右翼結社・玄洋社員として外務官僚となり、日中戦争拡大の最重要局面で首相・外相の座にあって軍部と右翼に迎合して亡国へのお膳立てをしたキーパーソン
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広田 弘毅
1878年 〜 1948年
20点※
広田弘毅と関連人物のエピソード
- 広田弘毅の人脈は地元福岡の右翼結社「玄洋社」に連なる。広田弘毅は修猷館で勉学に励みつつ明道館で柔道に打込み初段を取得、「嘉納治五郎の四天王」で師範の横山作次郎は「広田は柔道で食っていける」と期待した。広田弘毅は明道館を経営する玄洋社に加盟し、幹部らは文武両道の少年に目を掛けた。平岡浩太郎は東京進学を希望する広田弘毅のために篤志家から金を募り提供、学資を得た広田は第一高等学校・東大法学部へ進み、内田良平の世話で講道館道場に入門、頭山満から副島種臣・山座円次郎・杉山茂丸らを紹介された。外務官僚の山座円次郎に兄事した広田弘毅は、学生ながら外務省嘱託手当を給され、官費で朝鮮・満州・シベリアへの軍事偵察旅行を経験、通訳や韓国統監府属官の職を与えられた。山座円次郎は、東大法学部を主席で卒業した対外硬派外務官僚の急先鋒で、小村寿太郎外相の腹心(政務局長)として日露開戦に奔命し宣戦布告文書を起草、ポーツマス講和会議にも出席した。山座円次郎は陸海軍将校と料亭で会合を重ね、日露戦争回避に奔走する伊藤博文を「あのような軟弱論者は斬ってしまえ」と放言したが、それを耳にした伊藤は小村と山座を料亭に呼出し床の間の日本刀を指差して「あれでわたしを斬ってみよ」と一喝し沈黙させた。伊藤博文は暗殺を企てた玄洋社の杉山茂丸も追返している。さて、東大を卒業した広田弘毅は二度目の外交官試験に受かり大蔵省に入省、山座円次郎は中国公使在任中に客死したが(袁世凱に毒殺されたとも)桂太郎ラインに属して累進し、英米勤務から欧州局長、オランダ公使、駐ソ連特命全権大使を経て斎藤実・岡田啓介内閣で外相に栄達した。同じ「大陸派」の吉田茂(同期)や松岡洋右(2年下)は外務省の傍流だが、広田弘毅は出世コースを邁進した(重光葵と白鳥敏夫は10年下)。外交官には財閥富豪の婿となり優雅な生活を楽しむ者が多く、加藤高明・幣原喜重郎(岩崎弥太郎の女婿)や吉田茂(牧野伸顕の女婿)は典型だが、広田弘毅に貴族趣味は無く加藤高明からの三菱令嬢の縁談を断って玄洋社幹部月成功太郎の娘静子を妻に選び、上司に阿らない飄々とした人柄は部下に慕われた。
- 城山三郎の『落日燃ゆ』以降、第二次大戦後の東京裁判で文官唯一の死刑に処された広田弘毅には同情論が根強い。派手好みの外交官にしては貴族趣味が無く大の愛妻家で子煩悩という人柄も手伝い「本当は戦争回避に努めたのに、東京裁判では文官からも死刑を出したいアメリカの思惑に巻込まれた悲劇の宰相」というイメージが定着しているが、「思想信条はともかく、実際にやったことを考えれば東條英機以上の重罪」と断じる向きもある。人格や思想信条を脇に置き広田弘毅の事跡を通観すると「広田氏は軍国主義者ではないものの、政府を支配しようとする陸軍の圧力に屈しており、侵略を容認し、その成果に順応することでさらなる侵略に弾みをつけた者達の典型である」「日本が膨張を遂げていく上での積極的な追随者」「共同謀議の一端を担った」として東京裁判の訴追対象に加えた国際検事局の判断は妥当とすべきだろう(戦勝国裁判に正当性が無いのはもとより)。とりわけ、亡国へのターニングポイントとなった日中戦争泥沼化に関して広田弘毅が近衛文麿と共に果した役割は極めて重大であった。
- 1879年に発足した玄洋社は、平岡浩太郎・頭山満・箱田六輔らの明治維新に乗遅れた福岡藩士が中心となって結成した政治結社で、アジア主義を標榜し「大陸浪人」の拠点となった。玄洋社は孫文や康有為らの独立運動家を援助し、日清戦争から日中戦争、太平洋戦争に至るまで情報収集や裏工作を行って軍部を支援した。1901年には内田良平らが玄洋社から分派して黒龍会を結成し、一層活発な活動を展開した。桂太郎・児玉源太郎ら陸軍長州閥の盟友で伊藤博文暗殺を企てた杉山茂丸、大隈重信外相に爆弾を投付け右脚切断の大怪我を負わせた来島恒喜、帝政ロシアの後方攪乱工作により日露戦争勝利に貢献した陸軍人の明石元二郎、二・二六事件後に首相となり日独防共協定・北守南進政策・海軍軍縮条約廃棄で軍国主義化を加速させた広田弘毅も玄洋社に籍を置いていた。
- 玄洋社の来島恒喜が、官邸に入る大隈重信外相の馬車に爆烈弾を投げつけ、その場で自決した。大隈重信は一命を取り留めたものの右脚切断の重傷を負い、外相襲撃の不祥事に遭い条約改正交渉に行詰まった黒田清隆首相は辞任、山縣有朋が組閣するまで三条実美が首相代行を務めた。「外交通」を自認し井上馨から外相職を奪った大隈重信は何も出来ないまま無念の降板、後任の青木周蔵(長州人)も成果を出せず、第二次伊藤博文内閣で外相に就いた陸奥宗光が悲願の不平等条約改正を成遂げた。
- 東大法学部を主席で卒業した加藤高明は、岩崎弥之助に青田買いされ岩崎弥太郎の長女春治と結婚し三菱社員となったが、陸奥宗光外相の引きで外務官僚に転じ駐英公使・大使として日清戦争と条約改正に奔走、第四次伊藤博文内閣に外相で初入閣した。「対外硬」急先鋒の加藤高明は桂太郎内閣の日露戦争講和を「軟弱外交は失敗した」と攻撃し世論を扇動、国際関係の悪化を招き西園寺公望内閣で外相辞任に追込まれたが、なんと桂太郎に鞍替えして外相に返咲き、第二次大隈重信内閣の第一次世界大戦参戦と「対華21カ条要求」で主導的役割を果した。国際常識を無視した対華21カ条要求の暴挙は、当然ながら列強に圧殺され国内向けパフォーマンスに終始したが、日中戦争泥沼化と今日まで続く「反日」の元凶となり末代まで禍根を残した。加藤高明は伊藤博文・陸奥宗光に属したが、政友会総裁を継いだ西園寺公望に対外硬を敬遠されると駐英大使・外相の餌に釣られ桂太郎に乗換え、桂の急死で打算が狂ったが桂の同志会(憲政会)を継ぎ反政友会政党の首領に納まった。西園寺公望が唯一の元老となり首相指名権を握ると「苦節十年」寝返りのツケを払わされたが、宿敵の政友会と合同して清浦奎吾の「超然主義内閣」を倒し念願の首相職を手に入れた(護憲三派による第二次護憲運動)。加藤高明は帝大卒・官僚出身の首相第一号、後継の若槻禮次郞が第二号である。外相ポスト欲しさに伊藤博文・大隈重信・桂太郎(山縣有朋)の間を浮遊し、首相ポスト欲しさに政友会と手を組んだ加藤高明の無節操はむしろ見事だが、金権政治が進むなか三菱の財力ゆえに不誠実が許されチヤホヤされ続けたとも言える。政権目当ての「護憲三派体制」はすぐに崩壊し2年後に加藤高明首相は急死、後継の若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣したが政友会との政権争い明け暮れ、政治ソッチノケの二大政党の対立抗争は政党政治の崩壊を招いた。なお、加藤内閣で成立した普通選挙法は原敬・犬養毅・尾崎行雄ら政党人の努力の結晶であり、加藤高明に個人として特筆すべき業績は無い。
- シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れると、元老の井上馨は「反政府と護憲の大火事を消すには、早稲田のポンプを使うしかない」と山縣有朋や松方正義の反対を抑え大隈重信を首相に擁立、薩長藩閥の手先と化した大隈は衆議院解散により政友会議員を半減させて井上の期待に応え山縣の言うままに二個師団増設を断行、褒美に侯爵を与えられた。そして「対外硬」の大隈重信首相と加藤高明外相は、第一次世界大戦で列強の手がアジアに回らない間隙を突いて袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告、山東半島におけるドイツ権益の承継、遼東半島と満州における日本権益の99年延長、漢冶萍公司(中国最大の製鉄所)への経営参画、政治・経済・軍事に係る日本人顧問の受入れなど国際常識に反する無茶な要求を突きつけた。当然ながら欧米列強の干渉で画餅に帰し大隈重信内閣の国内向け対外硬パフォーマンスに終わったが、対華21カ条要求は中国民衆のナショナリズムに火をつけ欧米列強へ向かうべき怒りが日本に集中し「五・四運動」など大規模抗日運動に発展、根深い反日意識は日中戦争泥沼化の原因となり、受諾日の5月9日は現代中国で「国恥記念日」とされ「侵略」の象徴となっている。恫喝外交のパークス英公使らに対するハッタリと強談判で出世の糸口を掴んだ大隈重信は、おそらく福澤諭吉の『脱亜論』でアジア蔑視思想に染まり、日清戦争では伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省も日本の領土として要求せよなどと下関条約にケチをつけた。83歳まで長寿を保った大隈重信は「失敗とか成功とかいうことは、人の客観、主観によって相違がある。また、時の経過、時潮の流れによっては、一時の失敗もあるいは大きな成功ともなる・・・すべてはタイムが解決する。功名誰か論ずるに足らんや、である」と実に無責任な言葉を残し、盛大な「国民葬」で送られた。大隈重信の大衆迎合的対外硬パフォーマンスは加藤高明や(直接の関係は無いが)「史上最悪の外交官」松岡洋右へと受継がれ、軍部・マスコミと結託して幣原喜重郎らの協調外交を葬った。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 濱口雄幸首相銃撃事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの背景には、軍部における下克上の風潮に加え、世界恐慌後長引く不況と金解禁等政府の失策に対する民衆の憤りがあった。デフレ不況で農村の窮迫が深刻の度合いを深める中、政府は有効な手立てを講じることができず、濱口雄幸内閣に至っては時機を誤った金解禁で不況を悪化させたうえに財閥に巨富をもたらす結果を招いた。何時の時代でも不況の打開策で最も手っ取り早いのは戦争であり、ジャーナリズムの扇動もあって、世論は好戦ムード一色となり軍部への期待が高まった。兵卒の大多数は農村出身者であり、彼らの悩みに直に接する隊付青年将校達は最も敏感に反応し井上日召・北一輝・西田貢ら民間右翼の思想に共鳴、グループを結成して急進的な「国家改造」を企てた。方や陸軍上層部では、下克上で実権を掌握した中堅幕僚グループ・一夕会が、永田鉄山率いる統制派と真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎らの皇道派に別れて対立を深めていた。隊付青年将校グループは、思想信条が近い皇道派と結びつき、武力クーデターによって「君側の奸」を排除し真崎・荒木を首班とする軍部主導内閣を打ち立てて一気に「国家改造」を果たそうとした。こうした事情のもとに行われた隊付青年将校グループと民間右翼によるテロは、金解禁を実施した濱口雄幸と井上準之助、金解禁で儲けた三井の団琢磨を殺害した後、犬養毅を斃して政党政治を葬り、二・二六事件でピークに達した。二・二六事件は、統制派の林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長により陸軍中枢から追われつつあった皇道派の起死回生の反撃という意味合いもあり、1500人もの反乱軍による一大内乱事件に発展した。結局、二・二六事件は昭和天皇の英断により断固鎮圧され、陸軍中央では皇道派幕僚が完全に閉め出され、一夕会・非皇道派の石原莞爾、続いて武藤章・東條英機ら統制派の天下となった。
