山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
後藤 象二郎
1838年 〜 1897年
30点※
後藤象二郎と関連人物のエピソード
- 後藤象二郎は、山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻させた。武市半平太に暗殺された土佐藩執政の吉田東洋は義理の叔父で、板垣退助は竹馬の友、下僚の岩崎弥太郎を商事に引込み弟の岩崎弥之助に娘を嫁がせた。中岡慎太郎の遺志を継いだ板垣退助が戊辰戦争に独断参戦し土佐藩は「薩長土肥」へ食込み、板垣退助と後藤象二郎は新政府首脳に採用されたが、明治六年政変で征韓派に属し下野、板垣は薩長藩閥に対抗すべく民衆を動員して自由民権運動を牽引し後藤も行動を共にした。良く言えば豪快な後藤象二郎は、豪遊で公金を散財し、高島炭鉱など事業で失敗を重ね借金まみれだった。板垣退助が立憲政治・議会制度視察のため洋行を志向し金策中との情報を得た山縣有朋は、陸軍省御用商人でもある三井の番頭に命じ2万ドルの大金をあるとき払いの催促なしで拠出させ、金を受取った後藤象二郎は板垣を促しヨーロッパへ旅立った。が、山縣有朋のリークだろう、洋行費が政府から出ているとの噂が立ち自由党内は騒然、後藤象二郎は2万ドルの件を隠し一人で費消したうえにシラを切り、板垣退助は支持者から3千ドルを借りて弁済にあてたが窮地に追込まれた。山縣有朋の分断工作は図に当り自由党は分裂、板垣退助の権威は失墜し総理の地位も失った(後に復帰)。伊藤博文が最初の内閣を発足した翌年、後藤象二郎は民権諸派に大同団結運動を提唱したが、次の黒田清隆内閣で逓信大臣の餌に飛付いて懐柔され、第二次伊藤博文内閣で農商務大臣に就くも収賄事件で引責辞任、60歳で生涯を閉じた。大町桂月は後藤象二郎を「たとえていえばナイル河の水で、氾濫して人びとをさわがせるが、土地を肥やしもする」と評したが、後半部分は三菱への便宜供与を指すかも知れない。新貨条例の施行を前に後藤象二郎から新政府が各藩札を買上げるとの情報を得た岩崎弥太郎は、10万両を調達し安値で買叩いた藩札を政府に転売して巨利を積んだというが、後藤の放漫経営で破綻した高島炭鉱を押付けられ(後に巨利を生むが)死ぬまでに相当な金を貢いだと考えられる。
- 山内容堂は、「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公である。西郷隆盛ら他藩士をも「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」と憤慨させた。12代土佐藩主の弟の子ながら嫡流が相次いで没し幸運にも土佐藩主となった。「鯨海酔侯」と豪傑を気取り学識も豊富な山内容堂は、織田信長に自己投影し中央進出を志したが襲封当初は家老連の圧迫で思うに任せず、吉田東洋に不遇を救われた。大目付の吉田東洋は、家老や家族の私生活をスパイし非行を見つけて失脚へ追込み、重臣に分散した権力を藩庁の直轄下におく中央集権化を断行、安政の大獄も追い風となり藩主専制を確立した。山内容堂は恩人の吉田東洋に藩政を託し(参政)吉田はよく期待に応えたが、特権を奪われた重臣連は吉田を憎み武市半平太の吉田暗殺に加担した。山内容堂は島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城と共に「四賢候」と称され将軍継嗣問題に乗出したが、書類作成や藩外折衝は専ら吉田東洋が担い、吉田の死で舵を失った。山内容堂は、武市半平太が長州藩と提携し「破約尊攘」運動を牽引すると気前良く外交を委ねたが、下克上に機嫌を損ね突如弾圧へ転換、第一次長州征討が起ると勇み足で武市を誅殺し土佐勤皇党を掃討した。が、長州藩では高杉晋作が功山寺決起で藩政を奪回し薩長同盟を結び第二次長州征討で幕府軍に完勝、慌てた山内容堂は後藤象二郎(吉田東洋の義理甥)を参政に任じ、後藤は坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込んで薩摩藩に接近し大政奉還建白で政局復帰を果した。が、武力討幕を期す薩摩藩は小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行、徳川家擁護を図る山内容堂は猛反発するが泥酔状態で遅参し暴言を吐いて自滅し、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても出兵を逡巡、板垣退助が土佐勤皇党の残党「迅衝隊」を率い独断参戦し土佐藩は辛くも「薩長土肥」に食込んだ。山内容堂は下克上の明治政府に馴染めず隠退、薩長専制に「武市半平太が生きていれば」と憤りつつも酒池肉林の生活を続け46歳で没した。
- 土佐藩を興した山内一豊は、父盛豊と主家(岩倉織田家)を滅ぼした織田信長に出仕し豊臣秀吉の庇護下で遠州掛川6万石に累進、妻の方が有名なくらい武勲は乏しいが、小山評定で福島正則の次に東軍参加を表明し掛川城の明渡しを申出たことで運が開け関が原合戦後に土佐20余万石へ大増封された(幕末には24万2千石)。感謝感激の山内一豊は徳川家康に「ご恩のほど子々孫々に至るまで申し伝えて、決して遺忘させません」と誓い、幕末に至るまで土佐藩は佐幕の気風を受継いだ。山内一豊は、領地の3倍増に見合う家臣を急募し浪人も多数召抱えたが、幕府を憚って長曽我部遺臣の採用を控え逆に弾圧しため大反発を招き、桂浜の相撲興行へ誘き寄せ73人を磔刑で虐殺したが火に油を注ぐ結果となった。2代藩主山内忠義の代となり執政に抜擢された野中兼山は、藩士登用を餌に原野を開放し開墾を奨励、応じた地侍の多くが「郷士」となり反抗は鎮まったが、正規藩士(上士)への配慮から身分差別を徹底し政治参加を著しく制限、郷士内に上級の「白札格」を設け分断を図った。郷士株は売買が認められ売って帰農した家は「地下浪人」と呼ばれた。後藤象二郎・板垣退助・福岡孝弟らは歴とした上士、吉田東洋と谷干城の家は長曽我部遺臣だが山内一豊に召出され上士、武市半平太は郷士で白札格へ昇格、坂本龍馬の本家才谷屋は豪商だが分家が郷士株を取得、逆に岩崎弥太郎の家は地下浪人であった。幕藩体制に虐げられ怨念を溜めた土佐郷士は幕末の尊攘運動へ飛付き、明治維新後の自由民権運動の土壌となった(土佐派)。一方、「四賢侯」に数えられた山内容堂と執政の吉田東洋は開明的で学識豊富ながら佐幕的公武合体論の枠に捕われ過激な尊攘思想を毛嫌いした。山内容堂・後藤象二郎(東洋の甥)は、武市半平太を殺し土佐勤皇党を根絶して吉田東洋暗殺に報いたが自ら中央政局への手蔓を絶ち、大慌てで脱藩浪士の坂本竜馬や中岡新太郎に接近して大政奉還建白の功を浚い徳川家の辞官納地に反対するも薩長は無視、板垣退助が独断で戊辰戦争に参戦し辛うじて「薩長土肥」の末席に滑り込んだ。
- 松下嘉兵衛は、家禄3千石の交代寄合衆(大名待遇の上級旗本)で山内家から分家同様の扱いをされた大物であった。江戸藩邸での酒宴の席、酩酊した松下嘉兵衛が吉田東洋を呼捨てにし頭を撫でてからかった。吉田東洋は抗議したが松下は調子に乗るばかり、相当酒が入っていた吉田は「無礼!」と叫ぶと続けざまに松下を殴りつけた。土佐藩主の山内容堂もさすがに庇い切れず、翌日土佐へ召還された吉田東洋は免職・格式没収のうえ城下と周辺四ヶ村への立入りを禁止され知行も50石削られ残る150石は嫡子の吉田正春に譲らされた。が、長浜に蟄居した吉田東洋は屈することなく研鑽を積み、藩庁に黙って少林塾を開き少年教育に勤しんだ。少林塾門人の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らは、藩政に復帰した吉田東洋の引立てで子飼官僚「新おこぜ組」の中核となり、吉田没後の土佐藩政を担った。後藤象二郎は吉田東洋の義理甥で、板垣退助とは竹馬の友であった。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 武市半平太(瑞山)は、剣術道場主から久坂玄瑞に啓発され「土佐勤皇党」を結成、吉田東洋暗殺で藩政を握り長州藩と連携して「破約攘夷」運動を牽引したが下克上を嫌う山内容堂に誅殺され土佐藩は中央政局から脱落した。文武両道の達人で謹厳実直、大柄で威厳も備えた武市半平太は、吉田松陰と西郷隆盛を兼ねたような絶対的存在だったが、「挙藩勤皇」に固執し大業を成す前に不肖の主君に殺された。白札格郷士の武市半平太は剣術家を志し21歳で高知城下の麻田直養に入門、皆伝を授かって剣術道場を開業し、江戸遊学を許され「江戸四大道場」の士学館に入門するとすぐに皆伝を授かり塾頭に任じられた。高知の武市道場は100人を超える門人で賑わい中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕も名を連ねた。武市半平太は、30歳過ぎまで勤王家の田舎道場主に過ぎなかったが、桜田門外の変で尊攘運動が沸立つと藩庁に願出て江戸へ出向し薩長の志士と交流、長州藩の久坂玄瑞に感化された。土佐へ戻った武市半平太は、門人を母体に「土佐勤皇党」を結成し、薩長土三藩主上洛の盟を果たすべく「破約攘夷」への藩論転換に奔走したが、執政の吉田東洋は「下級藩士や浪人共の騒動」と相手にせず、連絡係の坂本龍馬がもたらす久坂情報に焦った武市は吉田暗殺を決行した。吉田の専断を憎む重臣連を抱込み軽格ながら藩政を握った武市半平太は、晴れて京都政界へ乗出し久坂玄瑞の長州藩に合流、和宮降嫁を弾劾して岩倉具視を隠遁させ、将軍上洛と攘夷決行を促す勅旨を得て長州藩世子毛利定広の江戸下向に随い、岡田以蔵や田中新兵衛を操って天誅騒動を巻起し、攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を得て土佐藩主山内豊範の江戸下向を差配し、将軍徳川家茂の初上洛を実現させ攘夷決行の約束をとった。が、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の山内容堂は、郷士の台頭を嫌悪し土佐勤皇党の粛清を断行、佐幕派追放を図った平井収二郎・間崎哲馬を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し武市半平太を投獄、禁門の変で長州藩の尊攘運動が瓦解すると武市に「不敬罪」を着せ切腹させた。
