徳川家康の謀略を担い天下簒奪に貢献、本多忠勝・大久保忠隣ら武功派を退け初期幕政を握るも加増を固辞し相模玉縄藩1万石に留まるが嫡子本多正純が訓戒に背いて下野宇都宮藩15万5千石への加増を受け将軍徳川秀忠・土井利勝の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易
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本多 正信
1538年 〜 1616年
60点※
本多正信と関連人物のエピソード
- 徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。
- 徳川家康は少数の従者と堺見物中に本能寺の変に遭遇、切腹も覚悟したが、服部半蔵の手引きで伊賀越えし生還、途中別れた穴山信君は落ち武者狩りに殺された。混乱に乗じた北条氏政が滝川一益を追い払って上野を押え織田領に殺到、上杉景勝も牙を剥き三つ巴戦となったが(天正壬午の乱)、和睦成って甲斐・信濃を制圧した徳川家康は三河・遠江・駿河と合わせて五ヶ国の太守となり、豊臣秀吉に対峙した。清洲会議、賤ヶ岳合戦は静観したが、1584年織田信雄に加担し挙兵、池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し優位に立つも、愚かな信雄が無断で単独講和、名目を失って停戦に応じた(小牧・長久手の戦い)。天下統一を急ぐ秀吉は宥和路線に切替え、母と妹を人質に送られた家康は遂に膝を折り、以後は織田信長同様に律儀に仕えた。1590年、九州征伐を終え西日本を平定した秀吉は小田原征伐を開始、北条氏に近い家康は早期降伏を促すが氏政・氏直(娘婿)父子は拒絶、結局降伏開城するも滅ぼされた。秀吉は強敵家康から駿遠三甲信の5カ国150万石を召上げ、北条氏旧領の関八州250万石へ移封、東海道筋に子飼い大名を連ね会津に蒲生氏郷を配して封込策に出たが、家康は黙って従い江戸の都市開発に励んだ。朝鮮出兵を無傷で過ごし、1598年豊臣秀吉が死去、抑え役前田利家も翌年亡くなると、健康オタク徳川家康の独壇場となった。豊臣家の内部分裂に乗じて加藤清正・福島正則・黒田長政ら反石田三成・淀殿派の首領に納まり、勝手な婚姻政策で結束を固めると、1600年会津征伐の罠に掛かった石田三成が挙兵、小早川秀秋・吉川広家の寝返りを誘って関ヶ原合戦に勝利すると、1603年徳川幕府開設、2年後秀忠に将軍を譲り徳川氏世襲を世に示した。西軍諸将には大鉈を振るったが、本人の実力と為政者の都合で領地を入替えた信長流を廃し世襲藩固定化で外様大名を安心させつつ、政権運営は将軍家と小身の譜代衆が握り、参勤交代や天下普請で抵抗力を削ぎ、下々にも現在身分の凍結を強制して太平秩序を醸成した。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして後顧の憂いを絶ち、翌年75歳で大往生を遂げた。
- 松平氏の祖親氏は、もと徳阿弥と名乗る時宗の遊行僧(賤民とも)で、西三河に漂着し松平郷の庄屋家に入婿し、兵力を蓄えて近隣を侵略し相当な土豪となった。この前に徳阿弥が坂井郷の庄屋の娘に産ませた子が酒井氏の祖という。5代目の松平長親は、三河に侵攻した今川氏親軍を撃退し総大将の北条早雲に黒星をつけた傑物で、安祥城に拠って頭角を現した。孫の松平清康も優秀で数年で西三河の大部分を切り従え尾張へ侵出したが、突如家臣に暗殺された。10歳の嫡子広忠は、織田信秀に圧迫され伊勢へ逃亡したが、今川義元に臣従し領地を回復して岡崎城に入った。広忠は三河苅屋城主水野忠政の娘お大を娶り、嫡子竹千代(徳川家康)をもうけたが、水野氏が織田方に属したためお大は離縁され、後に尾張知多郡阿古屋の久松定俊に再嫁した(伊予松山藩祖)。徳川家康は、今川一族の関口親永の娘(10歳上・築山殿)を妻に迎えたが、放置が祟って武田氏に内通し謀反、織田信長の命で嫡子信康と共に殺害した。松平氏は賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河平定を機に徳川(源姓)に改めようだ。この後は朝日姫(豊臣秀吉の妹)以外に正室を置かなかったが、秀吉と違って多くの子宝に恵まれ、優秀な男児は無いものの、婚姻政策は天下獲りの武器となった。実娘を池田輝政(岡山藩・鳥取藩)・浅野長晟(広島藩)、養女を黒田長政(福岡藩)・蜂須賀至鎮(徳島藩)・井伊直政(彦根藩)・鍋島勝茂(佐賀藩)・加藤清正・福島正則らに入輿させ皆大封を与えている。次男松平秀康は、秀吉・結城晴朝の養子を経て越前藩をもらったが、浮気性だった生母のせいか家康に嫌われ、後嗣忠直は逆恨みで狂人となり慰みに家中の男女を虐殺した。2代将軍となった三男徳川秀忠は、関ヶ原合戦で本隊を率いながら真田昌幸の挑発に乗って足止めを食う大失態を犯し、嫉妬深い妻江(信長の姪で淀殿の妹)を恐れ生涯妻妾を置けなかった。家康の男児は皆大藩の主に据えられたが、最年少の義直・頼宣・頼房が尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖となった。
- 本多平八郎忠勝は、武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将、伊勢桑名藩10万石と上総大多喜藩5万石を獲得したが幕府創設で役割を終え本多正信・正純に主導権を奪われた。徳川(松平)最古参「安祥七譜代」に列する本多家の当主で、生後間もなく父忠高が織田信秀との合戦で戦死、補佐役の叔父忠真も三方ヶ原合戦で討死した筋金入りの三河武士である。1559年徳川家康が永い人質生活を終え岡崎城に帰還、翌年「大高城の兵糧入れ」で12歳の本多忠勝は初陣を飾り、桶狭間合戦で今川義元が討たれ三河衆は悲願の独立を達成、家康は凡愚な今川氏真と手を切り織田信長(信秀の嫡子)との同盟を選択した。武功を重ねる本多忠勝は19歳で家康子飼いの旗本先手役・将校に列し、姉川合戦では単騎駆けで朝倉陣を切裂き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍、1572年武田信玄に遠江二俣城を奪われた家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された(一言坂の戦い)。翌年三方ヶ原の戦いで徳川軍は信玄に一蹴されたが、左翼を担う本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を食止め殿軍の大役を果して家康を浜松城へ逃した。1582年堺見物中の家康を本能寺の変が襲うと随行の本多忠勝は殉死を制止して岡崎城へ生還させ、1584年小牧・長久手の戦いでは奇襲軍を破られ反撃に出た豊臣秀吉の大軍を僅かな手勢で食止め、第一次上田合戦では真田昌幸に敗れた徳川勢の撤退を指揮し娘を真田信之に縁付けて講和を纏めた。1590年小田原征伐に向け京都に参集した諸大名の前で秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と激賞され、家康の関東移封に伴い上総大多喜城10万石に入封、1600年関ヶ原合戦では井伊直政と共に実戦を指揮し要衝の伊勢桑名10万石(次男の本多忠朝が大多喜5万石を承継)へ配された。徳川幕府発足後は武功派の本多忠勝に用は無く家康は吏僚派を重用、本多正信を「腰抜け」と罵りつつも危険な政争に巻込まれることなく63歳の生涯を閉じた。
- 井伊直政は、武田の精鋭と「赤備え」を率いた「徳川四天王」の出世頭にして寝返り工作を担った関ヶ原勝利の殊勲者、近江佐和山藩18万石を継いだ次男井伊直孝が将軍徳川秀忠・家光の信任を得て譜代筆頭彦根藩30万石を確立した。遠江の古豪の嫡子だが生後間もなく父が主君今川氏真に誅殺され零落した。仇敵氏真を滅ぼした徳川家康に14歳で出仕すると、家柄が良く美男子の井伊直政は寵遇され(男色相手の寵童説あり)旧領井伊谷を回復、1582年家康の養女を娶り子飼いの旗本先手役に登用され甲州征伐に活躍、本能寺事変後の家康の伊賀越えに随行し、天正壬午の乱で北条氏政との講和を纏め政治的手腕を発揮、家康は家臣団を持たない直政に武田遺臣と山県昌景の「赤備え」を承継させ井伊谷4万石に加増した。「赤備え」を率い小牧・長久手の戦いで武功を挙げた井伊直政は若輩ながら「徳川四天王」の一角に躍進し6万石に加増、1590年家康の関東移封に伴い家中最大の上野箕輪城12万石(高崎城へ移動)に封じられた。1600年外交を託された井伊直政は、家康の養女栄姫との縁談で黒田官兵衛・長政父子を抱込んで小早川秀秋・吉川広家を篭絡し、京極高次・加藤貞泰・稲葉貞通・関一政・相良頼房ら豊臣賜姓大名の調略も成功させた。そして関ヶ原合戦、井伊直政は娘婿の松平忠吉(家康の四男)と共に先鋒の福島正則を出抜き先端を開くと、小早川秀秋の寝返り攻撃で戦局は一変し家康本隊を抑える毛利隊は吉川広家の妨害で動けず西軍は壊滅したが、不敵に中央突破を図る島津義弘を追撃し銃弾を浴びた(島津の退き口)。井伊直政は重傷をおして戦後処理に奔走、周章狼狽する毛利輝元を本領安堵の偽約で大阪城から釣出し、長宗我部盛親の改易処理・山内一豊の土佐入封支援や島津義弘との和平交渉を担当、家康の世子問題が起ると忠吉擁立に動いた。戦後の論功行賞で井伊直政は石田三成遺領を引継ぎ近江佐和山城18万石へ増転封となったが激務で鉄砲傷が悪化し翌年41歳の若さで病没、智勇兼備の中核を喪った幕閣では武功派と吏僚派の対立が深刻化した。後継の井伊直孝は譜代筆頭彦根藩30万石を確立し幕末の井伊直弼まで大封を保った。
