毛利元就の厳島合戦に貢献し小早川隆景に属して瀬戸内海を牛耳るが豊臣秀吉に逆らい海賊停止令で命脈を絶たれた村上水軍の頭領、子孫は長州藩士に没落したが秀吉に帰服した同族の来島通総は豊後森藩1万4千石を立藩
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村上 武吉
1533年 〜 1604年
30点※
村上武吉と関連人物のエピソード
- 毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。
- 天下を獲った織田信長軍団以外で、一代で最大版図を築いた毛利元就の下克上ストーリーはスケール壮大で最も面白い。殊に神業ともいうべき権謀術数は痛快で逸話も多いが、温厚で律儀な一面のせいか卑劣さは感じられない。毛利元就の人生は、疑えば疑えることだらけだ。先ず、父毛利弘元に続き兄で当主の興元も「酒毒」で若死にしている。興元存命なら元就の出世はなかっただろう。続く幸松丸は9歳で亡くなったが、先立って外祖父高橋興光を滅ぼしていることや、既に実権を握る元就の襲封に反発する家臣が多かったことを考えると、謀殺の可能性大とすべきだろう。このとき弟の就勝(元綱とする説もあり)と与党を殺害したともいう。安芸に勢力を伸ばし国人の盟主となった毛利元就にとって、安芸守護の名目を保つ武田氏は最も目障りだった。直接手は下していないが、自派の熊谷信直が武田光和に叛逆し退陣中に光和が急死、毛利派優位の武田家臣団は混乱し後嗣を立てられずに雲散霧消した。吉田郡山城の戦いでは反抗勢力を皆殺しにし、権臣井上元兼一族30人の誅殺も断行している。小早川家と吉川家との養子縁組は各家臣と組んだ露骨な謀略で事後に反対派を粛清しているが、吉川家簒奪は妻妙玖の死の直後という点が心憎い。毛利元就最大の転機は陶晴賢謀反・大内義隆滅亡だが、予て陶叛逆の噂は高く、事変後は即座に陶に属し働いている。尼子と陶の提携・挟撃を恐れる元就は、両家の要である尼子新宮党と江良房栄を除くことを企て、尼子晴久に新宮党を、陶に江良を討たせる計略を成功させている。勝負を賭けた陶晴賢との決戦では、圧倒的な兵数の劣勢を挽回するため狭い厳島におびき寄せる策を立て見事に成就させた。敵方スパイの逆利用や、偽の密書を懐に忍ばせた使者を敵陣で殺して発覚させるといった計略を用いたともいう。「三本の矢」は後世の作為だが、筆まめで律儀な毛利元就は一族郎党に手厚い訓戒を残している。そのなかで「毛利氏が大になったから家臣は面従しているに過ぎない、毛利一族は固く団結して決して心を許すな」という遺訓は謀略王ならではであろう。
- 毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。
- 吉川元春は、12歳の初陣から64戦無敗を誇り父毛利元就の山陰経略を担って出雲尼子氏を滅ぼし三度の尼子再興軍を粉砕した中国地方最強武将である。弟の小早川隆景と共に元就・輝元を支える「毛利両川」と称された。1541年吉田郡山城の戦いで12歳にして初陣を飾り、母の実家吉川氏の養嗣子となり吉川興経・千法師父子を殺害して家中を掌握、安芸新庄に日野山城を築いて本拠とし、1555年厳島の戦いで義兄弟の陶晴賢を討った。石見攻略を託された吉川元春は大内方諸豪を平らげて石見銀山で尼子晴久と対峙、1562年大友宗麟を撃退した毛利軍が山陰へ押寄せると守将の本城常光を族滅して石見を制圧し、1566年出雲月山富田城に籠る尼子義久を降伏させ一気に山陰道を蹂躙、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中の10ヵ国制覇を達成した。1569年龍造寺隆信と通謀した毛利元就は豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景は拠点の立花山城を攻略するも立花道雪の奮戦で戦線膠着、大友宗麟の後方撹乱策で山中鹿介の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)が起り九州戦線を放棄した。反乱討伐に戻った吉川元春は、元就病没の大不運に見舞われるなか弔い合戦と称して山陰戦線に踏み留まり尼子再興軍を撃滅して出雲・石見・伯耆を回復、逃亡した山中鹿介が因幡鳥取城を奪うが城主の山名豊国を寝返らせ鹿介を敗走させた。1577年黒田官兵衛の要請に応じた織田信長が毛利攻めを開始し豊臣秀吉軍団が播磨へ来襲、吉川元春・小早川隆景は三木城主別所長治を寝返らせ上月城を落として山中鹿介と尼子再興軍を討果すが、元春の危惧通り備前の宇喜多直家が寝返り三木城陥落で播磨を断念、山陰に転じた秀吉軍団に鳥取城を攻め破られたが元春は決死の覚悟で伯耆国境を防衛した。1582年備中高松城が水攻めで落城寸前に陥るなか突如秀吉が和睦を提案、元春は涙を呑んで清水宗治切腹を了承したが間もなく信長討死が発覚、追撃を主張するも隆景に退けられた。天下人秀吉に臣従した毛利家で吉川元春は隠居して従軍を拒絶したが、最期に膝を屈して九州征伐に赴き豊前小倉城で陣没した。
