旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
家系・子孫
- 松平氏の祖親氏は、もと徳阿弥と名乗る時宗の遊行僧(賤民とも)で、西三河に漂着し松平郷の庄屋家に入婿し、兵力を蓄えて近隣を侵略し相当な土豪となった。この前に徳阿弥が坂井郷の庄屋の娘に産ませた子が酒井氏の祖という。5代目の松平長親は、三河に侵攻した今川氏親軍を撃退し総大将の北条早雲に黒星をつけた傑物で、安祥城に拠って頭角を現した。孫の松平清康も優秀で数年で西三河の大部分を切り従え尾張へ侵出したが、突如家臣に暗殺された。10歳の嫡子広忠は、織田信秀に圧迫され伊勢へ逃亡したが、今川義元に臣従し領地を回復して岡崎城に入った。広忠は三河苅屋城主水野忠政の娘お大を娶り、嫡子竹千代(徳川家康)をもうけたが、水野氏が織田方に属したためお大は離縁され、後に尾張知多郡阿古屋の久松定俊に再嫁した(伊予松山藩祖)。徳川家康は、今川一族の関口親永の娘(10歳上・築山殿)を妻に迎えたが、放置が祟って武田氏に内通し謀反、織田信長の命で嫡子信康と共に殺害した。松平氏は賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河平定を機に徳川(源姓)に改めようだ。この後は朝日姫(豊臣秀吉の妹)以外に正室を置かなかったが、秀吉と違って多くの子宝に恵まれ、優秀な男児は無いものの、婚姻政策は天下獲りの武器となった。実娘を池田輝政(岡山藩・鳥取藩)・浅野長晟(広島藩)、養女を黒田長政(福岡藩)・蜂須賀至鎮(徳島藩)・井伊直政(彦根藩)・鍋島勝茂(佐賀藩)・加藤清正・福島正則らに入輿させ皆大封を与えている。次男松平秀康は、秀吉・結城晴朝の養子を経て越前藩をもらったが、浮気性だった生母のせいか家康に嫌われ、後嗣忠直は逆恨みで狂人となり慰みに家中の男女を虐殺した。2代将軍となった三男徳川秀忠は、関ヶ原合戦で本隊を率いながら真田昌幸の挑発に乗って足止めを食う大失態を犯し、嫉妬深い妻江(信長の姪で淀殿の妹)を恐れ生涯妻妾を置けなかった。家康の男児は皆大藩の主に据えられたが、最年少の義直・頼宣・頼房が尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖となった。
- 水戸藩は徳川家康の十一男徳川頼房を藩祖とする。紀州藩・尾張藩と並ぶ「血のスペア」御三家ながら将軍を出さない不文律があり、藩主の江戸常府を唯一義務付けられ「副将軍」と称された。「大日本史」を編纂した2代藩主の水戸光圀より「勤皇藩」を自認し、朱子学から独自の発展を遂げた「水戸学」は幕末「尊皇攘夷」の中核原理となった。徳川家康が遠い将来を見越し、西国雄藩が天皇を担ぎ徳川幕府を倒すリスクに備え血の存続を図るべく水戸藩に代々勤皇を密命したという説もある。2代将軍徳川秀忠の血統は7代で絶え、紀州系の8代徳川吉宗より子孫が将軍を独占したが13代徳川家定で断絶し将軍継嗣問題が発生、大老井伊直弼の剛腕で紀州藩主の徳川家茂が14代に就くが長州征討の最中に無嗣没し、水戸家の徳川慶喜が最後の将軍となった。「家康の再来を見るがごとし。軍制も改革され幕府は衰運再び勃興する勢いにある」と木戸孝允を慨嘆させた徳川慶喜は皮肉にも薩摩藩の警戒を招き薩長同盟が成立、大政奉還で徳川家温存を図るも土壇場の戊辰戦争で勤皇が首をもたげ抗戦派を追放し泣き寝入りしたが、西郷隆盛らの奔走で徳川3家が最高位の公爵に叙され家康の打算(?)は変則的だが成就した(徳川・松平姓の諸大名も石高に応じ華族に列した)。9代水戸藩主の徳川斉昭は大の女好きで、大奥に毛嫌いされたことが一橋派の敗因ともなったが、正室登美宮吉子(有栖川宮織仁親王の娘)のほか判明分だけでも9人の側室を侍らして37人もの子を生し、男児の多くは無嗣の他藩主に入嗣させ女児は公家や藩主に嫁がせた。水戸藩主を継いだ徳川慶篤は側室腹の嫡子、徳川慶喜は正室腹の七男で御三卿一橋家から徳川宗家を継いだ。徳川慶喜は、2人の側室に10男11女を産ませ(正妻は一条美賀で女児が早世)、七男の徳川慶久に家督を継がせた(十男の精は勝海舟に入嗣)。水戸家では徳川慶篤の没後、異母弟の徳川昭武が御三卿清水家から家督を継いだが、慶篤嫡子の徳川篤敬に家督を譲り、昭武は子爵松戸家を立てた。徳川宗家を継いだ御三卿田安家の徳川家達に続いて徳川慶喜(慶喜家)と水戸家の徳川篤敬が公爵に叙され、徳川斉昭の子孫は栄爵を極めた。
- 精力絶倫の徳川斉昭は37人もの子を生したが、うち男児12人が大名となり女児の多くは大名に入輿した。日本史上これほどの子福者は11代将軍徳川家斉くらいだろう。正室(有栖川宮織仁親王の娘)腹に水戸藩10代藩主徳川慶篤と15代将軍徳川慶喜(元一橋家当主)、側室腹に川越藩主松平直侯・浜田藩主松平武聰・鳥取藩主池田慶徳・岡山藩主池田茂政・喜連川藩主喜連川縄氏・土浦藩主土屋挙直・水戸藩11代藩主徳川昭武・守山藩7代藩主松平頼之・島原藩主松平忠和・守山藩9代藩主松平喜徳(元松平容保の養子)。鳥取藩と岡山藩は、徳川家康の愛娘督姫を妻に迎え大出世した「蛍大名」池田輝政の子孫で、準親藩として中国地方の抑えを託された大藩だが、戊辰戦争で官軍へ寝返り忠勤に励んだ。両藩主の池田慶徳と池田茂政は、実兄の徳川慶喜と戦うことを嫌い参戦にあたり隠居している。