- 満州問題武力解決を強行する陸軍の謀略を知った昭和天皇と元老西園寺公望は南次郎陸相を呼びつけ停止を厳命、腰砕けとなった南は金谷範三参謀総長に相談のうえ止め役として建川美次作戦部長を満州へ派遣した。これを知った関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは決行か中止かで大いに迷ったが、三谷清憲兵分隊長・今田新太郎駐在分隊長ら若手の強硬派に押され遂に実行を決意した。奉天に到着した建川美次を料亭菊文に招いて酒豪の板垣征四郎らが酔潰している間に、今田新太郎ら実行部隊は奉天郊外の柳条湖付近で鉄道を爆破した(柳条湖事件)。満鉄の鉄道爆破は、関東軍条例第三条に基づく合法的軍事出動の理由を得るためであった。菊文を飛出した板垣征四郎は張学良軍の先制攻撃と断じて奉天守備隊長らに奉天城・北大営の攻撃を命令、旅順の関東軍司令部では石原莞爾が本庄繁司令官を説伏せ関東軍を奉天へ進発させた。奉天作戦に続くハルビン侵攻を期す石原莞爾は、張学良軍が奉天周辺だけで2万・満州全土で25万もいるのに対し関東軍は1万余という戦力不足を補うため、朝鮮駐留軍の越境増援を画策し朝鮮軍作戦参謀の神田正種の内諾を得ていた。が、奉天で待っていたのは金谷参謀総長からの不拡大方針決定を伝える電報であり、本庄繁司令官は翻意して即時停戦を命じ「ハルビン侵攻などもってのほか」とした。が、諦めない石原莞爾らは「ハルビンが駄目なら吉林省」と侵攻作戦を書き直し本庄司令官に談判した。「沢庵石」の異名をとる本庄繁は撥ね付けたが板垣征四郎の強談判に屈し、石原莞爾参謀は戦線を満州全域へ拡大、林銑十郎司令官の独断で朝鮮駐留軍も越境来援し日本軍は瞬く間に張学良軍を掃討し満州全域を制圧した(満州事変)。このとき本庄繁が頑として拒否を貫いていれば、張作霖爆殺事件と同様に満州事変は忽ち沈静化し石原莞爾・一夕会の大陸浸出の野望も挫折した可能性が高い。
- 石原莞爾関東軍作戦参謀と示し合わせていた神田正種朝鮮軍作戦参謀は、満州事変が起ると、朝鮮軍を率いて国境線の鴨緑江まで進んで待機した。金谷範三参謀総長は昭和天皇に朝鮮軍の越境出動を奏上したが、頑なに拒絶された。ところが、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で出動命令を下し、1万人以上の兵員を満州に進発させた。大元帥である天皇の命令なくして軍隊を動かすことは大犯罪であり、軍法会議で死刑になる決まりであった。慌てた陸軍首脳はこれを閣議に持ち込み、武力解決反対の若槻禮次郞首相や幣原喜重郎外相らは南次郎陸相を吊るし上げたが、林銑十郎司令官の越境朝鮮軍が既に満州に入ったとの報を聞くと若槻首相は「それならば仕方ないじゃないか」と一転、林司令官の行動の追認を閣議決定したばかりか、軍事費の特別予算拠出を決定、軍事予算急拡大の端緒を開いた。天皇の意思は無視されたわけだが、閣議決定には異を唱えない慣例のため、やむなく天皇も認可した。なお、新聞各紙は、林司令官を「越境将軍」などと持上げて犯罪行為を擁護した。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- 幣原喜重郎は、満州事変まで「協調外交」を主導し戦後首相となった外務省本流の中心人物、岩崎弥太郎の娘婿で加藤高明・岩崎久弥の義弟である。東大法学部を出て外交官となった幣原喜重郎は、駐米大使としてワシントン海軍軍縮条約をリードし、加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸の内閣で外相を務めワシントン体制維持と対英米協調・経済的利益重視と対中国不干渉を旨とする「幣原外交」を展開した。蒋介石の北伐に際し幣原喜重郎外相は英米の派兵要請を拒否し、国民政府軍が日英領事館を襲撃した「南京事件」でも制裁反対を貫いたが、在華権益や居留民保護の具体策に欠ける「霞ヶ関正統派外交」は「軟弱外交」と批判された。金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れ、田中義一内閣は山東出兵など「強硬外交」へ転じたが張作霖爆殺事件で退陣、濱口雄幸内閣が発足し幣原喜重郎は外相に返咲いた。1930年のロンドン海軍軍縮条約で幣原外交は絶頂を迎えたが、海軍軍拡派と政友会が統帥権干犯問題を引起し、濱口雄幸首相銃撃事件が発生した。幣原喜重郎は116日間も首相代理を務め第二次若槻内閣で外相を続投したが1931年柳条湖事件が発生、若槻内閣は「不拡大方針」を宣しつつ関東軍・朝鮮軍の独断専行を追認し特別予算までつけて歩み寄ったが、満州事変と軍拡の勢いを止められなかった。外相退任に伴い隠退した幣原喜重郎は、第二次大戦が起ると「欧州戦争の前途」を著してドイツの苦戦を警告し、日本が参戦すると早期講和を唱えたが、末期には何故か「和平工作などは一切無駄であり、有害である」と徹底抗戦へ転じた。終戦後、GHQと吉田茂は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に担出し、幣原内閣は僅か半年の間に日本軍解体・五大改革・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQの命令を粛々実行へ移した。更に憲法改定を迫られた幣原喜重郎首相は、近衛文麿の独走を退け「松本委員会」を発足させたが、抜本的改革案を出せないうちに民政局(GS)次長ケーディスに取って代られ、天皇の訴追免除と引換えに「押付け憲法」を受諾した。
- 東大法学部から外務省本流へ進んだ重光葵は「過大な人口を抱え成長を続ける日本は中国と提携する他ない」と平和的日中提携を提唱、対英米協調・対中不干渉の幣原喜重郎に属し、傍流の中国勤務を志願して融和政策を推進したが、松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩ら強硬派外交官から「軟弱外交」と罵倒され、武力行使容認の広田弘毅・吉田茂ら「大陸派」の支持も得られず、満州事変で「幣原外交」は瓦解した。それでも中国公使の重光葵は上海事変講和に奔走したが、1932年「上海天長節爆弾事件」で右脚切断の重傷を負った。奇跡的に快復した重光葵は翌年外務次官に昇進し駐ソ連大使・駐英大使を歴任、対英米関係の破綻を招く日独同盟に反対し、欧州戦争に関与せず日中戦争解決と関係再構築に専念すべしと繰返し訴えたが、軍部と大衆に迎合する近衛文麿・広田弘毅・松岡洋右らは耳を貸さず日中戦争を泥沼化させ日独伊三国同盟を断行、東條英機内閣が対米開戦へ追込まれた。重光葵は中国(汪兆銘政権)大使を経て1943年外相に就任、「大東亜会議」で日本の正義を訴えたが戦局は悪化の一途を辿り、木戸幸一ら講和派に与し小磯國昭内閣を総辞職に追込んだ。ポツダム宣言受諾の3日後に東久邇宮稔彦王内閣が発足し、外相に復帰した重光葵は天皇と政府を代表して米戦艦ミズーリ艦上の降伏文書調印式に臨んだ。日本国中がGHQへの追従で染まるなか、孤軍奮闘の重光葵は「英語を公用語に」「米軍票を通貨に」という不条理な布告を撤回させたが、GHQの走狗と化した吉田茂への外相交代を強いられ東京裁判で禁固7年の判決を受けた。1951年講和条約の恩赦で釈放された重光葵は衆議院議員となり、1954年反吉田茂連合の民主党に副総裁で加盟し鳩山一郎内閣の外相兼副総理に就任、憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を推進した。重光葵外相は吉田茂内閣で膨張した「防衛分担金」の削減に成功したが、在日米軍撤退・防衛分担金廃止はダレス米国務長官に一蹴され、日ソ国交回復と国際連合加盟を花道に鳩山一郎内閣は退陣した。その1ヵ月後、アメリカの不条理に抗い自主外交を牽引した重光葵は69歳で急逝、謎の突然死であった。