- 柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
- 服部半蔵正成は、徳川家康に仕えた伊賀「上忍三家」当主で「神君伊賀越え」で露払い役を果し知行8千石・伊賀甲賀衆支配役に任じられた忍者の出世頭、江戸城「半蔵門」の由来となった嫡子の服部半蔵正就は部下の総反発で改易されたが子孫は桑名藩家老として存続した。服部氏は伊賀北部を支配した「伊賀忍」領袖だが、服部保長(初代半蔵)が出稼ぎで室町将軍足利義晴に出仕し三河岡崎城主松平清康へ転じたが、清康は突如家臣に暗殺され嫡子の松平広忠は早世、幼君家康を人質にとられた三河武士は今川義元に隷属した。家康と同年に三河で生れた服部正成は、岡崎城帰還を果した家康に出仕し父の保長から二代目服部半蔵を襲名したとみられる。非忍者説があるが、そもそも支配層の上忍で、所領は依然として伊賀にあり家来は概ね忍者だろうから間諜・撹乱などの特殊技能をもって家康に仕えたと考えられる。1560年桶狭間の戦いで今川義元が討たれると徳川家康は織田信長と清洲同盟を締結し今川方諸城を攻め落として三河を制圧、服部正成は鵜殿長照(義元の甥)の蒲郡宇土城攻略で武功を顕し、今川氏真を滅ぼした遠江掛川城攻略、浅井・朝倉氏を破った姉川の戦い、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い、武田勝頼を滅ぼした甲州征伐と武功を重ねた。正室築山殿の謀反で家康は信長の命により嫡子信康を切腹させたが、介錯役の服部正成は涙に咽んで役目を果たせず、むしろ家康の信任を増した。1582年安土で信長の饗応を受けた家康が堺見物に赴いた矢先に本能寺事変が勃発、供廻34人の家康は窮地に陥り追い腹を覚悟したが本多忠勝の制止で思止まり茶屋四郎次郎・服部正成の手引きで伊賀越えに成功し三河岡崎城へ生還した。協力した忍者の多くは徳川家に召抱えられ伊賀同心・甲賀同心として服部正成の支配下に置かれ、正成は家康の関東移封に伴い知行8千石を与えられた。「上忍三家」の百地丹波・藤林長門守ら有力国人は天正伊賀の乱で信長に滅ぼされていた。服部正就の改易に伴い忍者衆の多くは伊賀へ戻され帰農したが、藤堂藩の行政下で半士(忍)半農の「無足人」とされ天草の乱など全国の一揆鎮圧に派遣された。
- 今川氏は、北条早雲を先鋒に駿河・遠江・三河を制圧し海道一の弓取りと称されたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、武田信玄・徳川家康に滅ぼされた名門戦国大名である。1476年駿河守護今川義忠が戦死、扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退けて妹の産んだ氏親を今川家当主に擁立した北条早雲は、論功行賞によって60歳で一城の主となり、今川軍を率いて東奔西走、守護斯波氏を追い払って遠江を今川領に組み込み、自身は伊豆・相模を奪って独立を果した。駿河・遠江の反抗勢力を討平し両国守護に就いた今川氏親は、甲斐・三河へ勢力を伸張、検地や金山開発で経済基盤を固め、分国法『今川仮名目録』を遺し病没した。1536年氏親の嫡子氏輝が後嗣無く死去、次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す国人衆が反乱挙兵するが、北条氏綱の援軍を得た義元が家督争いに勝利した(花倉の乱)。今川義元は三河侵攻に集中すべく武田信虎の娘を妻に迎え和睦するが(甲駿同盟)、怒った北条氏綱は氏親・早雲以来の駿相同盟を解消し東駿河へ侵攻、尾張の織田信秀も三河に攻め寄せた。今川義元は東西挟撃の窮地に立ったが、武田信虎追放、北条氏綱死去、斎藤道三の美濃国獲りに伴う濃尾戦線の加熱と幸運が続き、関東管領上杉氏と結ぶ遠交近攻策で北条氏康を追い詰め東駿河と駿相同盟を回復、1548年三河で織田信秀軍を撃退し(第2次小豆坂の戦い)、岡崎城主松平広忠の死と後嗣(徳川家康)の身柄確保で松平家を属国化した。織田信秀急死と嫡子信長の家督相続で尾張が内乱に陥ると、今川義元は、上杉謙信との対戦で忙しい武田・北条と甲相駿三国同盟を結んで尾張侵攻を開始、松平軍を先鋒に三河の織田勢を掃討し、1560年自ら4万の大軍を率いて攻め込んだが、田楽狭間で織田信長の急襲に遭い討取られた(桶狭間の戦い)。怯懦で享楽に溺れるばかりの嫡子今川氏真は隣国の好餌となり、織田へ寝返った徳川家康に三河を攻め取られ、1569年家康・信玄に遠江・駿河を分捕りにされ滅ぼされた。
- 今川氏は、足利将軍家の連枝で、内部分裂で衰退した本家の三河吉良氏を臣従させて駿河守護となり、足利宗家に次ぐ名門と仰がれた。三河の一土豪に落ちた吉良氏は、桶狭間合戦後に勢力を盛り返し、三河一向一揆の旗頭に担がれて徳川家康を苦しめたが征伐された。江戸時代に入ると、松平清康(家康の祖父)の妹を母とする吉良義定が取り立てられ、吉良荘3000石と高家筆頭の家格を与えられ、儀典の家元として繁栄したが、吉良上野介義央が赤穂浪士に討取られ世論に押された幕府は吉良家を改易に処した。さて、今川氏の繁栄は南北朝争乱で足利尊氏を支えた今川頼国に始まり、頼国の子頼貞は丹後・但馬・因幡の守護に、頼国の末弟範国は駿河・遠江の守護に任じられ、範国の嫡子範氏の系統が今川氏嫡流として駿河守護を世襲した。範氏の弟今川了俊は九州探題として南朝勢力の強い全九州を平定し、戦国初期の今川範忠は古河公方足利成氏の軍勢を撃退して鎌倉を制圧するなど(享徳の乱)、室町幕府の用心棒として強勢を誇った。範忠の嫡子義忠は、斯波氏に守護職を奪われた遠江の奪回に奮戦したが土豪一揆に遭い落命、家督争いが起ったが、北条早雲が上杉氏・太田道灌が推す小鹿範満(義忠の従兄弟)を廃して今川氏親(義忠と早雲の妹北川殿の子)を擁立した。氏親は娘を北条氏康に入輿させ関係を深めた。氏親没後は嫡子氏輝が後を継いだが、10年後に次男彦五郎と同時に死去(謀殺説あり)、正室寿桂尼の子で五男の今川義元が異母兄玄広恵探の反乱挙兵を討平して当主となった(花倉の乱)。氏輝・彦五郎の同時死といい、側室腹の玄広恵探の挙兵といい、太原雪斎による一連の陰謀劇であった可能性が高い。今川義元は、同盟した武田信虎の娘を妻に迎え、娘を武田義信に嫁がせた。徳川家康の悪妻築山殿は義元の姪で養女である。嫡子今川氏真は、再同盟した北条氏康の娘を妻に迎え、北条氏直を猶子に戴いて助勢を哀願したが挽回ならなかった。が、家は滅んでも子作りには励み、範以・高久の二男が誕生、氏真は徳川家康の庇護下で77歳の長寿を全うし、範以の今川氏と高久の品川氏は高家旗本に取り立てられ幕末まで存続した。
- 織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。
- 織田信長には毀誉褒貶があるが、100有余年続いた戦国時代を制覇し中央集権国家の礎を打ち立てた事実は揺ぎ無い。武力では、先ず鉄砲と兵農分離だろう。鉄砲の国産体制を整備して大量に備蓄し、貿易都市堺を支配下において当時国内では産出しなかった煙硝の供給ルートを確保、装填に手間の掛かる元込銃の弱点を「三段撃ち」で克服し(紀州雑賀衆に倣った説あり)、長篠の戦いで戦国最強の武田軍団を撃破した。織田信長の台頭により鉄砲伝来から半世紀後には日本は世界最高の鉄砲装備を誇る最強の陸軍力を持つに至り、明侵攻(朝鮮出兵)は統帥の乱れと補給難で失敗したが戦闘では無敵だった。とはいえ、都会育ちの上方・尾張の兵は甲州兵の10分の1といわれるほど弱く、信長軍も然りで、姉川合戦では本陣手前まで崩されたのを徳川家康軍の奮闘で勝を拾い、三方ヶ原合戦では早々に敗退して完敗の元凶となった。弱卒のハンデを抱える織田信長は、武器と外交に活路を求め、鉄砲の前には集団戦に有利な長槍を導入する一方、上洛後も武田信玄と上杉謙信の機嫌をとって全力で対決回避に努めた。さて、当時も武士は「一所懸命」の土豪の集団で、戦争や集中訓練は農閑期に限られ、領地転換や長期遠征は困難であり、最強を誇る武田・上杉もこの制約に縛られたが、唯一織田信長は兵農分離の確立により束縛を脱した。職業軍人集団=傭兵感覚故に門閥無視・能力本位の人材活用も可能となり、譜代の柴田勝家・丹羽長秀らと新参の明智光秀・豊臣秀吉・滝川一益らを相競わせ、自在の配置転換と物量作戦で多方面作戦を成功させた。織田軍団の屋台骨は膨大な戦費を支えた経済力だが、信長は経済政策でも開明的であった。寺社や土豪の収入源というだけの関所や諸権益を撤廃(楽市楽座)して自由貿易と統一的気分を盛上げ、松永久秀のキリスト教宣教師追放令も撤廃し堺商人を通じて海外貿易で大きな利を占めた。一方で特権剥奪に抵抗する勢力には徹底弾圧で臨み、タブーを侵して比叡山・高野山・石山本願寺・一向一揆を討滅、有史以来武力・政治力を恣にしてきた宗教勢力を退治し人民を心の楔から解放した。
