若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前朝倉王国を築いた猛将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
朝倉 宗滴
1477年 〜 1555年
60点※
家系・子孫
- 朝倉氏は、平安時代から武士団を形成して栄えた日下部氏の一流で、本貫地の但馬国養父郡朝倉から名字を採り、越前朝倉氏は南北朝時代に越前へ移住し守護斯波氏に仕えた朝倉広景に始まる。斯波氏は足利将軍家に次ぐ三管領(他は細川・畠山)の名門で、越前・尾張・遠江などの守護を世襲した。斯波氏の重臣に朝倉・織田・甲斐の三家があり、朝倉は越前・織田は尾張の守護代を世襲するうち次第に斯波氏を圧迫して実権を掌握した。応仁の乱が起ると、朝倉孝景(英林)は守護代甲斐常治と共に斯波義敏を追い落とし、甲斐氏も追放して越前守護の座を掴み一乗谷城に拠って戦国大名となった。孝景(英林)の家督は嫡流の氏景・貞景・孝景(宗淳)へ受け継がれたが、いずれも幼少の後嗣を残して早世したため、孝景(英林)の八男で武勇の誉れ高い朝倉宗滴が死ぬまで事実上の当主として君臨した。朝倉宗滴は、越前内戦や応仁の乱で武功を挙げ兄孝景(英林)の政権奪取を支えた敦賀郡司朝倉景冬の娘を妻に迎え、その与党となったが、景冬の嫡子景豊が当主貞景に謀反を起すと寝返って討伐軍に加わり、武功により敦賀郡司職を得た。朝倉宗滴には一児があったが、廃嫡して僧籍に入れ(京都大徳寺住職となった蒲庵古渓といわれる)、貞景の四男景紀を養嗣子とした。豊臣秀吉も織田信長の四男秀勝を養子に迎えて忠誠を顕示しているが、賢明な宗滴は実力者故にお家騒動回避を優先したのかも知れない。朝倉氏は目立って一族の反乱が多い家で、孝景(英林)の五男元景は上述の景豊に加担し、孝景(宗淳)の弟景高も謀反の末に逃亡している。朝倉宗滴没後、孝景(宗淳)の嫡子義景が名実共に朝倉家当主となったが、一族や家臣の内紛が噴出して屋台骨が傾き、陪臣(尾張守護代織田氏の家臣)と見下し続けた織田信長に敗れて根絶やしにされた。徳川幕府の旗本に朝倉氏があるが、家祖の在重は景高の子であるという。
朝倉宗滴と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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