山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照後藤 象二郎
1838年 〜 1897年
30点※
後藤象二郎の寸評
後藤象二郎の史実
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1838年
土佐藩の中級藩士(馬廻格150石)後藤正晴の嫡子後藤象二郎が高知城下にて出生
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1841年
吉田東洋(後藤象二郎の義理の叔父)が中級藩士(馬廻格200石)吉田家を相続、翌年土佐藩庁に出仕し藩政改革に参与
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1848年
14代土佐藩主山内豊惇が死去、山内容堂が末期養子となり15代藩主に就任
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1848年
後藤正晴が死去し嫡子の後藤象二郎が家督相続、義理叔父の吉田東洋に養育される
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
土佐藩主山内容堂が吉田東洋を参政に抜擢し藩政改革を推進
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1854年
吉田東洋が松下嘉兵衛打擲事件を起し長浜に蟄居処分、密かに少林塾を開き後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎を教育
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1854年
武市半平太が高知城下新町に剣術道場を開く
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
安政の大地震
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1855年
武市半平太が槍術家で義叔父の島村寿之助と共同経営の道場を開業、中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕ら多くの門人が参集
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1855年
岩崎弥次郎リンチ事件により岩崎弥太郎が江戸から帰国、安芸郡奉行所を挑発し投獄される
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
白札格郷士の武市半平太が土佐藩の臨時御用に選ばれ江戸遊学
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1856年
武市半平太が桃井春蔵(鏡心明智流)の士学館に入門、すぐに皆伝を授かり塾頭に任じられる
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1857年
喧嘩両成敗で岩崎弥太郎が出獄、蟄居中に私塾を開き近藤長次郎・池内蔵太らを教育
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1857年
祖母が通風で倒れたため士学館塾頭の武市半平太が土佐へ戻り道場主に復帰、門人は100名を突破
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1858年
江戸で剣名を馳せた武市半平太を麻田直養が上士に推挙するが土佐藩は終生二人扶持でお茶を濁す
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1858年
吉田東洋が土佐藩主山内容堂に蟄居を解かれ江戸出府、参政に復帰し配下の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らを登用(新おこぜ組)
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1858年
後藤象二郎が土佐幡多郡奉行に任じられる
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
岩崎弥太郎が土佐藩に郷廻役で出仕し長崎出張へ出るが公金横領で辞職、井ノ口村で隠遁
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1859年
安政の大獄により一橋派諸侯処分、山内容堂は隠居し豊範が16代藩主となる
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
後藤象二郎が大坂の土佐藩邸建築の普請奉行に任じられる
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
徳川斉昭が蟄居中に急死(享年61)、幕府は融和路線に転じ徳川慶喜・松平春嶽らを赦免
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1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860年
武市半平太が武術修行の名目で九州遊学を許され尊攘派志士を歴訪
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1861年
尊攘運動に目覚めた武市半平太が土佐藩庁に願出て江戸出向、薩長の志士と交流し久坂玄瑞に感化される
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1861年
武市半平太が土佐藩郷士を糾合し土佐勤皇党を結成、坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・岡田以蔵ら192人が加盟
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1861年
和宮降嫁の勅許、薩長土の尊攘派志士が三藩主上洛を約束
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1861年
武市半平太が土佐へ戻り破約攘夷への藩論転換運動
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1861年
長井雅楽の航海遠略策が藩論となり長州藩が公武周旋に乗出すが吉田松陰門下の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞らは猛反対
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1862年
武市半平太の使者として坂本龍馬が長州と土佐を往来
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1862年
坂下門外の変~水戸浪士が老中安藤信正を襲撃
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1862年
和宮降嫁~孝明天皇妹宮の和宮親子内親王と将軍徳川家茂の婚礼
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1862年
武市半平太の土佐勤皇党が佐幕派の執政吉田東洋を暗殺し藩政を掌握、土佐藩主山内容堂は怒りを堪え黙認
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1862年
後藤象二郎が御近習目付の任を解かれる
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1862年
平野国臣の扇動により土佐藩の吉村寅太郎・坂本龍馬らが脱藩、坂本は江戸の桶町千葉道場に寄寓し志士活動に入る
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1862年
長州藩が長井雅楽の「航海遠略策」を朝廷に建白するが老中安藤信正の失脚により公武周旋を断念、長井は失脚し木戸孝允・久坂玄瑞ら尊攘派が優勢となる
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1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
幕府により山内容堂の謹慎が解かれる
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1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らが「四奸二嬪」を弾劾し岩倉具視を辞官隠居へ追込む
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
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1862年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
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1862年
武市半平太の工作により土佐藩主山内豊範が京都へ立寄り国事周旋の勅命を受ける
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1862年