- 天才の裏返しか、織田信長は躁鬱のうえに猜疑心が強く、当時常識外の悪逆非道を行って魔王と恐れられ、最後は家臣の裏切りで殺された。幼少期から変わり者だったようで、乳母の乳首を噛み切ったとか女装趣味伝説まであり、長じるとドラマでお馴染みの異装で奇行を繰返し、傅役平手政秀の諌死にも改めず、うつけの他に「たわけ(戯け)」と陰口されたのは実妹の市を犯したためとする説もある。とはいえ家督を継いで10余年尾張平定までは辛抱強く家臣の人心掌握に努め、弟の信行に与して叛逆した柴田勝家・林秀貞らを赦し、岳父斎藤道三が義龍に攻められた際には律儀に救援に駆けつけた。再度謀反を企てた信行を殺し、尾張織田家を滅ぼしたことは戦国の世の習い、身分低く有能な者には夢のような名君であった。ところが、浅井長政離反で猜疑心が鎌首をもたげ、討取った長政の頭蓋骨に金箔を施して御肴に供した。最も織田信長の評価を落とした比叡山焼き討ちや一向一揆の殺戮は、宗教を笠に着て武力抵抗を続けた門徒側の自業自得なのだが、迷信が根強い当時においては神をも恐れぬ所業であった。室町幕府滅亡も、大恩を忘れて信長打倒の謀略に励んだ足利義昭の自業自得だが、大義名分や権威主義を重視する世論は主君追放の大逆と見做した。武田信玄急死という桶狭間合戦以来の大幸運で信長包囲網の窮地を脱した織田信長は、自らを神格視するほどに増長し、平気で講和の約束を破り家臣に無理難題を押し付ける暴君となった。徳川家康の正室築山殿の武田家への内通が露見すると無実の嫡子徳川信康まで自害させ、丹波攻略では城主助命の約を違えて人質の明智光秀叔母を捨て殺しにし、最古参の佐久間信盛・林秀貞らを大昔の罪状を突きつけて突然追放、信長の留守中に物見遊山に出掛けた女中数名を斬り殺したかと思えば、突然各地の軍団を京都に呼び上機嫌で大軍事パレードを挙行するなど、手に負えない有様となった。松永久秀と荒木村重の相次いぐ謀反は抑えたが、家臣達のストレスは頂点に達していただろう、無防備で京都本能寺に入ったところを突如明智光秀に襲われ落命した。
- 明智光秀は、足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞である。美濃守護土岐氏の庶流で東美濃の大豪族明智氏の嫡子に生れたが、斎藤道三の外戚明智氏は斎藤義龍謀反で共に滅亡(長良川の戦い)、28歳の光秀は逃亡し、諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官、足利義昭に勧めて織田信長との間を取り持ち、義昭と信長に両属の形で活躍を始めた。信長の正室帰蝶は光秀の従妹であり、織田家接近の有力な手蔓になったと考えられる。一流の文化人細川藤孝を従えて儀礼や文芸に精通する明智光秀は、京都政界の外交折衝で頭角を現し、1570年朝廷を動かして信長包囲網(第一次)を和睦に導いた功で近江坂本10万石を与えられ44歳で一城の主となった。恩人信長の追落しに励む義昭を見限って織田家専属となり、1573年室町幕府滅亡、軍団を託されて丹波攻略を開始すると、石山合戦や松永久秀・荒木村重の謀反討伐に駆出されつつも、丹波亀山城を攻略して前線拠点を確保し、1579年波多野秀治・赤井直正を討破って丹波を平定(人質に差し出した叔母を光秀が捨殺しにしたという説があるが信憑性は低い)、近江坂本に加えて丹波を賜り(合計25万石または60万石)、織田家5軍団長の一人となった。そして1582年、「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んだ光秀は、秀吉の出馬要請に応じて寡勢で京都に入った信長を急襲し殺害(本能寺の変)、畿内を軍政下に置いたが、縁戚の細川藤孝・忠興をはじめ筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に悉く見放され、神速の中国大返しで駆けつけた豊臣秀吉に洛外天王山で決戦を挑むも惨敗(山崎の戦い)、逃亡した光秀は伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに討たれ、本拠地の近江坂本城も落ちて明智氏は滅亡した。光秀謀反の原因には、怨恨説・野望説・恐怖心説・発作説から、黒幕説には朝廷・長曽我部元親・イエズス会・徳川家康や秀吉まで様々あるが、歴史上の効果は天下統一目前の信長を討って秀吉・家康に道を開いた一点に尽きる。
- 明智光秀の筆頭重臣で共に滅ぼされた斎藤利三の血族は意外にも大発展を遂げた。美濃守護代家の血を引く斎藤利三は、斎藤道三に仕えて娘を妻にもらうが道三滅亡で失脚、織田家に転じた稲葉一鉄の娘(姪とも)を娶り稲葉家臣となったが、喧嘩別れして明智家に移った。信長からの利三返還要求を固辞した光秀は「推参者め!」と激しく打擲され恨みを含んだという。利三の異父妹は長宗我部元親の正室で、織田家との同盟の架け橋となったが、信長が同盟を反故にして四国征伐に変じたため光秀・利三主従は面目を失った。山崎合戦に敗れた斎藤利三が京都六条河原で斬首された後、男児は追われて落ち武者に転落したが、4歳の末娘お福は稲葉重通(母の兄または従兄、稲葉一鉄の庶長子)の養女となり、重通の婿養子で小早川秀秋家臣(家老5万石)の稲葉正成の後妻に入り、正勝など四男を産んだ。正成は関ヶ原合戦の小早川寝返りに働いて徳川幕府の覚えが目出度かったが、秀秋と対立して美濃に退き戻り、秀秋狂死で小早川家が断絶すると浪人に転落した。妻のお福は、正成と別れて京に上り(正成の浮気相手を斬殺したとも)、竹千代(徳川家光)の乳母募集に合格、次男国松(忠長)を偏愛する生母江に嫌われた竹千代の母代わりとなり、家康に長子相続の正当性を直訴、家光は家康の鶴声で将軍位を掴んだ。家光に有難がられたお福改め春日局は、大奥を牛耳って絶大な権勢を誇り、前夫の正成を2万石で召し出したのを皮切りに、前妻の子を廃して自分の産んだ正勝に稲葉家を継がせ8万5千石と老中職を獲得、その子正通の代には14万石に引き上げた。さらに、正成前妻が産んだ堀田正盛を自分の養子分とし、千石の身代から一躍15万石の大封と老中職を授けた。春日局が樹立した稲葉・堀田の両家は、幕閣首脳を世襲して大いに栄え、幕末には井伊直弼に排斥された老中堀田正睦が出ているが、徳川綱吉施政期には大老堀田正俊が江戸城内で稲葉正休に刺殺されるという大事件も起している。
- 柴田勝家は、織田信長の畿内制圧で台頭し北陸方面軍を託されたが、明智光秀討伐の先を越された豊臣秀吉に主導権を奪われ賤ヶ岳の戦いで滅ぼされた織田家筆頭重臣である。尾張の土豪に生れ、織田信秀に出仕して重鎮となり、嫡子信長の家督相続に次男信行を擁して反抗したが、稲生の戦いに敗れて剃髪謝罪し、信長に帰順して信行暗殺に加担した。上洛戦から重用され、南近江長光寺城の籠城戦では六角義賢を撃退して「瓶割り柴田」の渾名を授かり、各地を転戦して信長包囲網を凌ぎ切った。1573年武田信玄の急死で視界が開けた織田信長は、浅井・朝倉氏を屠り、長篠の戦いで武田氏を殲滅したが、1575年越前で朝倉遺臣の反乱に続き一向一揆が蜂起、総動員で一揆を鎮圧した信長は柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据えて北陸軍団を編成、加賀一向一揆・越後上杉謙信と対峙する構えをとった。この間、足利義昭の将軍擁立や本願寺顕如との和睦に働いた明智光秀、浅井・朝倉攻めの殊勲者豊臣秀吉、伊勢攻略と長島一向一揆平定の滝川一益ら、素性不詳の門外漢が台頭し、勝家・丹羽長秀ら譜代家臣との軋轢が深まった。甲斐征伐を終えた信長は上杉謙信との対決を決意、1577年柴田勝家の大軍を派遣するも加賀南部手取川で迎撃され惨敗、しかし翌年謙信が急死し後継争いで上杉家は弱体化(御館の乱)、秀吉の中国攻めと光秀の丹波攻略を横目に見つつ柴田勝家は攻勢を強め、1580年本願寺顕如の降服で加賀一向一揆が解体されると一気に加賀・能登を制圧、上杉景勝領の越中に殺到した。そして1582年、魚津城を騙し討ちで落とした直後に本能寺事変が勃発、激怒する上杉勢の抵抗に遭った勝家軍は身動きがとれず、神速の中国大返しで駆け戻った秀吉が信長の仇討を果した。直後の清洲会議で秀吉は織田家当主に三法師を擁立し丹波・山城・河内の光秀旧領を獲得、焦る勝家は滝川一益・織田信孝と結び長宗我部元親・紀伊雑賀衆も動かして反抗したが、頼みの丹羽長秀・前田利家に養子の柴田勝豊まで篭絡され、佐久間盛政の軍令違反で大敗、北ノ庄城まで攻め込まれ討ち滅ぼされた(賤ヶ岳の戦い)。
- 豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。
- 1582年の本能寺の変の後、信長の仇を討ち三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に据えて野心を顕にする豊臣秀吉と、織田家大事の織田信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益が鋭く対立したが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝、柴田・信孝を攻め滅ぼして織田家を掌握した(賤ヶ岳の戦い)。豪壮な大坂城を築いて権威を誇示し、織田信雄・徳川家康の抵抗を退け(小牧・長久手の戦い)、1585年関白に就いて織田家簒奪を完成した。信長の果たせなかった天下統一戦に乗り出した豊臣秀吉は、長宗我部元親を降して四国を押さえ、母と妹を人質に送って強敵徳川家康を懐柔、惣無事令に逆らった島津義久を降して九州まで征すると、1590年矛先を東に転じて後北条氏を滅ぼし(小田原征伐)、伊達政宗ら東北諸大名も従えて全国統一を成遂げた。この間、兵糧・兵員確保と一揆抑制のため、刀狩令、海賊停止令、太閤検地、身分統制令、楽市楽座、関所撤廃といった領民統治政策を推進して中央集権的近代秩序を全国に及ぼし、宣教師を尖兵に植民地化を企むスペインとローマ教会の野望を阻むためキリシタン弾圧に舵を切った。豊臣家の天下成って太平の世が訪れると、仕事=戦争と出世の機会を失った武士階級の欲求不満は野心家の棟梁を外征へと駆り立てた。1591年豊臣秀吉は明侵攻(唐入り)を宣言、前線拠点の肥前に名護屋城を築き、明の属国李氏朝鮮に攻め込むと、世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍は忽ち半島を席巻、首都漢城から平壌まで制圧し明の大軍も撃退するが、補給難のため釜山まで退き明と講和した(文禄の役)。間もなく側室淀殿が待望の男児秀頼を出産したが、豊臣秀吉は耄碌して別人となった。邪魔になった養子の関白秀次を眷属諸共斬殺し、確たる改善策もないままに再び朝鮮出兵を敢行(慶長の役)、石田三成ら文治派(淀殿派)と加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派(北政所派)の対立という豊臣家滅亡の火種を残したまま、秀頼の行く末のみを憂いつつ62年の生涯を閉じた。
