会沢正志斎・藤田東湖の水戸学・尊皇攘夷論を実践し幕末維新の幕を開いた過激な「水戸烈侯」、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ悲嘆死したが七男の徳川慶喜が悲願の将軍位を掴み嫡流の水戸家と共に最高位の公爵を受爵
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徳川 斉昭
1800年 〜 1860年
70点※
徳川斉昭の寸評
徳川斉昭の史実
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        1800年 7代水戸藩主徳川治紀の三男徳川斉昭が江戸小石川藩邸にて出生 
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        1804年 ロシアのレザノフが長崎で通商を要求 
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        1808年 フェートン号事件~オランダ船を追ってイギリス船が長崎に侵入 
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        1816年 伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成 
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        1816年 徳川治紀が死去し嫡子の徳川斉脩が8代水戸藩主となる 
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        1817年 イギリス船が浦賀に来航 
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        1821年 彰考館の会沢正志斎が水戸藩主徳川治紀の諸公子の侍読に任じられ徳川斉昭を尊皇攘夷思想に教化 
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        1824年 イギリス捕鯨船員の常陸上陸事件、徳川斉昭の水戸藩を中心に攘夷熱が高まる 
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        1825年 水戸藩の会沢正志斎が尊王攘夷の思想書「新論」を著作 
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        1825年 異国船打払令 
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        1826年 藤田幽谷が死去し門人の会沢正志斎が彰考館総裁を承継 
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        1828年 シーボルト事件 
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        1829年 徳川斉脩の急死に伴い弟の徳川斉昭が9代水戸藩主に就任、水戸学に基づき尊皇攘夷運動を牽引 
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        1830年 鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる 
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        1837年 水戸藩主徳川斉昭と水戸学派が実権を掌握し藩校弘道館を開設し藩政改革を始動 
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        1840年 アヘン戦争(~1842) 
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        1841年 天保の改革(~1845)~老中水野忠邦による重農主義復古政策 
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        1842年 異国船打払令を緩和し薪水給付令施行 
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        1844年 水戸藩守旧派の工作により幕府が徳川斉昭を隠居・謹慎処分、嫡子の徳川慶篤が10代藩主となる 
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        1845年 水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる 
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        1846年 フランスが琉球の開国を要求 
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        1847年 徳川斉昭が老中安倍正弘を後ろ盾に諸生党首領の結城朝道を失脚・隠居に追込む 
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        1850年 薩摩藩で島津斉彬の襲封を支持する西郷隆盛・大久保利通らが若手藩士グループを結成(精忠組に発展) 
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        1850年 12代将軍徳川家慶・老中阿部正弘が薩摩藩主島津斉興に引退勧告 
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        1850年 佐賀藩が日本初の反射炉の実証炉を建設し洋式砲の鋳造を開始 
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        1850年 井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す 
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        1851年 島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手 
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        1851年 佐賀藩が洋式技術導入のため精煉方を開設 
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        1852年 オランダ商館長が長崎奉行にペリー来航を予告、佐賀藩主鍋島直正が軍備を増強 
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        1852年 松平容敬が死去し養嗣子の松平容保が9代会津藩主となる 
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        1852年 彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる 
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        1853年 [ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付 
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        1853年 徳川斉昭が江戸防備のため大砲74門を幕府に献上、老中安倍正弘の要請により幕府海防参与に就任 
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        1853年 海防参与徳川斉昭の献策により幕府が大船建造を解禁 
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        1853年 徳川家定が13代将軍就任、将軍継嗣問題が勃発 
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        1853年 老中阿部正弘に抜擢された江川坦庵が佐賀藩主鍋島直正の技術支援を得て伊豆韮山に反射炉を設置 
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        1853年 結城朝道ら諸生党が井伊直弼を後ろ盾に藩政に復帰し松平頼胤(支藩の讃岐高松藩主)の水戸藩主擁立を画策 
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        1854年 ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される 