- 武市半平太は、「身長六尺(182cm)、鼻高く、あご長く、眼中に異彩があり、顔面蒼白、深沈で喜怒色にあらわさず、音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があった」と評された偉丈夫で、性格は超真面目・謹厳実直・誠実の極みでほとんど笑ったことがなかったという。その威徳は薩摩藩の西郷隆盛と並び称され、土佐藩の志士は皆「オラ」「オンシ」と気さくに呼び合ったが武市半平太にだけは「先生」をつけたといい、ただ親友で土佐勤皇党の副首領格である坂本龍馬とは「アザ」(坂本は顔に数点のほくろがあった)「アゴ」(武市はアゴが長かった)と砕けた調子で親しんだ。そんな武市半平太だが幼時より絵心があり、徳弘董斎から南画・弘瀬友竹から和画を学び、武市が描いた巧みな文人画や美人画が現存する。また義太夫が上手だったというが、妻の富子によると「下手の骨頂」で真相は不明である。武市半平太をモデルにしたといわれる行友李風の戯曲『月形半平太』は、1919年の初公演以来大人気を博して映画化され「春雨じゃ、濡れてまいろう」の台詞で親しまれた。「月形」の方は福岡藩尊攘派(首領は平野国臣)の月形洗蔵からとったものと考えられる。
- 坂本龍馬は、土佐藩を脱藩して勝海舟に師事するが神戸海軍操練所の閉鎖に伴い薩摩藩の庇護下に入り亀山社中・薩長同盟に貢献、土佐藩に戻って大政奉還を差配し「世界の海援隊」を夢見たが暗殺された幕末一の人気者である。土佐藩郷士の次男で、18歳で江戸へ出て桶町千葉道場に入門し塾頭に進んだが、ペリー来航で尊攘運動に目覚め、武市半平太の土佐勤皇党に副首領格で加盟し久坂玄瑞への使者を務めた。吉田東洋暗殺で武市半平太は土佐藩政を握ったが、坂本龍馬は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂に絶望し島津久光の率兵上洛を機に脱藩、江戸の千葉道場に寄寓した。坂本龍馬は、脱藩浪士ながら政治総裁職の松平春嶽に拝謁し幕府軍艦奉行の勝海舟に入門、勝の口利で脱藩を赦され「神戸海軍塾」に同志を呼集めた。幕府は勝海舟に神戸海軍操練所の設立を許したが、塾生が池田屋事件・禁門の変に加わったため1年で廃止され勝は罷免された。土佐藩では山内容堂が武市半平太を誅殺し土佐勤皇党は壊滅、召還を拒否した坂本龍馬は再び脱藩の身となり、勝は坂本らを薩摩藩の小松帯刀に託し江戸へ去った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となったが、薩摩藩は西郷隆盛の宥和路線により出兵を拒絶し、長州藩の武器輸入を援けるためダミー会社「亀山社中」を設立し坂本龍馬に実務を委託、さらに坂本と黒田清隆を長州へ送って和解工作を進め薩長同盟を締結した。伏見寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負った坂本龍馬は鹿児島へ逗留した後、ユニオン号で馬関へ乗込み小倉渡海作戦に参加したが、長州藩勝利で亀山社中は役割を終えた。一方、長州藩の圧勝に慌てるも薩長に知己の無い土佐藩は、坂本龍馬・中岡慎太郎を懐柔し海援隊・陸援隊を提供、坂本は「船中八策」で後藤象二郎に大政奉還建白を促し薩土同盟で薩摩藩と協調、徳川慶喜は大政奉還に踏切ったが、武力討幕を期す薩摩藩は慶喜に辞官納地を強制し戊辰戦争に引きずり込んだ。開戦前夜、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都近江屋で見廻組に襲われ横死、海援隊は分裂解消したが商社機能は岩崎弥太郎の三菱へ志は陸奥宗光へ受継がれた。
- 坂本龍馬は、勝海舟に学んだ航海術と周旋の才を武器に幕臣や諸藩の志士と交流し、薩摩藩のエージェントとして薩長同盟の成立に貢献した。ただ、龍馬ファンには耳障りだろうが、薩長同盟と「裏書」のほかに大きな政治的貢献はなく、それとて主役は西郷隆盛・大久保利通と木戸孝允・高杉晋作であり、周旋の労は長州藩で重きをなした中岡慎太郎の方が大きかった。亀山社中は薩摩藩が長州藩に武器輸入の便宜を図るために設けたダミー会社、土佐海援隊は土佐藩による懐柔策である。本来政治活動家である坂本龍馬らの操船技術と商才は怪しいもので、「ワイル・ウエフ号」「いろは丸」を海難事故で失い、両社とも経営は火の車で海援隊の世話を押付けられた岩崎弥太郎は大いに苦労した。坂本龍馬は、土佐藩執政の後藤象二郎に大政奉還建白を促し薩長志士に周旋して土佐藩の中央政局復帰に貢献したが、大政奉還論は坂本龍馬のオリジナルではなく幕臣の勝海舟や大久保一翁すら主張した時流であり、戊辰戦争勃発で薩長の機先をかわす効果も得られなかった。「船中八策」は中央情勢に疎い後藤象二郎ら土佐藩士には画期的だったろうが、民主主義の元祖である横井小楠ら福井藩士や進歩派知識人が共有していた政治思想の域を出ず、さらに作成者は海援隊士の長岡健吉とされる。坂本龍馬が有名になったのは、田中光顕と司馬遼太郎のお陰である。日露戦争開戦前夜、美子皇后の枕頭に白装束の武人が立ち自分が日本海軍を守護すると言った。不思議に思った皇后が宮内大臣の田中光顕に語り、それは坂本龍馬に違いないということになった。田中光顕は、土佐勤皇党から中岡慎太郎に随身して陸援隊の幹部となり、明治政府で土佐人の佐々木高行・土方久元と共に宮廷政治を主宰した人物。薩長の専横に対抗するため坂本龍馬を持ち出したと思われ、皇后の夢が「陸軍人」なら兄貴分の中岡慎太郎に代わっていただろう。司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の作者で、過剰な感情移入により坂本龍馬を幕末の主人公に仕立て上げた。
- 中岡慎太郎は、武市半平太の「土佐勤皇党」から長州藩尊攘派に合流し浪士群を率いて高杉晋作の功山寺挙兵や薩長同盟に大活躍、薩土密約と陸援隊で武力討幕に備えたが戊辰戦争直前に暗殺された幕末浪士随一の殊勲者である。遺志を継いだ板垣退助が独断参戦して薩土密約を果し土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。中岡慎太郎は、北川郷の大庄屋の嫡子ながら17歳で武市半平太の尊攘運動に身を投じ、長州藩の久坂玄瑞と共に「破約攘夷」を牽引する武市が山内容堂・豊範の江戸下向を実現させると、発奮した中岡は「五十人組」を率いて江戸へ突出、長州藩士との出会いを果し帰路は久坂に随行したが、間もなく八月十八日政変が起り破約攘夷運動は瓦解した。土佐へ戻った中岡慎太郎は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂を見限り脱藩、三条実美ら七卿の在す周防三田尻へ参じて真木和泉の「招賢閣」浪士に身を投じ、上洛出兵を扇動し来島又兵衛の遊撃隊に従い奮闘したが長州藩は大敗し真木・久坂らが戦死した(禁門の変)。中岡慎太郎は、京都に潜伏し高杉晋作から受継いだ島津久光襲撃の機を窺うも果たせず三田尻へ帰還、征長軍全権の西郷隆盛と協力し大宰府への「五卿遷座」を遂行した。そして高杉晋作の功山寺決起、応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであったが、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦し長州藩軍を撃破、高杉は政権奪回を果し木戸孝允が執政に座った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となり、中岡慎太郎は京都・鹿児島を奔走し西郷隆盛に木戸孝允との下関会談を了承させるも急遽取止め、中岡は坂本龍馬と共に憤慨する長州藩士を宥め再び上京して西郷を口説き、高杉晋作・井上馨が渋る木戸を上京させ薩長同盟が実現した。長州藩が四境戦争に勝利すると、慌てた土佐藩は中岡慎太郎と坂本龍馬を懐柔、後藤象二郎は坂本が勧めた大政奉還建白で面目を施した。武力討幕を志す中岡慎太郎は、西郷隆盛と板垣退助の薩土密約を斡旋し京都土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を発足させたが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に斬殺された。