- 重光葵は「ラストサムライ」の呼称が最も相応しい硬骨漢、冷静な国際情勢分析により日本の針路を模索し「長いものに巻かれる」ことなく命懸けでエリート官僚の矜持を貫いた。軍国主義一色の時勢のなか、重光葵は朝鮮人の爆弾テロで右脚切断の重傷を負い陸軍の田中隆吉に暗殺されかかったが、平和的日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け、外相として小磯國昭の陸軍内閣を打倒した。第二次大戦後、再び外相に就いた重光葵は皆が嫌がる降伏文書調印を堂々と引受け、日本国中がGHQへの追従に染まるなか不条理な米軍占領統治に抵抗、鳩山一郎内閣で外相に返咲き日ソ国交回復および国際連合加盟を果したが、1ヶ月後に謎の発病で落命した。戦前は各期10人前後の狭い世界で陸奥宗光・小村寿太郎・幣原喜重郎・松岡洋右・吉田茂と主導者が変遷した外交官サークルにおいては、外交官試験主席合格の重光葵は有田八郎・堀内謙介らと「革新同志会」を立上げ外務省改革を提唱、満州事変で「幣原外交」が瓦解した後も要路に留まり広田弘毅・松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら軍部迎合派への対抗軸として大使・外相を歴任した。壊滅的敗戦にも絶望しない重光葵は外務省同期の芦田均と共に、対中強硬の「大陸派」から反戦の「親米派」へ鞍替えし戦後GHQの走狗と化した吉田茂と鋭く対立、吉田の従米路線(保守本流)に対抗し憲法改正・再軍備・自主外交のレールを敷いた。戦前戦後を通じ時流に逆行し続けた重光葵に大仕事の出番は回って来なかったが、信念と反骨の生き様自体が見事で日本人が範とすべき偉材であった。右翼のドンで田中角栄を歯牙に掛けなかった笹川良一は、巣鴨プリズンで重光葵に心酔し「真に男が男として惚れきれるのが重光葵の真骨頂であった。腕も度胸も兼ね備わったこんな人にこそ救国の大業を託すべきではあるまいか」と絶賛したが、統治者アメリカも日本大衆も国士を望んではいなかった。
- 対外硬派の松岡洋右外相(元満鉄副総裁)の演説を契機に「満蒙は日本の生命線である」とする論調が活発化し、マスコミが煽ったため世論は「満蒙生命線論」に染まった。「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」という分り易いキャッチは瞬く間に国民を捕え、後に親米派に転じる吉田茂(奉天総領事)なども「満蒙の支配なくして経済的な繁栄も政治的な解決もない」と歓迎する有様だった。当時の弱肉強食の国際情勢からすると、戦線を満州に留める限り、合理的且つ現実的な方向性ではあったが、過剰な世論の後押しは永田鉄山・石原莞爾ら陸軍幕僚に決起を促す重要な支援材料となり、新聞記者は陸軍の接待攻勢に進んで抱込まれた。そして関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎が柳条湖事件を起し満州事変が勃発すると、当時ダントツの部数を誇った朝日新聞・東京日日新聞(毎日新聞)など新聞各紙は陸軍礼賛一色となり、新聞に煽られた世論は好戦ムードに染まった。新聞各紙は号外連発で民衆を煽り、巨費を投じた戦争報道で大きく部数を伸ばし、味をしめて完全に陸軍の宣伝機関に堕した。また、満州事変への関心の高まりはラジオの普及も促進し、約65万人だった契約者数は半年後に105万人を突破した。この後、勇ましい戦争記事を載せないと他紙に部数を奪われるという自縄自縛に陥った新聞業界は終戦まで軍部礼賛を継続、「社会の木鐸」の使命を放棄したマスコミは日本国民を破滅へ誘う笛吹童子となった。
- 国際連盟が満州情勢調査のために派遣したリットン調査団は、3ヶ月間の調査を経て報告書を提出した。リットン報告書は、満州の特殊事情に配慮した中立的な内容であり、満州国承認を求める日本の主張は否認したものの、蒋介石政府の原状回復要求も現実的でないと退け、通商条約締結による和解を日中両国に勧告する公正なものであった。が、国際連盟事務局は満州国の分離独立を否認し日本軍は従来の満鉄守備区域まで撤退せよという「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」をジュネーブ特別総会に提出、採択の結果反対は日本のみ、賛成42票の圧倒的多数で日本軍の満州撤退勧告が決議された。リットン報告書から大幅に中国寄りへ傾いた背景には、中国権益保全のため国民政府を援助する英米の策動があったものと考えられる。国際連盟総会に出席した松岡洋右全権(元外交官・満鉄総裁の衆議院議員)は「さよなら」の捨て台詞を残し日本外交は議場を退場し、斎藤実内閣は国際連盟に脱会を通告した。松岡洋右の対外硬パフォーマンスは日本の孤立と不協調を印象付ける暴挙であったが、国際連盟は今日の国際連合以上に無力で発起人のアメリカは議会の否決で参加せず、ソ連も不参加、ブラジルは7年も前に脱退し、ドイツとイタリアも日本に続いた。また直後に日中間で「塘沽停戦協定」が成立しており(日本側代表は永田鉄山の盟友で関東軍参謀副長の岡村寧次)、満州事変・国際連盟脱退から一直線に日中戦争へ突き進んだわけではない(「十五年戦争」は正確ではない)。とはいえ、さすがの松岡洋右もスタンドプレーの失敗を認めアメリカに身をかわし帰国を逡巡していたが、ジャーナリズムも世論も歓迎一色と知り勇躍凱旋、「栄光ある孤立」「ジュネーブの英雄」と持て囃され一層ファシスト化した。
- 松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
- 松岡洋右は米国留学時代からコカインを常用し中毒化していたとする説もあり、そのためか極めて浮き沈みの激しい性格で、国際連盟脱退や日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結して悦に入るかと思えば「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」などと号泣、そうかと思えば自己弁護に躍起になった。躁鬱でお調子者の松岡洋右は、訪米時には「キリストの十字架と復活を信じている」と公言して憚らず、ソ連のスターリン会談ではウォッカに泥酔し「私は共産主義者だ」と語ったかと思えば天皇を宸襟を慮って涙を流し、公式外交の場では「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのを大真面目に力説した。松岡洋右は一貫してコテコテの天皇崇拝者だったが、昭和天皇は軽佻浮薄で真実味のない松岡が大嫌いで『昭和天皇独白録』には「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」「松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」などと珍しく痛烈な批判を書き連ねている。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯指定を受けた松岡洋右は「俺もいよいよ男になった」と勇んで出廷し自慢の英語で無罪を主張、死刑が確実視されるなか持病の肺結核が悪化し公判中に病死した。
- ロンドン海軍軍縮条約や第一次上海事変の不拡大に不満を抱く三上卓中尉・古賀清志中尉ら海軍青年将校の一団が、天皇をミスリードする「君側の奸を排除する」として武装蜂起し犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。新聞記者あがりの犬養毅は政界に転じても毒舌の皮肉屋で鳴らし、大の負けず嫌いだった。三上卓らが首相官邸に来襲すると犬養毅は「早くお逃げください」と促す村田警備官を制し「きみらは何者だ?」と応酬、落着いた態度で「待て、話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。話をしてからにしろ。靴くらい、ぬいだらどうだ」と諭すも三上は「問答無用!」と叫んで銃弾を浴びせ逃走、犬養はタバコに火をつけ「いまの若いものたちを、もう一度呼んでこい。わしがよく話してやる」と話した。頭部に命中した2発の銃弾は急所を外れていたが、銃傷を軽く看た医師団のミスもあり数時間後に犬養毅は死亡した。軍部が「君側の奸」と憎む西園寺公望元老・牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長も狙われたが難を逃れた。現役の軍人が首相を殺すという大犯罪であったが、海軍内部では艦隊派(軍拡派)の東郷平八郎元帥・加藤寛治大将を筆頭に同情論が支配的で、国民からも助命嘆願運動が起り、首謀者の三上卓と古賀清志が禁固15年・実行犯2人が無期懲役と禁固13年に処されたものの残りは全部無罪という到底考えられない判決が下され、受刑者も6年後の特赦で放免となった。三上卓は、血盟団事件を起すも特赦放免の井上日召・菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党に合流し「ひもろぎ塾」を結成、右翼シンパの近衛文麿はテロ犯をまとめて内閣顧問に招聘する。五・一五事件後、テロに怯える西園寺公望と牧野伸顕は東京を離れたが、鈴木貫太郎は暴挙を容認した軍部を決然と非難し、高橋是清蔵相も財政の観点から軍事費抑制の主張を曲げなかった。政権争いに終始し機能不全に陥った政党政治は五・一五事件で命脈を絶たれ、続く斎藤実内閣(海軍)から第二次大戦終結まで「挙国一致内閣」が続くこととなった。五・一五事件の容認に味をしめた軍部や右翼は怖いもの知らずとなり、逆に政治家はテロに屈して抵抗を放棄、暴力が支配する恐怖時代への幕開けとなった。
- 軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
- 大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
- 「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げる陸軍の隊付青年将校グループが独断専行で帝都駐在部隊1483人を動かし未曾有の武装蜂起事件を起した(二・二六事件)。反乱将校らは皇道派の真崎甚三郎大将を首班とする軍事政権樹立を目指し、帝都要衝の総理大臣官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部・東京朝日新聞を武装占拠し「国家改造」を要求、最終目標の皇居占拠・天皇確保は近衛師団に阻まれ断念したが、岡田啓介首相・高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎陸軍教育総監・牧野伸顕前内大臣を次々と襲撃し高橋・斎藤・渡辺を殺害、岡田首相は側近の身代わりで虎口を逃れ、鈴木は重傷を負うも一命を取留めた。岡田・斎藤・鈴木は海軍条約派・高橋は財政家として軍拡要求に反対し「君側の奸」と憎まれていた。陸軍は大混乱に陥り反乱部隊と気脈を通じる真崎甚三郎・荒木貞夫・本庄繁ら皇道派重鎮と、荒木を「バカ大将」と面罵し断固鎮圧を主張する石原莞爾らの対立があったが、信頼する重臣を殺害された昭和天皇は「反乱」鎮圧を厳命した。3日後の2月29日、敬慕する昭和天皇に朝敵の烙印を押された反乱将校は部隊を解散して兵卒を原隊に復帰させ2人が拳銃自殺し他は全員投降、最終的に反乱将校16人および黒幕とされた民間右翼の北一輝と西田税が死刑に処され、数十人に禁固刑判決が下された。二・二六事件後、茫然自失の岡田啓介首相が退陣し広田弘毅内閣が発足、中立派の寺内寿一を陸相に担いだ石原莞爾が陸軍の綱紀粛正を断行し、皇統派は処罰を免れるも真崎甚三郎・荒木貞夫ら7大将と小畑敏四郎・山下奉文を含む将佐官の悉くが陸軍中央から追放された。日中戦争が始まると武藤章・田中新一ら統制派が不拡大を説く石原莞爾から陸軍の主導権を奪い強硬外交と軍国主義化を牽引、皇統派に憎まれ予備役間近といわれた東條英機も一躍陸軍中枢へ台頭し、テロの脅威が蔓延するなか軍部は再発をちらつかせて強迫姿勢を強め、結果的に二・二六事件は反乱将校が目指した軍事国家樹立への重大な伏線となった。