- 黒田官兵衛孝高は、東播磨の盟主小寺家の筆頭家老で姫路城代の黒田職隆の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、備前の宇喜多直家を調略し、主君小寺政職に裏切られ荒木村重に幽閉されても操守を貫き、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で天下争覇の夢破れた心優しき天才軍師である。嫡子黒田長政は、徳川家康の養女婿となり小早川隆景・吉川広家を寝返らせた功績で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ諸大名中最大の加増を受けた。守護赤松氏がお家騒動で没落し播磨・備前・美作は国人割拠の情勢を強めるなか、21歳で家督を継いだ黒田官兵衛は、姫路へ侵攻した赤松政秀を寡勢で撃退して武名を上げ(青山・土器山の戦い)、1575年織田信長の天下を予見し主君小寺政職と別所長治を口説いて帰順させたが、織田方の備前国主浦上宗景が毛利の加勢を得た家臣の宇喜多直家に追放され(天神山城の戦い)、一向宗門徒の盟友三木通秋が反信長に転じて乃美宗勝の毛利水軍が来襲(英賀合戦)、偽装援軍の奇計で撃退するも国人衆は動揺し、局面打開のため嫡子長政を人質に送って援軍を督促した。1577年中国征伐を決意した織田信長は豊臣秀吉軍団を派遣、姫路城に入った秀吉は忽ち要衝上月城を攻略するが、別所長治の離反を機に播磨国人の大半が毛利方へ靡き毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍が来援、備前宇喜多直家の調略で窮地は凌いだが、息つく間もなく荒木村重が謀反、村重と通じた小寺政職に欺かれ説得に赴いた黒田官兵衛は有岡城の土牢に幽閉され、官兵衛反意を疑う信長は人質長政の殺害を命じた。1年後、有岡城落城で半死半生の官兵衛は救出され(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、竹中半兵衛に匿われた長政も無事、軍師官兵衛が戻った秀吉軍団は別所長治を滅ぼし(三木合戦)、反抗勢力を掃討して播磨を平定(小寺政職は官兵衛の嘆願で助命)、吉川経家の鳥取城を落として因幡を制圧、清水宗治の備中高松城を水攻めで攻囲した秀吉は手柄献上のため信長に出馬を要請した。
- 1582年本能寺の変報を備中高松陣で受けた豊臣秀吉は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、正気に返った秀吉は妥協的条件で毛利と即時和睦し、京都まで200kmを10日で移動(中国大返し)、柴田勝家らに先駆けて明智光秀を討ち果し後継レースの主役に躍り出た(山崎の戦い)。黒田官兵衛は、毛利・宇喜多との戦後処理をまとめ、大坂城築城の総奉行を務め、賤ヶ岳合戦から九州征伐に転戦、播磨篠の丸城5万石から1587年豊前中津12万石の大名となったが、功績に比して評価は過小であり、秀吉子飼いの石田三成に参謀長の地位も奪われた。中津入り直後、官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙に城井鎮房ら豊前国人が一斉蜂起、苦戦しつつも持久戦に切替えて無事鎮圧した。1589年家督を長政に譲り隠居、秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞き粛清を予見して引退したというが、官兵衛の智謀を頼む秀吉は軍師辞任は許さなかった。小田原征伐では北条氏政・氏直父子への勧降使を務め、秀吉が諫止を聞かず始めた文禄の役(朝鮮出兵)には軍監として渡航するが、現地で石田三成・小西行長と対立し無断帰国、剃髪入道して勘気赦免され(如水と号す)、慶長の役・蔚山城の戦いでは長政の後詰で采配を振るい、処罰覚悟で戦線縮小を図るなか、秀吉が大阪城で病没した。風雲急を告げる情勢下、黒田官兵衛は、長政を徳川家康に縁付けて西軍切崩しにあたらせ、関ヶ原合戦が起ると自身は豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、最古参の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門を従えて毛利配下大友義統の西軍勢を打破り(石垣原の戦い)、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け解軍した。最後の大勝負に負けた黒田官兵衛は、封土恩賞を辞退して筑前に隠居し、好々爺然で家臣・領民に親しみ悠々自適のうちに59年の生涯を閉じた。
- 前田利家は、織田信長の寵童から「槍の又左」へ成長し、下僕殺害で3年干されるが武功を重ねて能登国主に出世、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切り、親友豊臣秀吉の引立てで加賀・越中・能登三国の太守となり徳川家康の対抗馬に担がれた最も幸運な戦国武将である。武将としての実績は乏しいが、篤実な性格で敵からも信頼され、非情の決断と老獪な政界遊泳で大封の主に上り詰めた。尾張荒子2千貫の土豪の四男に生れ、14歳のとき家督相続間もない織田信長に小姓として出仕し、武芸を練磨して合戦毎に首級を重ねた。幸運の主豊臣秀吉は清洲・安土の侍長屋以来の親友である。1559年浮野の戦いで主君信長は尾張平定を完了し、利家は母衣衆(親衛隊)に抜擢され妻まつ(芳春院)も迎えたが、信長を真似た「かぶきもの」が嵩じて同朋衆拾阿弥を斬殺し放逐された。桶狭間合戦で一番首、森部の戦いで首二つを挙げて勘気赦免されると、信長の命令で兄利久(前田慶次郎の養父)を廃して前田家当主に納まり、石山合戦で単騎敵を防ぎ「日本無双の槍」と激賞され織田家大名衆に連なった。1575年長篠合戦で鉄砲隊を率いて奮戦し、佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられて柴田勝家の与力に参陣、1580年本願寺顕如の降伏で90年間加賀を支配した一向一揆も解体すると、柴田軍団は加賀・能登を制圧、前田利家は能登23万石を与えられ小丸山城に拠って上杉謙信勢と対峙した。そして1582年本能寺の変で信長が討死、44歳の前田利家は自ら槍を奮って能登国人の反乱を鎮圧し、翌年賤ヶ岳合戦が勃発すると柴田方で出陣するも突如戦線離脱、秀吉方に転じて北ノ庄攻めの先鋒を務め能登に加賀二郡を加増されて尾山(金沢)城へ移り、1585年佐々成政の反乱を撃退して(末森城の後巻)越中を加封され三国の太守となった。天下統一を急ぐ豊臣秀吉が人質攻勢で徳川家康を懐柔すると、前田利家は家康牽制の対抗馬に担がれ、秀吉の遺言により五大老筆頭・秀頼後見として大阪城に入ったが、家康との一触即発の騒乱を鎮めた直後に死去、翌日石田三成が加藤清正・福島正則らに襲撃され早くも豊臣政権崩壊の兆しが現れた。
- 石田三成は、豊臣秀吉の下で兵站・太閤検地・土木事業を担い、上杉・佐竹・島津・津軽等を圧伏して文治派筆頭官僚に躍進するが、朝鮮出兵と秀次事件で武断派に憎悪され秀吉没後すぐに失脚、己の復権のため関ヶ原合戦を起すが徳川家康の罠に嵌って惨敗した「才あって智ない」豊臣家崩壊の元凶である。近江の土豪の次男に生れ、織田信長の畿内侵攻で長浜城に入った豊臣秀吉に出仕、文吏的才幹と適度な剛直さを買われ弱冠18歳で奏者(取次役の秘書官)に抜擢され、本能寺事変後に秀吉が織田家を簒奪すると、軍師黒田官兵衛や千利休を遠ざけて政権運営の中核へ台頭、天下統一戦の兵站から太閤検地等の統治政策、堺・博多の商業都市管理、聚楽第・方広寺等の土木事業、本願寺の寺内成敗と西本願寺建設とフル回転し、外交面でも直江兼続と連携して上杉景勝を帰順へ導き、九州征伐では島津義弘を懐柔、小田原征伐後の宇都宮仕置・奥州仕置でも辣腕を振るい、諸大名に畏怖されて絶頂期を謳歌した。1592年全国統一成った豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始(文禄の役)、総奉行に任じられ出征した石田三成は小西行長と共に面従腹背で講和を図り(文治派)、目障りな軍監の黒田官兵衛・浅野長政を追払い、秀吉の命令を墨守し勇敢に戦った加藤清正・福島正則・黒田長政らと対立(武断派)、指揮が乱れ兵站の利を失った日本軍は釜山撤退を余儀なくされた。その直後に豊臣秀頼が誕生し、秀吉が甥の関白秀次を一族諸共惨殺する事件が発生、秀次の遺領配分で、武断派が首謀者と信じた石田三成は近江佐和山19万4千石に代官地7万石を獲得し、三成の讒言で謹慎に処された加藤清正らの憎悪に油を注いだ。三成・行長は耄碌した秀吉を誤魔化して講和を図るが術策破れて再出兵(慶長の役)、後方支援を担う三成は秀吉が総大将小早川秀秋から取上げた筑前・筑後30万7千石を代官地に加えたが、1598年大阪城で豊臣秀吉が死去、五大老・五奉行の合議で朝鮮出兵は即時打切られ、虎の威を喪った三成は一転窮地に陥った。