- 中岡慎太郎は、17歳で武市半平太の剣術道場に入門し土佐勤皇党へ加盟、若輩で庶民の出自(大庄屋の豪農だが)ながら頭角を現し、脱藩後は長州藩に参集した浪士団に加わり大物志士の真木和泉・宮部鼎蔵らと肩を並べた。八月十八日政変・七卿落ち後の長州藩で浪士団は隠然たる勢力を占め過激路線を牽引、中岡慎太郎は禁門の変や馬関戦争で実戦を闘い、第二次長州征討では三条実美ら五卿の座す大宰府を拠点に西郷従道や吉井友実と連絡し長州藩の苦戦に備え薩摩藩の援軍工作に任じた。配下の田中光顕は高杉晋作の「丙寅丸」に同乗して大島海戦を戦い小倉城攻撃でも武功を挙げている。中岡慎太郎の最大の功績は、高杉晋作の功山寺挙兵に率先加わったことだろう。後に解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦したが、当初決起に応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであった。藩政奪回の功労者となった中岡慎太郎は、木戸孝允・高杉晋作に薩長和解を説いて「薩賊会奸」を忘れさせ、土佐浪士という中立的立場を活かして西郷隆盛の懐に飛込み薩長同盟の周旋役を果した。薩長和解自体は時代の要請だが、この時機を逃すと第二次長州征討で長州藩が敗北し歴史が変わったかも知れない。その後の中岡慎太郎は、乗遅れた土佐藩を中央政局へ導いて薩長陣営(武力討幕勢力)への抱込みを図り、板垣退助を啓発して薩土密約を結ばせ、京都土佐藩邸に浪士を集め討幕戦に備えた(陸援隊)。なお、薩長同盟といえば坂本龍馬が有名だが、坂本はもともと勝海舟の子分で、神戸海軍操練所の閉鎖に伴い勝が薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀に坂本ら門人の庇護を頼んだのが事の起りで、亀山社中は長州藩への輸入武器供与のために薩摩藩が設けたダミー会社であった。自由闊達な坂本龍馬は土佐藩に金を出させて世界の海援隊を志したが、薩摩藩での重みは長州藩における中岡慎太郎とは全く異なった。
- 江戸で薩長の志士と交流し長州藩尊攘派を率いる久坂玄瑞に感化された武市半平太は、土佐藩も薩長に負けず挙藩体制で尊攘運動に乗出すべく門人らを糾合して「土佐勤皇党」を結党した。武市半平太が首領、坂本龍馬が副首領格で、大石弥太郎・間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村寅太郎・那須信吾・田中光顕・土方久元・岡田以蔵らが名を連ね最終的に192人が加盟したが、上士は2人だけで他は郷士以下の身分だった。土佐勤皇党の絶対的領袖である武市半平太は、志士の間で久坂玄瑞を最も尊敬し、遅れて中央政局に出た土佐藩は長州藩の「破約攘夷」「草莽崛起」運動に追随し京都に「天誅」旋風を巻起すなど最も過激に活動した。久坂が武市へ宛てた手紙には(坂本龍馬が両雄の連絡役を務めた)、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」が明記されている・・・「諸侯たのむに足らず、公卿もたのむに足らず、草莽の志士を糾合して義挙のほかに道はないと、私共話し合っています。失礼ながら貴藩も幣藩も滅亡しようと、大義が生かされれば苦しからず、両藩生きながらえても、大義が貫かれなくては無意味だと、友人たち話しています。」。武市半平太と久坂玄瑞の運動は、江戸幕府への勅使派遣で最高潮を迎えたが、八月十八日政変で一夜にして瓦解、自藩に退いた両名は失地回復かなわず共に非業の死を遂げた。
- 薩長の動きに追いつこうと焦る武市半平太は、藩主山内豊範の参勤交代出立に際し遂に挙藩勤皇を阻む吉田東洋の暗殺を決断した。武市は、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の3人を刺客に定めて隙を探らせ、重臣の山内民部に暗殺計画を告げて挙行後の対処を依頼、東洋が藩主に『日本外史』の講義をした帰路を襲うことに決し那須らを差し向けた。暗殺現場は凄惨であった。真暗な闇夜で、東洋が城を退出したのは10時過ぎ、供をしていた甥の後藤象二郎と別れた後、帯屋町の自宅付近で那須が後ろから切りつけた。吉田は持っていた傘を投げつけ「不届き者!」と連呼しながら猛然と反撃したが、安岡の背後からの一刀が致命傷となり「無念!」と一声あげて斃れた。那須らは吉田の首級を河野万寿弥ら同志に渡し、脱走して周防三田尻に向かった。吉田の首級は高知西部の雁切河原の高札場に斬姦状をつけて晒された。犯行後、新おこぜ組(後藤象二郎・板垣退助など)ら東洋派と土佐勤皇党は一触即発の事態となったが、吉田の専断を憎む山内民部ら重臣の多くが武市を支持し東洋派を一掃、武市が白札郷士小頭の卑職ながら土佐藩政を掌握することとなった。吉田家は家名取潰しとなり、暗殺事件は不問にふされた。
- 吉田東洋を暗殺した武市半平太は重職連を懐柔し後藤象二郎ら「新おこぜ組」を排斥したが、身分の低い岩崎弥太郎は連座を免れ下横目に補され吉田暗殺犯の捜索を命じられた。軽輩揃いの土佐勤皇党の捜査に同じ郷士をもってあたらせるという岡引き式の追捕策であった。岩崎弥太郎は藩主山内豊範の随員に加えられ上方へ上ったが、端から気乗り薄で故意か偶然かミスを犯し土佐へ召還された。同役で熱心に職務を遂行した井上佐市郎は、中岡慎太郎らの襲撃をかわすも大阪で岡田以蔵の一味に捕まり絞殺、筆舌に出来ないほど無残な方法で死骸を晒された。危うく難を逃れた岩崎弥太郎は、藩職を辞して井ノ口村へ戻り猛然と農業に励んだ。安芸川の両岸に広がる荒野を開墾し、綿栽培を興し、林業と薪炭製業を企画して山林を取得、帰国3年後に長男の岩崎久弥が誕生する頃には貧乏だった岩崎家は富豪となっていた。
- 薩摩藩・長州藩・土佐藩が参集した京都は尊攘派志士のルツボとなり「天誅」と称して開国主義者や公武合体派を殺傷する事件が頻発、なかでも薩摩藩の田中新兵衛と中村半次郎・熊本藩の河上彦斎・土佐藩の岡田以蔵の四人は「人斬り」と呼ばれ恐怖の対象となった。岡田以蔵と田中新兵衛は武市半平太の影響下にあり(岡田は子分で田中は義兄弟)、武市は「攘夷の元締め」「暗殺問屋」と恐れられ暗殺を依頼する公家もあったという。田中新兵衛は長州系公卿の姉小路公知の暗殺嫌疑を掛けられ割腹自殺(朔平門外の変)、中村半次郎(桐野利秋)は薩摩「私学校党」の主戦派で西郷隆盛と共に西南戦争で戦死、佐久間象山を斬殺した河上彦斎は明治政府に反抗し斬刑に処された。岡田以蔵は、高知城下の麻田直養の剣術道場で武市半平太と出会い武市道場へ移籍、足軽の出自を蔑まない武市の信奉者となり土佐勤皇党に加盟した。武市半平太は岡田以蔵の激しく敏捷な剣法を評価し、岡田は志士仲間に認められたい一心で田中新兵衛と競うように暗殺を繰返した。武市半平太が山内容堂に召還されると、袂を別ち京都に残った岡田以蔵は単なる狂犬となり、遊郭に入浸りで身を持崩し、坂本龍馬ら同志からも見放され(岡田は坂本の依頼で勝海舟の用心棒を務めた)、遂に盗賊に落ちぶれて強盗を犯し幕吏に逮捕された。土佐藩へ送還された岡田以蔵は、志士時代に追い求めた「武士の誇り」の欠片もなく、拷問に怯えて武市半平太と土佐勤皇党の所業を洗いざらい自白したのち「無宿人以蔵」として斬首された。
- 武市半平太の土佐藩と久坂玄瑞・木戸孝允の長州藩が連携して朝廷に工作し攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使を得て江戸の幕府へ派遣した。正使三条実美・副使姉小路公知を奉じ、土佐藩主山内豊範が警護役として兵数百人を率いて江戸に入り、幕府に破約攘夷の早期実行と京都警護の御親兵提供を迫った。破約攘夷は誤魔化したが幕閣は丁重に対応し、、御親兵提供については実施を約束した。これを受けて京都守護職に任じられた会津藩主松平容保が藩兵と新撰組を擁して京都に駐留し志士狩りを断行、尊攘派は自ら宿敵を呼込む最も皮肉な結果となった。
- 山内容堂は、佐幕的公武合体から逸脱した武市半平太ら土佐勤皇党の暴走と京都での天誅騒ぎに不快感を募らせ、恩人で腹心の吉田東洋を殺した恨みも忘れていなかった。そんな折に青蓮院宮が平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太に藩政改革を促す令旨を与えた一件を軽率にも暴露し山内容堂は土佐勤皇党の粛清を決断、土佐へ戻った容堂は、平井ら3人を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し、武市半平太を京都から呼戻して獄に繋ぎ厳しく尋問した。武市の身を案じる久坂玄瑞は長州藩への亡命を勧めたが、武市は断り「挙藩勤皇」の初志を貫徹するため従容と帰国の途についた。盗賊に落ちぶれ武士の誇りを失った岡田以蔵は拷問に怯え自供したが、武市半平太らは結束し断固否認を続けたため吉田東洋暗殺の罪状を明らかにすることはできなかった。業を煮やした山内容堂は「主君に対する不敬行為」という曖昧な罪を押し着せ断罪、武市半平太を切腹・岡田以蔵ら4名を斬首・9名を永牢に処した。武市半平太は三度腹を切り裂く「三文字割腹法」で見事な最期を遂げた。生残った志士らもほとんどが土佐藩を脱藩し土佐勤皇党は壊滅、武市半平太が志した「挙藩勤皇」の夢は費え去り、自ら薩長への手蔓を絶った土佐藩は時流に取り残された。
- 第二次長州征討を前に長州藩が生残る道は薩長同盟しかなかったが、政府首脳の木戸孝允は禁門の変の恨み「薩賊会奸」に感情を捕われ西郷隆盛が下関会談を反故にし面子を潰された一件を言い募り上洛を逡巡した。現実的な高杉晋作は「薩摩の芋が何を」と言いつつも藩論を薩長和解に纏め、長州藩主毛利敬親に受けの良い井上馨の奔走で藩命を取付け、高杉を代役に立てようとする木戸に対し「木戸さん1人が殺されても長州藩は問題ない」と突撥ね背中を押した。会津藩兵・新撰組が厳重に警護する京都に潜入した木戸孝允は、京都の小松帯刀邸で西郷隆盛・小松帯刀と会談し軍事同盟たる薩長同盟を締結した(攻守同盟だが第二次長州征討について薩摩藩は表面上中立を保ち後方支援に留める)。土佐浪士の坂本龍馬は薩摩方・中岡慎太郎は長州方として両藩の斡旋に奔走、薩長同盟の場に同席した坂本は木戸の要請で約定書に裏書した。浪人で薩摩方の坂本に担保力は無く、非命に散った武市半平太や吉村寅太郎に報いるためか、土佐藩の参加を含んだものと考えられる。実際この直後に土佐藩は、中岡慎太郎の斡旋で板垣退助・谷干城が薩土密約を、坂本龍馬の仲介で後藤象二郎が薩土同盟を結んでいる。薩土同盟は大政奉還と共に無視されたが、板垣退助は独断で戊辰戦争に賛成し薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の末座に滑り込んだ。中岡慎太郎は三条実美ら五卿の世話を焼くため大宰府に行っており会盟の場面に立会えなかったが、同志の福岡藩士早川勇曰く・・・「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというても過言でないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州藩の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおり、ことに遊撃隊に身をおいてその苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国にかえった後に長州に来た人であるから、どれだけの功労があったか知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」。