武市半平太が他藩応接役に任じられる
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1862年
岩崎弥太郎が下横目となり吉田東洋暗殺犯探索の任に就くが辞職、井ノ口村で帰農し富豪となる
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1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
久坂玄瑞が江戸入り、長土連携のため世子毛利定広と山内容堂の酒宴をアレンジ
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1862年
平井収二郎・中岡慎太郎土佐勤皇党の「五十人組」が東上
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士がイギリス公使館焼き討ち
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士が神奈川外人襲撃を企てるが土佐藩の横槍で中止
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1862年
土佐勤皇党の平井収二郎・間崎哲馬らが青蓮院宮から藩政改革を促す令旨を得る
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1862年
会津藩主松平容保が京都守護職として入洛
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1862年
武市半平太が京都へ戻り上士身分の留守居組に昇格
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1862年
坂本龍馬が松平春嶽の紹介で勝海舟に面会を許され門人となる
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1863年
京都守護職松平容保の配下に壬生浪士組(新撰組)結成
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1863年
坂本龍馬が勝海舟の口利で土佐藩より脱藩罪を赦され神戸海軍操練所の設立準備に奔走
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1863年
長州藩で久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作ら尊攘派が実権を掌握し公武合体派の長井雅楽が自害
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
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1863年
幕府が神戸海軍操練所の設立を許可、勝海舟は土佐浪士の受皿として坂本龍馬を塾頭に神戸海軍塾を設立
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1863年
青蓮院宮から令旨の一件を聞いた山内容堂が土佐へ戻り吉田東洋暗殺犯の捜索と土佐勤皇党の粛清を開始
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1863年
京都で薩長和解工作を進める武市半平太が山内容堂に召還され土佐へ帰国
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1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
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1863年
長州藩の高杉晋作が奇兵隊を創設、一流蘭学者の大村益次郎が長州藩諸隊の洋式軍制改革・軍備増強を推進
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1863年
山内容堂が青蓮院宮令旨事件を起した平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太を切腹に処す
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1863年
後藤象二郎が江戸遊学し開成所で就学
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1863年
尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺される
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1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
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1863年
福井藩の松平春嶽・横井小楠が挙藩上洛計画を企てるが中根雪江ら守旧派の反対で決行直前に中止
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1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
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1863年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
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1863年
山内容堂が武市半平太ら土佐勤皇党幹部を投獄
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1863年
中岡慎太郎が七卿落ちの情勢を探るため周防三田尻へ出向
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1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
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1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1863年
長州藩で世子毛利定広の上洛決定、真木和泉の扇動により出兵論が過熱
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1863年
土佐浪士の中岡慎太郎が上京し長州藩復権運動
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1864年
土佐藩に帰国延期申請を拒否された坂本龍馬が再び脱藩
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1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
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1864年
徳川慶喜が将軍後見職を辞して江戸幕府を離れ禁裏御守衛総督となり京都政局を牛耳る
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1864年
天狗党の乱~武田耕雲斎ら水戸尊攘派の暴発と瓦解
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1864年
強盗罪で逮捕され土佐藩に送還された岡田以蔵が拷問に怯え自白
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1864年
幕府が神戸海軍操練所を開設し勝海舟は軍艦奉行・2千石に昇進
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1864年
池田屋事件
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1864年
禁門の変、久坂玄瑞が京都鷹司邸にて自刃(享年25)
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる
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1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
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1864年
神戸海軍塾生の不祥事により勝海舟が江戸に召還され軍艦奉行罷免、坂本龍馬ら神戸海軍塾生を薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛に託す
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1864年
中岡慎太郎が長州藩諸隊(浪士隊)の忠勇隊総督となる
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1864年