- 二・二六事件で退陣した岡田啓介に代わり外相の広田弘毅が組閣した。元老の西園寺公望は近衛文麿を推薦したが、陸軍皇道派・青年将校に同情的な近衛に断られ、独占してきた首相指名権を重臣会議に譲り一線を退いた。最難局の後継選びは難航したが、重臣の一木喜徳郎が広田弘毅を推し、賛同した近衛文麿が懇意の吉田茂(広田と同期の外務官僚)を送り承諾させた。右翼結社「玄洋社」に属し出自も悪い広田弘毅の組閣に昭和天皇は難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示を与え、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と漏らしたという。外務省傍流ながら野心家の吉田茂は外相を狙ったが、軍部の反対で挫折し駐英大使に回されている。前年に統制派首領の永田鉄山が斬殺され(相沢事件)二・二六事件を起した陸軍は激しく動揺したが、一夕会員ながら両派に属さない石原莞爾が主導権を握り中立派の寺内寿一(長州閥の寺内正毅の嫡子)を広田弘毅内閣の陸相に擁立、軍規粛清を掲げ二・二六事件に関与した真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み皇道派の将佐官を陸軍中央から一掃した。その結果、武藤章・田中新一ら「中国一撃論」の統制派が圧倒的優勢となり、予備役編入を噂された東條英機も復活し関東軍参謀長に就任した。さて、昭和天皇と重臣会議に軍部抑制を期待された広田弘毅首相だが、玄洋社右翼の本性を現し軍部の強硬外交を助長、軍部大臣現役武官制の復活・「満州開拓移民推進計画」決定と開拓移民団の派遣・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、1年に満たない広田弘毅内閣のもと軍国主義化と反米英路線が一気に加速した。第一次近衛文麿で外相に復帰した広田弘毅は再び強硬外交を展開、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定して日中戦争へ拡大させ、トラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明で日中戦争を泥沼化へ追込み、無謀な「東亜新秩序声明」で英米を敵に回す愚を犯した。
- 生母と信じる継母に疎まれて育った近衛文麿は、右翼と左翼、反米英と中国蔑視、強硬と放任、迎合と無関心が混在する複雑な人格に成長した。マルクス主義にかぶれた近衛文麿は東大から京大へ転じて河上肇や西田幾多郎に学び、哲学者を志し公爵位返上も考えたというが、弱冠25歳で貴族院議員となり政界へ進出した。後に近衛文麿内閣が実施する企画院・国家総動員法・配給制・大政翼賛会などは、軍国主義と同時にマルクス主義の実践とも考えられる。さて近衛文麿は、雑誌『日本及び日本人』に論文「英米本位の平和主義を排す」を寄稿し「英米のご都合主義による民主主義や国際平和の枠組みは排すべきであり、各国平等の生存権を確立するためには、大国が植民地を解放して、天然資源の供給地として平等に利用できるようにすべきである」と説いた。家柄日本一で帝大卒の秀才・スマート(身長1.8m・体重70㎏)な近衛文麿の反米英・現状打破論は国民的人気を博し、木戸幸一・徳川家達らと「火曜会」を結成し貴族院内革新勢力の領袖へ台頭、42歳で貴族院議長に栄達し、西園寺公望の後継者として首相候補に擬せられた。満州事変が起ると、近衛文麿は陸軍と世論に迎合し「発展力のある民族が狭い領土に閉じ込められている一方、広大な領土と資源に恵まれたところがあって人口も少ないという状態は、合理的ではない。かつて恣に植民地を収奪した先進大国のいう平和は、その現状維持を図るための平和に過ぎない」と満州事変を正当化したが、反米英はともかく中国を国家として尊重する視点が欠落していた。二・二六事件後、西園寺公望元老は近衛文麿を首相に推し「陸海軍にも政財界にも受けが良いので、首相を引受けて時局を収集して欲しい」と頼んだが、近衛は「四方八方に受けが良いということは、実はどこにも真の支持者がいないとうことです。こういう時代に強力な支持者がいない限り自信が持てません」と断り、代わりに同志の広田弘毅を首相に担いだ。近衛文麿はテロを起した青年将校や陸軍皇道派のシンパで、血盟団事件の井上日召を別荘「荻外荘」に庇護し、菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党や三上卓(五・一五事件主犯)共々近衛内閣の顧問に迎えている。
- 吉田茂は、板垣退助の腹心竹内綱の妾腹の子で、横浜の貿易商吉田健三に入嗣し11歳で膨大な遺産を相続した。学業成績が冴えない吉田茂は学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴う無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。吉田茂は中国領事など外務省の傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚し、岳父の威光でパリ講和会議の随員に加えられ1928年外務次官へ栄進、陸軍も顔負けの対中国強硬論で鳴らし(大陸派)幣原喜重郎・重光葵の「協調外交」と対立した。二・二六事件の直後、吉田茂は同志近衛文麿の命により広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き、本命の外相は逃したが同格の駐英大使に任じられた。駐英大使後任の重光葵は国際的に高い評価を得たが、吉田茂は貴族趣味に染まるだけで相手にされず1939年「待命」となり一線を退いた。牧野伸顕の影響もあり強硬外交から親英米派へ転じた吉田茂は、日独伊三国同盟に反対し、対米開戦後は早期講和を訴え東條英機内閣打倒に加担、1945年2月「近衛上奏文事件」に連座し憲兵隊に2ヶ月間拘置された。第二次大戦後、逮捕歴が「反軍部の勲章」となり吉田茂はウィロビー参謀第2部長から「窓口役」を仰せつかり、1954年までGHQ傀儡政権の外相・首相を占め「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」の占領政策を実行、日本国民にはGHQとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。重光葵・芦田均ら自主外交派が排除されるなか、吉田茂は日本一国を「俎板の上の鯉」の如く差出し、「押付け憲法」を受入れ、国家予算の2割を超す「戦後処理費」を献上し、講和条約と引換えに不平等な日米安保条約・行政協定を呑まされた。講和独立後も吉田茂は政権にしがみついたが、東西冷戦の本格化で日本の再軍備へ転じたアメリカに見捨てられ、再軍備・自主外交を掲げる鳩山一郎に政権を奪われた。しかし吉田茂の経済優先・外交従米路線は池田勇人・佐藤栄作・宮澤喜一らに引継がれ高度経済成長により「保守本流」に定着、アメリカが日本を「保護国」と呼ぶ状況は今も続く。
- 広田弘毅内閣は、軍部に内閣の存立を左右させる「伝家の宝刀」軍部大臣現役武官制を復活させた。主導した陸軍統制派には、二・二六事件で追放した荒木貞夫・真崎甚三郎ら皇道派予備役将官の陸相就任を阻止する狙いもあった。
- 日本政府は国内農村の窮乏緩和と満蒙に地歩を固めるべく満蒙全土への農業移民政策を推進、特に広田弘毅内閣が「満州開拓移民推進計画」を決定した1936年より開拓移民団の派遣が本格化した。満蒙移民の内訳は、長野県の3万7859人を筆頭に東北各県・熊本県・広島県・新潟県・高知県・岐阜県などが多くを占めた。国策会社の満州拓殖公社が強引な土地収用を行い開拓団に供与したため、現地人は反感を募らせた。第二次大戦終結時、27万人の開拓団入植者が「棄民」となり、日ソ中立条約を破って満州に侵入したソ連軍により7万8500人が殺戮され、生存者の多くはシベリアへ送られ過酷な強制労働を強いられた。在留日本人(中国残留孤児)問題は今日に至っても解消されず、日本へ帰還できた人も言葉と文化の違いで苦労し2世3世の「怒羅権(チャイニーズ・ドラゴン)」という新たな問題も発生している。
- ソ連を仮想敵と睨みつつ「中国一撃論」に集中したい陸軍統制派はソ連牽制のためドイツとの提携を画策、親独派外務官僚の広田弘毅首相はこれに応じ日独防共協定を成立させた。日独防共協定は反共提携に留まったが、第二次近衛文麿内閣のもと日独伊三国同盟へ発展し日米関係破綻の導火線となった。
- 陸軍統制派と海軍軍令部が共同で「北守南進政策」策定し広田弘毅内閣は言われるがままに閣議決定した。満州の軍備充実によりソ連の侵攻を食止めつつ(北守)中国を制し南方への進出を図る(南進)という外交戦略であったが、インド・ビルマ・シンガポール・香港(100年間割譲)を領有するイギリス、インドネシア(蘭印)を領有するオランダ、ベトナム・ラオス・カンボジア(仏印)を領有するフランスら列強諸国の権益に割って入ろうという極めて危険な戦略であり、最悪なのは最強国アメリカのフィリピン・太平洋権益をも脅かすことであった。広田弘毅内閣は「平和的進駐」と思込み決裁したに違いないが、軍部主導である以上武力解決路線への転換は想定すべきであった。
