恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子(土岐頼芸落胤説が濃厚)斎藤義龍に討たれた悪逆無道・戦国随一の梟雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
斎藤 道三
1494年 〜 1556年
60点※
家系・子孫
- 斎藤道三の実家とされる松波家は、北面の武士として代々朝廷に仕えた家柄だったが、父松波基宗の代に帰農して京都西ノ岡に土着した。当時朝廷の衰微は著しく、公家侍では暮らしが立ち行かなくなったのだろう。斎藤道三は、土岐頼芸に仕官後、長井家家老西村家の遺跡を継いで西村勘九郎を名乗り、次いで恩人長井長弘夫妻殺害で稲葉山城と家名を乗っ取り長井新九郎に改め、最期は美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜となった。道三の号は、土岐氏と美濃国侍の反抗挙兵に遭い剃髪入道した際に称したものである。父松波基宗は左近将監の官職もり実力は無いが家格は田舎の豪族より高かったはずであり、道三が敢えて西村や長井を名乗ったのは松波氏ではなく微賎の出自だったためとする説も説得力がある。斎藤道三は油売り時代に灯油商奈良屋又兵衛の娘を妻としたが、仕官後に離縁したようだ。土岐頼芸から下された深芳野は嫡子斎藤義龍のほかに三男をもうけたが、身分は妾のままであった。正妻は東美濃随一の豪族明智家から迎えた小見の方であり、明智光秀の叔母であるという。斎藤道三は多くの妾と子をなし、家督を争った斎藤義龍・竜重・竜定の兄弟のほか、娘は織田信長(帰蝶)・斎藤利三・稲葉貞通などに嫁がせている。土岐頼芸の落胤と考えられた斎藤義龍は、地侍の慰撫に重宝されたが、頼芸を追い落とした道三を憎み、廃嫡の企てを知ると弟の竜重・竜定を斬殺し道三の居城を急襲、徳望薄い道三は孤立し難なく討ち取った。一見愚鈍な外貌が道三に嫌われたというが、実は蝮の子に恥じない猛将でライバル織田信長にも引けをとらなかったが、道三の祟りか僅か5年後に病死した。家臣に鼻を削がれた道三と同じく顔面が爛れ落ちて死んだという。斎藤家を継いだ嫡子斎藤龍興は凡庸で、竹中半兵衛に稲葉山城を乗取られても発奮せず、織田信長に滅ぼされた。斎藤家は滅亡したが、傍流の井上家や松波家が徳川幕府旗本として存続した。なお、将軍徳川家光の養母として大奥に君臨し稲葉・堀田の幕閣世襲家を樹立した春日局は、道三の娘が嫁いだ斎藤利三の娘だが、生母は継室(稲葉一鉄の娘)で道三の血は引いていない。
斎藤道三と同じ時代の人物
-
戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照