしクーデターを企てたが(宮城事件)、辛くもテロを逃れた鈴木首相は全閣僚・重臣を召集、席上昭和天皇が連合国回答に基づく降伏を明言し、正式の手続きを踏んで8月14日に日本の敗戦が決定した。いわゆる「無条件降伏」ではなかったが、日本が固執した天皇制護持さえアメリカ(GHQ)の恣意へ委ねられ、あれだけ血気盛んだった軍人らも忽ち意気阻喪した。最悪なのは「無敵関東軍」で、日本人居留民の安全を確保する前に早々に武装解除に応じ我先に内地へ帰還、「降伏文書調印(9月2日)までは交戦状態」というスターリンの屁理屈でソ連軍が満州に殺到し無防備の日本人に襲い掛かった。暴虐なソ連軍は日本の民間人18万人を虐殺し、国際法を無視して57万人以上の「戦争捕虜」を強制労働で酷使し10万人以上を死なせた(シベリア抑留)。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。
- 東京裁判が始まると平沼騏一郎はA級戦犯として巣鴨拘置所に収監され、辛くも極刑を免れ終身禁固の判決を受けた。同じエリート官僚出身・右翼の広田弘毅は文官で唯一死刑に処されたが、組閣の時期が逆なら平沼騏一郎は広田と同様の親軍政策を採ったはずであり、西園寺公望元老と昭和天皇に嫌われ組閣を延ばされたことと独ソ不可侵条約で短命内閣に終わったことが平沼に幸いした。以後、平沼騏一郎は1952年の死までほとんど刑務所で過ごしたが、精神不安定で深夜に泣き叫ぶなどの奇行を繰返した。獄中の平沼騏一郎は重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。精神障害のためかも知れないが、戦争主導の主体を陸軍・右翼から財閥・政党にすげ替え穏健派の西園寺公望に戦争責任を押付けざるを得ない心理状態は寧ろ痛々しい。
平沼騏一郎と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照