- 広田弘毅内閣がワシントン・ロンドン海軍軍縮条約を廃棄し、日英米の建艦競争が復活した。ロンドン海軍軍縮条約を巡る統帥権干犯問題の後、海軍良識派(国際協調軍縮)の多くが失脚し、加藤寛治軍令部総長・末次信正軍令部次長・大角岑生陸相・南雲忠一・岡敬純・石川信吾と続く艦隊派(反英米軍拡)が東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の両大御所を担ぎ主導権を掌握、米内光政・山本五十六・井上成美の良識派トリオが抵抗するも挽回ならず、建艦派は軟弱な広田弘毅首相を揺さぶり軍縮条約撤廃に漕ぎ着けた。海軍は再び建艦競争へ乗出すにあたり、石川信吾中佐の「大鑑巨砲主義」を採用し予算の大半を戦艦「大和」「武蔵」の建造に注込んだ。アメリカ太平洋艦隊の船幅が狭いパナマ運河の幅員に縛られることに付込み、超大型戦艦で主砲の射程距離を伸ばし安全圏から敵艦を砲撃するという戦略であった。一方、山本五十六らは航空兵力優位を主張したが海軍航空本部は十分な予算をもらえなかった。太平洋戦争が始まると、山本五十六の航空機爆撃は真珠湾攻撃・シンガポール攻略戦で華々しい戦果を挙げ、驚いたアメリカ海軍は航空機・空母の大増産を開始したが、大和・武蔵は使い道の無いまま戦争最末期の特攻に駆出され撃沈した。良識派が海軍の主導権を握っていれば予算の多くが航空兵力へ割振られた可能性があり、この点においても艦隊派の勝利は日本の不幸であった。
- 寺内寿一陸相と政党の対立激化で「腹切り問答」が起り広田弘毅内閣が総辞職、代わって陸軍の林銑十郎が組閣した。重臣会議は陸軍長州閥の系譜を継ぐ穏健派の宇垣一成を首相指名したが、石原莞爾ら一夕会系幕僚は宇垣内閣を「流産」させ林銑十郎を擁立した。林銑十郎は、満州事変で参謀の石原莞爾・神田正種に担がれ朝鮮軍の越境出動を断行し、皇道派の真崎甚三郎に属したが永田鉄山へ鞍替えし統制派優先人事を後援した人物で、石原にとっては「猫にも虎にもなる」便利な傀儡であった。時代錯誤で意味不明な「祭政一致」を掲げ発足した林銑十郎内閣は、政党勢力に打撃を与えるべく抜打ち解散(食い逃げ解散)を強行したが続く総選挙で惨敗、陸軍にも見放されて僅か4ヶ月で退陣し「何もせんじゅうろう内閣」と揶揄された。
- 4ヶ月で自滅した林銑十郎内閣の退陣を受け第一次近衛文麿内閣が発足、広田弘毅が外相に復帰した。五摂家筆頭でスマートな近衛文麿は昭和天皇・西園寺公望らに軍部抑制の切り札と期待され、反米英・現状打破の論客で陸軍と大衆にも受けが良く、早くから首相候補に擬せられていた。組閣後間もなく盧溝橋事件が発生、陸軍統制派の「中国一激論」に感化され中国の抵抗力を侮る近衛文麿首相・広田弘毅外相・米内光政海相は直ちに強硬姿勢を鮮明にし、武藤章・田中新一ら陸軍の「華北分離工作」に応じて朝鮮および満州から二個師団・日本から三個師団を華北戦線へ投入、日中戦争が始まった。日本軍は北京・天津・上海を攻略し(第二次上海事変)国民政府の首都南京を落とし武漢三鎮まで占領したが、補給線は限界に達し中国軍の逃避戦術で決定的勝利を収められず戦線は膠着した。国民に厭戦ムードが広がると近衛文麿内閣は「八紘一宇」「王道楽土」などと戦意高揚に腐心し、陸軍すら停戦へ傾くなかトラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」という第一次近衛声明で自ら講和の道を塞ぎ日中戦争を泥沼へ引きずりこんだ。さらに、陸軍統制派念願の国家総動員法で軍国主義化を決定付け、無謀な「東亜新秩序声明」で欧米を激しく挑発し日米通商航海条約破棄および蒋介石支援強化(援蒋ルート)を招来した。
- 北清事変後に日本人居留民保護のために天津に駐留した日本軍は、増派により一旅団(約7千人)の規模となっていた。この天津駐留軍のうちの一大隊が、盧溝橋付近で軍事演習中に偶発的に中国軍と衝突、緊張が高まった。第一報を受けた牟田口廉也連隊長は無断で抗戦命令を出したが、特務機関が間に入って一旦は停戦協定が成立した。ところが、牟田口廉也は協定を無視して軍を進め、中国軍から銃撃を受けると又も無断で攻撃命令を下し宛平県城を攻落し天津付近の中国軍を掃討、戦闘はすぐに上海へ飛び火し「日中戦争」が始まった。現地指揮官の河辺正三旅団長は牟田口廉也の暴走を黙認した。なお、皇道派に属した牟田口廉也は二・二六事件で陸軍中央を追われ天津に左遷されたが、盧溝橋事件を統制派に評価され「東條英機の子分」となった。8年に及ぶ日中戦争のトリガーを引いた牟田口廉也・河辺正三コンビは、お咎めなしどころか東條英機に引立てられ、ビルマ方面軍指揮官として「インパール作戦」で再び大暴走、イギリス軍に無意味なインド侵攻作戦を仕掛け6万4千人(拉孟騰越戦の2万9千人を含む)もの戦死者と4万2千人の戦傷病者を出す戦史上最悪の大失策を犯した。
- 二・二六事件後、陸軍中央では反乱将校および皇統派の断罪を主導した石原莞爾作戦部長が指導的地位に就き、日中戦争泥沼化を予期し停戦工作に奔走したが、石原に従う河辺虎四郎・多田駿らは少数派であり、蒋介石政府を侮り戦線拡大(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、武藤などは作戦部の部下ながら「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」などと愚弄する始末であった。石原莞爾は政府にも直接不拡大を説いたが、統制派以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相に拒絶され米内光政海相も断固膺懲を主張したため進退窮まり、石原は関東軍参謀副長に左遷され(関東軍参謀長の東條英機と衝突し予備役編入)河辺虎四郎・多田駿ら不拡大派も一掃された。この間の陸軍中央における政治空白は東條英機ら出先指揮官の独断専行を許し関東軍が自律的に戦線を拡大させる無秩序状態をもたらした。陸軍の指揮権を奪った武藤章ら統制派は、永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し、強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服するとの予測のもと大量兵力を投入し戦線を拡大させたが、上海・南京を落としても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の読み通り日中戦争は泥沼化し日本軍は不毛な消耗戦を強いられ、英米の中国権益を侵し蒋介石支援に奔らせる結果を招いた。
- 泥沼化の様相を深める日中戦争に対し、世論には厭戦ムードが広がり、張本人である陸軍の武藤章さえも停戦論に傾いた。そこで、オスカー・トラウトマン駐中国ドイツ大使を介して日中和解工作が進められ、停戦への期待が高まった。ところが、近衛文麿首相・広田弘毅外相は賠償金要求など非現実的な強硬論を主張し「軍部がかくの如く拙策をとって講和を急ぐ真意は理解できない」として折角の和解案を蹴ってしまった。国際良識派とされ後に日独同盟・対米開戦に反対する米内光政海相は、このとき断固膺懲を唱え、陸軍参謀本部の停戦要求に反対した。トラウトマン工作を一蹴した翌日、悪乗りした近衛文麿首相・広田弘毅外相は「蒋介石の国民政府を対手とせず、汪兆銘政府(日本の傀儡)を樹立してそちらと交渉する」との「第一次近衛声明」を発表した。蒋介石政府との和解への道を自ら塞ぐ軽挙妄動で日本は泥沼の日中戦争から抜けようにも抜けられない状態に陥り、蒋介石を援助する英米との妥協も著しく困難となった。対外硬パフォーマンスで国民大衆のウケをとった近衛文麿・広田弘毅は、更に「日本・満州・中国(汪兆銘政権)が提携して東亜新秩序を樹立する」というスローガンを帝国議会で開陳し「第二次近衛声明」として国内外に公表した。例に拠って近衛文麿に深い考えは無く、当時ナチス・ドイツが唱えていた「ヨーロッパ新秩序」に倣い日中戦争を正当化する目的で発したものとみられる。が、欧米列強にすれば現行の国際秩序に対する露骨な挑発行為であり、愚かな近衛声明により態度を硬化させたアメリカは天津事件を機に日米通商航海条約を破棄し日独伊三国同盟への敵対姿勢を鮮明にした。
- 一撃を加えれば蒋介石政権は屈服し日中戦争は早期に片付くという武藤章の「中国一激論」は挫折し日中戦争は泥沼化、武藤は自ら起草した「華北分離工作」を捨てて日中講和へ転じトラウトマン工作などに加担したが、陸軍以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相は和解案を一蹴し悪乗りの「近衛声明」で自ら日中講和への方途を塞ぎ、陸軍では田中新一・東條英機らの強硬論が優勢となった。田中新一は自他共に認める永田鉄山の後継者で、軍需資源を求めて日中戦争拡大を図ると同時に、対ソ連開戦を目論み事実上の開戦準備(関東軍特種演習)を断行した最強硬派であった。日中戦争で中国権益を侵された英米は蒋介石支援を強化(援蒋ルート)、反米英の田中新一は資源調達の代替手段を準備すべく東南アジア進出を強行し(南進政策)、武藤章は中ソ二正面作戦を回避すべく南進には同意したが国力が懸絶するアメリカとの戦争には反対で妥協は可能との考えであった。対する田中新一は、南進政策を採る以上イギリス権益との衝突は自明で大英帝国の国力低下は対ドイツ戦に不利に働く、となればイギリスを欧州安全保障の要に置くアメリカの軍事介入は避けられないと考え、援蒋ルートの遮断と対米開戦準備、さらに欧州でソ連・イギリスと対峙するナチス・ドイツとの同盟を強硬に主張した。結局、第二次近衛文麿内閣は田中新一・松岡洋右らの強硬策を採用し日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行するがアメリカの石油輸出全面禁止を招き、進退窮まった近衛が政権を投出すと統制派最年長の東條英機が首相に就き石油禁輸が致命的な海軍の同意を得て対米開戦を決定した。
