仁礼景範の娘婿として薩摩海軍閥に連なり、山本権兵衛の下で海軍次官・海相を長く勤め首相に上り詰めた後、二・二六事件で殺害された「山本権兵衛の副官」
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斎藤 実
1858年 〜 1936年
50点※
斎藤実と関連人物のエピソード
- 斎藤実は仙台藩水沢の出身、元藩士の父は没落し「賊軍」故に前途は暗かったが、胆沢県大参事の安場保和の書生に選ばれ運を掴んだ。旧東北諸藩では、中央から派遣された役人が優秀な師弟を選別し中央へ進学させる救済ルートがあった。一歳年長で近所のガキ大将だった後藤新平も一緒に書生となり、後に安場保和の女婿となっている。官費で勉強できる軍人を志した斎藤実は水沢県東京出張所に給仕の職を得て上京、陸軍幼年学校に21番で合格するも官費生20人枠に入れず、半年後に海軍兵学寮予科を受験し官費生合格を果したが、直後に陸幼から官費生欠員に伴う繰上げ合格の通知が到来、後の山本権兵衛の改革まで海軍は陸軍の一部であり陸軍が断然有望だったが斎藤少年は海軍を選択した。斎藤実は海軍兵学校を3番で卒業するも出世コースに乗れず、7年間の艦隊勤務を経て公使館付武官兼務でアメリカ留学へ出された。が、通訳兼ガイドの精勤ぶりが西郷従道・山本権兵衛らの目に留まり参謀に栄転、「高千穂」勤務で山本艦長の子分となり、仁礼景範海相の娘婿の座を射止めて薩摩海軍閥に連なり異例の昇進が始まった、山本権兵衛の海相就任に伴い斎藤実は海軍次官に抜擢され7年在勤、山本から海相を譲られ8年以上も座を占めた。「山本権兵衛の副官」に徹した斎藤実には軍政面でも日清・日露戦争でも目立つ業績が無く、何度もポストを後任に譲ろうとしたが山本は忠実で野心の無い斎藤を使い続けた。海軍の大疑獄「シーメンス事件」で斎藤実海相は山本権兵衛首相と共に予備役編入へ追込まれたが、5年後に海軍大将に返咲き朝鮮総督に就任、12年後に辞任し隠居生活に入った。が翌年、海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため74歳の斎藤実が犬養毅の後継首相に選ばれた。満州事変以後の中国問題解決を期待されたが、海軍良識派ながら政治経験に乏しい斎藤実首相は為す術無く陸軍の満州国建国と松岡洋右の国際連盟脱退を承認、陸軍と右翼の僚平沼騏一郎が仕掛けた「帝人事件」スキャンダルで退陣に追込まれた。斎藤実は自派の岡田啓介に首相を譲り内大臣に就任したが、間もなく二・二六事件が起り自邸で虐殺された。
- 斎藤実は海軍省の辞令を受けアメリカ留学へ出立、サンフランシスコ行の汽船には伊藤博文の計いでヨーロッパ遊学へ出る陸奥宗光と三菱社員としてアメリカ遊学に向かう加藤高明も乗っていた。猛勉強で英語堪能となった斎藤実は、公使館付武官兼務を命じられた。実態は日本から出張して来る藩閥高官の通訳兼ガイドというクダラナイ仕事だったが、斎藤実は真面目にこなし黒田清隆・西郷従道・樺山資紀・山本権兵衛・日高壮之丞ら薩摩閥首脳の知遇を得た。黒田清隆の渡欧の随員に選ばれた斎藤実は、パリ公使館の職にあった同じ岩手県出身の原敬と知合った。
- 後藤新平は、胆沢県大参事で後に岳父となる安場保和に進学の機会を与えられ、親戚の高野長英の影響で医者となり、弱冠24歳で愛知県医学校(名古屋大学医学部)の校長兼病院長に就任、岐阜で遭難した板垣退助の診察にもあたった。が、欧米留学の経験が無いことに劣等感を募らせ、石黒忠悳を頼り内務省の医系技官へ転身、同僚の北里柴三郎とは生涯の親友となった。念願のドイツ留学を果した後藤新平は医学博士号を取得し、内務省衛生局長に昇進したが、相馬誠胤子爵の御家騒動(相馬事件)に巻込まれ突如官職を失った。しかし人間万事塞翁が馬、石黒忠悳軍医総監の推薦で後藤新平は官途に復帰し、日清戦争帰還兵の検疫業務を通じて陸軍長州閥のエース児玉源太郎に認められ飛躍の転機を掴んだ。日本政府は日清戦争で獲得した台湾に軍政を敷いたがマラリアとゲリラ暴動で難渋、台湾総督府の開設に奔走した児玉源太郎が自ら第4代総督に就任し、民政局長に抜擢された後藤新平は民政充実策と警察力強化のアメムチ政策で初めて植民地経営を成功させた。鈴木商店との癒着やアヘン専売の悪行も取沙汰されたが、土地制度改革、インフラ整備、台湾銀行・台湾製糖会社の設立、台湾縦貫鉄道の敷設など後藤新平が敷いた民政政策により、清朝が野蛮視した台湾は日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。政界へ転じた後藤新平は、児玉源太郎の死後も桂太郎・寺内正毅・田中義一ら長州閥に属し、初代満鉄総裁を経て第二次桂太郎内閣に逓信大臣兼初代鉄道院総裁で初入閣、寺内正毅内閣では内相から外相へ転任してシベリア出兵を断行し、拓殖大学学長を経て東京市長に就くと安田善次郎の支援を得て大規模都市開発「八億円計画」を立案した。関東大震災の復興を使命とする第二次山本権兵衛内閣は後藤新平を内相兼帝都復興院総裁に任命、後藤は短期間で首都機能を回復させ「大風呂敷」と揶揄されつつ今日の東京都心部の原型となる気宇壮大な近代都市建設を敢行した。植民地経営と関東大震災復興に確たる業績を残した後藤新平は、資格も野心も満々ながら何故か首相になれず、「政界の惑星」(恒星になれない)のまま71歳で永眠した。
- 明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
- 西郷従道は、幕末薩摩藩を率いた西郷隆盛の15歳下の三弟で少年期から「精忠組」に加わり、従兄弟の大山巌と共に有馬新七らの急進派に属し「寺田屋騒動」に遭遇したが、薩英戦争の勃発で謹慎を解かれ戦闘に参加した。英軍艦の艦砲射撃に手を焼いた薩摩藩士は、スイカ売りに化けて小船で接舷し斬込むべく決死隊を組織、西郷従道も加わったが不発に終わっている。西郷従道は鳥羽伏見の緒戦から戊辰戦争に従軍し、大砲の権威となっていた大山巌や「人斬り」桐野利秋ほどの活躍はなかったが、貫通銃創の重傷を負いながら各地を転戦、維新後は西郷隆盛が君臨する新政府軍の幹部に収まり、欧州軍事視察へ同行した山縣有朋の徴兵制(国民皆兵)に共鳴、兄を説得し島津久光・桐野利秋ら薩摩勢の反対を抑え実現へ導いた。征韓論争に敗れた西郷隆盛は官を辞して鹿児島へ退いたが(明治六年政変)、兄から「吉二郎(戊辰戦争で戦死した西郷兄弟の次男)と比べて小才が効く」と評された西郷従道は大久保利通政府に留まり、薩摩軍人のガス抜きのため征討軍3千名を組織し台湾出兵を強行した(西郷隆盛は従道の要請に応じ鹿児島から兵員を送っている)。不平士族反乱が相次ぐなか、西郷隆盛も「私学校党」を抑えられず西南戦争が勃発、西郷と共に桐野利秋ら有力薩摩軍人が悉く戦死し陸軍は長州閥の天下となったが、西郷従道は薩摩閥の首領に浮上し文官へ転じた山縣有朋に代わり陸軍卿に就任した。西郷従道は大山巌に陸軍卿を譲り農商務卿へ転じたが間もなく開拓使官有物払下げ事件が発生、主犯の黒田清隆と共に大隈重信・三菱潰しの前面に立ったため民権派に憎まれ、1885年内閣制度発足に伴い軍部へ戻り初代海軍大臣に就任、一時内相へ転じたが大津事件で引責辞任し、1898年に山本権兵衛に譲るまで日清戦争を含むほとんどの期間海相の座を占めた。西郷従道に特筆すべき業績は無く薩摩閥重鎮として栄達したに過ぎないが、優秀な山本権兵衛に海軍改革を任せ切り露払い役を務めたことで帝国海軍創建の功労者となった。西郷従道は再三首相候補に推され貫禄も十分だったが、西郷隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に固辞し続けたといわれる。
- 西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌・東郷平八郎らと同じ鹿児島城下加治屋町に生れ育った山本権兵衛は、「郷中教育」で早熟な志士となり11歳で薩英戦争、16歳で戊辰戦争に従軍、20歳前には歴戦の薩摩軍人となり175cmの体躯と鋭い眼光で非凡な風貌を漂わせた。明治維新後、西郷隆盛に「お前は海軍をやれ」と言われた山本権兵衛は勝海舟海軍卿の書生となり、海軍操練所(兵学寮→兵学校)1期生に加えられたが、不平士族反乱が相次ぎ薩摩が不穏になると同僚の左近充隼太と共に帰省し西郷隆盛に進路指導を仰いだ。鹿児島は暴発寸前の私学校党王国の様相で物騒を極め、山本権兵衛らは「川村純義のスパイ」と疑われ闇討ちされかねない状況だった。山本権兵衛は西郷隆盛に従う意思が強かったが「前途ある若者は政治問題に関わらず修行に専念し、その後に国事に努めるべきだ」と諌められ復学を決意、長崎行きの便船で鹿児島を発ち東京に戻った。長崎で引返した左近充隼太は西南戦争で西郷軍に加わり戦死、同時期に鹿児島に戻った兄の山本吉蔵もスパイ嫌疑で追放され熊本で官軍籍に復帰したが西南戦争で戦死、海軍兵学校に戻った山本権兵衛は航海実習中のケープタウンで西南戦争勃発を知った。このときドイツ軍艦「ビネタ号」艦長のモンツ大佐に薫陶を受けた山本権兵衛は後年「西郷隆盛を第一の恩人とすれば、モンツは第二の恩人だった」と語ったが、第一の恩人を見限った負目は終生拭い難く、鹿児島帰省時には必ず西郷と左近充の墓がある浄光明寺に参詣したという。さて山本権兵衛は、10余年の艦隊勤務を経て、西郷従道海相の引きで海軍伝令使(海相の首席秘書官)に任官、折をみて兄の西郷隆盛と行動を異にした理由を問質すと西郷従道は少佐に過ぎない山本に丁寧に答え同じ負目を持つ者同士は意気投合、山本は欧米出張と艦長勤務を経て海軍省大臣官房主事に抜擢され海軍創建の大役を任された。