- 徳川慶喜の策動により第二次長州征討が勃発し幕府軍は芸州口・石州口・大島口・小倉口から山口へ進軍したが(四境戦争)、山陽道を守る高杉晋作の軍艦奇襲により大島口から撃退され、山陰道では大村益次郎が浜田城を攻落し石州口を封鎖した。小倉口が決戦場となったが、作戦上の意見対立から熊本藩兵が戦線離脱し、大阪城に陣取る将軍徳川家茂の急死を知った小倉藩主・老中の小笠原長行は本営を抜け出し長崎へ逃走、孤立した小倉藩兵は自ら城に火を放ち小倉城は落城、長州藩の勝利が決定的となった。家茂から徳川家の家督を継いだ徳川慶喜は、自身の長州大討入りを宣言したが小倉城陥落を知り断念した。徳川慶喜から講和交渉を一任された勝海舟は、安芸厳島へ赴き長州藩代表の井上馨・広沢真臣と会談し止戦協定を結んだが、徳川慶喜は二面外交の策を弄し朝廷に工作して征長停止の停戦の勅命を得たうえ小栗忠順が推進するフランスとの同盟(売国的条件による借款と軍事支援)に飛付いた。決死の覚悟で敵地に乗込んだ勝海舟は激怒し辞職願いを叩き付けて江戸へ帰った。翌年長州藩は小倉藩とも講和し完勝で四境戦争を終結、武力政権たる徳川幕府の権威は地に落ちたが、面従腹背の徳川慶喜はフランスを頼りに巻返しを図った。戦勝の立役者である高杉晋作は、病身に鞭打ち最前線で戦闘指揮にあたったが肺結核の病状が悪化、小倉城陥落を見届けると遂に動けなくなり、井上馨や伊藤博文に「ここまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」の言葉を遺し27歳の若さで病没した。山縣有朋は結核の感染を恐れ見舞いを避けたという。
- 第二次長州征討の最中に大阪城に陣取る将軍徳川家茂が急逝、徳川慶喜は喪を秘して戦争を継続し自ら出馬すべく「長州大討入り」を勇ましく宣言し、孝明天皇に頼み岩清水八幡宮への戦勝祈願までやらせた。が、小倉城陥落の敗報を聞くとあっさり進発を撤回し薩長に近い勝海舟に講和交渉を命令、直後に孝明天皇が崩御した。孝明天皇は、病的な外国人嫌いだが長州藩の過激な尊攘運動を嫌い徳川慶喜に好意的で禁門の変や長州征討を支持し続けた。徳川慶喜は大きな後ろ盾を喪い、14歳で即位した明治天皇は後に岩倉具視ら薩長派公卿の傀儡となる。さて、嗣子の無い将軍徳川家茂は、江戸を発つとき万一のときには田安亀之助(徳川家達)を跡継ぎにと言い残したが、老中の板倉勝静や小笠原長行は3歳の将軍では難局に対処できないとして徳川慶喜に将軍就任を要請した。徳川慶喜は「将軍継嗣問題のとき野心を疑われて不愉快な思いをした。いま将軍職を引受ければ、その悪評を裏付けることになろう」などと逡巡、このため先ず徳川宗家のみを相続し4ヶ月の間をおいて孝明天皇の説得により将軍就任という体裁をとった。徳川慶喜の説得にあたった松平春嶽は「ねじあげの酒飲み」(口ではもう飲みたくないといいながら、杯を勧めないと機嫌が悪くなり、結局はまた飲む)と評している。徳川慶喜は将軍就任に際し側近に王政復古を匂わせる発言をし諌められたともいわれる。
- 第二次長州征討で幕府権威は失墜し諸藩は動揺、土佐藩でも、再び勤皇派の人士を登用し薩摩藩に接触して真意を探るなどの動きをみせたが、武市半平太と土佐勤皇党を葬ったことで薩長志士人脈を失い自力で中央政局に復帰する力を欠いていた。慌てた執政の後藤象二郎は、長崎で福岡孝悌と会談し(共に吉田東洋門下の新おこぜ組)薩摩系の坂本龍馬と長州系の中岡慎太郎の起用を決定、両者の脱藩罪を赦免し志士活動後援で懐柔し、坂本・中岡は旧怨を忘れて周旋に協力した。坂本龍馬の亀山社中は、薩長同盟締結に伴い薩摩藩での役割を失い、海難事故もあって経営は破綻に瀕しており、土佐藩の援助は渡りに船だった。土佐藩の傘下に改めて発足した海援隊は、菅野覚兵衛・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・坂本直・長岡謙吉・中島信行ら土佐浪士に陸奥宗光ら神戸海軍操練所出身者を加えた50人ほどの組織であった(坂本龍馬の暗殺後、土佐藩は求心力を失い分裂した海援隊を解散し、土佐藩の商社機能は土佐商会へ引継がれ主宰の岩崎弥太郎が独立し三菱財閥へ発展)。坂本龍馬の差配で薩土同盟を結び将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した土佐藩と後藤象二郎は穏健な王政復古路線の主役に躍り出たが、薩長と共に武力討幕を期す中岡慎太郎は、同志の板垣退助(新おこぜ組)に西郷隆盛と薩土密約を結ばせ、土佐藩に京都藩邸と資金を拠出させ浪士群を集めて陸援隊を結成したが、開戦直前に坂本龍馬と共に見廻組に暗殺された。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通は岩倉具視と結んで朝廷を掌握し山内容堂の猛反対を抑えて辞官納地を断行、討幕の密勅で大政奉還を有名無実化して戊辰戦争の火蓋を切った。徳川家擁護に固執する山内容堂と後藤象二郎は動けなかったが、中岡慎太郎の遺志を継ぐ板垣退助は急ぎ洋式銃器を購入し土佐勤王党系人士を糾合して迅衝隊を結成、独断で戊辰戦争に参戦した。東山道軍の参謀に就いた板垣退助は軍事的才能を発揮、甲州勝沼の戦いで近藤勇ら新撰組残党を撃破し、会津若松城攻略で東北戦争の殊勲者となり、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 開成館は、遅ればせながら富国強兵に目覚めた土佐藩が1866年に設立した巨大機関で、軍艦・貨殖・捕鯨・税課・鉱山・火薬・鋳造・原泉(貨幣鋳造)・医局(漢方)・訳局(洋書翻訳)の部局からなり、山内容堂の命を受けた後藤象二郎が藩政改革の旗振り役となり財政・軍備・藩営事業などの諸機能を全てここに統合した。貨殖局は特に重要で、樟脳など土佐藩物産の振興と外国輸出、獲得した外貨での武器輸入を目的とし、長崎・大阪・兵庫に出張所が置かれた。洋式軍備の調達を急ぐ後藤象二郎は、藩交易を活性化すべく長崎へ赴くも大雑把な性格で商才は皆無、下僚の岩崎弥太郎を呼出して丸投げした。貨殖局勤務を命じられた岩崎弥之助は「小鳥の餌鉢をこね回すようなせこい仕事だ」と嫌がり僅か40日間で辞職したが、後藤象二郎の命令で長崎出張所(土佐商会)に引張り出されると外国人の懐柔と強談判で忽ち頭角を現し主任に上って業務を差配、金喰虫である坂本龍馬の土佐海援隊の会計係も押付けられた。明治維新後、岩崎弥太郎は事業より政治を志し後藤象二郎に新政府への斡旋を嘆願したが、後藤は便利な土佐藩の経済官僚を失うのを嫌い無情にも却下した。土佐商会が大阪商会、九十九商会、三川商会へ改組するなか岩崎弥太郎は商事に励みつつ猟官運動を続けたが、1873年政治への夢をきっぱり諦め自らの資本で三菱商会を設立した。後藤象二郎から長崎へ呼出されたことが岩崎弥太郎の人生最大の転機となり、三菱財閥の起点となった。一方の後藤象二郎は、板垣退助の自由民権運動に従うも大臣ポストに釣られて薩長藩閥に懐柔され、「官有物払い下げ」で高島炭鉱を得るも放漫経営により僅か2年で経営破綻させ岩崎弥太郎に買取らせ、借金漬けになっても豪遊を続けた。三菱の金をあてにする後藤象二郎は娘の早苗を岩崎弥之助(弥太郎の弟で三菱2代目)に嫁がせたが、愛想を尽かした岩崎弥太郎は板垣・後藤の自由党ではなく大隈重信(実は福澤諭吉)の立憲改進党に肩入れし資金源となった。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 土佐藩の貿易商社「土佐商会」(開成館長崎出張所)は、兵庫開港に伴い「大坂商会」(大坂出張所)へ移され、廃藩置県により民間会社「三川商会」へ改組されたが、実態は幕末から一人で切盛りしてきた岩崎弥太郎の個人経営であった。岩崎弥太郎は、維新直後は政治家を志し上司の後藤象二郎を通じて明治政府に猟官活動を展開したが断念、三川商会を名実共に岩崎家の私企業である「三菱商会」へ改組し以後は商事に専念した。三菱商会は、膨大な設備投資を要する海運業を主体としたため当初は弱体であったが、岩崎弥太郎の外国人脈に基づく豊富な資金力と徹底した低価格・サービス戦略により、僅か一年ほどで三井・鴻池・島田・小野ら政商連合が設立した国策会社「日本国郵便蒸気船会社」と肩を並べるまでに急成長、「士族商法」で破綻した官有物払い下げ事業を吸収し鉱工業などへも手を広げた。なお、今も三菱のシンボルマークである「スリーダイヤモンド」は、岩崎家の家紋「三階菱」と山内家の家紋「三つ柏」を融合し図案化したものである。