- 近衛文麿内閣は、永田鉄山以来の陸軍統制派の悲願である国家総動員法を成立させた。徴用、賃金、物資の生産・消費など、国民が有するあらゆる権利を国防の名のもとに政府が統制できるという無茶苦茶な法律であり、軍部が総力戦を遂行するためには是非とも必要なものであった。国家総動員法案には、さすがに政友会や民政党も猛反対したが、なんと左翼の社会大衆党が党利党略から賛成にまわり、西尾末広代議士などは議会で勇ましい応援演説を打ち、政友会の重鎮尾崎行雄まで西尾を支持する有様であった。堕落した政党勢力に押し留める力はなく、近衛首相と軍部に押し切られる形で国家総動員法案が成立してしまった。
- 東大法学部を主席で卒業した平沼騏一郎は司法省へ進み司法次官・検事総長・司法相・枢密院議長と累進、陸軍・右翼の支持を背景に首相に上り詰めたが、独ソ不可侵条約でドイツの二面外交に翻弄され僅か8ヶ月で退陣した。平沼騏一郎は中立たるべき法曹家ながらガチガチの国粋主義(観念右翼)を隠さず、民主主義・社会主義・共産主義・ナチズム・ファシズムなど外来思想を悉く嫌悪し、右翼団体「国本社」で大衆啓蒙に努め、「検察のドン」の立場を駆使して社会主義者や政党勢力の排撃に奔走した。平沼騏一郎は、「大逆事件」で幸徳秋水ら12人の死刑を求刑し、「企画院事件」で左翼官僚を弾圧(余波で小林一三商工相と岸信介商工次官が辞任)、若槻禮次郞・濱口雄幸の政党内閣を攻撃し、陸軍と共謀した「帝人事件」スキャンダルで斎藤実内閣を打倒、天皇機関説問題・国体明徴運動で西園寺公望ら天皇側近を揺さぶり、西園寺が首相指名権を手放し政党との対立で近衛文麿が第一次政権を投出すと平沼に念願の組閣大命が降された。が、平沼騏一郎内閣はナチス・ドイツからの同盟提案で右往左往するなか青天の霹靂の独ソ不可侵条約に遭遇、ヒトラーに愚弄された平沼首相は面目を失い「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」の名言のみを残し退場した。ドイツを憎む平沼騏一郎は、第二次・第三次近衛文麿内閣の閣内にあって日独伊三国同盟に反対し、陸軍統制派の「国家総動員体制」や近衛首相の「新体制運動」(大政翼賛会に結実)にはナチス流国家社会主義の模倣と異を唱えた。対米開戦後、重臣会議に列した平沼騏一郎は陸軍統制派との因縁から一応和平派陣営に属し、東條英機内閣打倒やポツダム宣言受諾に一票を投じたが、常に態度不鮮明な平沼を昭和天皇は「結局、二股かけた人物というべきである」と軽蔑した。東京裁判で投獄された平沼騏一郎は精神を病み1952年に病没したが(終身禁固刑)「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と独善的な歴史認識を開陳している。
- 強固な対米英協調主義者で三国同盟反対の姿勢を崩さない米内光政首相は、畑俊六陸相が辞任し陸軍が後任陸相選出を拒否したため軍部大臣現役武官制により倒閣に追込まれ、陸軍に受けの良い「亡国の貴公子」近衛文麿が第二次内閣を組閣した。近衛文麿自身は中国蔑視・反英米主義者ではあるものの確たる政治信念はなかったが、大島浩(後の駐独大使)・白鳥敏夫(後の駐伊大使)・徳富蘇峰・中野正剛・末次信正(海軍艦隊派)・久原房之助(後の大政翼賛会総務)ら親独・反英米の大物連を取巻きとしたため近衛内閣の使命は自ずから三国軍事同盟と国家総動員の新体制運動(大政翼賛会に結実)となった。近衛文麿首相は、外相に反英米派急先鋒の松岡洋右を復活させ、陸相には統制派最年長の東條英機を採用した。海相には対英米協調派の吉田善吾が留任したが、松岡洋右外相・陸軍のみならず海軍の艦隊派からも突上げられノイローゼとなって辞任、後任海相には及川古志郎が就任した。なお、財界から阪急・東宝グループを築いた小林一三が商工相で入閣したが、統制経済を牽引する商工次官の岸信介と衝突、企画院事件で共倒れとなった。小林一三は政治から手を引いたが、「革新官僚」岸信介は続く東條英機内閣で商工相に昇進した。
- 第二次内閣を組閣した近衛文麿は、反米英の松岡洋右を外相・東條英機を陸相に据え、使命に掲げるナチス・ドイツとの同盟を強力に推し進めた。米内光政・山本五十六・井上成美ら海軍良識派に近い吉田善吾海相は反対したが海軍内でも岡敬純・石川信吾に突上げられノイローゼとなり辞任、後任海相の及川古志郎には陸軍が米内光政内閣を倒したように海相拒否で対抗する手もあったが、石川信吾・豊田貞次郎らの強迫でナアナアとなり、陸軍が出した海軍予算確保の餌に釣られた。直後の海軍首脳会議で連合艦隊司令長官の山本五十六は最後の抵抗を試みたが伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり、皮肉にもバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍が敗れた当日それを知らない日本海軍は同盟承認を最終決定した。かくして、陸軍は明治以来の仮想敵国ソ連の牽制、海軍は米英との建艦競争予算の確保、松岡洋右外相は首相就任に向けた大衆・軍部へのアピールと、三者三様の思惑を近衛文麿首相がまとめあげ日独伊三国同盟が成立したが、最強国アメリカを正面敵に回す痛恨事であった。最後の元老で近衛文麿を後継者にした西園寺公望は「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り2ヵ月後に世を去った。アメリカは即座に報復し軍事物資などの経済封鎖を強化(ABCD包囲網)、石油が無ければ一日も軍艦を動かせない海軍は強硬派の岡敬純・石川信吾および海軍国防政策委員会の独壇場となり、田中新一ら陸軍反米派と提携し産油地獲得と援蒋ルート遮断を目的に南部仏印進駐を強行した。陸海軍も近衛文麿内閣もアメリカは強攻策に出ないと信じたが甘い期待は裏切られ、対日開戦を決意したアメリカは石油輸出全面禁止を敢行、自分の首を絞めた日本は勝ち目の無い対米開戦へ追込まれた。万策尽きた近衛文麿が政権を投出すと、木戸幸一内大臣は東條英機を後継首相に推挙し重臣会議(若槻禮次郞・岡田啓介・広田弘毅・林銑十郎・阿部信行・米内光政・原嘉道)は「天皇に忠実」という理由で最悪の人選を受入れた。
- 1941年、日独伊三国同盟にソ連を加え米英に対抗しようと夢想する松岡洋右外相は、ベルリンからの帰路モスクワへ立寄りソ連のスターリンを訪問した。独ソ関係が不穏で会談拒否も考えられたが、スターリンは快く松岡洋右を引見し席上電撃的に日ソ中立条約を受諾、当日中に調印まで済ませしてしまった。スターリンは諜報によりナチス・ドイツのソ連侵攻を掴んでいたとみられ、日独との両面戦争を何としても回避したい状況で松岡洋右の提案は渡りに船だった。モスクワ滞在中の松岡洋右に対しチャーチル英首相は英米の生産力の強大さを示しドイツのソ連侵攻を警告したうえで「イギリスの敗北が決していないのにドイツと組むのは時期尚早ではないか」と諭す書簡を送ったが、なんと松岡は「八紘一宇の大目的実現のためにやっているのだから構うな」と近代国家の外相とは思えない暴論で反駁した。「大手柄」を挙げた松岡洋右は万歳三唱をもって日本国民に迎えられ、マスコミが「北の脅威が薄れた。さあ南進だ!」と煽立てたため日本は南進論一色に染まった。が、チャーチルの警告どおり時を置かず独ソ戦が勃発、1945年日本の敗戦が決定的になるとソ連は有効期間5年の日ソ中立条約を一方的に破棄し関東軍が去った満州を蹂躙、松岡洋右はスターリンやヒトラーに愚弄されただけとなり「トリックスター」の面目躍如たる顛末を迎えた。
- 1940年11月末頃来日した二人のアメリカ人神父が近衛文麿首相と会談し、近衛首相・ルーズベルト米大統領会談を実現させ日米和解の一挙解決を図るという「日中国交打開策」を提案、対米開戦だけは避けたい政府も陸海軍も揃って賛同し当時欠員だった駐米大使に野村吉三郎(元海軍大将)を復職させ日米交渉を再開した。が、当時の外務省では近衛文麿内閣の強硬路線を受け松岡洋右外相(松岡の洋行中は近衛首相が外相兼任)を筆頭に大島浩・白鳥敏夫ら対米英強硬派が優勢で「バスに乗遅れるな」とばかりに「積極外交」を競演中、さらに不幸なことに野村吉三郎は門外漢のうえ阿部信行内閣で外相の任にあったとき大島・白鳥らを追払おうとしたため外務省エリートから総スカンを喰っていた。野村吉三郎大使は外務官僚のサポタージュに苦しめられつつも米国赴任2週間ほどでハル米国務長官との間で「日米諒解案」の最終案を作成、近衛文麿内閣は歓喜し陸海軍も賛成したが、日ソ中立条約の「大手柄」を携えモスクワから帰国した松岡洋右外相が猛反対し、近衛内閣が決定を渋る間に独ソ戦勃発で世界情勢は一変し雲散霧消となった。ただし「日米諒解案」なるものは野村吉三郎大使の一人よがりでハル国務長官の同意に基づくものではなく、松岡洋右ら「外交のプロ」が相手にすべきものではなかった、或いはアメリカは既に対日開戦を決意しており和解交渉は戦争準備のための時間稼ぎに過ぎなかったといった説もあり確かに肯ける状況ではあったが、とはいえアメリカにだけは勝ち目が無い日本としては交渉継続の努力をすべきであり自ら放棄する理由は全く無かった。
- 第一回御前会議で「対英米戦を辞せず」と決定したのを受けて、近衛文麿首相は、強硬派で日本の外交を掻き乱してきた松岡洋右外相を外すため内閣を総辞職、すぐに松岡抜きの第三次近衛内閣を組閣した。「大東亜共栄圏」を掲げて対中強硬路線と南進政策を主張する松岡洋右は、第二次近衛内閣の外相に抜擢され、近衛首相と軍部の期待に応えて日独伊三国同盟締結と北部仏印進駐を主導した。しかし、松岡の外交思想は単に「漁夫の利」を求める場当たり的な機会主義的強権政治であり、国際政治情勢の変化によって右往左往し、政局を引っ掻き回した挙句に外相の地位を追われることとなった。ドイツ軍が欧州を席巻するなか、松岡外相の当初のシナリオは、「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を睨み、ドイツと同盟を結んで欧州戦争参戦の口実を整え、「南進政策」を推し進めてアジアの英仏蘭植民地を奪取する、ただし米ソとは不戦体制を構築するというものであった。しかし、ソ連とは日ソ中立条約を締結したものの、安全保障戦略上イギリスを失えないと判断したアメリカは大掛かりな経済・軍事支援に乗出し、大英帝国崩壊の可能性は消滅した。これで日独伊三国同盟は完全に裏目に出て、軍需物資の大半をアメリカからの輸入に頼る日本は窮地に陥り、南進政策は可能性の問題ではなく死活問題へと転化した。慌てた松岡外相は、南進政策反対と対米妥協に転じ、軍部が仕掛けたタイ仏印国境紛争の沈静化に動いたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打ち切らせた。アジアに対する強攻策も穏健策も否定する一方で、対米妥協をも否定するという意味不明の迷走を続けるなか、独ソ戦が勃発すると、今度はなんと対ソ開戦を主張した。「漁夫の利」を求める松岡には合理的であっても、対米妥協を図る近衛首相、南進政策に集中したい軍部から完全に見放され、閣外へ放逐されることとなった。松岡外相の「積極外交」は幕を閉じたが、その爪痕は甚大な禍根となり、関東軍特種演習(対ソ開戦に備えた関東軍増強)、南部仏印進駐、対米開戦へと続く亡国路線を決定付ける役割を果した。
