右翼結社・玄洋社員として外務官僚となり、日中戦争拡大の最重要局面で首相・外相の座にあって軍部と右翼に迎合して亡国へのお膳立てをしたキーパーソン
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照広田 弘毅
1878年 〜 1948年
20点※
広田弘毅の寸評
広田弘毅の史実
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1878年
福岡県那珂郡鍛冶町で石材商を営む林徳平の嫡子に広田弘毅が出生
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1878年
林徳平が広田家の夫婦養子となる
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1879年
玄洋社設立
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1889年
大隈重信外相が玄洋社来島恒喜に襲撃される
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1898年
広田弘毅が玄洋社の援助を得て上京し第一高等学校に入学
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1903年
広田弘毅が東京帝国大学法学部政治学科に入学
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1904年
広田弘毅が外務官僚の山座円次郎の勧めで朝鮮・満州・シベリアへ軍事偵察旅行
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1904年
日露戦争開戦
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1905年
広田弘毅が東京帝国大学法学部を卒業、最初の外交官試験に失敗
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1905年
孫文が東京で中国同盟会を結成
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1905年
ポーツマス条約調印
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1906年
第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任
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1906年
広田弘毅が二度目の外交官試験に合格し外務省入省、翌年北京赴任
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、寺内正毅が陸軍大臣就任
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1909年
広田弘毅がロンドン赴任
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1909年
アメリカが満鉄の中立化を提唱
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1911年
不平等条約改正で完全平等達成(関税自主権の完全回復)
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足
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1914年
広田弘毅が外務省本省の通商局第一課長任官
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1914年
駐中国特命全権公使の山座円次郎が北京で客死
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
「対華21ヶ条要求」策案に参加
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1915年
日本が漢冶萍公司の支配権を掌握
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1918年
シベリア出兵
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1919年
ワシントン大使館に赴任
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1921年
加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使がワシントン海軍軍縮条約調印を断行
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足
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1922年
加藤友三郎首相が日本軍のシベリア撤兵を断行
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1922年
ソビエト社会主義共和国連邦樹立、スターリンが最高指導者となる
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1923年
関東大震災
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足、伊集院彦吉が外務大臣就任
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1923年
広田弘毅が外務省欧州局長就任
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足、松井慶四郎が外務大臣就任
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足、幣原喜重郎が外務大臣就任
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1925年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925年
高橋是清に代わって田中義一が政友会総裁就任
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足、幣原喜重郎が外務大臣就任
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1926年
孫文の死に伴い蒋介石が広東の国民政府を掌握し北伐開始
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
広田弘毅がオランダ公使就任
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1927年
蒋介石が南京国民政府を樹立、第一次国共合作崩壊
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足、田中義一が外相兼任
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足、幣原喜重郎が外務大臣就任
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1929年
農産物価格が暴落し農家が大打撃を受ける
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1930年
金解禁(金本位制復帰)
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1930年
幣原喜重郎外相と海軍条約派がロンドン海軍軍縮条約調印を断行
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1930年
鳩山一郎・犬養毅ら政友会が統帥権干犯問題を引起し東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(軍拡反米英派)が海軍主流となる
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1930年
広田弘毅が駐ソビエト連邦特命全権大使就任
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足、幣原喜重郎が外務大臣就任
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
朝鮮駐留軍の林銑十郎司令官が独断で越境増援、若槻禮次郞内閣が追認
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1931年
軍事費の急増が始まる
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
外相退任の幣原喜重郎が隠退し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」が終焉
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任、芳澤謙吉が外相就任
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1932年
関東軍が満州全域を制圧
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1932年
第一次上海事変
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1932年
軍拡反米英派(艦隊派)首領の伏見宮博恭王が海軍軍令部長(総長へ改称)就任(~1941)
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1932年