- 岩崎弥太郎は、海運業のほか、鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などにも手を広げたが、若い頃に米相場で失敗したのに懲りて海運業以外の事業については消極的で慎重だったという。高島炭鉱は、「官有物払下げ」で取得した後藤象二郎が放漫経営により破綻させた事案で、岩崎は「なぜ俺が後藤の尻拭いをしなくてはいかんのだ」と激怒しつつ参議筆頭大隈重信の仲立ちで不承不承引受けたのだが、2代目岩崎弥之助の経営で日本有数の大鉱山となり三菱の主要な資金源となった。
- 政府は台湾出兵に係る海上輸送業務を国策会社「日本国郵便蒸気船会社」に依頼したが拒否され、やむなく依頼した三菱の岩崎弥太郎は即決快諾し社運を賭けて協力した。郵船は大量の保有船舶を回す間に国内輸送シェアを三菱に奪われることを危惧したというが、経営母体である三井などの政商は井上馨ら長州閥と昵懇で、台湾出兵に反対し下野した木戸孝允に気兼ねしたとも考えられる。一方、岩崎弥太郎が「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである。しかし凡人はこれを捕えずして逸してしまう。これを捕捉するには、透徹明敏の識見と、周密なる注意と、豪邁なる胆力が必要である。」と物語ったように三菱にとって台湾出兵は飛躍への画期となった。感謝した大久保利通は「政府の保護のもと民間会社を育成し、この会社に海運事業を一任する」という一社独占による海運業振興策を採用し三菱商会を「保護育成会社」に指定、大久保の意を受けた駅逓頭の前島密は「第一命令書」を交付し「政府の依頼を優先し航路開設の命令に応じる見返りとして、台湾出兵時に貸与した政府船10隻に2隻を加えた12隻を無償貸与し年間25万円の運航費助成金を与える、1年間の試用期間を経て15年間継続」という大盤振る舞いを約束、更に大久保政府は非協力的と断じた郵船を解散させて三菱に引継がせ(郵便汽船三菱会社へ改称)、岩崎弥太郎には民間人異例の勲四等旭日小綬章のオマケも付けた。政府の12隻と郵船の18隻を合わせ三菱の保有船舶は40隻に膨らみ全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」が出現、西南戦争でピークを迎えたが、大久保利通の暗殺で岩崎弥太郎は政界の後ろ盾を失い大隈重信(福澤諭吉)の立憲改進党に肩入れしたことで薩長藩閥の猛反撃に遭遇、弥太郎の憤死に伴い弟の岩崎弥之助は海運業からの撤退を選択した。
- 開拓使長官の黒田清隆が、開拓使に属する事業や施設を不当な廉価で薩摩系政商の五代友厚らへ払下げようとしていることが発覚(約1400万円を投じた官有事業が約39万円と「簡保の宿」より酷い安値、しかも支払い条件は無利息30年割賦)、民権派新聞の糾弾で払下げは中断され藩閥専制への批判が沸騰した。「維新の三傑」没後、佐賀藩出身の大隈重信が主席参議に推されたが薩長平等の建前を保つため担がれたに過ぎず政権基盤は脆弱だった。大隈重信は伊藤博文・井上馨と親密で長州閥を後ろ盾に出世の階段を上ってきたが国会開設問題で暴走し信用を喪失、その矢先に開拓使官有物払下げ事件が起り福澤諭吉ら民権派に煽てられた大隈は黒田清隆を非難したため情報リークを疑われ薩摩閥からも見放された。黒田清隆・西郷従道は即座に報復へ動き伊藤博文・井上馨と提携して明治天皇臨席の緊急閣議を開催、大隈重信の参議職を罷免し大隈派の官僚群を追放するクーデターを決行した(明治十四年の政変)。これにより完全な薩長藩閥政府が現出したが、首班の伊藤博文は薩長の「超然主義」の限界を悟り自由民権運動との協調を図るべく官有物払下げの中止を発表したうえ「国会開設の詔」で憲法制定および10年以内の国会開設を国民に約束、民権派は沸立ち板垣退助は自由党を結成し、下野した大隈重信は福澤諭吉・慶應義塾派が結成した立憲改進党の党首に担がれた。黒田清隆・西郷従道ら薩長閥の矛先は大隈重信の資金源である岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社へ向けられた。
- 西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と「三井の番頭」井上馨の主導により、政府出資に加え渋沢栄一・益田孝・雨宮敬次郎・大倉喜八郎・川崎正蔵ら主要財界人から出資を募り資本金600万円で「共同運輸会社」が設立された。社長・副社長はじめ多くの海軍人が送込まれ事実上海軍の一部ともいえる組織であり、国家規模の露骨な三菱潰しに岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社は存亡の淵に立たされた。当時、岩崎弥太郎が後援する大隈重信の立憲改進党と板垣退助の自由党は対立しており、自由党系の新聞が「海坊主退治、偽党撲滅」の論陣を張ったため世論も三菱に冷淡だった。共同運輸との熾烈な顧客争奪戦はタダ同然の廉価競争へ陥り三菱の海運収益は3年で半減、西郷従道はしぶとく抵抗を続ける岩崎弥太郎を国賊呼ばわりしたが岩崎は「俺を国賊と呼ぶのか。ならば俺も所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼払い、残りの財産は全部自由党に寄付してやる。そうなれば、薩長藩閥政府はたちまちにして転覆するだろう」と放言した。が、共同運輸側も業績悪化で無配に陥り、現場で凌ぎを削る両社船舶の衝突事故が発生、政府内でも厭戦ムードが濃くなった。死闘のなか岩崎弥太郎は胃癌の悪化で壮絶死、後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して「日本郵船」が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助は残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、晩年には日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 岩崎弥之助は、兄の岩崎弥太郎が興した海運業を日本郵船に引渡したが、膨大な遺産を元手に鉱山買収と造船業を核に多角的経営を成功させ短期間で三菱財閥の礎を築いた敏腕経営者である。出発時の事業は銅山(吉岡銅山)・水道(千川水道会社)・炭鉱(高島炭鉱)・造船(長崎造船所)・銀行(第百十九銀行)の5部門で、「三菱社」を設立した岩崎弥之助は唯一まともな吉岡銅山から手を付けた。東大出身者を鉱山長に迎え最新の採掘・精錬法と設備の導入で吉岡銅山の産出量は倍増、並行して短期集中的に鉱山買収を推進し、興共・瀬戸・樫村、尾去沢・大葛・細地・槙峰・多田・木浦・佐渡・生野を獲得した三菱は日本屈指の金銀銅メーカーへ躍進した。岩崎弥之助は炭鉱にも注力し、最新技術で高島炭鉱を優良化させ、新入・鯰田・碓井・佐与・上山田・方城・古賀山・端島・油戸を相次いで買収、三菱の国内産出シェアは1割に達した。さらに岩崎弥之助は製造業にも手を広げ、政府のお荷物だった長崎造船所を45万9千円で譲受けると、外国人技師と大卒技術者を雇用し、多数の社員をイギリスへ派遣して本場の造船技術を習得させ、日本一の技術力を得て6000トン級巨船の建造に成功した(日本郵船「常陸丸」)。三菱は新たに神戸造船所を開設し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫した。岩崎弥之助は、海運業特化で失敗した岩崎弥太郎の轍を踏まぬよう主力の鉱業・造船のほか倉庫・保険・銀行・不動産・農場(小岩井農場)など多種多様な事業を展開、日本郵船も三菱傘下に取戻した。「丸の内の大地主」三菱地所の創業者もまた岩崎弥之助であり、丸の内一帯10万余坪の土地を128万円の巨費を投じて陸軍省から買取り、コンドル設計の「三菱第一号館」を皮切りに近代的オフィスビルを次々と建設し「日本初のオフィス街」を現出させた。「三菱合資会社」への改組を機に岩崎弥太郎の遺言に従い岩崎久弥に三菱3代目を禅譲した岩崎弥之助は、三菱の政治的基盤を固めるため各派閥への全方位外交を展開、松方正義と大隈重信を仲立ちして「松隈内閣」を成立させ紐帯として日銀総裁に就き、大隈の東京専門学校を援助し早稲田大学へ昇格させた。
- 岩崎弥之助は、生来素直で温厚沈着な性格で、豪放磊落で敵だらけの岩崎弥太郎とは対照的だった。三菱を継いだ岩崎弥之助は、海運業独占で排除された岩崎弥太郎の特化路線を捨てて鉱山・造船・不動産・銀行など多角化戦略に切替え、大隈重信への肩入れが過ぎて薩長閥に潰された弥太郎を反面教師に政界で全方位外交を展開した。大隈重信の進歩党を支援しつつ、岳父の後藤象二郎と自由党を応援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘の繁子を嫁がせ薩摩閥にも食込んだ。また、東大法学部率のエリート外務官僚である加藤高明や幣原喜重郎を青田買いし、それぞれに弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期戦略で三菱勢力の政界浸透を図った。三菱合資会社への改組を機に三菱3代目を岩崎久弥に禅譲した後、岩崎弥之助は政界活動に本腰を入れ、大隈重信と松方正義の間を取持って第二次松方正義内閣(隈板内閣)を成立させ川田小一郎(三菱幹部)に代わって第4代日銀総裁に就任した。日銀総裁としての岩崎弥之助は、日清戦争で獲得した賠償金(ポンド建て受取)を原資に金本位制移行を断行したほか、中小銀行の統廃合・担保品付手形割引の廃止・日銀の個人取引開始・初の金融市場操作などを実施、後に「名総裁」と讃えられる業績を残した。日露戦争では、軍需を期待すべき三菱財閥のドンとしては必然か、岩崎弥之助は強硬な開戦論を唱え加藤高明ら対外硬派を後押しした。