- 第二回御前会議の結果を受けて、近衛文麿首相は野村吉三郎(海軍出身)駐米大使を通じて日米交渉を再開しようとしたが、時既に遅く、アメリカから相手にされなかった。近衛首相は閣議で対米妥協策を諮ったが、東條英機陸相から中国からの陸軍撤兵は「心臓停止」に等しく絶対に承認できない「人間、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だ」と突上げられ、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相は東條陸相に与し永野修身軍令部総長は「よくわからないので首相に一任」と責任を回避する情けない有様で、近衛首相は陸海軍の不一致を理由に土壇場で政権を放り出してしまった。後任首相は昭和天皇と木戸幸一内大臣の協議により決められたが、対米協調派の皇族軍人で軍部にも抑えが効く東久邇宮稔彦王が有力視されるなか、よりによって最大の主戦論者である東條英機を選んでしまった。愚かな決断をした木戸幸一の真意は不明だが、強硬派ながら天皇への忠節が厚い東條に任せれば天皇の意を汲んで開戦回避に尽力するだろうとの思惑があったとみられ、天皇は木戸の奏上に「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。首相となった東條英機は、陸相と参謀総長を兼務し、対米開戦を諌めた網本浅吉陸軍少将を追放するなどして反対勢力を一掃した。組閣直後は天皇の意に適うべく対米開戦回避に努めたが、戦争の決意を固めたアメリカを相手に中国・仏印からの完全撤退の他に打開策は無く、強硬な陸軍統制派を基盤とする東條首相には開戦以外の選択肢は残されていなかった。
- 「日米諒解案」が挫折した後も野村吉三郎駐米大使はワシントンに留まりハル米国務長官と妥協点を探る交渉を続けたが時既に遅し、開戦準備を終えたアメリカは突如交渉を打切り「日本軍が仏印と中国から撤退しない限り経済封鎖を解除しない」とする最後通牒(ハル・ノート)を東條英機政府に突きつけた。要するに満州事変以前への原状回復を迫る、当時の外交常識に反する超強硬姿勢であり、アメリカも日本が呑むとは考えておらず日本を挑発して開戦に踏切らせようとの意図があった。完全に手詰まりとなった東條英機内閣は、若槻禮次郞や米内光政ら良識派重臣の最後の諫止を黙殺し、第四回御前会議において対米開戦を決定した。なお、当時アメリカは日本の外交暗号「パープル」の解読に成功しており、日本サイドの情報は筒抜けであった。近衛文麿・東條英機内閣が対米開戦に踏切った背景にはナチス・ドイツ軍への過剰な期待があったが、確かにソ連の敗北は必至と思える戦況があった。東部戦線を片付けたドイツは西部戦線に兵力を集中しイギリスを撃破するはずであり、欧州に足場を失えばアメリカも戦意喪失し早期講和に応じるだろう・・・こうした希望的観測を陸海軍を含む日本全体が共有していた。が、東條英機内閣が第四回御前会議で対米開戦を決定した数日後、ドイツ軍はスターリンが陣取るモスクワまで30kmに迫りながら悪天候とソ連軍の猛反撃により後退を開始、ドイツ優位で進んできた独ソ戦の趨勢は一変し、甘い他力本願戦略には対米開戦を前に狂いが生じた。
- 日本軍がマレー侵攻と真珠湾攻撃を敢行、英米蘭中が日本に宣戦布告、これを受けて独伊が米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1941年において、アメリカのGNPと鉄鋼生産量はいずれも日本の12倍、持久戦・総力戦になれば全く勝つ見込みのない戦争であった。山本五十六連合艦隊司令長官が自ら立案した日本海軍による真珠湾攻撃は、結果的には鮮やかな戦果を挙げたが、非常にリスクの高い冒険的作戦であった。持久戦では勝ち目がないと確信する山本五十六は、日本近海で敵艦隊を待ち伏せし大鑑巨砲で決戦に挑むという軍令部の作戦の非を悟り、「桶狭間とひよどり越と川中島とをあわせ行うの已むを得ざる羽目に、追込まれる次第に御座候」と覚悟を定め乾坤一擲の大博打に挑んだのである。真珠湾攻撃が成功すれば早期講和に持ち込み、もし惨敗しても戦争は続行不能、いずれにせよ戦争を早期に終わらせるための攻撃作戦であった。山本五十六の悲壮な決意を知らない海軍中枢の幕僚らは、自分らの作戦に固執して真珠湾攻撃の阻止を図ったが、山本らが良い加減な永野修身海相を押し切って実現させた。なお、宣戦布告文書の手交が真珠湾攻撃開始に1時間遅れたため、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンで現在に至るまでアメリカの反日政策に利用されることとなったが、これは日本大使館員の怠慢が原因であり、日頃の野村吉三郎大使への反抗的態度が思いもよらぬ大問題に発展したというお粗末極まりない話であった。
- 戦局が悪化しても強硬論を曲げない東條英機首相(陸相と参謀総長を兼務)に対し、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣は結束して倒閣工作に動いた。東條独裁下の陸軍は頑強に抵抗したが、東條英機首相が自ら「防衛は安泰」と豪語したサイパン島が呆気なく陥落し敗戦が決定的になると、重臣会議は意を決して粘る東條を引きずり降ろした。「戦争遂行内閣」の後継首相は陸軍から出すこととなったが「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜す」という投遣りな選考の結果、宇垣一成の穏健派に連なる小磯國昭に組閣の大命が降された。陸相には強硬派の杉山元が就任したが、小磯國昭の能力不足を補うため元首相で海軍良識派の米内光政が海相に復帰し「小磯・米内連立内閣」といわれた。小磯國昭は、陸士(12期)を出て日露戦争に従軍、陸大の席次は55人中33番と凡庸だったが、長州閥の系譜を引く宇垣一成に属し派閥争いが盛んな陸軍にあって人柄と人付合いの良さで台頭、要職の軍務局長・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官を歴任した。小磯國昭大将は予備役に退いたが、調整能力を買われて平沼騏一郎・米内光政内閣に拓務相で入閣し、朝鮮総督を経て首相へ上り詰めた。小磯國昭に特筆すべき業績は無いが、朝鮮総督として同化政策(皇民化政策)を推進したことや、陸軍航空本部員として欧州視察を経験し空軍力の充実を持論としたことなどが知られている。さて、実は戦争終結を期待された小磯國昭内閣は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍を懐柔すべく「一撃を加えた上で有利に対米講和を進める」建前を示し徴兵年齢拡大(根こそぎ動員)を断行したが相手にされず、本土爆撃が本格化するなか愚にも付かない「本土決戦完遂基本要綱」を容認した。米内光政海相・重光葵外相や近衛文麿・木戸幸一ら重臣にも見放された小磯國昭首相が何も出来ないまま、レイテ沖海戦で海軍が壊滅し東京大空襲・硫黄島陥落・沖縄侵攻・日ソ中立条約廃棄通告と戦局は見る間に悪化し、戦艦大和撃沈の日に小磯内閣は退陣した。終戦後、小磯國昭は東京裁判で終身刑判決を受け1950年に巣鴨プリズンで獄死した。
- 戦艦大和撃沈の日に、無策の小磯國昭内閣に代わって鈴木貫太郎内閣が発足した。鈴木は歴代首相中最高齢の77歳だった。鈴木は海軍出身だが、侍従長として長く天皇に近侍し、軍部に「君側の奸」と憎まれて二・二六事件で襲撃されて瀕死の重傷を負ったが、腰砕けの重臣グループにあってなおも軍部への抵抗姿勢を崩さなかった硬骨漢であった。鈴木は高齢を理由に首相就任を固辞したが、信任厚い昭和天皇から懇請され、貞明皇后からは「どうか陛下の親代わりになって」とまで言われ、「最後のご奉公」に乗出した。陸相には強硬派の杉山元に代わって無派閥の阿南惟幾が就き、海相は良識派の米内光政が留任した。鈴木貫太郎首相は、当初は軍部が固執する「本土決戦」に調子を合わせたが、最後には決然と「終戦内閣」の役割を演じ切った。
