戦後原付自転車「バタバタ」「カブ」で台頭し世界一の二輪車メーカーへ躍進、「町工場のオヤジ」のまま慢性的資金難を乗越え技術者魂を貫いた本田技研工業創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
本田 宗一郎
1906年 〜 1991年
80点※
家系・子孫
- 本田宗一郎は、静岡県磐田郡光明村(浜松市天竜区)の鍛冶屋本田儀平の嫡子に生れ、黎明期の自動車産業で修理工場へ見習修行に出たことで出世の糸口を掴んだ。なお、マツダ創業者の松田重次郎も鍛冶屋の出で(広島市仁保)、鉄工職人からオート三輪で自動車製造業を興している。本田宗一郎は妻さちとの間に二男をもうけたが、世襲を嫌いホンダ関連企業には入社させなかった。長男の本田博俊は父譲りの車好きで、30歳でエンジンメーカー「株式会社無限」を設立した。本田宗一郎の死に伴いホンダはF1から撤退し、代わりに参戦した無限は4勝するなどモータースポーツ界に名を馳せたが、ホンダに敬遠され資金難で撤退した。本田宗一郎から野放図さも受継いだ本田博俊は、金庫番の広川則男に金を横領され膨大な裁判費用を費やした挙句、脱税10億円の法人税法違反(28億円の所得隠し)で懲役2年の実刑が確定し70歳を前に投獄された。本田博俊・広川則男の逮捕で無限の事業は「株式会社M-TEC」へ移され、ホンダ傘下でレース用エンジンや完成車の開発を行っている。
本田宗一郎と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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