- 薩長による討幕の機運が濃くなると、京都に潜伏する諸国浪士の動きが活発化し、新撰組や見廻組による探索は峻烈を極めた。中岡慎太郎は、佐々木高行らと交渉し京都白川の土佐藩邸と食費等費用を拠出させ浪士群を保護、薩長に呼応して挙兵すべく武器と軍事系統を整備するなど密かに討幕戦の準備を進めた。坂本龍馬の土佐海援隊に対し陸援隊と呼ばれた浪士団は、中岡慎太郎を土佐浪士の田中顕助・那須盛馬・大橋慎三・香川敬三らが補佐した。陸援隊士の出身藩は土佐18人・水戸14人・三河9人・京都9人と続いて総勢は75人に達し、十津川郷士隊50人が合流し合計125人の一団を形成した。明日をも知れぬ浪士らの風紀は甚だ悪く土佐藩は厄介視し、新撰組のスパイも紛れ込んでいた(長州人と称した村山謙吉など)。が、坂本龍馬の死で分裂解消した海援隊と異なり陸援隊は中岡慎太郎の死後も組織を保ち、戊辰戦争に従軍したあと薩長土3藩供出の御親兵に吸収された。
- 中岡慎太郎の斡旋により、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩板垣退助・谷干城らと薩摩藩西郷隆盛・吉井友実らが武力討幕の密約を結んだ(薩土密約)。戊辰戦争に際して、山内容堂は最後まで武力討幕に反対であったが、板垣退助が土佐勤皇党の流れを汲む迅衝隊を率いて独断挙兵し、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の一角に滑り込むこととなった。板垣退助は、土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府参謀として戊辰戦争を転戦し、軍人として華々しい勲功を重ねた。甲州勝沼の戦いで近藤勇の甲陽鎮撫隊を粉砕し、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩の攻略戦を指揮して勝利に導いた。戊辰戦争で抜群の軍才を示した板垣であったが、薩長が牛耳る軍部には進めず、明治政府では政治家の道を歩むこととなった。
- 坂本龍馬ら海援隊士が運行する「いろは丸」が、紀州藩の軍艦明光丸と備中笠岡沖で衝突し沈没した。いろは丸は土佐海援隊が大洲藩から借受けた運搬船で、ミニエー銃などを積載し長崎から大阪へ向かう途中であった。坂本龍馬は沈むいろは丸から明光丸へ乗移り万国公法を振りかざして相手の過失を責め、沈んだ積荷などの賠償を求めた。その場では決着がつかなかったが、舞台を長崎へ移し、後藤象二郎と岩崎弥太郎の応援を得て紀州藩から70万両の賠償金をとることに成功した。
- 土佐から京都へ向かう土佐藩船夕顔丸の船上で、土佐海援隊の長岡謙吉が書いた文章を坂本龍馬が「船中八策」と銘打ち後藤象二郎に提案、土佐藩による大政奉還建白の基となった。単に幕府が政権を朝廷に返上するというだけでなく、上下両院を開くことで大名の居場所を確保しつつ諸国の有志を政治に参加させ、御親兵の設置により新政府の権力強化を図り、国家の基本法である憲法を制定すべしという踏込んだ内容で、海軍の充実と通貨政策の重要性も示唆した。船中八策から「五箇条の御誓文」、自由民権運動へ繋がる民主主義の元祖は福井藩の横井小楠や由利公正であり、勝海舟に松平春嶽を紹介されて以来福井藩士と懇意の坂本龍馬は土佐藩を通じてその実現を図ったといえる。
- 坂本龍馬の斡旋により、京都三本木の料亭にて、土佐藩後藤象二郎・福岡孝悌らと薩摩藩小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通とが、両藩協力して大政奉還と王政復古を実現させることを約した。この後、土佐藩は山内容堂を促し大政奉還の建白書を提出する。しかし、薩摩藩の腹は既に武力討幕で固まっており、同盟を解消して戊辰戦争に踏切ることとなる。中岡慎太郎も有志代表として陪席したが、真意は薩長と同じく武力討幕路線であった。
- 長崎で、泥酔し婦人をからかったイギリス軍艦イカロス号の水夫が日本人壮士に斬殺された。犯人の福岡藩士は直後に自殺し福岡藩が真相を隠蔽したため、素行の悪い海援隊士が疑われた。京都で薩土同盟を果した坂本龍馬と後藤象二郎は長崎へ駆け付けイギリス行使パークスと交渉、証拠不十分で不問に付された。交渉の矢面に立たされた岩崎弥太郎は、散々苦労して事件を解決したのに海援隊士から腰抜けと責め立てられた。岩崎弥太郎と海援隊の関係は甚だしく悪化し、岩崎は土佐商会主任を罷免され土佐への帰国を命じられた。
- 坂本龍馬は、後藤象二郎に大政奉還を提案し諸方周旋に努めたが、一方で長崎のオランダ商人ハットマンからライフル小銃1300挺を購入、うち1000挺を土佐藩に提供し、幕府が大政奉還を拒否した場合は海援隊が尖兵となり土佐藩を挙兵させる腹積もりだった。
- 土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静を尋ね、山内容堂の建白書と副書一通を呈出した。討幕挙兵を決意した薩長はこの動きを無視した。なお、この建白は坂本龍馬が後藤に提唱した「船中八策」に基づくとされるが、大政奉還論は坂本の独創ではない。幕府では大久保一翁が早くから唱え、朝廷の攘夷要求に手を焼いた将軍徳川家茂は征夷大将軍返上を仄めかした。民主主義の開祖である福井藩の横井小楠は、松平春嶽が政治総裁職に就任した1862年に『国是七条』を献策し大政奉還論を説いている。
- 大酒呑みの山内容堂は「鯨海酔候」と自称し豪傑を気取ったが、アルコール中毒症が疑われ重度の歯槽膿漏も患っていた。そのためか、根気と集中力を欠き、体調不良を理由に重要な会議にも欠席しがちで、気に入らないと物事を投出す場面が多々あった。四候会議の根回しで高知を訪れた西郷隆盛は、山内容堂から上洛の承諾を得るも「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」を懸念し、シラフの容堂が「此度は東山の土となるつもりぞ」と決意表明したことを福岡孝悌から聞いてから高知を去り伊達宗城を説くため宇和島へ向かった。大恩ある徳川家の運命を決した小御所会議(最初の三職会議)は山内容堂の一世一代の見せ場であったが、「鯨海酔候」はこの日も泥酔状態で遅参したうえ大声で喚き散らす醜態を演じ「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し権威を恣にしようとしている」との失言(事実だが)を岩倉具視に叱責され沈黙、松平春嶽も徳川慶喜の出席要請を断念した。山内容堂は徳川慶喜が目論む「徳川宗家を中心とする列候会議」(徳川家を盟主とする大名共和制)を代弁したが無視され、西郷隆盛の「ただ、ひと匕首あるのみ」(慶喜1人を殺せば片付く簡単なことだ)という気迫が議場を制し、後藤象二郎は大久保利通に丸め込まれ、薩摩藩の思惑通り徳川慶喜の辞官納地が決議された。最初の難関を突破した西郷隆盛と大久保利通は武力討幕へ邁進、幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し「朝敵」徳川慶喜を討つ大義名分を獲得した。
- 徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎(桑名藩の飛び領地)を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
- 岩倉具視は、大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対した。1851年から1994年まで流通した五百円札の肖像画にみるように岩倉具視は公家らしからぬイカツイ容貌で、幼少期は「岩吉」長じて「山賊の親分」などと形容されたが、見た目どおり豪傑肌で胆力があり、洛北岩倉村での蟄居時代には糊口を凌ぐため自宅を賭場として博徒に貸与したといわれる。和宮降嫁の首謀者として久坂玄瑞・武市半平太に打倒され5年間も隠遁したが、希少な硬骨公家を大久保利通は見逃さず、孝明天皇没後に薩摩藩の名代として朝廷に乗込んだ岩倉具視は偽勅批判を恐れず討幕の密勅を強行し、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行採決した。が、他に見るべき業績は無く、岩倉具視は政治理念よりも朝廷の発揚と自身の出世のために動いたようにみえる。少壮期より世襲公卿に反発した岩倉具視は、関白九条尚忠が推す条約勅許に異を唱え同類の軽輩公家を扇動して「八十八卿列参事件」を起したが、安政の大獄で佐幕へ転じ、井伊直弼暗殺に伴い公武合体派が盛返すと意を受けて和宮降嫁を推進したが、尊攘派の猛攻で失脚した。蟄居中に大久保利通と邂逅した岩倉具視は忽ち武力討幕論に迎合し、大政奉還が成ると王政復古の大号令に摂関と朝臣の世襲制排除を盛込み、三条実美と共に太政官の最上位に就き宿願を果した。なお、本心佐幕派の孝明天皇の崩御は討幕への一大転機で毒殺が噂されたが、真先に疑われたのは岩倉具視だった。新政府の重鎮となってからも岩倉具視は大久保利通を支える役割を果し、「岩倉使節団」から戻り明治六年政変が起ると西郷隆盛ら征韓派の追放に加担したが、秩禄処分で士族特権を奪いながら旧公家のみを優遇する政策が士族反乱に油を注ぎ、自由民権運動には決して妥協しなかった。反動勢力の首魁と化した岩倉具視が没すると、伊藤博文は華族令で旧武士層に幅広く爵位を振舞い、太政官制を廃止して内閣制度を発足させた。