- 陸軍から分離発足した海軍は境界が曖昧で、海相の西郷従道さえ陸軍中将のままであり、上層部には海軍の素人が多かった。海相官房主事に任じられた山本権兵衛は人事と統帥部の分離独立を掲げ大胆な改革を断行、薩長藩閥を問わず96人もの将官佐官をリストラ(予備役編入)する一方で斎藤実(仙台)・加藤友三郎(広島)・岡田啓介(福井)ら海軍兵学校出身者を積極的に登用、海軍は山縣有朋の長州閥が牛耳る陸軍と異なりオープンな組織となった。なお、加治屋町の先輩東郷平八郎も整理リストに入っていたが山本権兵衛の一存で残された。急激な改革は軍人のみならず新聞の酷評を受け世論も反発、大ボスの山縣有朋が山本権兵衛退治に乗出したが、山本は「閣下」と煽てて篭絡し応援の井上馨らも理路整然と説伏せた。山場を乗切った山本権兵衛は、日清戦争準備の作戦会議で海軍輸送の重要性を説き統帥部(海軍軍令部)の独立に成功、終戦直後には対露開戦の不可避を予見しロシアの軍拡を上回る速度で軍艦を建造し10年以内に戦艦六隻・重巡洋艦六隻を整備するという「六六艦隊計画」に着手、西郷従道から海相を継ぎ戦争準備に邁進した。正に10年後に桂太郎内閣が対露開戦を決定すると、山本権兵衛海相は軍令部も掌握して作戦を指揮し連合艦隊に出撃命令を下した。連合艦隊司令長官は常備艦隊司令長官の日高壮之丞(薩摩)の順送りが筋だったが、日高の独断専行を嫌う山本権兵衛は命令遵守型の東郷平八郎への交代を強行、懸念を示す明治天皇には「東郷は運の良い男ですから」と奏上した。加治屋町の先輩で陸軍総司令官の大山巌は出征直前に山本権兵衛を訪ね内地で早期講和に尽くすよう依頼、奉天会戦・日本海海戦の勝利で日露戦争の帰趨が決すると山本海相は伊藤博文・井上馨・陸軍の児玉源太郎と共に桂太郎首相の無謀な継戦論を抑え日本の国益を護った。
- 山本権兵衛は最高の軍人だが、国際感覚に長けた優秀な政治家でもあった。日清戦争の最中、連戦連勝の勢いで広島の大本営を旅順へ進める案が有力となった。欧米列強の干渉を危惧する伊藤博文首相は反対だったが正面切って軍令に口出しできず、海軍を仕切る山本権兵衛に助勢を求めると、真意を汲んだ山本は天皇の名代として小松宮参謀総長を旅順へ送る妥協案を示し丸く収めた。伊藤博文は山本権兵衛の政治センスを評価し第三次伊藤内閣の海相に推薦、山本が辞退したため西郷従道が留任したが、同年の第二次山縣有朋内閣で山本海相が実現した。山本権兵衛海相は日露戦争前後8年の重要任務を完遂し、子飼の斎藤実・加藤友三郎に海軍を託した。政界へ転じた山本権兵衛は、伊藤博文から西園寺公望・原敬へ受継がれた政友会の支持を得て2度組閣したが、長期政権を期待されながらシーメンス事件・虎の門事件の不運に遭い通算1年半足らずの短命政権に終わり、軍部大臣現役武官制の緩和と関東大震災後の帝都復興(後藤新平の抜擢)くらいしか業績を残せなかった。シーメンス事件のせいで元老になれなかった山本権兵衛は、首相辞任後は政治・軍事に口出しせず潔い引際を示した。隠退後の山本権兵衛は愛妻家・子煩悩の好々爺で、囲碁・将棋・ゴルフなどの道楽はせず散歩を唯一の趣味とした。統帥権干犯問題で「艦隊派」に担がれた東郷平八郎元帥と対照的だが、海軍が対英米強硬へ傾くのを座視したことは不作為の失策だろう。また、山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで海軍軍令部総長(後に元帥)に担がれた伏見宮博恭王は第二次大戦終結まで海軍に君臨、国際協調派(良識派)の粛清から軍拡・日独伊三国同盟・対米開戦へ至る海軍暴走の旗頭となり、特攻作戦の封印を解く役割も演じた。
- 日清戦争開戦に備え伊藤博文首相・山縣有朋司法相・陸奥宗光外相・川上操六参謀本部次長・山本権兵衛海軍大臣官房主事による作戦会議が開かれた。「作戦の神様」と称された川上操六は陸軍は勝てると断言した。これに対して山本権兵衛は、兵員と軍事物資の輸送を担う海軍の重要性について理解を求め制海権の確保が大前提であると説明、山縣有朋から「海軍は勝てるか」と問われると、世界最大の軍艦「定遠」「鎮遠」を擁する清国軍には主力艦の規模と主砲の火力においては劣るが、艦艇の速力と兵員の練度において断然優位であり、従って勝てると断言した。かくして日清戦争の火蓋が切られたが、山本権兵衛の予言どおり、主力艦隊が激突した黄海開戦で日本海軍は圧勝し制海権を握った日本軍は作戦を計画どおり進め日清戦争に完勝した。
- 甲午農民戦争で朝鮮派兵を敢行した伊藤博文政府は、立憲制への移行が完了し軍備増強も進んだことから対清開戦を決意、大本営を広島に設置し、帝国議会は巨額の軍事予算を承認するなど挙国一致体制の構築に成功した。伊藤首相の腹心陸奥宗光外相と、参謀本部を仕切る川上操六が開戦路線を牽引した。朝鮮政府に対して清との宗属関係を断つよう求めたが、これが拒否されると日本軍は朝鮮王宮を占領、親日政権を樹立したうえで、朝鮮半島から清の勢力を一掃するため清政府に宣戦布告した。近代的軍備と兵士の練度に優る日本軍は緒戦から清軍を圧倒、山縣有朋の陸軍第1軍が平壌を陥落させ、伊東祐亨率いる連合艦隊が黄海海戦に勝利して制海権を握ると、陸相大山巌の陸軍第2軍が旅順攻略に成功、陸軍第2軍と連合艦隊が陸海から山東半島の威海衛を攻撃して清の北洋艦隊を壊滅させた。前線の将兵の活躍により日清戦争は日本軍の完勝で終結したが、作戦を担い必勝の布陣を準備した陸軍の川上操六と海軍の山本権兵衛の手腕は一層鮮やかであった。日清戦争における両国の戦力は、日本の陸軍総兵力約24万人・艦隊総排水量約5.9万トンに対して、清は陸軍総兵力約63万人・艦隊総排水量約8.5万トンであった。
- 日清戦争で日本軍の勝利が確定すると、北洋軍閥の総帥にして清政府の最高実力者である李鴻章が全権として来日、下関春帆楼にて伊藤博文首相・陸奥宗光外相と講和交渉を行い下関条約を締結した。①清は朝鮮の独立を認める、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2億両の支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)、④沙市・重慶・蘇州・杭州の開港、⑤日清通商航海条約の締結(日本側に有利な不平等条約)・・・下関条約は大いに満足すべき内容であったが、立憲改進党の大隈重信・加藤高明ら「対外硬派」は伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開した。巨額の賠償金の8割以上は軍事関係にあてられ日本軍の増強に大きく寄与、残りは金本位制(貨幣法)の財源となった。
- 中国東北部を狙うロシアは、同盟国フランスおよびロシアの関心をアジアに向けさせたいドイツと結び、日本が下関条約で得た遼東半島を清に返還するよう強要した(三国干渉)。伊藤博文政府では列国会議で反論すべしとの案が優勢だったが、列強の更なる干渉を恐れる陸奥宗光外相の主張により受諾に決した。この間も陸奥宗光は、ロシアの南進政策を警戒し局外中立の立場をとる英米に働きかけ局面打開を狙ったが、イギリスが傍観で望みを絶たれ「要するに兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するも、その終極に至りて失敗を免れない」と現実的妥協を受入れた。日本では、大隈重信の立憲改進党など「対外硬派」の扇動で反露世論が沸騰、「臥薪嘗胆」で軍備拡張に邁進した。日清戦争を主導した陸奥宗光の『蹇々録』は第一級史料だが、国民が勝利に酔うなか冷静に警鐘を鳴らしている。いわく「日本人は、かつて欧米人が過小評価したよりは、文明を採用する能力あることを示したが、はたして、今戦勝の結果、過大評価されているほど進歩できるのだろうか。これは将来の問題に属する。・・・日本人は戦勝に酔って、進め進めという以外、耳に入らない。妥当中庸の説を唱うる人は、卑怯未練といわれるので黙っているほかはない。愛国心は別に悪いものではないが、愛国心の使い方をよく考えないと、国家の大計と相反することもある。・・・今や、わが国は、列国からの尊敬の的となると共に、嫉妬の対象ともなった。わが国の名誉が高くなると同時に、わが国の責任は重くなった。この両者の間をとって、歩み寄りさせるのは容易ではない。なぜならば、当時、わが国民の情熱は、しばしばすべての主観的判断に出て、少しも客観的判断を容れず、ただ国内事情を主として、外部の情勢を考えず、進むことを知って、止まることを知らない状況だった。・・・政府は、国民の敵愾心の旺盛なのに乗じて、一日も早く、一歩も遠く、戦局を進行させて、少しでもよけいに国民の気持ちを満足させた上で、国際情勢を考えて、日本に危険が迫れば、外交の上で、進路を一転する策を講ずるほかはないと考えた」。伊藤博文の国際協調路線を継ぐべき陸奥宗光は、惜しくも2年後に病没した。