- 小早川隆景は、父元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て120万石を保ち五大老に任じられた智将、「器量の無い毛利輝元は天下の軍事に関わらず領国を堅守すべし、違えれば所領を失い身も危うし」との遺命に背いた愚甥は関ヶ原合戦の西軍総大将に担がれるが南宮山の毛利軍は参戦せず小早川秀秋の寝返りで勝利を献上、輝元は不戦のまま大阪城を明渡すも防長36万石に押込められた。11歳で小早川氏の養子に出され1550年17歳のとき後嗣の又鶴丸を出家させ反対派を粛清して家督を簒奪、安芸・備後沿岸部の支配を確立した毛利元就は大内家から独立し、1555年旧主大内義隆を滅ぼした陶晴賢を討滅、小早川隆景は村上水軍を味方に付けて海上封鎖を成功させた(厳島の戦い)。防長計略を終えた元就は1566年旧主尼子氏を攻め滅ぼし、山陽道を託された小早川隆景は豊前門司城の戦いで大友宗麟を撃破し伊予の反乱も制圧するが、立花道雪の奮戦と山中鹿介の後方撹乱に屈して九州戦線を放棄、1571年大黒柱の元就を喪った。1575年小早川隆景は主君浦上宗景を追放して備前を掌握した宇喜多直家と同盟し、織田信長へ寝返った三村元親(直家は父の仇)を滅ぼして備中を押え播磨へ侵出、信長包囲網に加盟して石山本願寺への兵糧補給を敢行し、豊臣秀吉・黒田官兵衛と対峙した。三木城主別所長治を寝返らせ上月城に籠る山中鹿介を討って優勢に立ったが、宇喜多の寝返りで要の三木城が落城、荒木村重・本願寺顕如も信長の軍門に降り、鳥取城を落とされ備中高松城は秀吉の水攻めに晒された。1582年毛利攻めに向かう信長が明智光秀謀反で落命、小早川隆景は備中・備後・伯耆の割譲を条件に和睦を受入れて追撃せず、秀吉は中国大返しで仇討ちを果し賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討伐、隆景は天下人秀吉に帰順し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵され、天下統一戦に従軍して筑前・筑後・肥前1郡の37万石を与えられた。朝鮮役では6番隊を率いて出征し立花宗茂と共に碧蹄館の戦いに勝利、秀吉が輝元の養嗣子に押付けてきた小早川秀秋(秀吉正室北政所の甥)を自分の養嗣子に迎えて毛利家を守り3年後に病没した。
- 毛利輝元は、石田三成の甘言に釣られ関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれるも家中すら統率できず小早川秀秋・吉川広家の寝返りで徳川家康に勝利を献上、本領安堵の偽約にすがり鉄壁の大阪城を明け渡すが祖父毛利元就が築いた120万石を長州藩36万石に削られ重臣を誅殺して保身を図った戦国一の馬鹿殿である。父の毛利隆元が早世したため元就から家督を継いだが家政は叔父の吉川元春・小早川隆景に委ねられ(毛利両川)、隆景が豊臣秀吉に臣従して大封を保った。毛利輝元は、安芸の吉田郡山城から広島城へ本拠を移し、隆景と共に五大老に任じられ、1597年隆景の死により名実共に当主となった。翌年秀吉が死に前田利家も病没、天下を狙う徳川家康が三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派大名を取込み三成を失脚に追込むと、復権を期す三成は五大老の宇喜多秀家・上杉景勝と西国大名を誘引し、1600年景勝・直江兼続の挑発に乗った家康が会津征伐を挙行すると毛利輝元を総大将に担ぎ挙兵、西軍は伏見城を落として畿内を制圧し東軍迎撃の拠点美濃大垣城へ進軍、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り毛利勢は毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家(元春の後嗣)・小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)・安国寺恵瓊が出陣した。両軍は関ヶ原で激突、真田昌幸が信濃上田城に徳川秀忠隊を釘づけにして東軍兵力を半減させ、布陣有利な西軍は善戦したが、小早川軍が突如西軍に襲い掛かり寝返り続発で西軍は壊滅、吉川広家の妨害で毛利軍は参戦せず、周章狼狽した輝元は立花宗茂や秀元の主戦論を退け鉄壁の大阪城を自ら明渡した。吉川広家は黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており開城に際しても念押ししたが反故にされた。毛利家は防長36万石へ押込められ、広家は岩国藩3万石を立藩、秀秋は筑前名島30万7千石から岡山藩55万石へ増転封されるが2年後に発狂死し無嗣改易となった。毛利輝元は、楯突く熊谷元直・吉見広長を族滅して保身を図り、大阪陣で内藤元盛を密かに大阪城へ送込み秀頼を支援した事実が露見すると元盛と二児を自害させ隠蔽(佐野道可事件)、自身は73歳の長寿を保った。
