島津久光・大久保利通の挙藩一致方針に逆らい続け平野国臣の扇動に乗って討幕運動を激発し寺田屋騒動で誅殺された薩摩藩急進派の首領
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有馬 新七
1825年 〜 1862年
40点※
家系・子孫
- 有馬新七が生れた坂木家は薩摩伊集院郷の郷士(鹿児島在住の城下士より家格は下)で、父の坂木四郎兵衛が城下士有馬家に入嗣し一家は鹿児島城下の加治屋町へ移住した。四郎兵衛は、藩から褒章を受けるほど文武に優れ、中年になって近衛忠煕に入輿する島津郁子の付人となり没するまで在京し近衛家に仕えた。決死の覚悟に燃える有馬新七は、島津久光に随って上洛する際、後難をかわすため妻ていを離別し12歳の一子幹太郎に自叙伝と梅田雲浜の書を授与、新七の予感は的中し寺田屋騒動で上意討ちに斃れた。それでも「統制好き」な島津久光の怒りは収まらず、有馬新七は士籍剥奪のうえ「存命であれば鋸挽直磔」に相当するとして遺骸は京都伏見に埋捨て、幹太郎ら遺族は庶人に落とされ親類預けとなった。2年後に薩摩藩の大赦で士籍を回復した有馬幹太郎は、戊辰戦争に従軍し御親兵創設に従い上京、父の同志である西郷隆盛や川村純義の推挙により海軍術習得のため米国留学へ出され、薩摩閥海軍人として将来を嘱望されたが帰国後に27歳で病死した。幹太郎の死後、坂木家から求内が入嗣して有馬家を継ぎ、幹太郎の妹ケサは逸見宗介に嫁ぎ長男は海軍人となった。
有馬新七と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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