- 結城秀康は、徳川家康が正室築山殿の奥女中に産ませた庶子で、築山殿謀反事件で嫡子の松平信康が切腹に処された後も世子にはなれず、小牧・長久手の戦いの講和で豊臣秀吉の養子に出され、淀殿が鶴松を産むと豊臣家を追われ、小田原征伐後に下総の結城晴朝の婿養子に入り家督を継いだ。関ヶ原合戦後、結城秀康は越前北庄67万石を与えられ福井藩を立藩し松平への復姓を許された。本多正信・正純父子は徳川家康の跡目に年長子の松平秀康を推したが、家康は三男の徳川秀忠を将軍世子に指名し、九男義直・十男頼宣・十一男頼房を徳川御三家に据えても秀康には徳川姓を許さなかった。生母の於万が浮気性のため家康は出生を疑っていたともいわれる。2代福井藩主を継いだ嫡子の松平忠直は、将軍徳川秀忠の風下に立つのが不満で幕府に反抗、大坂陣の論功行賞に憤慨し酒色に溺れて狂人となり慰みに家臣や婦女子を大量虐殺した。幕府もさすがに看過できず、松平忠直は竹中重義の豊後府内藩へ預けられ生涯幽閉、所領分割により32万石に減封された福井藩は忠直弟の松平忠昌が継いだ。狂気を引いたか、忠昌嫡子の松平光通は大名の身で自殺している。さて時代は下り、14代藩主松平斉承で血統が途絶え松平斉善(11代将軍徳川家斉の二十二男)が15代藩主を承継、これも無嗣没し松平春嶽が末期養子に入り16代藩主となった。徳川斉匡は一橋家当主徳川治済の五男(11代将軍家斉の異母弟)で田安家に入嗣、八男の松平春嶽は従兄の12代将軍徳川家慶の計いで福井藩主に抜擢された。松平春嶽は、熊本藩主細川斉護の娘勇姫を正室とし慶民・義親が成人したが、安政の大獄で藩主職を剥奪され松平茂昭(支藩の糸魚川藩主松平直春の四男)への禅譲を強いられた。が、福井藩政は維新まで松平春嶽と改革派が握りった。松平茂昭には第一次長州征討の副総督くらいしか業績は無いが、福井藩主として侯爵に叙された。松平春嶽の実子である松平慶民は、子爵・宮廷政治家となり、第二次大戦後は英語力を活かしてGHQとの折衝にあたり「昭和天皇独白録」の作成に携わった。徳川義親は、尾張徳川家の徳川義禮に入嗣し侯爵を襲爵した。
- 会津藩初代の保科正之は2代将軍徳川秀忠の庶子だが、恐妻家の秀忠は正室江の目を憚り生涯認知しなかった。隠し子は見性院(武田信玄の娘)に預けられ信濃高遠藩主保科正光に入嗣、3代将軍徳川家光は保科正之を実弟と認知し会津藩23万石に引立てた。保科正之は、徳川家光の恩義に報いるため『会津家訓十五箇条』の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、家光の遺命により4代将軍徳川家綱を後見し幕藩体制の基礎を築いた。3代藩主の正容(正之の六男)から松平の名乗りを許され、会津藩は幕末まで強い佐幕の風を受継いだ。時代は下り、8代会津藩主の松平容敬が無嗣没し婿養子の松平容保が9代藩主を継いだ。松平容保は、美濃高須藩主松平義建の六男で、兄の徳川慶勝(14代尾張藩主)・徳川茂徳(15代尾張藩主から御三卿一橋家当主)および弟の松平定敬(伊勢桑名藩主)と共に「高須四兄弟」と称された。徳川慶喜・松平春嶽に京都守護職を押付けられた松平容保は、松平定敬を京都所司代に任じ共に尊攘派志士の粛清に奔走したが、戊辰戦争が起ると慶喜は恭順へ転じ厄介払いされた松平兄弟は官軍のターゲットにされた。会津に戻った松平容保は、養嗣子の松平喜徳(徳川斉昭の十九男で慶喜の実弟)に10代藩主を譲り謹慎・恭順して助命を請うたが赦されず、会津藩士・領民と東北諸藩(奥羽越列藩同盟)を巻き添えにして官軍に抗戦した。板垣退助率いる官軍に敗れた「賊軍」会津藩は家名断絶・領地没収に処されたが、間もなく容保の長子に松平容大が誕生、明治政府はこれに家名存続を赦し陸奥斗南藩3万石に封じた。松平喜徳は養子縁組を解消し実兄の前松川藩知事松平頼之の家督を継いで子爵に叙された。旧会津藩士は不毛の下北半島で辛酸を舐め、反抗児となった松平容大は校則違反により学習院を退学処分となったが、長じて陸軍人となり子爵・貴族院議員となった。
徳川家康と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
狩野 永徳
1543年 〜 1590年
90点※
祖父の狩野元信から「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨
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