長州藩で俗論党(佐幕恭順派)が主導権を握り正義派(尊攘派)を粛清、絶望した周布政之助が山口にて自殺(享年42)
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1864年
中岡慎太郎が五卿遷座の周旋工作、西郷隆盛ら薩摩藩士と連携
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1864年
高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)
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1864年
野根山屯集事件
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1864年
山内容堂が新おこぜ組を藩政に復帰させ後藤象二郎・板垣退助を大監察に任じ土佐勤皇党の尋問を強化(尊攘派の板垣は辞職し江戸へ遊学)
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1865年
幕府が神戸海軍操練所を廃止
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1865年
高杉晋作率いる諸隊が大田・絵堂の戦いに勝利し正義派が長州藩の政権を奪回
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1865年
禁門の変で失踪した木戸孝允が長州藩に戻り藩政を掌握
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立
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1865年
長州系土佐浪士の中岡慎太郎・土方久元が上京して薩摩屋敷に滞在し薩長和解工作
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1865年
薩摩系土佐浪士の坂本龍馬が長州藩で薩長和解工作
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1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
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1865年
長州藩が亀山社中を介して大量の洋式兵器とユニオン号を購入
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1865年
西郷隆盛が下関での木戸孝允との会談をドタキャン、薩長和解工作のため黒田清隆を長州へ派遣
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1865年
薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らが上京し宮廷工作で幕府の長州再征を妨害
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1865年
中岡慎太郎が京都で西郷隆盛に薩長和解工作、田中顕助・那須盛馬・大橋慎三(元長州藩忠勇隊士)らと会盟
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1865年
中岡慎太郎が大宰府へ赴き三条実美から五卿応接掛に任じられる
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1866年
薩長同盟
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1866年
坂本龍馬が伏見寺田屋で幕吏に襲われ負傷、鹿児島へ逃れる
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1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
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1866年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
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1866年
坂本龍馬がユニオン号に乗り長州藩の小倉渡海作戦に参加
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1866年
高杉晋作が大島口奇襲で勝利
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1866年
大村益次郎が浜田城制圧
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1866年
高杉晋作の活躍で老中小笠原長行が守る小倉城が陥落し長州藩の勝利が決定的となる(高杉は肺結核が悪化し翌年病没)
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1866年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
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1866年
土佐藩執政の後藤象二郎が藩政改革と洋式軍備導入のため開成館を創設・岩崎弥太郎が実務を差配
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1866年
岩崎弥太郎が後藤象二郎の命令で開成館貨殖局に出勤するが僅か40日で退職
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1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866年
孝明天皇崩御
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1867年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
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1867年
中岡慎太郎が幕府の動向視察のため上京、土佐藩に藩政改革案を示し薩摩藩の西郷隆盛を紹介
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1867年
坂本龍馬が長崎で後藤象二郎と会談、後藤は上海へ視察旅行
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1867年
岩崎弥太郎が後藤象二郎の招聘により貨殖局長崎出張所に勤務、実質上の責任者となる
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1867年
高杉晋作が下関にて死去(享年27)、下関郊外吉田の清水山に埋葬される
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1867年
坂本龍馬の亀山社中が薩摩藩から土佐藩へ転籍し土佐海援隊に改編
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1867年
土佐海援隊の「いろは丸」が紀州藩軍艦と衝突し沈没
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1867年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
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1867年
京都で島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の四候会議開催
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1867年
将軍徳川慶喜と四候の二条城会談が決裂、薩摩藩が武力討幕の方針を固める
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1867年
坂本龍馬が後藤象二郎に「夕顔丸」船上で船中八策を提案
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1867年
薩土密約
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1867年
薩土同盟
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1867年
イカロス号事件、坂本龍馬の土佐海援隊が疑われる
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1867年
中岡慎太郎が京都の土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を結成
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1867年