- 大政奉還の直後、京都近江屋で会食中の坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われ、頭蓋を斬られた坂本はほぼ即死、中岡は後頭部の傷が悪化し3日後に死去した。「坂本龍馬暗殺の謎」は面白おかしく語られ、フリーメーソン(イギリス)の謀略説や、薩長が遣わした中岡が坂本を斬ったという珍説まである(長州系の中岡は強硬な討幕論者で、土佐藩の大政奉還を差配した坂本は徳川家擁護に動いていた)。が、元新撰組の大石鍬次郎および元見廻組の今井信郎(函館戦争で投降)・渡辺篤の供述により、佐々木唯三郎ら見廻組7人の犯行であることが明らかになった。見廻組は新撰組と同じく京都守護職松平容保(会津藩主)の指揮下で京都の治安維持にあたった警察組織である。新撰組の実態は過激浪士の傭兵集団だが、歴とした幕臣からなる見廻組は統率のとれた幕府機構であり、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺も上層部の命令によるものと考えられ、命令者は松平容保とも京都所司代松平定敬(容保の実弟で伊勢桑名藩主)ともいわれる。会桑両藩と松平容保・定敬兄弟は、藩兵と新撰組・見廻組を駆使して京都に厳戒体制を敷き池田屋事件などで尊攘派志士を多数殺害したことから目の敵にされ、後戻りできない立場故に最強硬な佐幕派であった。ここで将軍徳川慶喜が大政奉還を遵守し薩長に取込まれると会桑両藩は完全に宙に浮いてしまうが、大政奉還を差配した坂本龍馬は幕臣の永井尚志を通じて幕府に現実的妥協案を呑ませる根回しに動いており会桑両藩にとっては危険人物となっていた。雄藩の後ろ盾がなく身辺警護も脆弱な坂本が真先に狙われ、中岡慎太郎は巻添えを喰ったと考えられる。暗殺事件後、激昂する海援隊・陸援隊に対し土佐藩は復讐禁止令を敷いたが、陸奥宗光ら16人は「いろは丸事件」を恨む紀州藩士三浦休太郎を首謀者と断じ、明る正月一日に油小路花屋町天満屋の酒宴の場を襲撃した。斎藤一ら護衛の新撰組隊士数名が居たため接戦となり、陸奥一派は中井庄五郎を殺され三浦は討ち漏らしたが数名を殺害し逃走、官軍の天下で陸奥宗光らにお咎めは無かった。
- 陸奥宗広は紀州藩の権臣だったが派閥争いに敗れ一家は零落、子の陸奥宗光は14歳で江戸の尊攘運動に身を投じ坂本龍馬と邂逅、勝海舟の神戸海軍塾に寄寓して幕府神戸海軍操練所に学び、亀山社中・土佐海援隊と坂本の最期まで付随った。才気煥発だが傍若無人な陸奥宗光は同僚に憎まれたが、坂本龍馬は「天成の利器」を見抜き擁護し続けた。坂本龍馬が暗殺され「天満屋事件」を起した直後に鳥羽伏見戦が勃発、陸奥宗光は大阪に急行してパークス英公使と会見し、それを踏まえて「新政府は先ず列国に王政復古の事実と開国方針を通知すべし」との意見書を岩倉具視に提出した。岩倉具視は意見書を採用し陸奥宗光を外国事務局御用掛に抜擢、陸奥は同僚の伊藤博文と意気投合し生涯に渡る盟友となった。若くして明治政府に足場を築いた陸奥宗光だが、強烈な自尊心のために薩長専制に不満を抱き、伊藤博文と共に廃藩置県の即時決行を主張するも容れられず、官職を辞して和歌山に帰った。が、明治政府のお墨付により紀州藩政を掌握した陸奥宗光は藩政改革と軍備増強を断行、瞬く間に精兵2万を擁する「陸奥王国」を現出させ政府を震撼させたが、廃藩置県で王国は召上げられた。陸奥宗光の紀州割拠の野望は費えたが、このとき部下にした津田出・浜口梧陵・鳥尾小弥太・林薫・星亨らは後に政府顕官となり陸奥を支えた。陸奥宗光は明治政府に帰参したが薩長への不満は止まず明治六年政変を機に再び下野、西南戦争に呼応した土佐立志社の策動に連座し禁固5年の実刑に処された。獄中で西洋政体の研究に励み出獄した陸奥宗光は、原敬・加藤高明・星亨ら非薩長閥の人士を庇護しつつ、伊藤博文に属して薩長藩閥政府で台頭、英独遊学・駐米公使を経て、自由党土佐派とのパイプ役を期待され第一次山縣有朋内閣に農商務相で初入閣、第二次伊藤博文内閣で外相に抜擢されると華々しい「陸奥外交」を展開し、井上馨・大隈重信・青木周蔵が果たせなかった不平等条約改正を成遂げ、日英同盟を結び陸軍の川上操六と共に日清戦争開戦を主導し完勝、露仏独の三国干渉に遭うと冷静に受諾の決断を下し朝鮮・台湾・賠償金などの権益確保に成功した。
- 徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
- 明治政府は王政復古に功労のあった公家・大名・士族に対して家禄の他に賞与として賞典禄を下賜した。支給期間によって永世禄・終身禄および年限禄の3種に分類される。最高は公家の三条実美・岩倉具視の5千石、士族では西郷隆盛の2千石が最高で、大久保利通・木戸孝允・広沢真臣1800石、大村益次郎1500石、後藤象二郎・板垣退助1000石、由利公正800石、黒田清隆700石、山田顕義・山縣有朋・前原一誠600石、寺島秋介450石、福岡孝悌・辻将曹400石、桂太郎250石、江藤新平・島義勇・土方久元100石と続いた。決めたのは大久保利通と木戸孝允だが、薩摩藩士の数が少な過ぎ、長州藩士では高杉晋作と共に長州維新を成遂げた井上馨や伊藤博文の名がないのに大した功の無い広沢・前原・寺島・桂が選ばれている。後世からみても不自然極まる論功行賞であり、伊藤はこの件で「いつまでも家人扱いする」木戸孝允に失望し大久保利通へ鞍替えした。
- 日本との国交を拒絶する李氏朝鮮に修好条約締結を迫るため西郷隆盛は自身の派遣を閣議決定したが(征韓論)、遣欧使節より帰国した岩倉具視・木戸孝允・大久保利通と大隈重信・大木喬任らの内治優先論に覆され西郷派遣は無期限延期となり、これを不服とする西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎ら参議と征韓論に同調する軍人・官僚600余名が大挙辞職し下野する大事件に発展した(明治六年政変)。征韓論の背景には廃藩置県で失業した50万人に及ぶ士族の雇用問題があった。政変後、革新の木戸孝允と保守の岩倉具視が相克し岩倉寄りの大久保利通が木戸を宥めつつ独裁的指導力を発揮する構図となった(大久保政府)。木戸孝允は、西郷・大久保を巻込んで廃藩置県を成遂げると「廃藩置県を断行して四民平等をなした以上は、教育を進めて人文を開き、もって立憲国にしなければならない」と憲法制定を政治目標に定め、学制と国民皆学の充実を図り、言論出版を奨励し、軍事においては大村益次郎のフランス流市民兵構想を後援した(大村は暗殺され山縣有朋らが「天皇の軍隊」に仕立てる)。木戸孝允の基本理念は大久保利通の殖産興業・富国強兵に通じるものであったが、乏しい政府財政と人的資源を巡って優先順位や進め方で両者は対立、粘り強い戦略家の大久保が長州の伊藤博文・井上馨や肥前の大隈重信を自陣へ引込んで勝利し木戸孝允はヘソを曲げて放り出した(土佐の板垣退助や後藤象二郎は征韓論に与し下野)。木戸孝允と大久保利通の関係について、徳富蘇峰は「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる。要するに一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」と語り、松平春嶽は薩摩藩への恨み節もあろうが「木戸は至って懇意なり。練熟家にして、威望といい、徳望といい、勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、衆人の異論なからしむるは、大久保といえども及びがたし。木戸の功は、大久保の如く顕然せざれど、かえって、大久保に超過する功多し。いわゆる天下の棟梁というべし」と評した。
- 西郷隆盛の征韓論に与し明治六年政変で下野した板垣退助は、副島種臣と共に「愛国公党」を結成し大久保利通政府に『民撰議院設立建白書』を提出した後(後藤象二郎・江藤新平・小室信夫・由利公正・岡本健三郎・古沢滋らが加盟)、故郷の高知に戻り片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造ら同志を糾合して「立志社」を設立した。立志社即ち「土佐派」は続く「国会期成同盟」「自由党」の母体となり、板垣退助の引退と同時に星亨らが伊藤博文の政友会に合流する。さて、3年後に西南戦争が勃発し西郷軍に呼応した立志社の高知挙兵・政府転覆の策動が発覚、首謀者の林有造・大江卓・岩神昴の3人に禁固10年、立志社員ではないが共謀した陸奥宗光に禁固5年の判決が下され、高知在住の片岡健吉らも軽禁固に処された(立志社の獄)。立志社首領の板垣退助・後藤象二郎も事件に関与した疑いが強いが、林有造・大江卓・陸奥宗光らが庇ったため逮捕を免れ、3年後に伊藤博文政権が国会開設の詔を出すと板垣は自由党を結成する。
- 国会開設の詔を受けて国会期成同盟が発展解消し自由党が発足、大御所の板垣退助が総理に就き、中島信行(元海援隊士)・片岡謙吉・後藤象二郎ら土佐人のほか河野広中・星亨らが幹部となった。自由党は、フランス流自由主義を標榜して急進的な政体改革を主張し、士族や豪農を支持層とした。大隈重信の立憲改進党とは、薩長藩閥・有司専制(官僚支配)を批判し政党政治の実現を目指す点で一致していたが、主義主張の相違から対立することも多かった。
- 板垣退助と大隈重信を中心とする自由民権運動は、内実は薩長藩閥への反抗であり政府首脳にとって頭の痛い問題であった。山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らは「超然主義」を唱え一貫して政党勢力を弾圧したが、伊藤博文は藩閥政治の限界を悟り「国会開設の詔」で10年以内の国会開設を公約し藩閥サイドの工作を主導した。伊藤博文は、自ら渡欧して立憲政体を研究し、太政官制を廃して内閣制度を発足させ初代総理大臣に就任、枢密院議長に退いて大日本帝国憲法を制定し、公約どおり衆議院選挙と帝国議会開催を実現させた。その後も超然主義に固執し自らの軍閥形成と政党排除に邁進する山縣有朋との政争のなか、伊藤博文は、伊東巳代治・金子堅太郎・西園寺公望・原敬ら配下の官僚政治家および帝国党など「吏党」をベースに、星亨・尾崎行雄・片岡健吉ら憲政党自由派を糾合して、立憲政友会を結党した。これに先立ち、隈板内閣が瓦解したあと与党憲政党では星亨ら自由派が「領袖会議」クーデターで進歩派を追放、大隈重信の失脚と板垣退助の政治意欲喪失で憲政党を掌握した星亨は、第二次山縣有朋内閣の地租増徴に協力したが裏切られ、山縣の政敵で政党政治に理解を示す伊藤博文に接近、伊藤が政友会を結成すると憲政党を解党し合流した。自由民権運動のカリスマとして一時代を築いた板垣退助は政友会創立に伴い潔く政界から引退したが、未練タラタラの大隈重信は14年後に井上馨に担ぎ出され第二次内閣を組閣、薩長藩閥の傀儡に堕し「対華21カ条要求」をしでかした。