- 朝鮮出兵から帰国した武断派諸将の報復を恐れる石田三成は、大阪城に入った前田利家を頼り、太閤遺命に背いた徳川家康を糾弾して豊臣家の再結束を図るが、三成憎しの豊臣恩顧大名が挙って家康へ奔るという極めて皮肉な結果を招いた。間もなく前田利家が死去すると、その翌日に加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の7将が石田三成の大坂屋敷を襲撃、三成は伏見城の家康のもとへ逃れて窮地を凌ぐが五奉行辞任・佐和山城退去を呑まされた。そして1600年、己の復権を目論む石田三成は、盟友上杉景勝・直江兼続の会津挙兵を皮切りに打倒家康を宣言、大阪城の豊臣秀頼を確保して毛利輝元を西軍総大将に迎え、鳥居元忠の守る伏見城を血祭りにあげ、美濃大垣城に拠って会津征伐から戻る東軍を待構えたが、野戦上手の家康にまんまと関ヶ原へ誘い出され、有利な兵数と布陣ながら本気で戦ったのは三成自身と盟友の大谷吉継・小西行長に外様の宇喜多秀家のみで、吉川広家に抑えられた毛利勢の不戦と小早川秀秋の寝返りで西軍は壊滅、捕えられた石田三成は小西行長・安国寺恵瓊と共に京都六条河原で斬刑に処された。関ヶ原合戦後、偽りの領国安堵に釣られた毛利輝元が大阪城を明渡して勝負あり、一気に豊臣から徳川への政権交代が成り、宇喜多秀家の改易、毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣の大減封など国土の3分の1もの大名再編が平穏裏に実施され、豊臣秀頼・淀殿は難攻不落の大阪城に西軍浪人を掻き集めて抵抗するも大名で味方する者は無く1615年大坂陣で滅ぼされた。創業者の耄碌とお家騒動、不徳の後継者と仲間割れ、世間知らずの後家さんと無能な取巻きがもたらした自滅劇であった。
- 宇喜多秀家は、謀略と暗殺で備前岡山城57万4千石を分捕った宇喜多直家の嫡子で豊臣秀吉の引立てで朝鮮役総大将・五大老に栄進、父に似ぬ義侠心から関ヶ原合戦で最も奮闘するが改易され八丈島へ流罪、流人のまま83歳で没した関ヶ原最後の武将である。1581年梟雄宇喜多直家が死去、後事を哀願された秀吉は義理堅く9歳の宇喜多秀家を盛立て、14歳で元服させると養女(前田利家の実子)豪姫を娶わせて豊臣一門に加え、九州征伐で初陣、文禄の役では弱冠20歳の秀家を総大将に抜擢し、帰国すると五大老に就けた。関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保は不審死、小早川秀秋(ねねの甥)は突如減転封の憂き目をみたが、後継資格の無い秀家は猜疑を免れた。宇喜多秀家は、朝鮮役と秀吉没後の豊臣家分裂抗争を通じて石田三成・大谷吉継・小西行長と親交を深め三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政および黒幕の徳川家康と対立、1599年前田利家の死の翌日武断派七将が三成の大坂屋敷を襲撃すると秀家は佐竹義宣・上杉景勝と共に救助したが家康の裁定で三成は失脚に追込まれた。宇喜多家中では執政長船綱直の死(毒殺説が濃厚)を機に宇喜多詮家(直家の甥。後に坂崎直盛に改名し千姫強奪事件を起す)・戸川達安・岡利勝らが秀家に反逆し大坂屋敷を占拠、又も家康の裁定で首謀者追放で決着したが重臣の大半を失った宇喜多家は衰えた(宇喜多騒動)。1600年復権を期す三成が動くと宇喜多秀家は強硬策を主張、軍勢を率いて鳥居元忠の伏見城を攻落とし、大阪城に陣取る毛利輝元に代わり西軍を率いて美濃大垣城へ出陣、関ヶ原で両軍激突すると福島正則と一進一退の激闘を演じたが小早川秀秋の寝返りで戦局が一変し姉婿吉川広家の妨害で毛利勢は不参戦、秀家は秀秋と刺違えようとするが明石全登(後に大坂陣で戦没)に制止され已む無く逃走、薩摩へ逃れ島津義弘に匿われたが宇喜多家は潰され岡山藩55万石へは秀秋が入封した。徳川幕府へ引渡された宇喜多秀家は、義兄前田利長の嘆願で助命され駿河久能山幽閉を経て三児と共に八丈島へ流罪、前田家の援助で50年も寿命を保ち子孫は八丈島に根付いた。
- 上杉景勝は、武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落した。超寡黙・無表情で家政は直江兼続に任せたが合戦には強かった。1564年宇佐美定満が上杉謙信の三条長尾家と対立する上田長尾家の当主政景と共に溺死し、8歳の嫡子景勝は謙信の養子にとられ越後坂戸城から春日山城へ移された。上杉景勝は上田衆を率いて武勇を示し、謙信から弾正少弼の官位を譲られ一門衆筆頭と目されるも世子の明示は無く、1578年謙信が急逝すると相養子の上杉景虎(北条氏政の実弟)との激烈な家督争いが勃発、北条と甲相同盟を結ぶ武田勝頼が信越国境に迫り窮地に陥ったが妹菊姫の入輿を乞い東上野と膨大な献上物を差出して勝頼篭絡に成功、上杉景虎・道満丸父子と上杉憲政(謙信の養父)を滅亡に追込んだ(御館の乱)。が、2年の内乱で上杉家は弱体化し極端な上田衆優遇に怒った新発田重家らが伊達輝宗・蘆名盛隆を後ろ盾に蜂起、1582年武田を滅ぼした織田軍団が越中・信濃・上野の三方面から越後へ殺到し柴田勝家に越中魚津城を落とされたが信長討死で蘇生、天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪い取った。越中の佐々成政を牽制しつつ新発田重家を攻めるも討死寸前の惨敗(放生橋の戦い)、しかし蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った重家を押返し、1586年豊臣秀吉に臣従し越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められると重家を討って越後を回復、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)領地は90万石に膨らんだ。1598年蒲生騒動を機に秀吉から会津120万石と徳川家康の押え役を託されると、1600年家康を会津征伐に誘い出し盟友石田三成が関ヶ原合戦を起すが家康追撃を説く直江兼続を「義に非ず」と退け挟撃策が破綻、最上義光を攻めるも打破れず西軍完敗で撤退し(慶長出羽合戦)、上洛して家康に陳謝し改易は免れたが米沢藩30万石へ落とされた。
- 直江兼続は、豊臣秀吉に取入って上杉景勝を会津120万石へ押上げるも時勢を見誤って石田三成に肩入れし出羽米沢藩30万石へ転落させた「愛」冑の田舎軍師である。上田長尾政景に仕えた樋口兼豊の長男で、御館の乱を制し上杉謙信の家督を継いだ景勝(政景の嫡子)に出仕、1581年刃傷事件で横死した直江信綱の未亡人を娶って直江家と越後与板城を承継したが、極端な上田衆優遇策が謙信遺臣の離反を招き新発田重家の乱を招来した。翌年織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、柴田勝家に越中魚津城を落とされ信濃・上野からも織田軍団が越後へ迫るが間一髪で本能寺の変が勃発、蘇生した上杉景勝は天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪取し、新発田を攻めるもあわや討死の大敗を喫した(放生橋の戦い)。直江兼続は天下人豊臣秀吉に活路を求め石田三成に接近、蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った新発田重家から新潟城・新潟港と沼垂城を奪還し、1586年景勝共々上洛して秀吉に臣従を誓い越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第の墨付を獲得、翌年重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)景勝は90万石の大封を獲得、兼続は占領統治と経済政策に辣腕を発揮した。1598年徳川家康を警戒する秀吉・三成は力量不足の蒲生秀行を移封し上杉景勝を会津120万石に抜擢、直江兼続は米沢30万石を分与され陪臣ながら大大名に列した。秀吉に続いて前田利家が没すると加藤清正・福島正則ら武断派は憎悪する三成を襲撃、家康の裁定で失脚に追込まれた三成は景勝・兼続と謀議を巡らし、会津へ戻った景勝は家康の上洛命令を拒絶し兼続は「直江状」で挑発した。1600年おそらく筋書き通りに家康は会津征伐を敢行し三成は隙を衝いて挙兵、直江兼続は関ヶ原合戦へ向かう家康の追撃を説くも景勝は「義に非ず」と退け最上義光攻めを決断し、兼続は圧倒的大軍で攻めるも敗退した(慶長出羽合戦)。結果として小早川秀秋の寝返りと毛利輝元の大阪城放棄で西軍は予期せぬ完敗、追撃策を捨てた景勝は米沢藩30万石へ削られるも改易は免れた。