- 敗戦必至の戦局が徒に長引くなか、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が東條英機内閣を打倒し、無能な小磯國昭内閣に代わり昭和天皇の信任篤い鈴木貫太郎の「終戦内閣」が成立、ナチス・ドイツの降伏、ソ連の日ソ中立条約廃棄、沖縄戦敗北、空襲で国中が焼け野原と化すに及び漸く陸軍は「本土決戦」を断念した。鈴木貫太郎内閣と陸軍は中立条約締結国のソ連を仲介とする日米和平交渉に最後の望みを繋いだが、ヤルタ会談で米英に8月9日の対日参戦を約束済みのスターリンが仲介などするはずはなかった。かくして鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾を決めたが降伏条件で紛糾、「天皇制護持」のみで妥結を図る東郷茂徳外相らに対し、阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長は「占領は小兵力且つ短期間」「武装解除および戦犯の処置は日本人の手で行う」との条件追加を声高に主張した。議事が膠着するなか、鈴木貫太郎首相は強引に御前会議を開いて昭和天皇の「聖断」を仰ぎ、天皇は慣例を破って自らの意見を述べ天皇制護持だけを条件とする東郷外相案に賛意を示した。その8月10日のうちに外務省は中立国を介し天皇制護持のみを条件にポツダム宣言を受諾する旨を通知、連合国から承認の回答を得た。陸軍幕僚らは連合国の回答をあげつらって悪あがきしクーデターを企てたが(宮城事件)、辛くもテロを逃れた鈴木首相は全閣僚・重臣を召集、席上昭和天皇が連合国回答に基づく降伏を明言し、正式の手続きを踏んで8月14日に日本の敗戦が決定した。いわゆる「無条件降伏」ではなかったが、日本が固執した天皇制護持さえアメリカ(GHQ)の恣意へ委ねられ、あれだけ血気盛んだった軍人らも忽ち意気阻喪した。最悪なのは「無敵関東軍」で、日本人居留民の安全を確保する前に早々に武装解除に応じ我先に内地へ帰還、「降伏文書調印(9月2日)までは交戦状態」というスターリンの屁理屈でソ連軍が満州に殺到し無防備の日本人に襲い掛かった。暴虐なソ連軍は日本の民間人18万人を虐殺し、国際法を無視して57万人以上の「戦争捕虜」を強制労働で酷使し10万人以上を死なせた(シベリア抑留)。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
- 終戦後、近衛文麿は新憲法準備に生残りを賭けた。幣原喜重郎内閣の副総理格の地位にあった近衛文麿は、GHQに赴いてマッカーサーと会談した際、「憲法改正を要する」との示唆を受けて自らこれにあたることを決意し、木戸幸一から昭和天皇に働きかけて宮内省御用掛に任じてもらい、京大の佐々木惣一元教授に頼んで憲法改正案の作成に着手した。こうした近衛文麿のスタンドプレーに幣原喜重郎首相と松本烝治国務大臣は反発し、近衛に中止を求めると共に、松本烝治を委員長として「憲法問題調査会(通称松本委員会)」を立上げた。近衛文麿は尚も独自の新憲法準備工作を継続しようとしたが、中国・オランダ・ソ連などから近衛を戦犯指定するよう迫られたGHQに梯子を外されてお払い箱となった。これで新憲法準備は松本委員会に一本化されたが、東大系法学権威を集めた老人組織は瑣末な文言修正に終始する有様で抜本的な改革案を出せず、結局GHQからの「押付け憲法」を受入れざるを得ない事態に追込まれた。さて、マッカーサーにすがるも見捨てられ東京裁判の審理に際しGHQから巣鴨刑務所への出頭命令を受けた近衛文麿は、出頭予定日の前日に荻窪の別荘「荻外荘」で青酸カリによる服毒自殺を遂げた。山下奉文らの死刑判決をみて極刑を免れないと覚悟した近衛文麿は、「勝者の裁判」で裁かれる屈辱に耐えられず自決に及んだとされる。自作の『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず」と国民に強要した東條英機は軍人のくせにピストル自殺に失敗、近衛文麿との対象もあり完全に面目を失った。なお、近衛文麿の死後しばらくの間、友人の吉田茂が「荻外荘」を借用し自邸として使った。
- 戦犯狩りが始まり要人が挙って保身に奔るなか、重光葵外相は「折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ」と決死の覚悟でGHQに乗込み「英語を公用語とする」「米軍票を通貨にする」という無茶な布告を撤回させたが、数日後に外相を罷免された。重光葵の後任外相に納まりGHQの占領政策を担った吉田茂は「外務大臣に任命されたとき、総理大臣であった鈴木貫太郎氏に会った。そのとき鈴木氏は『負けっぷりも、よくないといけない。鯉はまな板の上に乗せられてからは、庖丁をあてられてもびくともしない。あの調子で、負けっぷりをよくやってもらいたい』といわれた。この言葉はその後、私が占領軍と交渉するにあたっての、私を導く考え方であったかもしれない」と述懐している。重光葵の腹心で共に布告撤回に尽力した岡崎勝男は、勝ち馬の吉田茂へ乗換えて従米外交の担い手となり日米行政協定に暗躍、「第五福竜丸被爆事件」直後の日米協会のスピーチでは「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」などと暴言を吐いた。一方、GHQに危険視された重光葵は外相更迭の翌年東京裁判の獄に繋がれ禁固7年の有罪判決を受けた。『続 重光葵日記』に曰く「結局、日本民族とは、自分の信念をもたず、強者に追随して自己保身をはかろうとする三等、四等民族に堕落してしまったのではないか・・・節操もなく、自主性もない日本民族は、過去において中国文明や欧米文化の洗礼を受け、漂流していた。そうして今日においては敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様のようにあつかっている。その態度は皇室から庶民にいたるまで同じだ・・・はたして日本民族は、自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身をはかろうとする性質をもち、自主独立の気概もなく、強い者にただ追随していくだけの浮草のような民族なのだろうか。いや、そんなことは信じられない。いかに気もちが変化しても、先が見通せなくても、結局は日本民族三千年の歴史と伝統が物をいうはずだ。かならず日本人本来の自尊心が出てくると思う」。
- 「自主外交」の旗手にして吉田茂の宿敵・重光葵は、鳩山一郎内閣で10年ぶりに外相に返咲くと再びアメリカの理不尽に立向かった。1955年4月「防衛分担金を178億円(国家予算の約2%)削減し、その分を防衛予算増額に充当する」との日米合意を成功させた重光葵外相は、同年7月アリソン駐日大使に「米国地上軍の6年以内撤退、その後6年以内の米国海空軍撤退、在日米軍支援のための防衛分担金の廃止」を提案、翌月には岸信介民主党幹事長と河野一郎農商を伴って渡米しダレス国務長官との直談判に挑んだ。「対等国」として安保改定を求める重光葵をダレスは一蹴、岸信介の回想によると「ダレスは、重光君、偉そうなことを言うけれど、日本にそんな力があるのかと一言のもとにはねつけたというのが実情」であった。また河野一郎が著書に曰く「ダレスの言った趣旨はこうだ。日本側は安保条約を改定しろというけれど、日本の共同防衛というのは、今の憲法ではできないではないか。日本は海外派兵できないから、共同防衛の責任は日本が負えないではないか。・・・ダレスさんからやっつけられると、重光さんは立上がって、『どこの国の憲法にはじめから侵略的な海外派兵を肯定している憲法がありますか。アメリカの憲法と日本の憲法と比べてみて、この点についてどこがちがうか』(と主張した)。こうした緊張感のなかで重光さんの態度は堂々としている。やはり戦前の外交官は見識をもっている。」・・・結局、重光葵外相の気魄も老練なダレス国務長官には通じなかったが、条件付ながら「現行の安全保障条約をより相互性の強い条約に置きかえる」との日米合意を引出し、後の岸信介内閣による安保改定交渉への足掛りを築くことはできた。翌1956年12月鳩山一郎内閣は「日ソ国交回復」を花道に退陣、国際連合加盟を果し総会演説で有終の美を飾った重光葵は笑顔で「もう思い残すことはない」と語り外相を退いた。その僅か1ヵ月後、69歳にして健康体の重光葵は湯河原の別荘で好物のスキ焼きと餅を食し床に就いたが、間もなく腹痛を訴えて苦しみ始めそのまま息を引取ったという。重光葵の原因不明の突然死により、日本の自主外交は大きく後退した。
- 敗戦の混乱を鎮めるため公家の東久邇宮稔彦王が暫定組閣したが、親米政権を望むGHQの意を受けた吉田茂外相は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に擁立、GHQに楯突き外相交代を強いられた重光葵は「幣原喜重郎内閣は昭和二〇年一〇月九日成立した。その計画は吉田外務大臣が行った。吉田外務大臣は、いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめ、人選を行った。残念なことに、日本の政府はついに傀儡政権となってしまった」と嘆いた。幣原喜重郎内閣は僅か半年の短命に終わったが、日本軍解体・五大改革指令・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQが命じる重要施策を次々と実行へ移した。国民国家はさておき天皇制存続を使命と考える幣原喜重郎は、昭和天皇に「人間宣言」を促し、自ら英訳してマッカーサーに国体護持を訴えた。憲法改定を迫られた幣原喜重郎は、天皇制に関わるだけにGHQ任せにはせず、憲法改定に延命を賭ける近衛文麿のスタンドプレーを排し、松本蒸治国務相を中心に「憲法問題調査会」を立上げ起草作業に着手した。GHQは「自主憲法」を容認する方針だったが、瑣末な修辞をいじくるばかりの「松本委員会」は抜本的改革案を出せず、業を煮やしたマッカーサーはケーディス民政局(GS)次長に草案策定を命じた。少人数のケーディス・チームが短時日で作成した「押付け憲法」であったが、幣原喜重郎首相は天皇の訴追免除と引換えに受諾を決断、「斯る憲法草案を受諾することは極めて重大の責任であり、恐らく子々孫々に至る迄の責任である。この案を発表すれば一部の者は喝采するであらうが、又一部の者は沈黙を守るであらうけれども心中深く吾々の態度に対して憤激するに違ひない。然し今日の場合、大局の上からこの外に行くべき途はない。」と語り退陣した。後継の第一次吉田茂内閣が「日本国憲法」を成立させ、幣原喜重郎は衆議院議員となり芦田均の民主党で幹部に納まったが、田中角栄ら陣笠を引連れて吉田の自由党に合流し民主自由党が発足、吉田内閣のもと78歳で没するまで衆議院議長を占めた
- 東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。
- 東條裁判で死刑に処された6人の軍人達は皆「天皇陛下万歳、大日本帝国万歳」と唱和して刑の執行に臨んだが、広田弘毅だけは唱和しなかったという。
広田弘毅と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照