- 国会議事堂の四隅には板垣退助・伊藤博文・大隈重信の銅像が立つが(残りの一隅は空の台座)「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。土佐勤皇党の残党を率い戊辰戦争で活躍した板垣退助は、東山道指揮官として会津戦争を鎮圧したが、戦争負担に喘ぐ会津の民衆が藩を見捨てて官軍に味方するのを見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、征韓論争で下野すると「民撰議院設立建白書」を提出し土佐立志社を結成した。伊藤博文の「国会開設の詔」を受け板垣退助が結成した自由党は、薩長藩閥打倒と急進的な国体改革を目指す土佐人中心の社会主義的革新政党で、志士上りの過激活動家が多く西南戦争に呼応し(立志社)秩父事件や大阪事件を引起した。対する改進党は、福澤諭吉を理論的主柱とする慶應義塾出身者ら「文化的進歩人」の集団で、政府を追われた大隈重信を党首に担ぎ、国体改革云々より民意を背景に政治的発言力を高め薩長藩閥に物申そうという方向性で、外交は福澤の『脱亜論』を党是とし日露戦争を機に軍部以上の「対外硬派」となった。薩長藩閥打倒のため両党は大同団結し憲政党を結成、初の政党内閣「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)を成立させたが僅か4ヶ月で内部分裂し瓦解、カリスマ板垣退助は潔く引退し星亨ら自由党系は伊藤博文の政友会に合流し政権与党の基盤となった。シーメンス疑獄で山本権兵衛内閣が倒れると、元老院の井上馨は護憲運動を抑えるべく第二次大隈重信内閣を擁立、薩長藩閥の走狗に堕した大隈は衆議院解散で政友会議員を半減させて井上の期待に応え、二個師団増設を押通して山縣有朋を満足させ、第一次世界大戦が起ると加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」をやらかし後世に重大な禍根を残した。原敬・高橋是清の政友会内閣を経て護憲三派が合同し加藤高明内閣が発足したが又も内部分裂、金権政治で金欠の政友会は陸軍機密費の持参金を目当に陸軍長州閥の田中義一を首相に担ぎ、憲政会は分派工作で若槻禮次郞・濱口雄幸が政権奪回、満州事変の激震のなか政友会の犬養毅が組閣したが五・一五事件で横死、以後は軍部主導の内閣が続き政党政治は終焉した。
- 板垣退助は金銭に潔癖で清貧を貫いたことで知られ、晩年は生活費にも困窮し恩賜の刀剣を売却するほどであった。また、自由民権運動の一環で華族制度や世襲制の旧弊に反対した。板垣退助は、三度目の伯爵授爵の勅を断り切れず受爵したが、貴族院議員の勅撰を断り、華族に被選挙権を認めない衆議院議員にも出馬しなかったため、亡くなるまで帝国議会に議席を持たなかった。嫡子の板垣鉾太郎は家督相続をせず孫の板垣守正が爵位を返上、板垣退助が唱えた「一代華族論」を全うした。こうした板垣退助の生き様は栄耀栄華を極めた明治期の顕官にあっては極めて希であり、高潔な人柄は国士と呼ぶに相応しい。大臣・首相職に固執しなかったため、大隈重信のような政治的失策も犯さずに済んだ。
- 自由党総理の板垣退助は、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く喧伝された(台詞そのものは新聞記者の脚色とされる)。なお、負傷した板垣退助の診察にあたったのは、当時医師をしていた後藤新平だった。板垣は後藤の政治的才能を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったというが、後に後藤は内務官僚(医系技官)として政府に出仕すると、児玉源太郎にスカウトされ台湾総督府の実務を差配し植民地経営に成功、満鉄総裁に就任するなど大物官僚政治家となった。
- 薩長藩閥政府の弾圧で後退する自由民権運動を再び盛上げるため、自由党系・立憲改進党系など民権各派が結集し大同団結を図る動きが広がった。言いだしっぺの後藤象二郎は黒田清隆内閣で逓信大臣のポストを与えられ懐柔されたが、大同団結運動の灯は消えず1898年憲政党の発足で民党の大同団結が成就、両大御所の大隈重信と板垣退助が手を結び初の政党内閣「隈板内閣」を成立させたが、憲政党は内部分裂により4ヶ月で瓦解した。
- 福澤諭吉は、明治政界では大鳥圭介と後藤象二郎びいきで、どういう訳か後藤には特に入込んだ。「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです」と公言し、近所に住む後藤と頻繁に往来した。また、後藤象二郎が「官有物払い下げ」で取得した高島炭鉱が放漫経営で破綻に瀕した際、福澤諭吉は参議筆頭の大隈重信を動かして岩崎弥太郎の三菱に買取らせ、後藤のピンチを救っている。大鳥圭介は、適塾で共に学んで以来の親友である。福澤諭吉は幕府重臣から明治政府の顕官に転身した勝海舟と榎本武揚を批判したが、大鳥は批判対象に加えていない。
- 福澤諭吉は豊前中津藩の下級武士ながら欧米遊学経験と英語力を武器に立身出世を果した。幕末明治期の世界情勢は世界に冠たる大英帝国と新興大国アメリカを中心とする新秩序の確立期にあったが、幕府の鎖国政策で蘭書以外へのアクセスを阻止された日本では英語習得と英米新秩序への対応が遅れていた。緒方洪庵の「適塾」で蘭学を猛勉強し塾頭も務めた福澤諭吉は、中津藩の要請で築地鉄砲洲の藩屋敷に蘭学塾を開講、幕閣の目に留り通商条約批准の遣米使節で軍艦奉行木村摂津守の随員に選ばれ勝海舟艦長の「咸臨丸」で渡米した。英米新秩序を知った福澤諭吉は帰国後すぐに蘭学塾を英学塾へ改め、英語に飢えた学生の受け皿となり「慶應義塾」へ繋がる大発展、木村摂津守の引きで幕府外国方に就任し文久遣欧使節の随員に選ばれ直参旗本に出世した。明治維新後、福澤諭吉は新政府の招聘を断り慶應義塾で教育活動に専念、かたわら森有礼の「明六社」に参加し、『西洋事情』『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを刊行して大衆の洋化啓蒙活動を牽引し、慶應義塾と共に福澤派の牙城となる『時事新報』を創刊した。福澤諭吉は政治活動に一定の距離を置いたが、「脱亜論」に基づくイギリス流立憲主義を提唱し、三菱の岩崎弥太郎と共に後藤象二郎や大隈重信を支援した。明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、福澤諭吉は専横を強める伊藤博文・井上馨ら薩長藩閥と絶交し、福澤派・慶應義塾グループを母体に立憲改進党を発足させ大隈を党首に担いだ。大隈重信・犬養毅・矢野文雄・尾崎行雄ら福澤諭吉の門人は政界に隠然たる勢力を形成し、三菱はじめ財界へも荘田平五郎・豊川良平ら多くの門下生を提供した。固い結束を誇り今日も政財界の一角を占める慶應義塾「三田会」の親玉という点において、福澤諭吉が日本国に及ぼした影響は計り知れないものがある。また福澤諭吉は東大閥から締出された北里柴三郎を救い国立伝染病研究所および北里研究所の開設を主導、北里は慶應義塾大学医学科(医学部)の創設に尽くし無給で初代学部長兼付属病院長を務め福澤の恩義に報いている。
- 壬午事変以後、閔氏一派を中心とする事大党は急速に清への依存を強めたが、日本の明治維新を範とした国体改革と清からの独立を志す金玉均らの独立党が台頭、日本公使館の援助を得てクーデターを図ったが(甲申事変)、壬午事変同様に清によって鎮圧された。日本においては、金玉均の支援要請を受けた自由党の板垣退助と後藤象二郎が伊藤博文に運動し、政府の独立党支援政策に発展した。また、福澤諭吉も朝鮮の自立的な近代化に期待を寄せ、独立党への資金援助のほか、慶應義塾への留学生受入れ、弟子の井上角五郎を朝鮮に派遣して新聞『漢城旬報』の発行を支援するなど後援活動を行った。日清両国は、伊藤博文が天津に乗込んで李鴻章との講和交渉にのぞみ、両軍の朝鮮からの撤兵と、今後派兵する際の事前通告などを定めた天津条約を1885年に締結した。独立党を支援した日本政府内では対清開戦論もあったが、立憲政体への移行など内治を優先すべしとする伊藤博文・井上馨の主張が通り、結局は矛を収めることとなった。
- 福澤諭吉は、親友の後藤象二郎と共に金玉均の朝鮮独立党を支援したが、甲申事変が失敗に終わり朝鮮民衆の排日姿勢が強まるのをみて従来の「興亜論」を一変、『時事新報』の社説で「脱亜論」を発表した。「亜細亜東方の悪友を謝絶する」といった強い論調で近代化を進めない清や朝鮮を非難する一方、日本は近代化路線を邁進して西欧列強の仲間入りを果し、他のアジア諸国に対しては西欧列強と同じ手法で接すべしと主張した。折りしも、日本国内では文明開化が進むにつれてアジア蔑視の風潮が起りつつあって、「脱亜論」が世論の主流となり、対清開戦機運が醸成されていった。没後のことなので福澤諭吉に責任はないが、「脱亜論」は大隈重信・加藤高明らの「対外硬」へと受継がれ、「対華21カ条要求」の暴挙へと繋がったとみることもできる。
後藤象二郎と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照