- 毛利輝元は、石田三成の甘言に釣られ関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれるも家中すら統率できず小早川秀秋・吉川広家の寝返りで徳川家康に勝利を献上、本領安堵の偽約にすがり鉄壁の大阪城を明け渡すが祖父毛利元就が築いた120万石を長州藩36万石に削られ重臣を誅殺して保身を図った戦国一の馬鹿殿である。父の毛利隆元が早世したため元就から家督を継いだが家政は叔父の吉川元春・小早川隆景に委ねられ(毛利両川)、隆景が豊臣秀吉に臣従して大封を保った。毛利輝元は、安芸の吉田郡山城から広島城へ本拠を移し、隆景と共に五大老に任じられ、1597年隆景の死により名実共に当主となった。翌年秀吉が死に前田利家も病没、天下を狙う徳川家康が三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派大名を取込み三成を失脚に追込むと、復権を期す三成は五大老の宇喜多秀家・上杉景勝と西国大名を誘引し、1600年景勝・直江兼続の挑発に乗った家康が会津征伐を挙行すると毛利輝元を総大将に担ぎ挙兵、西軍は伏見城を落として畿内を制圧し東軍迎撃の拠点美濃大垣城へ進軍、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り毛利勢は毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家(元春の後嗣)・小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)・安国寺恵瓊が出陣した。両軍は関ヶ原で激突、真田昌幸が信濃上田城に徳川秀忠隊を釘づけにして東軍兵力を半減させ、布陣有利な西軍は善戦したが、小早川軍が突如西軍に襲い掛かり寝返り続発で西軍は壊滅、吉川広家の妨害で毛利軍は参戦せず、周章狼狽した輝元は立花宗茂や秀元の主戦論を退け鉄壁の大阪城を自ら明渡した。吉川広家は黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており開城に際しても念押ししたが反故にされた。毛利家は防長36万石へ押込められ、広家は岩国藩3万石を立藩、秀秋は筑前名島30万7千石から岡山藩55万石へ増転封されるが2年後に発狂死し無嗣改易となった。毛利輝元は、楯突く熊谷元直・吉見広長を族滅して保身を図り、大阪陣で内藤元盛を密かに大阪城へ送込み秀頼を支援した事実が露見すると元盛と二児を自害させ隠蔽(佐野道可事件)、自身は73歳の長寿を保った。
- 小早川秀秋は、ねねの甥で豊臣秀吉の養子となるが秀頼誕生で五大老小早川隆景に入嗣、関ヶ原合戦の寝返りで徳川家康に勝利を献上し備前岡山藩55万石に栄転するも僅か2年後に21歳で発狂死し無嗣改易となった精神薄弱児である。関白秀次・秀勝・秀保兄弟(秀吉の姉日秀の子)・秀秋に続き秀頼も大坂陣で滅ぼされ豊臣大名は消失した。ねねの兄木下家定の五男に生れた秀秋は、3歳で秀吉の養子となり7歳で丹波亀山城10万石を与えられ豊臣を名乗ったが、1593年秀頼誕生の翌年15歳で小早川家に出され、翌年秀吉が豊臣秀次一家を惨殺し秀保急逝で大和豊臣家も断絶、秀秋は秀次遺領の筑前名島30万7千石を与えられたが粛清を恐れる身となった。慶長の役では総大将に任じられたが、小早川隆景が亡くなると蔚山城合戦の失策を理由に越前北ノ庄15万石へ減転封、筑前・筑後領は太閤蔵入地とされ実質的に代官の石田三成に奪われた。1598年秀吉が没すると三成を憎む武断派の決起で豊臣家は割れ、小早川秀秋は筑前名島の旧領回復で恩を受けた徳川家康に接近、1600年三成が挙兵すると西軍に引込まれ伏見城攻撃に従うが、同じく高台院(ねね)を母と仰ぐ加藤清正(秀吉の又従兄弟)・福島正則(同従弟)の東軍加盟に逡巡し重臣の稲葉正成・平岡頼勝に押され黒田長政(家康の娘婿)に寝返りを承諾した。美濃大垣城から打って出た西軍が関ヶ原で東軍と激突、小早川秀秋は南西の松尾山に陣取り日和見していたが家康の威嚇射撃で尻に火がつき大谷吉継を急襲(先鋒を命じた松野重元は不義を憤り戦線離脱)、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の寝返りを誘発して大谷隊を撃滅し吉継は秀秋に「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害、南宮山の毛利勢は吉川広家の寝返りで参戦せず、家康は本隊投入で総攻撃を掛け宇喜多秀家・石田三成を破り西軍は潰走した。立役者の小早川秀秋は宇喜多領を承継し備前岡山藩55万石へ増転封となったが祟りに怯えて狂人となり杉原重政を誅殺し稲葉正成(妻の春日局が徳川家光の乳母となり譜代大名稲葉家と堀田家の祖となる)・平岡頼勝は出奔、間もなく突然死し小早川家は断絶した。
- 加藤清正は、又従兄弟の豊臣秀吉のもとで大名に出世し朝鮮出兵で武名を上げた猪武者、石田三成憎しで徳川家康に与し関が原合戦後に肥後熊本藩54万石の太守となるも豊臣家滅亡を招いて茫然慨嘆、後嗣忠広が改易され加藤家も断絶した。秀吉と同じ尾張中村の百姓の出で12歳のとき召抱えられ、早く譜代家臣を増やしたい秀吉に「賤ヶ岳の七本槍」と持上げられたが国内戦で目立つ軍功は無かった。織田信長討死で天下を奪った秀吉は加藤清正・福島正則・石田三成・小西行長ら子飼い武将を大名に引上げ、1587年肥後国人一揆平定後に肥後の北半分(熊本城25万石)を清正・南半分(宇土城24万石万石)を行長に分け与えた。1592年天下統一を果した豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始(慶長の役)、二番隊を率いた加藤清正は一番隊の小西行長と先を競って進軍し、日本軍が首都漢城・平壌を制圧しても宣祖王を追撃し満州国境で臨海君・順和君の二王子を捕縛した。が、秀吉に面従腹背で講和を進める三成・行長ら文治派と清正・正則・黒田長政ら武断派の対立が深刻化、清正は讒言で内地へ召還され謹慎に処された。1596年三成・行長のゴマカシが破れて秀吉は朝鮮出兵を再開(慶長の役)、慶長伏見地震で秀吉救済に駆けつけた「地震加藤」は赦されて朝鮮へ出陣し蔚山城の戦いで生涯の晴れ舞台を飾った。1598年秀吉死去で朝鮮出兵は終了、報復に燃える加藤清正ら武断派諸将は老獪な徳川家康に取込まれ、前田利家逝去の翌日三成の大坂屋敷を襲撃、仲裁した家康は三成の奉行職を解き佐和山城へ押込めた。1600年失地回復を期す三成の策動で関ヶ原の戦いが勃発、熊本に居た加藤清正は行長不在の宇土城・八代城を攻落とし戦後に肥後一国54万石へ加増されたが、1603年家康は徳川幕府を開き豊臣秀頼を圧迫した。「はねだし」の石垣で熊本城を築いた加藤清正は築城名人と賞され、名護屋城・江戸城などの普請で徳川家への忠勤に励み、総金箔張りの江戸屋敷や歌舞伎興行で警戒解除に努めた。1611年淀殿を説伏せて秀頼と家康の二条城会見を実現させたが後の祭り、3ヶ月後に加藤清正は病没し、4年後に豊臣家は滅ぼされ、加藤家も後嗣忠広の代で滅亡した。
- 藤堂高虎は、浅井長政の足軽を振出に8度も主君を替えた変節漢、豊臣秀長のもとで台頭するが真先に徳川家康へ寝返り忠勤に励んで譜代大名格・伊勢津藩32万3千石へ大出世を遂げた。身長190cmの押出しと智謀を頼り活躍場所を得た「転職の達人」「勤め人の鏡」と評する向きもある。近江の土豪で浅井亮政に仕えた藤堂虎高の次男で、兄の高則が戦死したため家督となり、14歳のとき足軽として姉川の戦いに従軍したが、主君の浅井長政(亮政の嫡孫)が織田信長に滅ぼされ仕官を求めて転々流浪、織田へ寝返った浅井重臣の阿閉貞征・磯野員昌に仕えるが芽が出ず、員昌から近江高島郡を奪った津田信澄に転じるも長続きしなかった(員昌は出奔し帰農)。1576年20歳のとき織田家で活躍する豊臣秀吉の弟豊臣秀長に3百石で出仕、丹波攻略の軍功で3千石取の鉄砲大将に任じられ、1582年本能寺の変が起り(渦中に阿閉貞征と津田信澄は落命)織田家から天下を奪った秀吉のもとで勇躍、1585年紀州征伐で雑賀衆首領鈴木重意を謀殺した功績で紀伊粉河1万石の大名に栄達、紀伊猿岡山城・和歌山城の普請で築城の才能を現した。1591年秀長が没すると大和豊臣家を切盛りし水軍の将として朝鮮役に出征したが、1595年豊臣秀保(秀長の甥で婿養子)が急逝し無嗣断絶(謀殺説あり)、藤堂高虎は高野山で出家する素振を見せるが直ちに説諭に応じて豊臣秀吉に仕え一気に5万石を加増されて伊予板島(宇和島)7万石に封じられた。直後に秀次事件が起り豊臣秀勝も朝鮮役で戦病死、秀保の三兄弟は同時期に闇へ消えた。慶長の役で再び出征した藤堂高虎は日本水軍が朝鮮水軍を撃破した漆川梁海戦・鳴梁海戦で武功を挙げ大洲城1万石を加増され宇和島城を築いたが、石田三成を巡り豊臣家臣団が割れるなか逸早く徳川家康に帰服し武断派懐柔に暗躍、1600年関ヶ原合戦では脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保らの寝返工作を担い伊予今治城20万石の太守となった。1608年家康の信任篤い藤堂高虎は伊勢津藩22万石へ栄転(大坂陣後32万3千石に加増)、1616年大御所家康没後は徳川秀忠・家光に忠勤を抜出て立場を保持し75歳で世を去った。