西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通の薩摩首脳が長州藩に立寄り山縣有朋・品川弥二郎らに薩長同盟を確認
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1867年
坂本龍馬が土佐に小銃1000挺を運び、上京
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1867年
土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静に大政奉還の建白書を提出
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1867年
西郷隆盛が不逞浪士を江戸へ遣わし幕府を挑発、謀略に掛った江戸市中取締の庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼打ち
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1867年
薩摩藩・西郷隆盛が土佐藩・後藤象二郎からの出兵延期要請を拒否
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
山内容堂が後藤象二郎を参政(土佐藩政のトップ)に任じる
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1867年
西郷隆盛と木戸孝允が山口で討幕挙兵を確認、西郷は薩摩へ
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1867年
薩摩藩主島津忠義が周防国三田尻で長州藩世子毛利広封と会見し討幕出兵を協約
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1867年
薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)
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1867年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
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1867年
坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が京都近江屋で見廻組に襲われ死去
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1867年
土佐海援隊の陸奥宗光らが天満屋事件を起す
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1867年
長崎の岩崎弥太郎が佐々木高行と対立し京都の後藤象二郎に直訴、佐々木は土佐帰国を命じられ岩崎は上士格の新居留守組に昇格
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1867年
王政復古の大号令
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1867年
三職の設置、土佐藩からは山内容堂が議定に後藤象二郎・福岡孝弟らが参与に任じられる
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1867年
長州藩が朝廷により公式に赦免され藩主毛利敬親は従四位・参議に復帰
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1867年
小御所会議(最初の三職会議)で薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛と朝臣の岩倉具視が徳川慶喜の辞官納地を強行採決
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1867年
大阪城に退去した徳川慶喜が辞官納地を拒否、諸外国に徳川政権による外交継続を宣言
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
徳川慶喜が松平容保・松平定敬を伴って大阪城を脱出し軍艦で江戸へ逃げ帰る
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1868年
土佐藩の板垣退助が迅衝隊を率い独断で戊辰戦争に参戦、東山道先鋒総督府参謀として官軍を指揮
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1868年
陸奥宗光の献策により維新政府が外交団と協議、各国は局外中立を表明
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
西郷隆盛が東征大総督府下参謀(実質的司令官)に任命される
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1868年
土佐海援隊の佐々木高行と薩摩藩の松方正義が長崎奉行所を占拠・岩崎弥太郎が土佐商会の全権を掌握
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1868年
徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎し主戦派の松平容保・松平定敬・小栗忠順らを江戸から追放し恭順派の勝海舟に全権委任、徳川家達に徳川宗家の家督を譲る
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1868年
木戸孝允の主導により明治天皇が五箇条の御誓文を公布
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1868年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868年
甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍が近藤勇・土方歳三の甲陽鎮撫隊を撃破、近藤は板橋刑場で斬首され京都三条河原に首を晒される
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1868年
奥羽越列藩同盟が成立
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1868年
西郷隆盛・大村益次郎の官軍が上野彰義隊を殲滅
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1868年
木戸孝允の版籍奉還の献策を長州藩主毛利敬親が承諾
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置、土佐藩からは山内容堂が議定・後藤象二郎・福岡孝悌らが参与に任じられる
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1868年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
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1868年
旧幕府海軍の榎本武揚らが軍艦8隻を奪い江戸を脱出、仙台で旧幕府軍を吸収し箱館五稜郭で蝦夷共和国樹立を宣言するが旗艦の開陽丸が座礁沈没
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
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1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1868年
板垣退助が土佐藩家老格・陸軍総督に任じられ600石に加増される
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1869年
兵庫開港に伴い土佐藩が土佐商会を閉鎖し大阪商会へ機能移転、主任の岩崎弥太郎は業務を急拡大し小参事(中老)に昇進
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
王政復古の賞典禄下賜、後藤象二郎・板垣退助は賞典禄永世1000石を賜る
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1869年
版籍奉還
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1869年
東北戦争から凱旋した板垣退助が明治政府の参与に任じられる
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1869年
四民平等~華族・士族・平民の三身分制の実施
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1869年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1870年
国内初の日刊紙・横浜毎日新聞創刊