- 日本の懐柔を企図するロシアは、朝鮮を永世中立化して日露両国の緩衝地帯にしようと提案してきた。しかし日本は、ロシアが陸続きの満州に巨大な兵力を駐留させた状況のまま承諾できるはずはなく、ロシア軍の満州からの撤兵が先であるとして提案を拒否した。日本国内では、満州をロシアに渡す代わりに日本による朝鮮支配を認めさせ武力対決を回避すべしと主張する伊藤博文・井上馨ら日露協商派と(満韓交換論)、世界最強のイギリスと同盟してロシアに断固抵抗すべしとする桂太郎・小村寿太郎ら対露強硬派が鋭く対立、両派それぞれが策動して二面外交を展開した。イギリスは清に有する多くの権益がロシアに侵されることを恐れ、日本からの日英同盟提案を受入れた。最大の後ろ盾を得た日本では、伊藤博文・井上馨らがロシアとの和平交渉を続けつつ、桂太郎首相・小村寿太郎・軍部が対露開戦準備に動き始めた。日英同盟成立に脅威を感じたロシアは清と条約して満州撤兵を約束したがすぐに撤回、伊藤博文・井上馨は改めてロシアに満韓交換論を提案するも拒否され交渉は決裂した。狭小な国土を海に囲まれた日本にとって南下政策を推進するロシアに朝鮮を抑えられることは国土防衛上の死活問題であり(朝鮮生命線論)、やむなく対露開戦を決意して国交を断絶、日露協商派・対露強硬派・軍部が一丸となって戦争準備に邁進した。
- 桂太郎政府は伊藤博文・井上馨の慎重論を退けロシアに宣戦布告、遂に日露戦争が始まった。陸軍は、総司令官大山巌・参謀総長児玉源太郎のもと第1軍(司令官黒木為楨)・第2軍(司令官奥保鞏)・第3軍(司令官乃木希典)・第4軍(司令官野津道貫)・鴨緑江軍(司令官川村景明)を編成した。やる気満々の山縣有朋は総司令官として出征するつもりだったが、用兵下手のうえ口うるさい山縣ではやりにくかろうという明治天皇の英断で日本に留め置かれた(戦争が始まると山縣は督励電報を送り続け現地将官を辟易させた)。一方の海軍は、海相として軍政を握る山本権兵衛が軍令も統率し、山本の作戦計画により編成された連合艦隊は第1艦隊司令長官東郷平八郎・参謀長島村速雄の指揮下に第2艦隊(上村彦之丞)・第3艦隊(片岡七郎)が連なった。なお連合艦隊司令長官の人選は、常備艦隊司令長官の日高壮之丞の横滑りが常道であったが、山本権兵衛は暴走の懸念がある日高を退け命令遵守型の東郷平八郎を指名、明治天皇に理由を尋ねられた山本は「東郷は運の良い男ですから」と回答した。「T字戦法(東郷ターン)」で日本海海戦を勝利に導く秋山真之参謀は東郷司令官の旗艦三笠で作戦を差配、また後に首相となる加藤友三郎は第2艦隊参謀長として出征した。日露両軍の戦力は、日本軍の陸軍総兵力約108万人・艦隊総排水量約26万トンに対して、ロシア軍は陸軍総兵力約200万人・艦隊総排水量約51万トンであった。戦力に加え資金力も乏しい日本政府は日露戦争の戦費調達に腐心したが、日銀副総裁の高橋是清がイギリスに渡りユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの協力を得て外債および戦時国債の発行に成功、最終的に戦費の過半は外債で賄われ高橋は陰の立役者となった。
- 東郷平八郎率いる連合艦隊は、旅順の太平洋艦隊撃滅を命じられた。世界最強といわれたバルチック艦隊がロシア本国から到着する前にケリをつけたかったが、逆にバルチック艦隊の到着を待ちたい太平洋艦隊は旅順港に留まったため、連合艦隊は旅順港を封鎖するほかに打つ手がなく、膠着状態が続いた。局面打開を迫られた日本軍は、新たに乃木希典の第3軍を編成し、陸上からの攻撃により旅順を制圧する作戦に切替えた。ところが、ロシア軍が大金を投じて大要塞化していた旅順は難攻不落で、第3軍は多くの死傷者を出しながら攻めあぐねた。業を煮やした参謀総長の児玉源太郎は、自ら赴いて乃木の指令権を代行し、ようやく203高地の占領に成功、203高地頂上からの砲撃により旅順港の太平洋艦隊を殲滅した。第3軍は約6万人もの犠牲者を出しながら、遂に旅順攻略の任を果した。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、第3軍の司令官乃木希典と参謀長伊地知幸介は力攻めに固執して6万人もの兵卒を無駄死にさせた無能な指揮官の烙印を押され児玉源太郎・秋山真之の引立役にされたが、当時の「守高攻低」の戦闘常識においてはやむを得ない選択だったといった擁護論もある。保守的で攻めに弱い山縣有朋の指名で司令官となった乃木希典だけに華は無く児玉源太郎のような用兵の妙は感じられないが、有能無能はともかく、結果的に任務を果し日露戦争勝利に貢献したとはいえるだろう。
- 旅順攻略に成功した乃木希典の第3軍が合流し、大山巌・児玉源太郎が率いる日本軍は奉天に進んで再び決戦を挑んだ(奉天会戦)。日本軍25万人とロシア軍37万人が激突した空前の大会戦で、数に劣る日本軍は苦戦したが、ロシア軍が総司令官クロパトキンの判断ミスで余力を残して退却したため辛うじて勝を拾うことができた。逆に、退く敵を追撃すれば殲滅するチャンスが生じたが、兵力も弾薬も払底した日本軍にその余力は残されていなかった。
- 日本の国運を賭けた日本海海戦は、日本の連合艦隊が戦力倍する世界最強のバルチック艦隊に挑んで海戦史上類をみないほどの完勝を収め、東郷平八郎司令長官の武名と共に戦史に輝く偉業となった。「本日天気晴朗なれども波高し」の打電や、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の意を示すZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞したことなど、ディテールまでよく知られ、現代ドラマでもお馴染みのシーンとなっている。日本側の沈没3隻に対して、ロシア側は参戦した38隻のうち21隻沈没、5隻捕縛、9隻武装解除、目的地のウラジオストクに到達できたのは3隻のみという、日本の完全勝利であった。最大の勝因は、バルチック艦隊の航路を的中させ、戦力を集中して待ち構える対馬沖で迎撃できたことだろう。可能性として対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3つの航路が考えられたが、外していたら無傷でウラジオストクに入港され作戦はご破算になるところであった。他の勝因としては、秋山真之の「T字戦法(東郷ターン)」に代表される作戦と兵員の練度、下瀬火薬と水雷艇の威力、旅順攻略や奉天会戦勝利による士気の向上、逆に長旅に疲れた相手方の士気低下などがあったとされる。
- 東郷平八郎は、西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌・山本権兵衛らと同じ鹿児島城下加治屋町に生れ15歳で薩英戦争に従軍、「春日丸」乗員として函館戦争まで転戦し、7年間のイギリス留学を経て海軍に入った。薩摩閥に連なる東郷平八郎は無難に昇進したが、陸軍の軍制改革や日清戦争の軍令を担った川上操六(同年)や「海軍の父」山本権兵衛(4歳年少)には遠く及ばず、山本の海軍改革(薩長藩閥を問わず96人もの将佐官を大リストラ)で整理リストに入るも山本の一存で救われた。海軍に残された東郷平八郎は、巡洋艦「浪速」艦長として日清戦争を戦い、海軍中央入りを望むも佐世保・舞鶴鎮守府(初代)の司令長官に回され予備役入りも噂されたが、日露開戦が迫ると海相の山本権兵衛は日高壮之丞(薩摩)を更迭し東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した。軍政に加え軍令(作戦遂行)の統率も図る山本権兵衛は、日清戦争で軍令違反があった日高壮之丞を嫌い命令に忠実な東郷平八郎を採用、訝る明治天皇に「東郷は運の良い男ですから」と説明したという。己を知る東郷平八郎は優秀な秋山真之(松山)参謀に作戦を託し秋山は「T字戦法(東郷ターン)」を案出、連合艦隊は帝政ロシアが世界に誇る太平洋艦隊・バルチック艦隊を殲滅し世界海戦史に輝く大勝利を収めた。熱狂で迎えられた東郷平八郎は国民的英雄となり、伯爵(のち侯爵)に叙され「生ける軍神」と崇められた(没後に東郷神社建立)。日露戦争後「海軍の神様」となった東郷平八郎は、軍令部総長を経て元帥に栄達したが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると伏見宮博恭王と共に反米軍拡派(艦隊派)に担がれ82歳にして海軍人事に介入、亡国路線の幇助者として晩節を汚した。東郷平八郎元帥は、五・一五事件を起した海軍将校の処刑に異を唱え軍部の規律崩壊にも一役買っている。