- 細川藤孝は、没落した和泉上守護家の当主で常に勝者に属し肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人である。将軍足利義晴・細川晴元に従い三好長慶に所領を奪われた細川元常の死後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に将軍家を支え、足利義輝弑逆後は弟の足利義昭を救出して若狭武田氏・越前朝倉氏を頼り、1568年新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し幕府再興に働いた。が、1571年将軍義昭が恩人を裏切り信長包囲網に加担、1573年武田信玄上洛の尻馬に乗って挙兵に及ぶと細川藤孝は明智光秀・荒木村重と共に義昭を見限って信長に臣従し、京都長岡と勝竜寺城を与えられ岩成友通討伐に参陣した。遅れて降伏した三淵藤英・秋豪父子は信長に誅殺された。細川藤孝は、上司明智光秀の娘ガラシャを嫡子忠興の妻に迎え、光秀の旗下で畿内平定戦から丹波攻略、松永久秀討伐と東奔西走、1579年波多野秀治・赤井直正を滅ぼし丹波平定が成ると光秀は近江坂本に丹波を加増され、若狭計略を担当した藤孝は若狭守護一色義道を討ち丹後南半11万石を与えられ宮津城に入った。1582年本能寺の変が勃発、光秀に出陣を促された細川藤孝は剃髪隠居して家督を忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)ガラシャを幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は豊臣秀吉に敗れ滅亡(山崎の戦い)、藤孝は早速秀吉に帰順し娘婿の一色義定を討って丹後を平定し清洲会議で加増を受けた。耄碌した秀吉が千利休・豊臣秀次を殺すと両人に近い細川忠興は切腹も取沙汰されたが徳川家康に救われ、秀吉没後直ちに家康に帰服し丹後12万石に豊後杵築6万石を加増された。1600年関ヶ原の戦いが起ると、大坂屋敷のガラシャは石田三成に襲われ自害、忠興は弔い合戦で武功を挙げ豊前中津39万9千石へ加転封となった。丹後田辺城の細川藤孝は西軍に囲まれ討死を覚悟したが、歌道「古今伝授」伝承者の死を惜しむ弟子達が奔走し後陽成天皇の勅命により降伏、戦後救出され京都で悠々自適の余生を送った。細川家は忠興の後嗣忠利の代に肥後熊本54万石へ加転封となり現代の細川護熙まで繁栄を続ける。
- 伊達政宗は、会津蘆名氏を滅ぼして南奥羽150万石を領し佐竹義重・上杉景勝を脅かした「独眼流」、豊臣秀吉・徳川家康の隙を窺い減封されるも外交と演出で仙台藩62万石・伊予宇和島藩10万石を保ち野望を秘めて慶長遣欧使節を派した天下御免の横着者である。出羽米沢城に拠り南奥羽11郡余に君臨した奥州探題伊達輝宗の嫡子で、疱瘡で右目を失い生母義姫に嫌われたが1584年18歳で家督を承継、翌年叛臣大内定綱を匿い輝宗を拉致した畠山義継を父諸共に銃殺し、佐竹義重率いる南奥羽連合軍の来援をかわして二本松城を奪取した(人取橋の戦い)。会津黒川城主蘆名亀王丸が夭逝すると弟政道の入嗣を企てるが佐竹義重に敗北(次男佐竹義広が蘆名氏を相続)、1588年大崎氏の内紛に軍事介入するも最上義光に敗れ(大崎合戦)佐竹・蘆名・相馬に攻め込まれたが伊達成実・片倉景綱の堅守と大内定綱の寝返りで撃退に成功(郡山合戦)、翌年蘆名義広を滅ぼして黒川城に入り佐竹方諸豪を掃討して会津四郡・仙道七郡を平定し北の大崎・葛西氏も掌握した(摺上原の戦い)。伊達政宗は、父祖譲りの外交術で豊臣秀吉・前田利家・浅野長政・徳川家康らに取入りつつ、惣無事令を無視して近隣諸豪を倒し北条氏政と同盟して佐竹挟撃を狙ったが、小田原落城を目前に秀吉に投降を決意、盛毒嫌疑で義姫(最上義光の妹)を放逐し弟政道を暗殺して禍根を断ち主戦派の伊達成美に留守を託して小田原へ参陣、禿髪に白麻の陣羽織の異装で秀吉を和らげ家康・利家らの取成しで助命されるも本領の出羽米沢城72万石に戻された。会津若松城に入封した蒲生氏郷を追出すべく葛西大崎一揆を扇動するが金箔の磔柱の演出で助命され岩出山城58万石へ減転封、関白秀次への接近が裏目に出て隠居・伊予転封を命じられるも家康に救われ、秀吉が没すると家康の六男忠輝に娘を縁付け、関ヶ原の戦いに乗じて上杉景勝を攻めるも家康の叱責で渋々矛を収め仙台藩62万石が確定した。家康・秀忠・家光への忠勤に励みながら慶長遣欧使節を派して幕府転覆を窺い、大坂陣では味方討ちを疑われながら庶長子伊達秀宗の伊予宇和島藩10万石の立藩を認められ和霊騒動を凌いで領土を保った。
- 最上義光は、伊達氏から独立し謀略を駆使して出羽国人を切従え、関ヶ原の戦いで上杉景勝を撃退し山形藩57万石に躍進した羽州探題の名門大名、愚孫最上義俊が家臣団の総スカンを喰い改易に処された(最上騒動)。羽州探題最上氏は国人割拠で衰退し最上義定は陸奥守護伊達稙宗に臣従、養嗣子の最上義守は天文の乱に乗じて自立を図り将軍足利義輝を後ろ盾に勢力拡大を図るが寒河江兼広に敗れ挫折、長男義光の廃嫡を企て一旦隠居に追込まれるも同族の有力国人衆「最上八楯」及び娘婿の伊達輝宗に担がれ義光討伐軍を挙兵、1574年四面楚歌の義光は必死の防戦で和睦に漕ぎ着け伊達氏からの完全独立を果した(天正最上の乱)。足元を固めた最上義光は鮮やかな個別撃破戦術を展開、里見民部の寝返りを誘って上山城主上山満兼を討たせ、馬揃え参陣を拒否した小国城主細川直元を包囲殲滅、東禅寺義長を寝返らせて大宝寺義氏を討ち庄内を平定、羽州探題を僭称する白鳥長久を山形城に誘込んで自ら斬殺し谷地城を奪取、強豪延沢満延に娘を縁付けて自陣に引込み最上八楯を切崩すと寒河江城主寒河江高基・東根城主東根頼景を攻め滅ぼし盟主天童頼澄を天童城から追放して1584年出羽最上郡平定を達成、横手城主小野寺義道の南進を撃退し、大宝寺義興を滅ぼして庄内支配を固めた。1588年大崎合戦で伊達政宗を撃退するが隙を衝いた上杉景勝が本庄繁長・大宝寺義勝(繁長の実子)を派して庄内を奪還(十五里ヶ原の戦い)、豊臣秀吉に帰順し羽州探題に補された最上義光は景勝の惣無事令違反を訴えるが黙殺され奥州仕置で出羽山形城24万石が確定、石田三成と昵懇の景勝・直江兼続に対抗するため徳川家康に接近し、秀次事件で愛娘駒姫が殺されると完全な家康党となった。1600年会津征伐軍が上方へ転戦し最前線で孤立した最上領に直江兼続率いる上杉軍・小野寺軍が殺到、最上諸将は寡兵で猛攻を凌ぎ東軍勝利の報を得た最上義光は兜に被弾しながら上杉軍を追撃し庄内を奪還、関ヶ原合戦後に領有を認められ出羽山形藩57万石を立藩した。義光の死から3年後に後嗣最上家親が急逝し、1622年最上騒動が起り最上家は自滅した。
- 真田信繁(真田幸村)は謀将真田昌幸の次男、15歳で織田方の沼田城へ人質に出され「第一次上田合戦」で武将デビュー、上杉景勝の人質を脱して豊臣秀吉に近侍し大谷吉継の娘婿となった。真田昌幸に従う真田信繁は小田原征伐を闘い上野沼田領を奪回、1600年「第二次上田合戦」で徳川秀忠の中山道軍を関ヶ原合戦に遅参させたが西軍惨敗で破滅、東軍に付いた長兄真田信之(妻は本多忠勝の娘)の嘆願で辛くも助命され父と共に高野山九度山村へ幽閉された。真田信之は昌幸領を安堵・加増され子孫は幕末まで松代藩13万石を保った。真田昌幸は没したが1614年「大坂冬の陣」が起ると、真田信繁は兄の勧誘を断って高野山を脱出し大阪城に見参(条件は50万石とも)、手勢130人ながら長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登と並ぶ浪人軍「五人衆」に迎えられ5千の兵を託された。真田の通字は「幸」、兄の信幸は徳川を憚り「真田信之」へ改めたが、弟の信繁は「真田幸村」を名乗り意気地を示している。さて、大野治長(淀殿の乳母の子)らに兄への通謀を疑われた真田信繁は、大阪城の弱点である南方に孤立無援の「真田丸」を築いて信義を立て、真田昌幸の遺策を披露し「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、豊臣秀頼自ら出陣して恩顧大名の離反を誘うべし」と説いたが、「貫禄不足の信繁が説いても誰も従うまい」との父の予言通りとなった。真田信繁は無念を抑えて真田丸に籠り20万の徳川軍を奇計で翻弄、信濃一国の恩賞で投降を勧められたが謝絶し大坂城を護り切った。が、愚将大野治長の差配で豊臣方は勝機を逃し大砲に怯えた淀殿が不利な講和を強行、真田丸は破壊され大阪城は内堀まで埋められた。翌1615年、徳川家康は15万余の大軍で「大坂夏の陣」を起し裸城を再攻撃、真田信繁は伊達政宗自慢の騎馬鉄砲隊を撃退し、茶臼山に布陣し起死回生の陽動作戦を献じたが肝心の豊臣秀頼が出馬せず挫折、「十文字槍」を振い家康本陣に斬込んだが包囲殲滅された。真田信繁の猛撃に徳川家康は二度も自害を覚悟したという。豊臣家は滅亡し戦国時代は徳川の一人勝ちで終結したが、真田信繁は己の死花で掉尾を飾った。
- 本願寺顕如は、親鸞・蓮如の血を引く浄土真宗法主にして大坂の戦国大名、一向一揆と石山合戦で織田信長に抵抗を試み幾万の門徒を虐殺の奈落へ導いた戦う庶民のカリスマである。降伏・武装解除後も宗教的権威は保持し、子孫の大谷家は今なお東西本願寺の門首として皇族並みの権勢を誇る。寺社勢力は、領主への年貢は滞っても寺への貢納は怠らない門徒を支えに強大な経済力を誇り、武装して領主権を脅かす事実上の戦国大名であったが、比叡山焼き討ちと本願寺顕如の降伏で永久に武力を失った。顕如は、石山本願寺を築いた父証如の死により12歳で本願寺11世を承継、各地の一向一揆を組織化し、1570年、姉川合戦に敗れた朝倉義景(嫡子教如の舅)の要請に応じて浅井長政・比叡山延暦寺・武田信玄・将軍足利義昭らと信長包囲網を結成、11年に及ぶ石山合戦の戦端を開き、各地に一向一揆を起した。厭離穢土・欣求浄土を旗印に戦死即極楽と狂信する一向一揆は恐ろしく強く、軍事指揮官の鈴木重秀(雑賀孫一)と下間頼廉の采配も冴え、敵方武将にも門徒が多くいて隆盛を極めた。三河では若き徳川家康を追い詰め、伊勢では織田信興・長島では信広・秀成(いずれも信長の兄弟)を戦死させ、越中では6年に渡って上杉謙信の猛攻を凌ぎ、加賀に至っては守護富樫政親を討って以来90年も自治を貫き一時は朝倉氏滅亡後の越前も掌握した。が、1573年頼りの武田信玄が決戦を目前に急死、勢いを得た織田信長はすぐさま浅井・朝倉を討ち、室町幕府を滅亡させ、長島一向一揆を猛攻して門徒2万人を虐殺、長篠の戦いで武田勝頼を撃退し、越前一向一揆を討平、紀州征伐で鈴木重秀の雑賀衆と根来衆を軍門に降した。劣勢の顕如は、上杉・毛利・波多野と提携して信長包囲網復活を目指したが、1578年上杉謙信が大動員令を発した直後に急死、翌年波多野秀治が滅ぼされ、鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍に毛利・村上水軍が惨敗(第2次木津川口の戦い)、補給路を絶たれた顕如は1580年降伏した。猛撃を凌ぎ切った難攻不落の石山本願寺は、その年に焼失し、天下人豊臣秀吉の拠点大阪城の礎となった。