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1871年
明治政府が大村益次郎の徴兵制を退け(兵制論争)薩長土三藩の兵を徴し御親兵を創設
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1871年
陸奥宗光の紀州藩政改革により「陸奥王国」が現出
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1871年
廃藩置県
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1871年
岩倉使節団派遣、板垣退助・後藤象二郎が留守政府の参議に就く
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1872年
山内容堂が死去(享年46)
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1872年
山城屋事件、絶体絶命の山縣有朋は西郷隆盛に救われ初代陸軍卿に就任し徴兵令準備に奔走
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1873年
徴兵令布告
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1873年
岩崎弥太郎が三菱商会を設立
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1873年
地租改正法・地租改正条例布告
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1873年
岩倉使節団が帰国
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1873年
明治六年政変、板垣退助・後藤象二郎は西郷隆盛の征韓派に与し下野
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1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
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1873年
岩崎弥之助がアメリカから帰国、三菱商会入りして副社長となる
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1873年
最初の世界恐慌、帝国主義列強による世界分割競争が始まる
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1873年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1874年
板垣退助が愛国公党を結成し『民撰議院設立建白書』を提出、後藤象二郎も加盟
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1874年
板垣退助が高知で立志社を設立
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1874年
佐賀の乱
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1874年
西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野
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1874年
後藤象二郎が蓬莱社を設立し高島炭鉱の払下げを受けるが2年後に放漫経営で破綻し岩崎弥太郎の三菱に押付ける
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1874年
岩崎弥之助が後藤象二郎の娘早苗と結婚
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1875年
江華島事件
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1875年
讒謗律・新聞紙条例公布
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1875年
大久保利通政府が岩崎弥太郎の三菱商会を保護育成会社に指定、日本国郵便蒸気船会社を吸収した郵便汽船三菱会社が海運業を独占
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1876年
大久保利通政府が黒田清隆全権特使の艦砲外交により李氏朝鮮と日朝修好条規を締結
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1876年
岩倉具視が華族会館館長に就き旧公家偏重の優遇政策を推進、旧大名・士族の反発を招く
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1876年
秩禄処分
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1876年
神風連の乱
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1876年
秋月の乱
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1876年
萩の乱
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1877年
西南戦争、西郷隆盛が鹿児島城山にて自害(享年51)
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1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878年
西南戦争に呼応する立志社の策動が発覚、陸奥宗光は5年の禁固刑を受け山形監獄に収容される
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1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1879年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
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1880年
板垣退助ら土佐派が国会期成同盟結成
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1881年
開拓使官有物払下げ事件
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
自由党結党、板垣退助が総理就任、後藤象二郎は常議員として参加
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1881年
大隈重信の周旋により岩崎弥太郎が後藤象二郎から高島炭鉱を買取る
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1882年
板垣退助遭難事件
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1882年
板垣退助と後藤象二郎が立憲政治視察のため渡欧、後藤が三井から受取った洋行費を散財し板垣の自由党総理を引責辞任
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1882年
福澤諭吉・慶應義塾派が立憲改進党を結成し大隈重信を党首に担ぐ
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1882年
朝鮮で壬午事変
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1882年
西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と井上馨が三菱潰しのため共同運輸会社を設立
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1882年
大隈重信が東京専門学校創立(早稲田大学)
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1882年
集会条例改定、自由民権運動が激化
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1882年
伊藤博文が立憲制視察のため渡欧
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1883年
板垣退助・後藤象二郎がヨーロッパ視察旅行より帰国、公金流用疑惑で自由党が分裂し板垣は総理辞任に追込まれる
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1884年
伊藤博文の計いで陸奥宗光がヨーロッパ遊学
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1884年
華族令公布
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1884年