満州国建国
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1932年
国際連盟が満州国にリットン調査団を派遣
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1932年
上海天長節爆弾事件
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足、斎藤実が外相兼任(内田康哉・広田弘毅へ途中交代)
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932年
第一次武装移民団が満州入植し満蒙開拓移民が始まる
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
内田康哉外相のもと重光葵が外務次官就任
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1933年
内田康哉に代わって広田弘毅が外務大臣就任
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足、広田弘毅が外務大臣就任
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1935年
陸軍統制派の首領永田鉄山が殺害される(相沢事件)
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1936年
二・二六事件、参謀本部作戦課長の石原莞爾が戒厳司令部参謀を兼務し反乱将校の断罪と皇統派の粛清を主導
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速
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1936年
軍部大臣現役武官制が復活
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1936年
「満州開拓移民推進計画」決定
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1936年
日本の呼称を「大日本帝国」に統一
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1936年
日独防共協定調印
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1936年
広田弘毅内閣が「北守南進政策」を決定
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1936年
西安事件
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
広田弘毅が貴族院議員に勅撰される
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
日中戦争不拡大を説く石原莞爾が失脚し華北分離を主張する武藤章・田中新一ら統制派が陸軍中央を掌握
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1937年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937年
石原莞爾の停戦案を近衛文麿首相と陸軍統制派が拒否
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1937年
第二次国共合作成立
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1937年
大本営設置
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1937年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1938年
日本軍が武漢三鎮を占領するが蒋介石の国民政府は重慶へ退避
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1938年
広田弘毅に代わって宇垣一成、有田八郎が外務大臣就任
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足、有田八郎が外務大臣就任
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1939年
ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の提案を受ける
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1939年
ノモンハン事件勃発
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足、、野村吉三郎が外務大臣就任
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足、有田八郎が外務大臣就任
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1940年
日本が汪兆銘を擁立して南京に中華民国政府を樹立
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1940年
広田弘毅が重臣会議に列す
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)
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1940年
アメリカが対日屑鉄輸出を全面禁止、ABCD包囲網による経済封鎖が本格化
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任
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1940年
アメリカが日本の外交暗号解読に着手
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1940年
海軍の出師準備発令
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1940年
最後の元老西園寺公望死去
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1940年
岡敬純・石川信吾ら対米強硬派が海軍を完全掌握し海軍国防政策委員会を設置
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1941年
松岡洋右外相がナチス・ドイツのヒトラーを表敬訪問、シンガポール攻撃を吹込まれる
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1941年
松岡洋右外相がスターリンを訪問し電撃的に日ソ中立条約調印
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1941年
野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉が松岡洋右外相の妨害により停止
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1941年
独ソ戦開戦
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1941年
第三次近衛文麿内閣(公家)発足、松岡洋右外相を放逐
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1941年
関東軍特種演習~対ソ連開戦に備えた関東軍増強
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1941年
南部仏領インドシナ進駐開始
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1941年
アメリカが対日石油輸出全面禁止
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1941年
御前会議で「帝国国策遂行要領」を定め対米開戦決意
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1941年
東條英機内閣(陸軍)発足、東郷茂徳が外務大臣就任(谷正之、重光葵と途中交代)
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1941年
アメリカの最後通牒(ハル・ノート)で日米交渉が決裂し御前会議で対米開戦決定
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1941年
ナチス・ドイツ軍がモスクワ攻略に失敗し後退が始まる
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1941年
日本海軍の真珠湾攻撃・陸軍のマレー侵攻で太平洋戦争勃発
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1942年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1942年
日本軍がインドネシア全域を占領し石油供給源を獲得(シーレーン断絶で宝の持ち腐れとなる)
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1942年
ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
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1943年
日本軍がソロモン沖海戦で敗北しガダルカナル島撤退
