戦後の漫画ブームを牽引し『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』で世界に誇る日本アニメの幕を開いたエンタメ産業の開祖
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
手塚 治虫
1928年 〜 1989年
80点※
家系・子孫
- 手塚氏は信濃小県郡手塚郷(現上田市)を領した藤沢氏(諏訪上社大祝家の諏訪氏の分流)の分流で、手塚光盛は木曽義仲に従い活躍した。江戸初期の手塚吉兵衛が常陸府中藩(水戸藩の支藩)に仕え子孫は藩医を世襲、幕末に至り手塚良仙光行が府中藩上屋敷のある江戸小石川三百坂下に内科を開業した。光行嫡孫の手塚良庵こと手塚光亨が、手塚虫治が『陽だまりの樹』に描いた曽祖父である。手塚良庵は、緒方洪庵の大坂適塾でオランダ医学を修め、江戸で家業を手伝いつつ緒方の意を受け大槻俊斎(義弟)・伊東玄朴らと「お玉ガ池種痘所」を設営、父の隠居に伴い「良仙」を襲名した。明治維新後、手塚良仙は種痘所を受継いだ新政府の「医学校」(→東大医学部)に出仕し、陸軍軍医大尉へ転じ西南戦争に従軍したが赤痢で陣没した。一人息子の手塚太郎は、司法省法学校を出て大物検事となり関西法律学校(→関西大学)創立に関与、引退後は宝塚へ居を移し安穏な晩年を過ごした。長男の手塚粲は中央大学法学部を出て大阪の住友倉庫・住友金属に勤め、陸軍中将服部英男の娘文子と結婚し一子手塚治虫(本名は手塚治)を授かった。手塚粲は丹平写真倶楽部で前衛的作風を謳われたセミプロ写真家で、85歳まで長寿を保った(手塚治虫は4年後に60歳で逝去)。手塚治虫は、父の手回し映写機でチャップリン喜劇やディズニーアニメを観賞し、田河水泡の『のらくろ』など多くの漫画本蔵書を楽しみ、5歳で宝塚へ転居すると父母と宝塚歌劇団に通い夢中になった。最高の芸術環境で手塚治虫の才能は育まれたが、亭主関白の父にコンプレックスを抱き成人後も批判的であった。さて、小学3年生で本格的な漫画を描き始めた手塚治虫は、名門北野中学校から軍医養成の大阪医専(阪大医学部とは別)へ進んだが、学業の傍らプロ漫画家となり医業を捨て「マンガの神様」へ上り詰めた。手塚治虫は悦子夫人(父は裁判官の岡田政司)との間に一男二女をもうけた。長男の手塚眞は映像作家(妻は漫画家の岡野玲子)、長女の手塚るみ子はプランニングプロデューサーとなり、二人とも手塚治虫の回想録を多数残している。
- 適塾は、蘭学者・医者として高名な緒方洪庵が大坂に開いた私塾で、1838年から1868年までの間に600人以上が学んだ。「血尿が出るほど」の猛勉強で知られ、大村益次郎・橋本左内・福澤諭吉・大鳥圭介・箕作秋坪(三叉学舎創立者)・佐野常民(日本赤十字社初代総裁)・本野盛亨(読売新聞社創業者)・手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)・久坂玄機(玄瑞の兄)など、幕末維新期をリードする偉材を多く輩出した。大阪大学医学部の前身とされる。大村益次郎と福澤諭吉は共に適塾で塾頭を務めた大秀才だが就学時から反りが合わず、過激な攘夷屋を嫌悪し逸早く英語教育に目を着け文明開化のカリスマとなった福澤諭吉と、長州藩・明治政府で軍政の指導者となった大村益次郎(尊攘運動には距離を置いた)、二人は出発点を同じくしながら対照的な出世コースを辿った。大鳥圭介は、適塾を出てジョン万次郎に英語を学び尼崎藩・徳島藩に出仕、幕府の蕃書調所に招聘され日本初の合金製活版を作った(大鳥活字)。ここまでの経歴は同じ村医(庶民)の出自で宇和島藩を経て蕃書調所・講武所教授へ進んだ大村益次郎と同様だが、幕府に留まった大鳥は陸軍幹部となり、江戸開城の日に伝習隊を率いて江戸を脱走、新撰組の土方歳三らと共に北関東から会津へ転戦し仙台で幕府軍艦を率いる榎本武揚に合流して五稜郭へ入り陸軍奉行として函館戦争を戦った。大鳥圭介の人格と才能を惜しむ大村益次郎と福澤諭吉は赦免工作に努め、特赦で出獄した大鳥は明治政府に出仕、軍務には就けなかったが開拓使・工部省の技術官僚を経て日清戦争直前に駐清国特命全権公使・朝鮮公使を努め枢密顧問官・男爵に叙された。津山藩出身の箕作秋坪は、緒方洪庵の適塾に学んで洋学の権威となり、明治維新後に東京で三叉学舎を開いた。三叉学舎は福澤諭吉の慶應義塾と並び称された洋学塾で、東郷平八郎・原敬・平沼騏一郎(津山藩出身)らを輩出した。
手塚治虫と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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