- 秋山真之は、日露戦争における海軍参謀陣のエースとして連合艦隊の作戦立案を担った『坂の上の雲』の主人公、司馬遼太郎史観の潤色で胡散臭さが漂うが正真正銘の奇才であった。松山の貧乏藩士の五男に生れた秋山真之は、9歳年長の兄秋山好古の援助で東京へ進学、共立学校・大学予備門から東大を目指したが志を転じて海軍兵学校(17期)へ進んだ。陸大1期生だった秋山好古は「日本騎兵の父」と称され陸軍大将となり、松山中学校・大学予備門で共に学んだ親友の正岡子規は東大(哲学科→国文科)へ進み「明治の文豪」となった。さて、「試験の神様」秋山真之は海兵を主席で卒業し米英へ留学、最新の海軍学と古今の戦史を渉猟して独自の戦術眼を養い、帰国後は顕職の常備艦隊参謀を経て34歳の若さで海軍大学校戦術教官に抜擢された。間もなく日露開戦が迫り、連合艦隊に呼ばれた秋山真之は山屋他人(海兵12期で前任戦術教官)ら並居る先輩を押退け先任参謀に昇格、東郷平八郎司令官・島村速雄(7期)参謀長から作戦立案を託された。秋山真之は旗艦「三笠」の寝床に籠って作戦に没頭し、島村から参謀長を継いだ加藤友三郎(7期)の頭越しに東郷平八郎司令官は秋山案を採用、連合艦隊は陸軍の支援を得て(203高地占領)旅順港に逼塞する太平洋艦隊を殲滅し、ウラジオストク港へ向かうバルチック艦隊を対馬沖で捉え「T字戦法(東郷ターン)」で撃破し海戦史上に輝く劇的勝利、世界最強と謳われたロシア海軍を壊滅させ皇帝ニコライ二世をポーツマス講和へ追込んだ。日露戦争後、秋山真之は海軍で神聖視され海軍省枢要の軍務局長に栄進したが、心身の不調で目立った活躍は出来ず、大本教に没入して盲腸炎の手術を拒み49歳の若さで世を去った。秋山真之が編出した「秋山兵術」は聖典となり、ほとんど修正されることなく太平洋戦争終結まで海軍大学校で継承されたという。
- 日露戦争で国力に劣る日本のとるべき道は短期決戦・早期講和しかないと看破した伊藤博文は、そのカギを握るのはアメリカであると考え、側近の金子堅太郎を派遣して親日世論の喚起と講和仲介の準備工作にあたらせた。金子堅太郎は、少年期に岩倉使節団の随員として渡米し小学校からハーバード大学まで学んだ日本屈指の知米派官僚で、セオドア・ルーズベルト大統領とも面識があった。日本軍は極東ロシア軍を撃破し日露戦争に勝利したが、兵力・弾薬・戦費いずれも払底し戦争継続は不可能となった。ここで伊藤博文・金子堅太郎の準備工作が奏功し桂太郎首相はアメリカ政府に講和斡旋を依頼、ルーズベルト大統領はアメリカのフィリピン支配を日本が認める条件で受諾し米国ポーツマスに日露両国の公使を招いて講和会議を開催した。大国ロシアは強硬姿勢で皇帝ニコライ二世は首席全権ヴィッテに賠償金支払いと領土割譲を厳禁、日本側主席全権小村寿太郎の奮闘も及ばず交渉決裂寸前まで追詰められたが、伊藤博文や山本権兵衛に背中を押された桂太郎首相が賠償金要求放棄と領土割譲を南樺太に留める妥協案を承認し、ポーツマス条約の調印に至った。①朝鮮における日本の優越権の承認、②旅順・大連の租借権譲渡、③東清鉄道の南満州支線(旅順-長春間)・安奉鉄道(安東-奉天間)の経営権および付属地炭鉱の租借権譲渡、鉄道守備に係る軍隊駐屯権の承認、④北緯50度以南樺太の領土割譲、⑤沿海州・カムチャツカ沿岸の漁業権承認、⑥日露両軍の満州撤退(鉄道守備隊を除く)・・・賠償金と領土を断念した日本だが「生命線」朝鮮の奪還で開戦の主目的を達成したのに加え、旅順・大連および南満州鉄道の経営権を獲得、軍事進出を正当化する守備軍隊の駐屯権も確保し「利益線」にして「無主の地」満州への足場を築くことが出来た。
- 日清戦争で初めて中国からの独立を果した李氏朝鮮(大韓帝国)だったが、日露戦争もどこ吹く風で親日・親露・親中に分れ不毛な派閥抗争に終始、日露戦争でロシアの脅威を退けた日本政府は、有名無実の李朝から外交権を奪って保護国化し、首都の漢城(ソウル)に韓国統監府を置き監視体制を強化、初代韓国統監には文治派の伊藤博文が就任し山県有朋ら軍閥を抑え朝鮮守備軍の指揮権も掌握した。なお、李朝には大勢の世襲「武班」はいたが「軍隊」は1万人足らずで国防どころか国内の治安維持も覚束ない有様で、儒生を核とする朝鮮全土の農村組織も「家」あって「国家」無き朱子学に侵され著しく統率を欠いていた。親露派の高宗はオランダ・ハーグの万国和平会議に密使を送り日本の非道を訴えたが同類の帝国主義諸国は黙殺、日本は高宗を退位させて純宗を擁立し(大韓帝国最後の皇帝)内政権を取上げ名ばかりの李朝軍も解体した。「小中華の弟の反逆」に抗日運動(義兵運動)が沸起り1908年には1万人もの死者が発生、穏健統治の限界を悟った伊藤博文は韓国統監を辞任し、民政派の曽禰荒助が後継するも機能せず、伊藤はハルビン駅頭で安重根のテロに斃れた。死に臨む伊藤博文が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり穏健派重鎮の暗殺死は軍部と桂太郎首相・小村寿太郎外相ら武断派に格好の口実を与え、翌年には陸軍の寺内正毅が乗込んで韓国併合を断行し初代朝鮮総督に就任した。以後、朝鮮総督は陸海軍大将が歴任したが穏健な文化統治への転換が図られ、日本による国家建設で民生の劇的改善が進むなか小規模暴動も「三・一独立運動」で終息した。韓国併合後、日本は赤字経営を続けながら産業インフラ整備と農地開拓を推進し、内地徴用を含む雇用創出で総失業状態を解消、生活向上で韓国人口は倍増し、スラム街は近代都市へ生れ変り、100しか無かった小学校は6千近くへ増え朝鮮人の識字率は6%から一般国並へ躍進、西洋列強の収奪モデルとは異なる対等な植民地経営で同化政策を推進した。が、第二次大戦に敗れた日本軍は米軍に執政権を明渡し退去、ソ連軍が殺到して朝鮮国土は南北に分断され、米対中ソの朝鮮戦争で未曾有の戦禍を蒙った。
- 日露戦争後の国防方針において、山本権兵衛と加藤友三郎が主導する海軍の「八八艦隊」構想(戦艦八隻・巡洋艦八隻を基幹とする艦隊整備計画)が明らかにされた。日露戦争開戦に備え山本権兵衛が推進してきた「六六艦隊」構想を膨らませた内容であったが、当時の日本の歳出15億円に対して八八艦隊の維持費だけでも6億円と実現性は乏しく、第一次世界大戦後の世界的な軍縮機運のなかワシントン海軍軍縮条約が締結され八八艦隊構想は下方修正を余儀なくされた。
- 日露戦争後の日本では戦費調達のために発行した膨大な公債の利払いと償還が最重要課題であり、第一次山本権兵衛内閣は張本人である高橋是清の蔵相就任を目玉政策に掲げた。一方、護憲運動で倒された桂太郎内閣を継いだ山本権兵衛内閣は、政友会の支持を得るため陸海外相を除く閣僚の政友会入党という条件を呑んだ。銀行家出身の高橋是清に政党活動のキャリアは無く、蔵相ポストへの執着も無かったが、伊藤博文・井上馨・山本権兵衛の懇請で蔵相を引受け政友会に入党した。
- 次期海相候補の松本和中将をはじめ海軍ぐるみの大疑獄「シーメンス事件」が発覚した。山本権兵衛首相は無関与だったが薩長藩閥打倒を求める世論は沸騰し内閣は総辞職に追込まれ、井上馨ら薩長元老は民権派を宥めるため大隈重信を後継首相に担ぎ出した。「山本の副官」といわれた海相の斎藤実は事件への関与を疑われ、検事として取調べにあたった平沼騏一郎は斎藤没後に刊行した著書の中で「斎藤が首犯の松本和から10万円を受取った旨の調書が存在した」と明かしている。山本権兵衛は斎藤実と共に予備役に退き、9年後に第二次内閣を組閣するもシーメンス事件のために終生元帥になれなかった。
- 第一次世界大戦に伴う西欧諸国の財政難と軍縮機運の高まりを受け(日米は特需を享受)、1921年米英日仏伊の五大国が「ワシントン海軍軍縮条約」を締結、建艦競争抑止のため主力艦(戦艦・空母)の比率を米英5:日本3に定めたほか、日本の山東半島権益の返還などが決められた。台頭著しい日本海軍に警戒を強めるアメリカは、イギリスを抱込んで日英同盟を廃棄させ軍縮条約で軍拡抑制を図った。高橋是清内閣は日本全権として加藤友三郎海相・幣原喜重郎(国際協調派外交官)・徳川家達(公爵徳川宗家当主)を派遣した。露骨な日本封じに海軍内部の反発は強かったが、加藤友三郎は「八八艦隊」軍拡計画の主導者ながらアメリカと競う愚を悟って軍縮へ舵を切り「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。・・・日本と戦争の起る可能性のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に、結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」と喝破し条約調印を断行した。
- 加藤友三郎は頭脳明晰で海軍兵学校を2番・海軍大学校を主席で卒業、広島藩出身ながら山本権兵衛の引立てで累進し山本・東郷平八郎と共に「日本海軍の三祖」に数えられた。加藤友三郎はスマートな海軍エリートの典型だが、少年期は「ひいかち(癇癪持ち)の友公」と渾名され、赤鞘の長刀を腰に差し腹が立つと「打った切るぞ」と子供達を追い回したという。また、兵学校同期の島村速雄(主席卒業)と共に「酒豪の双璧」と称された(加藤の死因は大腸ガンだが酒が命を縮めたといわれ、島村も同年に病没)。さて艦隊勤務に就いた加藤友三郎は、日清戦争で巡洋艦「吉野」の砲術長を務め、日露戦争には第2艦隊参謀長で出征し旅順口閉塞作戦失敗で引責辞任した島村速雄に代わり連合艦隊参謀長となった。ただ、実際の軍令(作戦)は東郷平八郎司令官と秋山真之参謀の間で決められ、蚊帳の外に置かれた加藤友三郎は秋山を嫌ったという。とはいえ優秀な加藤友三郎は軍令部軍務局長・海軍次官に進み山本権兵衛の「八八艦隊」軍拡計画を推進、シーメンス事件で先輩層が失脚すると海相に特進して8年間在任し、第一次世界大戦後の軍縮機運のなかアメリカと国力を競う愚を悟り首席全権としてワシントン海軍軍縮条約を成立させた。原敬・高橋是清の政友会内閣が倒壊すると加藤友三郎内閣が発足、表向き貴族院を基盤としながら憲政会・加藤高明の組閣を恐れる政友会が実質与党となったため「変態内閣」、またヒョロナガイ加藤の風貌から「蝋燭内閣」とも揶揄された。加藤友三郎首相はワシントンで各国に約束したシベリア撤兵を断行し陸軍の「山梨軍縮」を導出したが僅か2年で急逝、大御所の山本権兵衛が政界復帰し第二次内閣を組閣した。加藤友三郎の死の7年後、ロンドン海軍軍縮条約に際し統帥権干犯問題が起り東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(反米軍拡派)が主導権を掌握し日本を対米開戦へと導いた。山本権兵衛は沈黙を貫いたが、9歳年下の加藤友三郎が存命ならと惜しまずにいられない。