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1943年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1943年
米英中が「カイロ宣言」発表
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1944年
東條英機の意を受けた牟田口廉也が無用無謀のインパール作戦を強行
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1944年
マリアナ沖海戦敗北・サイパン島陥落で日本の敗戦が決定的となる
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1944年
小磯國昭内閣(陸軍)発足、重光葵が外務大臣就任
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1944年
小磯國昭内閣が徴兵年齢を拡大し「根こそぎ動員」
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1944年
レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅し南方補給路が断絶(伏見宮博恭王元帥の示唆で「特攻作戦」始動)
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1945年
米英ソがヤルタ会談(ソ連の対日参戦を秘密合意)
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1945年
陸海軍統帥部が「本土決戦完遂基本要綱」を決定
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1945年
東京大空襲はじめ米軍の空爆で全国主要都市が焼け野原と化す
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1945年
硫黄島陥落で日本軍は本土制空権も完全喪失
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1945年
沖縄戦が始まる
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1945年
ソ連が日ソ中立条約廃棄を通告
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1945年
吉田茂が近衛上奏文事件で憲兵隊に2ヶ月間拘置され反軍部の「勲章」獲得
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1945年
鈴木貫太郎内閣(海軍)発足、東郷茂徳が外務大臣就任
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1945年
ドイツが連合国に降伏
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1945年
鈴木貫太郎政府がソ連を仲介とする日米和解工作に動く
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1945年
連合国がポツダム宣言発表
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1945年
トルーマン米大統領が広島に原子爆弾投下
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1945年
ソ連が日ソ中立条約を破り満州・樺太・朝鮮へ侵攻
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1945年
トルーマン米大統領が長崎に原子爆弾投下
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1945年
日本がポツダム宣言に基づく降伏を通告
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1945年
玉音放送
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1945年
マッカーサー連合軍最高司令官が着任し連合軍進駐開始
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1945年
日本代表の重光葵外相が降伏文書に調印し第二次世界大戦終結、ソ連は満州侵略を止めず北朝鮮まで制圧
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1945年
GHQが東條英機を逮捕し戦犯狩り始動
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1945年
連合軍総司令部(GHQ)による間接統治開始(~1952)
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1945年
GHQが自主路線の重光葵外相を更迭し超従米路線の吉田茂に外相交代
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1945年
幣原喜重郎内閣(外務官僚・従米路線)発足
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1946年
極東国際軍事裁判(東京裁判)開始(~1948)
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1948年
広田弘毅が巣鴨プリズンにて絞首刑に処される(享年70)
広田弘毅の交遊録
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平岡浩太郎
玄洋社仲間
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頭山満
玄洋社仲間
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内田良平
玄洋社仲間
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月成功太郎
玄洋社仲間
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山座円次郎
大恩人
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小村寿太郎
山座のボス
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大隈重信
対外硬仲間
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加藤高明
対外硬仲間
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松岡洋右
対外硬仲間
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幣原喜重郎
上司
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佐分利貞夫
先輩
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重光葵
外交仲間
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内田康哉
外交仲間
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吉田茂
外交仲間
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松岡洋右
亡国仲間
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斎藤実
外相時の首相
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岡田啓介
外相時の首相
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近衛文麿
亡国仲間
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東條英機
亡国仲間
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石原莞爾
言う通りにしておけば
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西園寺公望
キングメーカー
広田弘毅と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 20点
広田弘毅は東大法学部を出て外務官僚となり福岡玄洋社の先輩で「対外硬」急先鋒の山座円次郎に属し累進、斎藤実・岡田啓介内閣の外相を経て二・二六事件後の混乱期に首相となった。福岡箱崎の石屋の倅から首相へ成上がった努力と才能は素晴らしいが、広田弘毅内閣は軍部抑制どころか軍部大臣現役武官制の復活・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、日本を亡国の対米開戦を誘うターニングポイントとなった。さらに続く第一次近衛文麿内閣で外相に復帰した広田弘毅は近衛首相と共に強硬外交を推進、当事者の陸軍さえ日中戦争講和へ傾くなか和解工作を蹴って自ら泥沼へはまり「近衛声明」で欧米列強を挑発し引くに引けない立場へ追込まれた。広田弘毅は国際知識をもって軍部を律すべき外交官ながら、単に軍部に引きずられたというだけでなく一層強硬な玄洋社流右翼外交を主導、東京裁判で文官唯一の死刑に処されたが、連合国への責任はともかく、最重要イベントの日中戦争泥沼化に果した役割は極めて重く同情の余地は乏しい。愛妻家で温厚な人柄や本心の平和主義はともかく、広田弘毅は近衛文麿・松岡洋右と並ぶ亡国のキーマンといわざるを得ないだろう。