松方デフレによる不況深刻化
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1884年
秩父事件
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1884年
朝鮮で甲申事変、自由党の板垣退助・後藤象二郎や福澤諭吉が金玉均の独立党を後援
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1884年
加波山事件、自由党が一旦解党
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1885年
福澤諭吉が「脱亜論」を発表
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1885年
大阪事件
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1885年
岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に東京六義園にて死去(享年51)、弟の岩崎弥之助が三菱を承継
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1885年
西郷従道農商務卿の和解勧告を岩崎弥之助が受入れ共同運輸会社が郵便汽船三菱会社を併合し日本郵船会社が発足
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1885年
第一次伊藤博文内閣発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)
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1886年
岩崎弥之助が三菱社設立
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1886年
民権諸派の大同団結運動が始まる(発起人の後藤象二郎は黒田清隆内閣に懐柔される)
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1887年
板垣退助が政府の要請を受入れ伯爵を受爵(後に孫の板垣守正が爵位を返上)
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1887年
後藤象二郎が伯爵を受爵
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1887年
徳富蘇峰が民友社結成、『国民之友』創刊
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1887年
保安条例
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1887年
鹿鳴館外交と条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞任、伊藤博文首相が兼務ののち大隈重信へ交代
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1888年
黒田清隆内閣発足、逓信大臣を餌に後藤象二郎を懐柔
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
民法典論争が起る
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1889年
大隈重信外相が玄洋社来島恒喜に襲撃される
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1890年
第一次山縣有朋内閣発足
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1890年
岩村通俊に代わって陸奥宗光が農商務大臣就任、陸奥は原敬を重用
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1890年
板垣退助が立憲自由党を再興
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1890年
第一回衆議院総選挙、民党が過半数を獲得
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1890年
第一回帝国議会開催
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1891年
板垣退助が自由党総理に復帰
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1891年
足尾銅山鉱毒事件
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1891年
第一次松方正義内閣発足、後藤象二郎が逓信大臣に就任
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1891年
内村鑑三不敬事件
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1891年
武市半平太(瑞山)・坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎に追贈正四位、武市は高知市武市邸跡地の瑞山神社に祀られる
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1892年
第二回衆議院総選挙、松方正義政府が大選挙干渉するも民党勝利
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1892年
第二次伊藤博文内閣発足、板垣退助が内務大臣・後藤象二郎が農商務大臣で入閣
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1894年
後藤象二郎が収賄事件により農商務大臣を引責辞任
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1896年
第二次松方正義内閣発足、板垣退助が内務大臣就任
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1896年
板垣退助に代わって樺山資紀が内務大臣就任
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1897年
板垣退助が自由党総理辞任
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1897年
後藤象二郎が死去し(享年60)青山霊園に葬られる、追贈正二位
後藤象二郎の交遊録
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山内容堂
主君
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山内豊範
容堂養嗣子の土佐藩主
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吉田東洋
義理叔父で大師匠
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板垣退助
新おこぜ組の同志
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福岡孝悌
新おこぜ組の同志
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小笠原唯八
新おこぜ組の同志
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岩崎弥太郎
便利な部下・三菱初代
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岩崎弥之助
娘婿・三菱2代目
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岩崎久弥
三菱3代目
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岩崎小弥太
孫・三菱4代目
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武市半平太
土佐勤皇党首領
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坂本龍馬
土佐勤皇党副首領・大政奉還の同志
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中岡慎太郎
土佐勤皇党員・板垣の盟友
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大石弥太郎
土佐勤皇党員
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間崎哲馬
土佐勤皇党員
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平井収二郎
土佐勤皇党員
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吉村寅太郎