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        1854年 ロシア艦隊が長崎に来航し通商を求める 
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        1854年 薩摩藩主島津斉彬が参勤交代で江戸入り、中小姓として随行した西郷隆盛を江戸藩邸で御庭方役に任じ直属の謀臣に抜擢 
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        1855年 安政の大地震、徳川斉昭のブレーン藤田東湖が圧死 
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        1855年 徳川斉昭の要求により南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭、堀田正睦が老中首座就任 
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        1855年 幕府がオランダから蒸気船観光丸の寄贈を受け長崎に海軍伝習所を開設、旗本の勝海舟ら1期生が入学 
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        1856年 アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争 
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        1856年 水戸藩の石川島造船所(IHIの前身)が洋式帆船「旭日丸」を建造し幕府に献上 
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        1856年 徳川斉昭と水戸天狗党が藩主徳川慶篤の暗殺未遂罪により諸生党首領の結城朝道を死罪に処す 
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        1856年 薩摩藩主島津斉彬が一門の島津敬子(篤姫)を将軍徳川家定に入輿させる・西郷隆盛が諸業務を担当 
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        1857年 阿部正弘死去 
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        1858年 佐賀藩主鍋島直正が洋式船舶の建造・修理・運用のため三重津海軍所を開設 
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        1858年 老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件) 
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        1858年 井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄) 
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        1858年 佐賀藩主鍋島直正が大老井伊直弼と交流を深める 
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        1858年 幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約) 
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        1858年 徳川家茂が14代将軍就任、一橋派が将軍継嗣問題に敗北 
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        1858年 薩摩藩主島津斉彬が幕府抗議のため藩兵5千を動員し上洛を計画 
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        1858年 西郷隆盛・有馬新七が島津斉彬に先発して上洛し準備工作 
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        1858年 薩摩藩主の島津斉彬が急死し率兵上洛計画が頓挫(享年50。毒殺説あり)、養嗣子(島津久光の子)の島津忠義が12代藩主に就任し10代藩主の島津斉興(斉彬・久光の父)が実権を奪回 
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        1858年 梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す 
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        1858年 江戸城無断登城事件、大老井伊直弼が無断で江戸登城した徳川斉昭・徳川慶喜・松平春嶽・徳川慶勝を謹慎に処す 
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        1859年 神奈川・長崎・函館開港 
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        1859年 安政の大獄で大老井伊直弼が一橋派諸侯の処分を断行、徳川斉昭・慶喜は蟄居に処される 
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        1859年 安政の大獄により吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らが処刑される 
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        1859年 島津斉興の死により島津久光が藩主島津忠義の国父として薩摩藩の実権を掌握 
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        1860年 清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に 
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        1860年 幕府が通商条約批准のための遣米使節を派遣、勝海舟艦長の咸臨丸が同行(随員に福澤諭吉ら) 
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        1860年 桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48) 
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        1860年 長州藩と水戸藩が幕政改革の盟約(成破の盟約) 
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        1860年 徳川斉昭が蟄居中に急死(享年61)、幕府は融和路線に転じ徳川慶喜・松平春嶽らを赦免 
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        1868年 徳川斉昭が水戸偕楽園の常盤神社に祀られる 
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        1884年 華族令公布、水戸徳川家の徳川篤敬(斉昭の嫡孫)が侯爵を受爵 
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        1902年 徳川慶喜(斉昭の七男)が徳川宗家と別に公爵に叙され(慶喜家)貴族院議員となる 
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        1903年 徳川斉昭に追贈正一位 
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        1929年 徳川篤敬が公爵に昇叙 
徳川斉昭の交遊録
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        徳川光圀 水戸学を興した2代水戸藩主 
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        徳川治紀 父・7代水戸藩主 
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        徳川斉脩 兄・8代水戸藩主 
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        徳川慶篤 嫡子・10代水戸藩主 
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        徳川慶喜 七男・一橋派の旗印 
