足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞
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明智 光秀
1528年 〜 1582年
50点※
家系・子孫
- 明智氏は、美濃源氏土岐氏の庶流で、可児郡明智城に拠って東美濃に睨みを利かせる有力豪族であった。明智光継は慧眼の持ち主で、流れ者の若き斎藤道三の求めに応じて娘(小見の方)を娶らせ、国獲り物語の後ろ楯となった。光継の後を継いだ嫡子光綱は幼い光秀を遺して早世したため、光綱の弟光安が光秀の後見として明智城主を継ぎ勢力を保ったが、斎藤義龍謀反で道三についたため討ち滅ぼされた(長良川の戦い)。28歳の光秀は落城を逃れて落ち延び、諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官、朝倉家に身を寄せていた足利義昭に勧めて織田信長との間を取り持ち、最後は義昭を見限って信長の幕下に加わった。斎藤道三と小見の方の娘で信長に嫁いだ帰蝶は光秀の従妹であり、織田家接近の有力な手蔓になったと考えられる。この間行動を共にした親友の細川藤孝は、織田家で光秀の与力衆とされ、光秀の娘玉子(ガラシャ)を嫡子細川忠興(信長の落胤説あり)の正室に迎えたが、本能寺事変後の土壇場で細川父子は光秀を見捨てて生き残り、関ヶ原合戦で東軍について肥後熊本54万石の大大名となった。美貌のキリシタン細川ガラシャは西軍の人質強要を拒絶して自ら命を絶ったが、子の忠利が初代熊本藩主となった。ただ、忠利の系統は途絶え、忠興の側室腹の立孝の系統が主家を承継したため、細川護熙元首相などはガラシャの血を引いていない。明智光秀は、三男四女または六男七女をもうけたとされたが、嫡子光慶ほかの男児は光秀と共に滅ぼされた。長女の倫子は、荒木村重の嫡子村次に嫁いだが村重謀反に伴い里に戻り明智秀満(琵琶湖の湖水渡りで有名な『左馬助の恋』の主人公)に再嫁、他の女児は細川忠興・織田信澄(信長の甥)などに嫁いで血脈を遺した。坂本龍馬など明智の末裔を自称する家は多々あるが、細川家以外では信憑性が低く、それよりも明智光秀自身が「黒衣の宰相」南光坊天海であるとする説の方が説得力がある。
明智光秀と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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