島津久光・大久保利通の挙藩一致方針に逆らい続け平野国臣の扇動に乗って討幕運動を激発し寺田屋騒動で誅殺された薩摩藩急進派の首領
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照有馬 新七
1825年 〜 1862年
40点※
有馬新七の年表
-
1825年
薩摩藩郷士坂木四郎兵衛の子として坂木正義(有馬新七)が伊集院郷にて出生、のち四郎兵衛が城下士有馬家に入嗣し一家は鹿児島城下の加治屋町へ移住
-
1838年
有馬新七が元服
-
1840年
アヘン戦争(~1842)
-
1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
-
1843年
有馬新七が江戸へ遊学し崎門学(山崎闇斎派朱子学)で高名な山口菅山に入門
-
1845年
有馬新七が京都にて梅田雲浜ら尊攘派志士と交流
-
1846年
フランスが琉球の開国を要求
-
1850年
薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らが若手藩士グループを結成(精忠組に発展)
-
1850年
12代将軍徳川家慶・老中阿部正弘が薩摩藩主島津斉興に引退勧告
-
1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
-
1851年
島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手
-
1852年
同志の有村俊斎・大山正円・樺山三円が江戸出府
-
1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
-
1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
-
1853年
徳川斉昭が江戸防備のため大砲74門を幕府に献上、老中安倍正弘の要請により幕府海防参与に就任
-
1853年
海防参与徳川斉昭の献策により幕府が大船建造を解禁
-
1853年
徳川家定が13代将軍就任、将軍継嗣問題が勃発
-
1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
-
1854年
ロシア艦隊が長崎に来航し通商を求める
-
1854年
薩摩藩主島津斉彬が参勤交代で江戸入り、中小姓として随行した西郷隆盛を江戸藩邸で御庭方役に任じ直属の謀臣に抜擢
-
1855年
安政の大地震、徳川斉昭のブレーン藤田東湖が圧死
-
1855年
徳川斉昭の要求により南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭、堀田正睦が老中首座就任
-
1855年
薩摩藩が日本初の国産蒸気船を開発
-
1855年
薩摩藩が国産2号となる洋式軍艦昇平丸(帆船)を建造、幕府に献上
-
1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
-
1856年
水戸藩の石川島造船所(IHIの前身)が洋式帆船「旭日丸」を建造し幕府に献上
-
1856年
薩摩藩主島津斉彬が一門の島津敬子(篤姫)を将軍徳川家定に入輿させる・西郷隆盛が諸業務を担当
-
1857年
薩摩藩主島津斉彬が下級藩士の西郷隆盛・大久保利通を徒目付に登用、有馬新七は江戸藩邸糾合方に就任
-
1857年
阿部正弘死去
-
1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
-
1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
-
1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
-
1858年
徳川家茂が14代将軍就任、一橋派が将軍継嗣問題に敗北
-
1858年
島津斉彬が幕府抗議のため藩兵5千を率いての上洛を計画
-
1858年
西郷隆盛・有馬新七が島津斉彬に先発して上洛し準備工作
-
1858年
薩摩藩主の島津斉彬が急死し率兵上洛計画が頓挫(享年50。毒殺説あり)、養嗣子(島津久光の子)の島津忠義が12代藩主に就任し10代藩主の島津斉興(斉彬・久光の父)が実権を奪回
-
1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
-
1858年
西郷隆盛が水戸藩を見限り諸大藩への勅諚降下運動を展開、有馬新七は土佐藩等へ遊説
-
1858年
有馬新七が江戸で勅諚降下工作
-
1858年
江戸城無断登城事件、大老井伊直弼が無断で江戸登城した徳川斉昭・徳川慶喜・松平春嶽・徳川慶勝を謹慎に処す
-
1858年
西郷隆盛が月照を伴い鹿児島へ帰国するが島津斉興の佐幕転換により月照・西郷の入水事件が発生
-
1859年
神奈川・長崎・函館開港
-
1859年
安政の大獄で大老井伊直弼が一橋派諸侯の処分を断行、徳川斉昭・慶喜は蟄居に処される
-
1859年
安政の大獄により吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らが処刑される
-
1859年
有馬新七が京都を経て鹿児島へ帰国
-
1859年
島津斉興の死により島津久光が藩主島津忠義の国父として薩摩藩の実権を掌握
-
1859年
大久保利通が有馬新七ら精忠組の突出脱藩騒動を抑える
-
1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
-
1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
-
1860年
桜田門外の変の指揮者関鉄之助が鹿児島来訪、有馬新七らが再び突出脱藩騒ぎを起すが大久保利通が制止
-
1860年
徳川斉昭が蟄居中に急死(享年61)、幕府は融和路線に転じ徳川慶喜・松平春嶽らを赦免
-
1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
-
1861年
薩摩藩の実権を掌握し率兵上洛を期す島津久光が人事改革を断行し反抗勢力を一掃して小松帯刀・大久保利通らを抜擢、有馬新七は造士館訓導に抜擢される
-
1862年
平野国臣が『尊攘英断録』を薩摩藩に献じ武力討幕を提案、大久保利通は追払うが有馬新七ら精忠組急進派が賛同し上洛した平野は「島津久光の討幕挙兵近し!」と吹聴し尊攘派は狂奔
-
1862年
上洛を期す島津久光の召還命令により西郷隆盛が鹿児島へ帰還
-
1862年
島津久光が率兵上洛、随行した大久保利通・小松帯刀は岩倉具視らと公武合体運動に奔走するが有馬新七・真木和泉らは討幕挙兵工作に狂奔
-
1862年
島津久光が西郷隆盛を遠島に処す
-
1862年
大久保利通が御小納戸頭取に昇進し名実共に島津久光の側近となる
-
1862年
寺田屋騒動、島津久光が有馬新七らを上意討ち(享年38)
-
1891年
吉田松蔭・高杉晋作・久坂玄瑞・周布政之助・武市半平太・中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎・平野国臣・有馬新七・宮部鼎蔵ら明治維新の功労者に追贈正四位(有馬のみ従四位)
年
有馬新七と同じ時代の人物
-
維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照