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        藤田幽谷 水戸学の泰斗・彰考館総裁 
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        藤田東湖 幽谷次男・優秀な謀臣 
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        藤田小四郎 東湖四男・天狗党の乱首謀者 
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        会沢正志斎 幽谷後継の彰考館総裁・水戸学の先生 
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        武田耕雲斎 天狗党の乱首領 
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        戸田忠太夫 水戸学派 
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        豊田天功 水戸学派 
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        山野辺義観 水戸学派 
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        安島帯刀 水戸学派 
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        青山拙斎 水戸学派 
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        関鉄之助 桜田門外事変指揮者 
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        本圀寺勢 天狗党の乱の生残り 
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        武田金次郎 天狗党の乱の生残り 
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        結城朝道 死罪に追遣った諸生党首領 
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        徳川家斉 11代将軍 
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        徳川家慶 12代将軍 
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        徳川家定 13代将軍 
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        徳川家茂 14代将軍 
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        水野忠邦 影響を与えた老中 
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        安倍正弘 公武合体運動の盟友 
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        島津斉彬 四賢候にして一橋派の盟友 
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        篤姫 徳川家定に入輿した斉彬従妹 
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        西郷隆盛 斉彬寵臣 
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        有村雄助 桜田門外事変有志 
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        有村次左衛門 桜田門外事変有志 
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        松平春嶽 四賢候にして一橋派の盟友 
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        橋本左内 春嶽謀臣 
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        山内容堂 四賢候にして一橋派の盟友 
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        吉田東洋 容堂謀臣 
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        伊達宗城 四賢候にして一橋派の盟友 
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        黒田長溥 斉彬大叔父・福岡藩主 
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        井伊直弼 宿敵 
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        長野主膳 井伊謀臣 
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        松平乗全 井伊の子分 
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        松平忠固 井伊の子分 
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        間部詮勝 井伊の子分 
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        堀田正睦 井伊寄りの老中首座 
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        水野忠央 井伊の盟友 
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        鍋島直正 井伊の盟友 
徳川斉昭と同じ時代の人物
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         維新 維新大久保 利通1830年 〜 1878年 130点※ 島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家 ※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
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         維新 維新高杉 晋作1839年 〜 1867年 110点※ 吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄 ※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
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         維新 維新西郷 隆盛1828年 〜 1877年 100点※ 島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在 ※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
 
          
基礎点 80点
徳川斉昭は、「尊皇攘夷の総本山」にして御三家水戸藩の国主の立場から幕府政治に激しく口を出し、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ失意死し水戸天狗党は壊滅したが、全国尊攘派志士のカリスマとなり薩摩藩の英主島津斉彬と共に幕末維新の幕開け役を演じた。徳川斉昭の死後、七男の徳川慶喜は将軍位に就いて亡父の無念を晴らし、明治維新後は嫡流の水戸藩主家と慶喜家が最高位の公爵に叙された。徳川斉昭は非業の死を遂げたが、生きていても御三家水戸藩を進んで討幕戦に投入するわけにはいかず、尊攘派と佐幕派の板挟みで苦しむことになったであろう。好色の限りを尽くし、10人の妻妾を侍らして37人もの子を生した。
減点 -10点
徳川斉昭は、大名としては優秀な部類だったようだが、過激な言動の割に大した政治的成果は無い。また水戸藩は、国主の徳川斉昭が尊攘運動の先駆となりながら藩内守旧派を抑えられず挙藩運動に失敗、斉昭没後は急速に佐幕化して尊攘派の天狗党は壊滅し明治維新に直接的に貢献することはできなかった。将軍継嗣問題で一橋派が敗れた原因は、首領である徳川斉昭の個人的不徳が大であった。過激で短慮な言動を連発する徳川斉昭は保守派揃いの幕閣に嫌われ、奔放過ぎる女性遍歴をあげつらわれ大奥にも毛嫌いされた。安政の大地震で圧死した藤田東湖に代わるブレーンがおらず、井伊直弼の謀臣長野主膳に対抗できなかったのも痛かった。