- 加藤友三郎の急死に伴い海軍の大ボスである山本権兵衛が第二次内閣を組閣した。関東大震災の復興を使命とする山本権兵衛首相は、台湾・満州の植民地都市開発で辣腕を振い東京市長の職にあった後藤新平を内務大臣兼務で特設の帝都復興院総裁に任命し震災復興の大任を託した。後藤新平は、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴う「震災復興計画」を立案、政財界の反発で予算案は大幅削減されたが、今日の東京都心部の原型となる近代都市建設を敢行し、短期間で首都機能を回復させる手柄を挙げた。しかし一方で、帝都再建のために乱発した震災手形が膨大な不良債権と化し、片岡直温蔵相の失言を機に金融恐慌が起り第一次若槻禮次郞内閣が退陣に追込まれる事態となった。続く田中義一内閣で蔵相に就いた高橋是清の豪腕により金融恐慌は終息したが政府財政は回復せず、日本が活路を求め満州へ乗出す要因となった。
- 社会主義者の難波大助が皇太子摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を虎ノ門で狙撃、親王は無傷だったが山本権兵衛内閣は事件の責任をとり総辞職した(虎ノ門事件)。なお、警視庁警務部長の職にあった正力松太郎は、警視総監湯浅倉平と共に懲戒免官となり、翌年経営不振の読売新聞を買受け社長に納まった。正力松太郎は、軍部礼賛報道で政財界に勢力を増し、大政翼賛会総務を務めたことで東京裁判でA級戦犯指名を受けたが不起訴、米国CIAの協力者となり戦後の政治・言論界で暗躍した。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 濱口雄幸首相銃撃事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの背景には、軍部における下克上の風潮に加え、世界恐慌後長引く不況と金解禁等政府の失策に対する民衆の憤りがあった。デフレ不況で農村の窮迫が深刻の度合いを深める中、政府は有効な手立てを講じることができず、濱口雄幸内閣に至っては時機を謝った金解禁で不況を悪化させたうえに財閥に巨富をもたらす結果を招いた。何時の時代でも不況の打開策で最も手っ取り早いのは戦争であり、ジャーナリズムの扇動もあって、世論は好戦ムード一色となり軍部への期待が高まった。兵卒の大多数は農村出身者であり、彼らの悩みに直に接する隊付青年将校達は最も敏感に反応し井上日召・北一輝・西田貢ら民間右翼の思想に共鳴、グループを結成して急進的な「国家改造」を企てた。方や陸軍上層部では、下克上で実権を掌握した中堅幕僚グループ・一夕会が、永田鉄山率いる統制派と真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎らの皇道派に別れて対立を深めていた。隊付青年将校グループは、思想信条が近い皇道派と結びつき、武力クーデターによって「君側の奸」を排除し真崎・荒木を首班とする軍部主導内閣を打ち立てて一気に「国家改造」を果たそうとした。こうした事情のもとに行われた隊付青年将校グループと民間右翼によるテロは、金解禁を実施した濱口雄幸と井上準之助、金解禁で儲けた三井の団琢磨を殺害した後、犬養毅を斃して政党政治を葬り、二・二六事件でピークに達した。二・二六事件は、統制派の林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長により陸軍中枢から追われつつあった皇道派の起死回生の反撃という意味合いもあり、1500人もの反乱軍による一大内乱事件に発展した。結局、二・二六事件は昭和天皇の英断により断固鎮圧され、陸軍中央では皇道派幕僚が完全に閉め出され、一夕会・非皇道派の石原莞爾、続いて武藤章・東條英機ら統制派の天下となった。
- 金融恐慌により一層の軍縮要請が高まった列強各国は、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。ワシントン海軍軍縮条約で決定した主力艦(戦艦・空母)の保有制限に加え、補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)や潜水艦の縮小均衡が決議された。日本の軍縮外交をリードしたのは濱口雄幸内閣で国際協調(幣原外交)を推進する幣原喜重郎外相で、首席全権の若槻禮次郞と主席海軍代表の財部彪海相が表に立った。日本は、補助艦は対米英7割・潜水艦は現状7万8千トンの確保を方針に交渉に臨んだが、やや妥協して重巡洋艦は対米英6割・但し補助艦全体の総トン数は対米英69.75%で合意に漕ぎ着け調印した。なお、海軍きっての知米派で後に条約派(良識派)の中心となる山本五十六は次席随員を務めたが、このときは対米妥協に猛反対し若槻禮次郞をてこずらせた。このため山本五十六は海軍内で艦隊派と目され、この後に起る粛清人事を免れた。さて国内では、ロンドン海軍軍縮条約の批准に際し、東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の両大御所を担ぎ出した軍令部の加藤寛治総長・末次信正次長ら海軍強硬派(艦隊派)と、民政党内閣打倒を目指す政友会の犬養毅・鳩山一郎らが結託し、海軍軍令部の意に反する条約は天皇の統帥権を侵すとして、濱口雄幸首相・幣原喜重郎外相と海軍省の良識派幕僚(条約派)を攻撃した(統帥権干犯問題)。うやむやのうちに条約は批准され、喧嘩両成敗で財部彪・加藤寛治はじめ両派の首脳が辞任に追込まれたが、東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握り、国際情勢に明るい良識派の多くが要職を追われ海軍が対米強硬へ傾く転換点となった。この後「統帥権」は軍部大臣現役武官制と並ぶ軍部専横の切札となったが、もともと右翼の北一輝(二・二六事件の黒幕)が唱えた理屈を鳩山一郎らが政争の具に持出したもので、政党が軍部に「魔法の杖」を与える皮肉な結果を招いた。米内光政・井上成美・山本五十六ら良識派は頑強に抵抗したが艦隊派の優勢は揺るがず、6年後に広田弘毅内閣はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の廃棄を断行した。
- 軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
- 満州問題武力解決を強行する陸軍の謀略を知った昭和天皇と元老西園寺公望は南次郎陸相を呼びつけ停止を厳命、腰砕けとなった南は金谷範三参謀総長に相談のうえ止め役として建川美次作戦部長を満州へ派遣した。これを知った関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは決行か中止かで大いに迷ったが、三谷清憲兵分隊長・今田新太郎駐在分隊長ら若手の強硬派に押され遂に実行を決意した。奉天に到着した建川美次を料亭菊文に招いて酒豪の板垣征四郎らが酔潰している間に、今田新太郎ら実行部隊は奉天郊外の柳条湖付近で鉄道を爆破した(柳条湖事件)。満鉄の鉄道爆破は、関東軍条例第三条に基づく合法的軍事出動の理由を得るためであった。菊文を飛出した板垣征四郎は張学良軍の先制攻撃と断じて奉天守備隊長らに奉天城・北大営の攻撃を命令、旅順の関東軍司令部では石原莞爾が本庄繁司令官を説伏せ関東軍を奉天へ進発させた。奉天作戦に続くハルビン侵攻を期す石原莞爾は、張学良軍が奉天周辺だけで2万・満州全土で25万もいるのに対し関東軍は1万余という戦力不足を補うため、朝鮮駐留軍の越境増援を画策し朝鮮軍作戦参謀の神田正種の内諾を得ていた。が、奉天で待っていたのは金谷参謀総長からの不拡大方針決定を伝える電報であり、本庄繁司令官は翻意して即時停戦を命じ「ハルビン侵攻などもってのほか」とした。が、諦めない石原莞爾らは「ハルビンが駄目なら吉林省」と侵攻作戦を書き直し本庄司令官に談判した。「沢庵石」の異名をとる本庄繁は撥ね付けたが板垣征四郎の強談判に屈し、石原莞爾参謀は戦線を満州全域へ拡大、林銑十郎司令官の独断で朝鮮駐留軍も越境来援し日本軍は瞬く間に張学良軍を掃討し満州全域を制圧した(満州事変)。このとき本庄繁が頑として拒否を貫いていれば、張作霖爆殺事件と同様に満州事変は忽ち沈静化し石原莞爾・一夕会の大陸浸出の野望も挫折した可能性が高い。