- 親鸞没後浄土真宗は衰亡、事実上の開祖は15世紀後半に登場した布教の天才蓮如である。母は賤民ながら父存如を継いで本願寺第8世となり、平易な『御文』と辻説法で瞬く間に教線を拡大、越前吉崎御坊、山科本願寺、大阪石山別院(石山本願寺)を創建した。蓮如は不戦を説いたが、強大化した一向教団は各地の土豪と結びついて武力蜂起を展開、特に加賀一向一揆は1488年に守護富樫政親を討って加賀一国を制圧し90余年に渡り「百姓の持ちたる国」を堅持した。蓮如は親鸞譲りの精力家で、5人の妻との間に27もの子をもうけた。蓮如の死から55年後に本願寺第11世を継いだのが、相婿の武田信玄や浅井・朝倉・毛利氏と提携し織田信長を最も苦しめた「戦国大名」顕如である。父の証如は、細川晴元・六角定頼と結んだ日蓮宗教団の迫害に遭い、山科本願寺を焼討ちされて大坂に逃れ石山本願寺を新本拠地とした。天文法華の乱で京都から日蓮宗勢力が駆逐されると、細川晴元と和睦して養女(三条公頼の三女如春尼、次女は武田信玄正室)を顕如の妻に迎え、豊富な財力で室町幕府や皇室を支援して関係修復に努め本願寺教団を中央政界に押し出した。顕如は、全国の一向宗ネットワークを総動員して宗教特権を認めない織田信長に抵抗したが、信長包囲網の瓦解により降伏し石山本願寺を退去、日本の宗教勢力は武力を永久に奪われたが、豊臣秀吉に取り入って宗教的には復権を果し、京都堀川六条の現在地に本願寺(西本願寺)を創建した。顕如の死後、長男教如が本願寺法主を継承したが、武闘派のため豊臣秀吉に廃され穏健派の三男准如が法主に据えられた。が、豊臣家から天下を奪った徳川家康は、一向宗復活阻止のため離間策を採り、教如を法主とする新本願寺を創建(東本願寺)、現在まで続く東西本願寺の醜い泥仕合が始まった。聖職者の妻帯禁止は世界的常識だが、親鸞・蓮如・顕如の嫡流大谷家は今日に至るまで代々東西本願寺門首を世襲し、準皇族面で皇室に閨閥を張り巡らし、葬式仏教界の法王として庶民に君臨し続けている。第二次大戦前、壮大な大谷探検隊や文化事業・別荘建築で散財した末に破産した大谷光瑞は西本願寺第22世である。
- 鈴木重秀(雑賀孫一)は、鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺顕如を援け石山合戦を指揮したが時流を悟り織田信長・豊臣秀吉に帰順、雑賀衆は滅亡したが後継者の鈴木重朝の子孫が水戸藩重臣として存続した。藤白鈴木氏は記紀に登場する穂積氏の嫡流で熊野神社の禰宜を世襲した名門だが、国人割拠の紀伊で戦国大名は育たず、鷺森別院を拠点に紀伊を支配する一向一揆の盟主的立場に留まった。1543年の鉄砲伝来から間もなく紀伊根来寺の津田算長が種子島から火縄銃一挺を持ち帰ると刀鍛冶の多い紀伊や堺で鉄砲製造業が興隆、新兵器を駆使する雑賀衆・根来衆は引張り蛸となったが、1569年堺の自治権を奪った織田信長に硝煙(火薬の主原料で当時は国内で産出せず)の調達を妨害された。雑賀衆首領の鈴木重意は、三好三人衆の要請に応じ根来衆と共に600余の鉄砲隊を率いて織田軍と戦い、1570年石山合戦が始まると次男の鈴木重秀を派遣、用兵にも優れた鈴木重秀は下間頼廉と共に「大坂左右大将」と称された。各地で勃興する一向一揆に手を焼いた織田信長は、本丸の顕如を猛撃するが難攻不落の石山本願寺を落とせず、1577年雑賀衆を排除すべく根来衆を寝返らせ大軍で紀州を制圧すると鈴木重秀は進んで帰順、上杉謙信の急死で信長包囲網が瓦解し顕如も11年に及んだ抗戦を断念した。鉄砲の威力を思い知らされた織田信長は、他の戦国大名に先賭けて鉄砲装備を強化し長篠の戦いで武田騎馬隊を撃滅したが、「三段撃ち」や装填・銃撃分業制は雑賀衆に倣ったものだという。君主権に逆らう宗教勢力や傭兵集団は天下統一の宿敵であり、忍者は天正伊賀の乱で信長に、三島村上水軍・鉄砲集団は海賊停止令・紀州征伐で豊臣秀吉に滅ぼされた。統一政権での生残りを図る鈴木重秀は、1582年土橋守重を謀殺して反対意見を封じるが本能寺の変で主導権を奪われ逃亡、1585年豊臣秀吉は藤堂高虎に命じて鈴木重意を暗殺し大軍を派して雑賀衆・根来衆を殲滅した。鈴木重秀は子の孫一郎を人質に出して秀吉に帰順、没後に家督を継いだ弟の鈴木重朝は1万石で秀吉に仕え徳川家康に転じて鈴木家を保った。
- 下間頼廉は、本願寺顕如に軍権を託され11年に及ぶ石山合戦を凌ぎ切り散々に織田信長を苦しめたが降伏後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った本願寺の守護者、子孫の刑部卿家は西本願寺坊官(執政)として繁栄した。本願寺の坊官を世襲する下間氏の嫡流で証如・顕如を補佐、1570年石山合戦が勃発すると司令官に任じられ鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いる鈴木重秀と共に「大坂左右大将」と称された。「厭離穢土・欣求浄土」の旗を掲げ死を恐れない一向宗は勇猛に闘い天然の堀に囲まれた石山本願寺は最後まで陥落しなかったが、長島一向一揆は2万人皆殺しで殲滅され越前一向一揆も下間頼照・七里頼周の失政で瓦解、武田信玄・上杉謙信の相次ぐ死で信長包囲網が瓦解し雑賀衆も紀州を攻められ降伏、鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍に毛利・村上水軍が惨敗し(第2次木津川口の戦い)補給路を断たれた顕如は1580年降伏開城に追込まれ、90年「百姓の持ちたる国」を保った加賀一向一揆も解体された。統一政権秩序での生残りを図る下間頼廉は、各地の一向一揆を説諭して反乱を収拾し、豊臣秀吉・徳川家康の加勢要求を謝絶して純粋な宗教団体としての姿勢を打ち出した。1585年警戒を説いた秀吉は城下町活性化のために顕如を大坂に呼び戻し天満本願寺を創建、顕如も九州征伐に随行して忠誠を示し(下関に留まり戦闘には参加せず)、1589年聚楽第落書犯を匿った罪で願得寺顕悟(顕如の孫)と町人63名が処刑されたが秀吉に接近し本願寺町奉行に就いた下間頼廉が事態を収拾(寺内成敗)、1591年教団再興を許され京都堀川六条に西本願寺を建立した。翌年顕如が病没し、嫡子の教如が後を継いだが武闘派のため秀吉に嫌われ穏健派の三男准如が法主に就任、反抗した下間頼廉は秀吉の勘気を蒙るが准如に忠誠を誓い赦免された。1602年天下人となった徳川家康は本多正信(かつて三河一向一揆を主導したが徳川家に帰参)の分断工作を採用し教如を法主とする東本願寺を創建、今日に至る東西本願寺の泥仕合が始まったが、下間頼廉は一貫して西本願寺を支持し1626年教団の完全復活を見届け89歳の生涯を閉じた。
- 下間氏は、浄土真宗草創期から本願寺に仕えた最古参で僧侶ながら係累を拡げ一族で坊官(執政)職を独占した。以仁王の令旨を携え平清盛打倒を呼掛けた源三位頼政の子孫を称し(清和源氏)、源頼茂(頼政の孫)が鎌倉幕府に反逆し滅ぼされたとき親鸞の取成しで処刑を免れた源宗重(同玄孫)が出家して弟子となり、親鸞に従い常陸下妻に仮寓した際「下妻」を名乗ったのが「下間」へ転じたのだという。戦国時代には軍権を担って各地の一向一揆を指揮し、下間頼廉は石山合戦で武名を馳せたが顕如の石山本願寺退去後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った。徳川家康・本多正信の謀略で本願寺が東西に分裂すると頼廉は後継三男の下間仲玄と共に一貫して准如(顕如三男)の西本願寺を支持したが(刑部卿家)、孫(長男頼亮の後嗣)の下間頼良は教如(顕如長男)の東本願寺に仕えた。下間頼総は加賀一向一揆を率いたが失脚、弟の下間頼芸が西本願寺に仕えたが(宮内卿家)一門で顕如側近の下間頼龍は教如に属した。政治や文化に通じた頼龍は池田恒興の養女(実父は織田信長の弟信時)を娶り、娘を大久保長安らに縁付けた。嫡子の下間頼広(池田重利)は教如と折合いが悪く頼龍没後出奔して叔父の池田輝政(徳川家康の次女督姫を継室に迎え備前岡山藩28万石・因幡鳥取藩32万石を開く)に仕え摂津尼崎藩1万石の大名となった(のち播磨新宮藩1万石へ転封)。下間頼照は、越前一向一揆の指揮官に抜擢されたが与力の七里頼周と共に暴政を敷いたため国人衆の反発を招き織田信長に攻められ一揆は瓦解、嫡子の下間頼俊は戦死し、後を継いだ下間仲孝は西本願寺に仕えた(少進家)。なお下間氏以外の本願寺重臣には、蓮淳(蓮如の六男)の孫で長島一向一揆を指揮した願証寺証恵と後嗣の証意・顕忍、蓮如の孫で三河一向一揆を率いた本證寺空誓、越中一向一揆の勝興寺顕章・瑞泉寺顕秀、青侍から顕如に抜擢された七里頼周などがいるが、並の大名家を凌ぐ繁殖力は驚異的で今日に至る教団発展の原動力というべきか。頼廉の刑部卿家・頼芸の宮内卿家・仲孝の少進家は西本願寺坊官を世襲し門首の大谷家と共に栄華を誇った。
本多正信と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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