内務省の医系技官から児玉源太郎の抜擢で長州閥に連なり、台湾総督民政局長・初代満鉄総裁として植民地経営を成功させ関東大震災後の帝都復興を描いた「大風呂敷」の奇才
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
後藤 新平
1857年 〜 1929年
70点※
家系・子孫
- 後藤家は水沢伊達氏(留守氏)に仕えた仙台藩士で、後藤新平は後藤実崇の嫡子に生れ水沢城下で育った。蛮社の獄で有名な蘭学者の高野長英は親戚にあたる。「賊軍」仙台藩士は明治政府で冷遇されたが、有為の子弟は赴任官により進学の機会を与えられた。水沢の後藤新平や斎藤実(海軍大将・首相)を世に出した胆沢県大参事の安場保和は熊本藩出身の官僚政治家で、次女の和子を後藤に嫁がせた。後藤新平・和子夫妻は一男一女を生し、伯爵を継いだ後藤一蔵は貴族院議員となり、愛子は官僚政治家の鶴見祐輔の妻となった。鶴見祐輔は東大法学部恩賜の秀才で鉄道官僚から衆議院議員となり、翼賛政治会への関与で公職追放に遭ったが復活し第一次鳩山一郎内閣の厚相に就任、岳父の伝記『後藤新平』を著した。鶴見祐輔の長男鶴見俊輔は米ハーバード大卒ながらグレて無政府主義活動家となり安保反対闘争で「ベ平連」を結成、長女の鶴見和子も津田塾・米国留学を経てバリバリの共産党員となった。後藤新平の養女静子は、佐野病院の佐野彪太に嫁いだ。彪太弟の佐野学は、東大医学部を卒業したが医者にならず、後藤新平のツテで満鉄の嘱託社員となり共産党に入党、ソ連亡命を繰返しつつ日本共産党を再建し中央委員長に就いたが、1932年に逮捕され治安維持法違反で無期懲役判決、獄中から脱コミンテルン・天皇制下の社会主義への「転向声明」を出し党内外に衝撃を与えた。親ソ派でスターリン会談もした後藤新平は佐野学の幇助を疑われ「赤い男爵」と呼ばれた。佐野彪太・静子の間に生れた佐野碩は、東大法学部を卒業するも叔父佐野学の影響で左翼運動家となり、ニューヨーク・ベルリンを経てソ連へ亡命した。プロレタリア演劇の演出で鳴らした佐野碩は、「インターナショナル」の訳詞を手掛け、ソ連国立劇場でメイエルホリドの演出助手を務めたが、スターリン弾圧を逃れてメキシコへ転亡命し「メキシコ演劇の父」と称された。岸信介の腹心で戦後政府要職を歴任した椎名悦三郎は、後藤新平の姉初瀬(夫は椎名弁七郎)の婿養子である。
後藤新平と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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