- 石原莞爾関東軍作戦参謀と示し合わせていた神田正種朝鮮軍作戦参謀は、満州事変が起ると、朝鮮軍を率いて国境線の鴨緑江まで進んで待機した。金谷範三参謀総長は昭和天皇に朝鮮軍の越境出動を奏上したが、頑なに拒絶された。ところが、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で出動命令を下し、1万人以上の兵員を満州に進発させた。大元帥である天皇の命令なくして軍隊を動かすことは大犯罪であり、軍法会議で死刑になる決まりであった。慌てた陸軍首脳はこれを閣議に持ち込み、武力解決反対の若槻禮次郞首相や幣原喜重郎外相らは南次郎陸相を吊るし上げたが、林銑十郎司令官の越境朝鮮軍が既に満州に入ったとの報を聞くと若槻首相は「それならば仕方ないじゃないか」と一転、林司令官の行動の追認を閣議決定したばかりか、軍事費の特別予算拠出を決定、軍事予算急拡大の端緒を開いた。天皇の意思は無視されたわけだが、閣議決定には異を唱えない慣例のため、やむなく天皇も認可した。なお、新聞各紙は、林司令官を「越境将軍」などと持上げて犯罪行為を擁護した。
- 対外硬派の松岡洋右外相(元満鉄副総裁)の演説を契機に「満蒙は日本の生命線である」とする論調が活発化し、マスコミが煽ったため世論は「満蒙生命線論」に染まった。「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」という分り易いキャッチは瞬く間に国民を捕え、後に親米派に転じる吉田茂(奉天総領事)なども「満蒙の支配なくして経済的な繁栄も政治的な解決もない」と歓迎する有様だった。当時の弱肉強食の国際情勢からすると、戦線を満州に留める限り、合理的且つ現実的な方向性ではあったが、過剰な世論の後押しは永田鉄山・石原莞爾ら陸軍幕僚に決起を促す重要な支援材料となり、新聞記者は陸軍の接待攻勢に進んで抱込まれた。そして関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎が柳条湖事件を起し満州事変が勃発すると、当時ダントツの部数を誇った朝日新聞・東京日日新聞(毎日新聞)など新聞各紙は陸軍礼賛一色となり、新聞に煽られた世論は好戦ムードに染まった。新聞各紙は号外連発で民衆を煽り、巨費を投じた戦争報道で大きく部数を伸ばし、味をしめて完全に陸軍の宣伝機関に堕した。また、満州事変への関心の高まりはラジオの普及も促進し、約65万人だった契約者数は半年後に105万人を突破した。この後、勇ましい戦争記事を載せないと他紙に部数を奪われるという自縄自縛に陥った新聞業界は終戦まで軍部礼賛を継続、「社会の木鐸」の使命を放棄したマスコミは日本国民を破滅へ誘う笛吹童子となった。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 「方針-満蒙を独立国トシ我保護ノ下ニ置キ、在満蒙各民族ノ平等ナル発展ヲ期ス」関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎は東京に一時帰国し、「一夕会」同志と「満蒙領有の前段階として宣統帝溥儀を擁立して日本の傀儡政府をつくり、南京に拠る蒋介石の国民政府から切離して独立国を樹立する方針」を策定、関東軍に「1年間の隠忍自重」を促した永田鉄山軍事課長も撤収に伴う事態悪化を危惧し「満州以外に絶対に兵力を使わない」条件で「独立政権の設定」を承認、板垣が陸軍首脳と若槻禮次郞内閣を説得し「満州国建国方針」を認めさせた。独断専行で満州事変を引起した板垣征四郎・石原莞爾・林銑十郎・神田正種らは、軍法会議で極刑に相当する重罪犯であったが、この事後承諾で逆に評価される立場となり、処罰どころか陸軍で出世の道を歩んだ。軍部暴走を正当化する致命的失策を犯した若槻禮次郞内閣は思考停止に陥り退陣、民政党政権の対中国不干渉・国際協調(幣原外交)を主導してきた幣原喜重郎外相も政界を退き、軍部・右翼および近衛文麿・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫らの強硬論が日本外交を席巻する時代へ移った。「中国通」の犬養毅内閣も手を付けられないなか、関東軍は満州全域を制圧し新京(長春)に満州国政府を樹立し中華民国(蒋介石の国民政府)からの独立を宣言した。国際批判をかわすため満洲国執政(のち皇帝)に愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝)を据え中国人国家の体裁を整えたが、実態は純然たる傀儡であり、激怒した蒋介石は大抗議声明を発表、反日世論が沸騰し国共合作復活・統一民族戦線を求める機運が高まった。満州国では石原莞爾の「五族協和」の理想のもと統制経済に基づく壮大な国家建設が試みられ、「産業開発五ヵ年計画」を主導した岸信介ら「革新官僚」が台頭、陸軍の東條英機(関東軍参謀長)主導で星野直樹(国務院総務長官)・鮎川義介(満州重工業開発社長)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)らによる支配体制が確立された(弐キ参スケ)。
- ロンドン海軍軍縮条約や第一次上海事変の不拡大に不満を抱く三上卓中尉・古賀清志中尉ら海軍青年将校の一団が、天皇をミスリードする「君側の奸を排除する」として武装蜂起し犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。新聞記者あがりの犬養毅は政界に転じても毒舌の皮肉屋で鳴らし、大の負けず嫌いだった。三上卓らが首相官邸に来襲すると犬養毅は「早くお逃げください」と促す村田警備官を制し「きみらは何者だ?」と応酬、落着いた態度で「待て、話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。話をしてからにしろ。靴くらい、ぬいだらどうだ」と諭すも三上は「問答無用!」と叫んで銃弾を浴びせ逃走、犬養はタバコに火をつけ「いまの若いものたちを、もう一度呼んでこい。わしがよく話してやる」と話した。頭部に命中した2発の銃弾は急所を外れていたが、銃傷を軽く看た医師団のミスもあり数時間後に犬養毅は死亡した。軍部が「君側の奸」と憎む西園寺公望元老・牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長も狙われたが難を逃れた。現役の軍人が首相を殺すという大犯罪であったが、海軍内部では艦隊派(軍拡派)の東郷平八郎元帥・加藤寛治大将を筆頭に同情論が支配的で、国民からも助命嘆願運動が起り、首謀者の三上卓と古賀清志が禁固15年・実行犯2人が無期懲役と禁固13年に処されたものの残りは全部無罪という到底考えられない判決が下され、受刑者も6年後の特赦で放免となった。三上卓は、血盟団事件を起すも特赦放免の井上日召・菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党に合流し「ひもろぎ塾」を結成、右翼シンパの近衛文麿はテロ犯をまとめて内閣顧問に招聘する。五・一五事件後、テロに怯える西園寺公望と牧野伸顕は東京を離れたが、鈴木貫太郎は暴挙を容認した軍部を決然と非難し、高橋是清蔵相も財政の観点から軍事費抑制の主張を曲げなかった。政権争いに終始し機能不全に陥った政党政治は五・一五事件で命脈を絶たれ、続く斎藤実内閣(海軍)から第二次大戦終結まで「挙国一致内閣」が続くこととなった。五・一五事件の容認に味をしめた軍部や右翼は怖いもの知らずとなり、逆に政治家はテロに屈して抵抗を放棄、暴力が支配する恐怖時代への幕開けとなった。
- 海軍青年将校が起した五・一五事件の収拾を図るべくテロに斃れた犬養毅に代わり海軍良識派の斎藤実が74歳にして組閣した。首相候補には平沼騏一郎と山本権兵衛の名も挙がったが、右翼の平沼は昭和天皇の「ファッショに近いものは不可」との意思により外され、山本は80歳の高齢であることと東郷平八郎元帥ら海軍艦隊派の反対により三度目の組閣を阻まれた。高まる軍部の専横を抑えるため、民政党と政友会からも閣僚を迎え入れた「挙国一致内閣」であった。なお斎藤実内閣の発足に伴い、長州閥打倒を掲げる永田鉄山ら「一夕会」が結党以来擁立に動いてきた荒木貞夫が陸相・真崎甚三郎が参謀次長(参謀総長は飾雛の閑院宮載仁親王)・林銑十郎が教育総監に就任し陸軍三長官の揃い踏みとなった。
- 国際連盟が満州情勢調査のために派遣したリットン調査団は、3ヶ月間の調査を経て報告書を提出した。リットン報告書は、満州の特殊事情に配慮した中立的な内容であり、満州国承認を求める日本の主張は否認したものの、蒋介石政府の原状回復要求も現実的でないと退け、通商条約締結による和解を日中両国に勧告する公正なものであった。が、国際連盟事務局は満州国の分離独立を否認し日本軍は従来の満鉄守備区域まで撤退せよという「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」をジュネーブ特別総会に提出、採択の結果反対は日本のみ、賛成42票の圧倒的多数で日本軍の満州撤退勧告が決議された。リットン報告書から大幅に中国寄りへ傾いた背景には、中国権益保全のため国民政府を援助する英米の策動があったものと考えられる。国際連盟総会に出席した松岡洋右全権(元外交官・満鉄総裁の衆議院議員)は「さよなら」の捨て台詞を残し日本外交は議場を退場し、斎藤実内閣は国際連盟に脱会を通告した。松岡洋右の対外硬パフォーマンスは日本の孤立と不協調を印象付ける暴挙であったが、国際連盟は今日の国際連合以上に無力で発起人のアメリカは議会の否決で参加せず、ソ連も不参加、ブラジルは7年も前に脱退し、ドイツとイタリアも日本に続いた。また直後に日中間で「塘沽停戦協定」が成立しており(日本側代表は永田鉄山の盟友で関東軍参謀副長の岡村寧次)、満州事変・国際連盟脱退から一直線に日中戦争へ突き進んだわけではない(「十五年戦争」は正確ではない)。とはいえ、さすがの松岡洋右もスタンドプレーの失敗を認めアメリカに身をかわし帰国を逡巡していたが、ジャーナリズムも世論も歓迎一色と知り勇躍凱旋、「栄光ある孤立」「ジュネーブの英雄」と持て囃され一層ファシスト化した。