土佐勤皇党員
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岡田以蔵
土佐勤皇党員の人斬り
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那須信吾
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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大石団蔵
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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安岡嘉助
土佐勤皇党員・吉田東洋暗殺の刺客
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土方久元
土佐勤皇党員
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田中光顕
土佐勤皇党員
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山内民部
武市派重臣
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小南五郎右衛門
武市派重臣
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清岡道之助
野根山屯集事件の首謀者
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佐々木高行
尊攘派の同僚
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谷干城
尊攘派の同僚
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長岡健吉
船中八策を書いた海援隊士
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陸奥宗光
超優秀な海援隊士
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中島信行
海援隊士から板垣舎弟
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勝海舟
坂本の大師匠
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大久保一翁
勝の盟友
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松平春嶽
福井国主
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島津久光
薩摩国主
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島津忠義
薩摩藩主を継いだ久光長子
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西郷隆盛
維新の三傑
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大久保利通
維新の三傑
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小松帯刀
薩摩の謀臣
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毛利敬親
長州の「そうせい侯」
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毛利定広
敬親養嗣子の長州藩世子
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久坂玄瑞
武市盟友
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高杉晋作
長州維新の英雄
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木戸孝允
維新の三傑
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周布政之助
長州の執政
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大村益次郎
長州の軍事指導者
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伊藤博文
長州閥だが大久保舎弟
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井上馨
伊藤親友
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山縣有朋
陸軍長州閥
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三条実美
長州系公卿
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姉小路公知
長州系公卿
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岩倉具視
薩摩系公卿
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青蓮院宮
軽口公家
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三浦休太郎
賠償金をせしめた紀州藩士
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徳川家茂
14代将軍
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徳川慶喜
大政奉還した将軍
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松平春嶽
慶喜の傅役
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松平容保
京都守護職で坂本・中岡暗殺の命令者
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松平定敬
容保実弟の京都所司代
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近藤勇
新撰組局長
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土方歳三
新撰組鬼の副長
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江藤新平
征韓派
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副島種臣
征韓派
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大隈重信
大久保舎弟
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大木喬任
大久保舎弟
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黒田清隆
入閣
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松方正義
入閣
後藤象二郎と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 50点
後藤象二郎は、義理叔父の山内容堂を暗殺した武市半平太を切腹させ土佐勤皇党を壊滅させたが、第二次長州征討で幕府権威が失墜すると図太くも武市門下の坂本龍馬・中岡慎太郎に急接近し海援隊・陸援隊で懐柔、土佐藩参政として山内容堂を動かし大政奉還建白に漕ぎ着けた。坂本龍馬の進言に従ったに過ぎないが、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通を相手に一時的とはいえ政局の主導権を握った手腕はなかなかであった。が、薩長の陰謀で幕府が戊辰戦争へ引きずり込まれ大政奉還は無効化、後藤象二郎は徳川家擁護に固執する山内容堂を翻意させることができなかった。土佐藩が「薩長土肥」に食込めたのは、戊辰戦争に独断参戦した板垣退助の功績である。
減点 -20点
後藤象二郎には大政奉還建白の他に大した業績は無い。特に維新後は新政府の首班に名を連ねながら泣かず飛ばず、同じく政争で下野し自由民権運動の旗手となった板垣退助・大隈重信とは段違いであった。さらに後藤象二郎は、親友の板垣退助とは正反対で金銭にだらしなく、公金を蕩尽した挙句に収賄事件を起し自滅した。後藤象二郎が土佐商会の責任者に抜擢した岩崎弥太郎は三菱財閥を興したが、後藤は下僚として便利遣いしただけでインサイダー情報提供くらいの貢献しかしておらず、晩年は娘婿の岩崎弥之助のお陰で貧窮を免れた。さらに、伯爵後藤家を継いだ嫡子の後藤猛太郎と孫の後藤保弥太も遊蕩で身を持崩し、妻に逃げられ「さすらいの子連れ伯爵」と世の嘲笑を浴びた保弥太は貧乏故に爵位を放棄した。華族制度に反対し自ら伯爵位を返上した板垣退助の家と好対照で、3代続いた狂気の遊蕩癖は後藤象二郎の不徳の致す処であった。