- 大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
- 「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げる陸軍の隊付青年将校グループが独断専行で帝都駐在部隊1483人を動かし未曾有の武装蜂起事件を起した(二・二六事件)。反乱将校らは皇道派の真崎甚三郎大将を首班とする軍事政権樹立を目指し、帝都要衝の総理大臣官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部・東京朝日新聞を武装占拠し「国家改造」を要求、最終目標の皇居占拠・天皇確保は近衛師団に阻まれ断念したが、岡田啓介首相・高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎陸軍教育総監・牧野伸顕前内大臣を次々と襲撃し高橋・斎藤・渡辺を殺害、岡田首相は側近の身代わりで虎口を逃れ、鈴木は重傷を負うも一命を取留めた。岡田・斎藤・鈴木は海軍条約派・高橋は財政家として軍拡要求に反対し「君側の奸」と憎まれていた。陸軍は大混乱に陥り反乱部隊と気脈を通じる真崎甚三郎・荒木貞夫・本庄繁ら皇道派重鎮と、荒木を「バカ大将」と面罵し断固鎮圧を主張する石原莞爾らの対立があったが、信頼する重臣を殺害された昭和天皇は「反乱」鎮圧を厳命した。3日後の2月29日、敬慕する昭和天皇に朝敵の烙印を押された反乱将校は部隊を解散して兵卒を原隊に復帰させ2人が拳銃自殺し他は全員投降、最終的に反乱将校16人および黒幕とされた民間右翼の北一輝と西田税が死刑に処され、数十人に禁固刑判決が下された。二・二六事件後、茫然自失の岡田啓介首相が退陣し広田弘毅内閣が発足、中立派の寺内寿一を陸相に担いだ石原莞爾が陸軍の綱紀粛正を断行し、皇統派は処罰を免れるも真崎甚三郎・荒木貞夫ら7大将と小畑敏四郎・山下奉文を含む将佐官の悉くが陸軍中央から追放された。日中戦争が始まると武藤章・田中新一ら統制派が不拡大を説く石原莞爾から陸軍の主導権を奪い強硬外交と軍国主義化を牽引、皇統派に憎まれ予備役間近といわれた東條英機も一躍陸軍中枢へ台頭し、テロの脅威が蔓延するなか軍部は再発をちらつかせて強迫姿勢を強め、結果的に二・二六事件は反乱将校が目指した軍事国家樹立への重大な伏線となった。
- 二・二六事件で首相の岡田啓介は主標的にされたが九死に一生を得た。首相官邸で就寝中に反乱軍来襲を知った岡田啓介は、物置になっていた大浴場と女中部屋の押入れに身を隠した。妹婿で首相秘書官の松尾伝蔵は、岡田啓介に扮して自ら身を晒し「きさまらはもうすぐ満州へ渡り、戦闘をしなければならんのだ。それなのにここで撃てんようでは役に立たんぞ。撃て!」と挑発し、撃たれると「天皇陛下万歳!」と叫び絶命、血の繋がりは無いが松尾の容貌は岡田に似ており兵士らは命懸けの芝居に引っ掛かった。松尾伝蔵を殺した後も反乱軍は首相官邸の占拠を続け岡田啓介は押入れに逼塞したが、娘婿で首相秘書官の迫水久常の機転と憲兵隊の協力により弔問客に紛れ脱出した。間一髪で虎口を逃れ腹心の松尾伝蔵と親分の斎藤実を殺された岡田啓介のショックは大きく、翌日憲兵司令官の護衛で参内し昭和天皇に首相辞任を奏上、疲れ果てた岡田の様子を見た天皇は自殺を心配し承諾せざるを得なかった。
- 岡田啓介は海軍兵学校15期へ進んだが素行不良で成績も中位、山本権兵衛に目を掛けられた同期主席の財部彪(山本の女婿)や17期の秋山真之に大きく水を空けられた。艦隊勤務から横須賀海兵団の軍楽隊に左遷された岡田啓介は腐って昼寝ばかりしていたが、欠員補充で東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」の砲術士官に回され「高陞号撃沈事件」に遭遇し日清戦争に出征、日露戦争では重巡洋艦「春日」の副長として日本海海戦を戦い、第一次大戦では第二水雷戦隊司令官として青島攻略戦に参加した。岡田啓介は叩き上げの「水雷屋」で政治とは無縁だったが、シーメンス事件で海軍上層部が失脚したため海軍省に呼ばれ人事局長に就任、艦政本部長から財部彪海軍大臣の次官へ上り司令長官ポストを経て田中義一内閣で海相に栄達した。ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると、無派閥の岡田啓介は条約派(国際協調)と艦隊派(反英米軍拡)の調整に奔走したが、海相に復した条約派のエース財部彪は予備役に追込まれ東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握った。海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため条約派の斎藤実が組閣すると岡田啓介は調整役を期待され海相に復帰、陸軍と右翼の攻撃(帝人事件)で斎藤内閣が倒れると岡田に組閣の大命が下された。満州事変後の軍拡景気で日本は逸早く世界恐慌を脱し、天皇機関説問題や国体明徴運動の扇動で国民が軍国主義に染まるなか、岡田啓介首相は母体である海軍の艦隊派にも突上げられ防戦一方、二・二六事件で一命を拾うも思考停止に陥り政権を投出した。広田弘毅・近衛文麿内閣が軍部に追従し傷口を拡げるなか、岡田啓介は重臣会議に列し米内光政・鈴木貫太郎ら海軍良識派を後援したが伏見宮博恭王ら艦隊派の優位は動かせなかった。対米開戦の大詰めで東郷茂徳外相からの海軍内強硬派の説得要請を黙殺した岡田啓介であったが、敗戦必至の状況に陥ると米内光政・鈴木貫太郎と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣の終戦工作をサポート、サンフランシスコ平和条約の発効・GHQ解散を見届け世を去った。
- 二・二六事件で、侍従長の鈴木貫太郎は麹町の官邸を反乱部隊に襲撃され重傷を負ったが、本当に奇跡的に一命を取り留めた。海軍の叩き上げで「鬼貫」といわれた鈴木貫太郎はさすがに剛毅で、武士らしく「一つ返り太刀を」と日本刀を探したが見つからず、反乱部隊が乱入すると「何か理由があるはずだ。それを説明しなさい」と毅然と対応した。下士官が問答無用と銃撃を命じると、鈴木貫太郎は直立不動の姿勢で「やむを得ない。撃ちたまえ」と言い、左胸・左頭部・左足大腿部に3発の銃弾を浴びた。たか夫人は「留めが必要だとおっしゃるなら、妻の私がいたしましょう」と夫を庇い、軍刀に手を掛けた指揮官の安藤輝三陸軍大尉を制した。実は二・二六事件の2年前、鈴木貫太郎は安藤輝三の申入れに応じて引見し、急進的な国家改造論を諄々諌め、鈴木に敬服した安藤が一旦暴挙を思い留まった経緯があった。反乱部隊が去ったところへ湯浅倉平宮内大臣らが駆けつけ瀕死の鈴木貫太郎をタクシーで日本医大へ護送、左頭部に入った弾丸は耳の後ろを貫通し、胸部の弾丸は心臓を回り込んで背中に留まっており、経過もよく鈴木は奇跡的に蘇生した。公職に復帰した鈴木貫太郎は8年間務めた侍従長を辞し兼任の枢密顧問官のみに留まったが、昭和天皇の懇請により77歳にして「終戦内閣」の首班に担出された。陸軍省幕僚らが「玉音放送」を阻止すべく起したクーデター未遂事件で(宮城事件)、鈴木貫太郎首相は又も襲撃されたが今度も難を逃れ任務を全うした。3年後に鈴木貫太郎は80歳で没したが、遺灰には二・二六事件の銃弾が混ざっていたという。
- 海兵(14期)・海大へ進むもエリートから外れた鈴木貫太郎は、日露戦争で「水雷屋」として頭角を現し、海軍重鎮から天皇側近となり首相へ上り詰めた。同年生れの岡田啓介(海兵15期)とよく似たキャリアで、共に草創期の帝国海軍に身を投じ幕引き役を果した。「海軍の父」山本権兵衛は陸軍の長州閥ほど派閥に拘らず海兵卒の秀才を多く登用したが枢要は自派閥(薩摩閥)で固めた。特に徳川譜代藩出身者は希で海兵同期では鈴木貫太郎(関宿藩)のみ、成績凡庸で山本権兵衛の引きもなく艦隊勤務や教育畑を歩み、一期下の財部彪(山本の娘婿)に中佐進級で先を越されたとき退官を決意したが父の手紙で思い留まった。とはいえ反骨心旺盛な鈴木貫太郎は水雷の技量を磨き日清戦争に従軍、日露戦争では主力戦艦「春日」の副長として旅順閉塞作戦や黄海海戦に活躍し、戦中に第五駆逐隊司令に抜擢され旗艦「不知火」から4隻を指揮し日本海海戦で奮闘、猛烈な指揮ぶりは「鬼貫」と畏怖された。日露戦争の前、速力半減に代えて航続距離を伸ばした「マカロフ式魚雷」が開発され、海軍軍令部は総入替えを検討したが、一軍事課員ながら実戦感覚に優れた鈴木貫太郎は猛反対して山本権兵衛海相に談じ込み、半分は従来型を残すこととなった。果して日本海海戦、マカロフ式魚雷の遠隔攻撃はほとんど役に立たなかったが、鈴木貫太郎の第五駆逐隊は敵艦に肉薄して高速魚雷を打込み3隻撃沈の大戦果、鈴木の評価は一気に高まり「実戦の雄」と讃えられた。この他にも鈴木貫太郎は実戦の見地からしばしば秋山真之(海兵17期)参謀らに意見し、多くは的確だった。日露戦争で武名を馳せた鈴木貫太郎は海軍水雷学校長に就き、第二艦隊・舞鶴水雷司令官を経て山本権兵衛首相・斎藤実海相のもと海軍中央へ栄進(海軍省人事局長)、シーメンス事件で海軍上層部が失脚すると海軍次官に昇進し、海相と並ぶ海軍最高位の連合艦隊司令長官・軍令部長に栄達した。60歳を過ぎた鈴木貫太郎は満州事変を前に予備役へ退き侍従長兼枢密顧問官へ転出、天皇側近に加わり岡田啓介・米内光政(29期)と共に専横を強める陸海軍に対抗した。
- 盛岡出身の米内光政は、苦学して海兵(29期)・海大へ進んだが成績は中程でエリートコースには乗れず、艦隊勤務から叩き上げた。海軍人の首相では岡田啓介・鈴木貫太郎と同型で、山本権兵衛・加藤友三郎・斎藤実の本流とは異なる。米内光政は、ロシア(ソ連)・ドイツ・ポーランド駐在を通じて国際協調派(条約派・良識派)の論客に台頭し、統帥権干犯問題で艦隊派が優勢になると鎮海司令官に「島流し」されたが読書三昧で学識を高め、斎藤実内閣・岡田啓介海相の派閥調整人事で第三艦隊司令長官に栄転、佐世保・第二艦隊・横須賀・連合艦隊の司令長官を経て林銑十郎内閣で海相に栄達した。この間、米内光政は後輩の山本五十六(海兵32期)・井上成美(第37期)と良識派トリオを組み対米英協調を説いたが、伏見宮博恭王元帥を担ぐ艦隊派は一層勢力を増し海軍軍縮条約を撤廃し建艦競争を再開した。ただ、中国には強硬な米内光政海相は近衛文麿首相・広田弘毅外相と共に「断固膺懲」を唱え日中戦争泥沼化に加担している。さて、ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の誘いが来ると、海軍艦隊派の岡敬純(海兵39期)ら反米英派は陸軍に同調し強硬に同盟締結を主張、対する米内光政海相は「五相会議」で討議を尽くし「日独伊の海軍力では米英に勝ち目は無い」と断言したが、モノグサの性分が出たか吉田善吾に海相を譲り予備役へ退いてしまった。が、第二次大戦が勃発し、複雑な三国同盟を棚上げした阿部信行内閣は米価高騰に躓き退陣、海外通の米内光政に組閣の大命が降った。米内光政首相は同盟阻止を貫いたが、海軍内でも突上げられ四面楚歌、陸軍は畑俊六陸相の辞任と後継指名拒否で米内内閣を倒した。次の第二次近衛文麿内閣で三国同盟は成立したが米内光政は山本五十六と共に対米妥協に奔走、開戦後は早期講和を唱え続け岡田啓介・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣と結束して東條英機内閣を打倒、次の小磯國昭から海軍消滅まで海相を担い終戦工作に尽力し、戦後3年で世を去った。ただ、「海軍善玉論」の立役者となった米内光政だが、鈴木貫太郎首相にポツダム宣言の「黙殺」を進言し原爆投下・ソ連侵攻の口実を与える失策を犯している。
- 山本五十六は、越後長岡から上京して海兵(32期)・海大へ進み、「アメリカ通」および「航空主兵論」で頭角を現した。海大を優等で卒業した山本五十六は、2年間米国ハーバード大学に学び、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭を経て駐米大使館付武官に2年間在任、ロンドン海軍軍縮会議で次席随員を務め対米妥協に猛反対した。反米軍拡派(艦隊派)と目された山本五十六は統帥権干犯問題後の粛清を免れ、条約で押付けられた艦隊の劣勢比率を挽回すべく航空兵力の増強を提唱、志願して海軍航空本部に入り、海軍が石川信吾らの大鑑巨砲主義に染まるなか粛々と航空母艦・航空機の整備を進めた。米国の圧倒的な生産力を知る山本五十六は対米協調へ転じ米内光政(海兵29期)・井上成美(37期)と良識派トリオを組み艦隊派に対抗、米国を正面敵化する日独伊三国同盟に猛反対したが、米内内閣は陸軍の陸相拒否で倒され、伏見宮博恭王元帥を担ぎ海軍を掌握した岡敬純・石川信吾ら艦隊派は陸軍・松岡洋右に同調し第二次近衛文麿内閣で三国同盟を成立させた。芝居気が強くズケズケものを言う山本五十六は新聞記者の人気を博し度々マスコミに登場、米内光政は「茶目」と評したが、過激派には憎まれ暗殺予告文書を送りつけられた。テロの標的にされた山本五十六は艦隊勤務に出され、米内光政から海相を継いだ吉田善吾(32期)は艦隊派の突上げで退任、ナアナアの及川古志郎(31期)・嶋田繁太郎(32期)・永野修身(28期)らは南部仏印進駐・対米開戦へと引きずられた。連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は「勝っても負けても早期講和」の決意のもと自ら育てた航空兵力で真珠湾攻撃を敢行し「大博打」に勝利したが、快勝に浮かれた山本の連合艦隊司令部は「痛撃後の早期講和」を忘却し杜撰な作戦計画でミッドウェー海戦を強行、予想外の大敗で主要空母を失い緒戦の勝利は帳消しとなった。真珠湾攻撃に瞠目した米軍は航空兵力の大増産に乗出し続々と前線に投入、守勢に転じた日本軍が太平洋の制海権を削られるなか、茫然自失の山本五十六は為す術無く日を送り、前線視察に出た搭乗機を狙い撃ちされ非業の死を遂げた。
- ロンドン海軍軍縮会議から帰国した山本五十六は、末次信正軍令部次長に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。」と進言して航空兵力の重要性を説き、自ら海軍航空本部技術部長に就任、以後一貫して海軍における空軍力拡充を主導し、5年後には海軍航空本部長に昇った。山本五十六は、このときから10年前の海軍大学校教官在任中、教頭の職にあった山本英輔の影響で航空主兵論に目覚め、長期のアメリカ滞在を通じてその確信を深めていた。当時の海軍はパナマ運河開通を受けて石川信吾らが主導した大鑑巨砲主義に偏り、傍流の航空本部は巨大戦艦製造の予算を奪う形で苦労しながら航空母艦と航空機の整備を進めた。航空本部では、大西瀧治郎・源田実ら幕僚が山本五十六をよくサポートした。果して太平洋戦争が勃発し、連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は、手塩に掛けた航空兵力と画期的な航空機爆撃によって真珠湾攻撃で快勝を収め航空主兵論の正しさを実証した。一方、大鑑巨砲主義の象徴である戦艦大和は、大戦直前に就役したものの使い道が無く、「大和ホテル」と嘲笑された挙句、大戦末期にようやく沖縄戦の特攻作戦に投入されたが、移動中に敵爆撃機の的にされあえなく撃沈した。真珠湾攻撃やシンガポール攻略戦で日本軍の航空兵力の威力を目の当たりにしたアメリカ軍は、すぐさま航空機と航空母艦の大増産に乗出して続々と戦線に投入した。アメリカの物量作戦により瞬く間に彼我の航空兵力は逆転し、太平洋戦争の勝敗を分ける決め手となった。
- 皇族軍人の伏見宮博恭王は、1932年の満州事変直後から1941年の対米開戦に至る最重要期に10年も軍令部総長の座を占めた海軍暴走のキーパーソンである。伏見宮愛親王の庶子ながら華頂宮を相続した伏見宮博恭王は、皇族男子の慣例に従い軍部へ進み、ドイツ海軍大学校留学を経て海軍将校となった。宮様として名誉職を歴任した伏見宮博恭王は飾雛で終わるべきだったが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると軍拡反米英の「艦隊派」に加担、「海軍の父」山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで一躍実力を伴う軍令部総長に擁され、東郷平八郎の死に伴い唯一の海軍元帥となった。統帥権干犯問題は喧嘩両成敗で決着し艦隊派首領の加藤寛治・末次信正が失脚したが、加藤から軍令部総長を継いだ伏見宮博恭王は天皇の名代として軍令部の権限強化を図り海軍人事を掌握、米英との軍事衝突回避を最優先する「条約派」を一掃し海軍のバランス機能を破壊した。伏見宮博恭王元帥のもと海軍主流となった岡敬純・石川信吾・大角岑生・南雲忠一ら艦隊派は、広田弘毅内閣で海軍軍縮条約廃棄を果し「大和」「武蔵」の巨大戦艦建造に邁進(大鑑巨砲主義)、米英に対抗すべく陸軍・松岡洋右が進めるナチス・ドイツとの同盟を支持した。アメリカを正面敵に回す愚を知る米内光政・山本五十六・井上成美の「良識派」トリオは劣勢ながら抵抗を続け、連合艦隊司令長官の山本は海軍首脳会議で最後の抵抗を試みたが、伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり海軍は日独伊三国同盟承認に決した。伏見宮博恭王は昭和天皇から海軍出師準備令を引出し、海軍中央は石川信吾ら「海軍国防政策委員会」の独壇場となり近衛文麿内閣に南部仏印進駐を迫り対米開戦へ導いた。開戦責任回避のため伏見宮博恭王は軍令部総長を退いたが最後まで影響力を保持し、終戦翌年に薨去した。サイパン陥落後の元帥会議で伏見宮博恭王は「何か特殊兵器(特攻の意)を使え」と指示、禁断の特攻作戦が現実プランに浮上し海軍軍令部はレイテ沖海戦に「神風特別攻撃隊」を投入、万余の若者が狂気の特攻隊に駆出されることとなった。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
斎藤実と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照