- 小早川秀秋は、ねねの甥で豊臣秀吉の養子となるが秀頼誕生で五大老小早川隆景に入嗣、関ヶ原合戦の寝返りで徳川家康に勝利を献上し備前岡山藩55万石に栄転するも僅か2年後に21歳で発狂死し無嗣改易となった精神薄弱児である。関白秀次・秀勝・秀保兄弟(秀吉の姉日秀の子)・秀秋に続き秀頼も大坂陣で滅ぼされ豊臣大名は消失した。ねねの兄木下家定の五男に生れた秀秋は、3歳で秀吉の養子となり7歳で丹波亀山城10万石を与えられ豊臣を名乗ったが、1593年秀頼誕生の翌年15歳で小早川家に出され、翌年秀吉が豊臣秀次一家を惨殺し秀保急逝で大和豊臣家も断絶、秀秋は秀次遺領の筑前名島30万7千石を与えられたが粛清を恐れる身となった。慶長の役では総大将に任じられたが、小早川隆景が亡くなると蔚山城合戦の失策を理由に越前北ノ庄15万石へ減転封、筑前・筑後領は太閤蔵入地とされ実質的に代官の石田三成に奪われた。1598年秀吉が没すると三成を憎む武断派の決起で豊臣家は割れ、小早川秀秋は筑前名島の旧領回復で恩を受けた徳川家康に接近、1600年三成が挙兵すると西軍に引込まれ伏見城攻撃に従うが、同じく高台院(ねね)を母と仰ぐ加藤清正(秀吉の又従兄弟)・福島正則(同従弟)の東軍加盟に逡巡し重臣の稲葉正成・平岡頼勝に押され黒田長政(家康の娘婿)に寝返りを承諾した。美濃大垣城から打って出た西軍が関ヶ原で東軍と激突、小早川秀秋は南西の松尾山に陣取り日和見していたが家康の威嚇射撃で尻に火がつき大谷吉継を急襲(先鋒を命じた松野重元は不義を憤り戦線離脱)、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の寝返りを誘発して大谷隊を撃滅し吉継は秀秋に「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害、南宮山の毛利勢は吉川広家の寝返りで参戦せず、家康は本隊投入で総攻撃を掛け宇喜多秀家・石田三成を破り西軍は潰走した。立役者の小早川秀秋は宇喜多領を承継し備前岡山藩55万石へ増転封となったが祟りに怯えて狂人となり杉原重政を誅殺し稲葉正成(妻の春日局が徳川家光の乳母となり譜代大名稲葉家と堀田家の祖となる)・平岡頼勝は出奔、間もなく突然死し小早川家は断絶した。
- 大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。
- 尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。
- 山中鹿介幸盛は、「七難八苦を授けたまえ」と月に祈り一騎打ちで武名を上げ、3度の尼子再興軍で毛利氏に挑み、最後は織田信長に見捨てられ上月城合戦で敗死した不撓不屈の勇将である。江戸時代を通じて軍記物や講談で人気を偶像化され、頼山陽・勝海舟・板垣退助などから絶賛され、第二次大戦期には教科書にも採用され忠君愛国の代名詞となった。山中鹿介は、尼子経久死の4年後に尼子一族山中家に生れ、8歳にして人を斬り、13歳の初陣で首を得る早熟ぶりを発揮した。病弱な兄に代わって山中家の家督と「三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑」を相続すると、毛利の豪傑菊池音八・品川大膳を一騎討ちで討取り、怖気ずく重臣連を叱咤して特攻作戦を画策したが、1566年21歳のとき出雲月山富田城が陥落し戦国大名尼子氏は滅亡した。諸国遍歴に出た山中鹿介・立原久綱ら尼子残党は、京都東福寺にいた尼子勝久を還俗させて主君に担ぎ、1569年大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、毛利の北九州攻めの虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻するが富田城を落とせず、大友と和睦した毛利の大軍が来襲、渦中に毛利元就は死去したが、猛将吉川元春に敗北した(第一回尼子再興)。臣従を偽って助命された山中鹿介は、監視の目を潜って伯耆尾高城を脱走、諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成し、海賊働きで軍資金を蓄え、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り、但馬の山名祐豊も毛利と和睦、若桜鬼ヶ城で奮戦するも挽回ならず逃走した(第二回尼子再興)。山中鹿介と尼子再興軍は、織田信長に臣従し、明智光秀に属して転戦した後、豊臣秀吉の中国侵攻軍に加えられた。そして1578年、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、山中鹿介は斬殺された(第三回尼子再興)。尼子再興軍を承継した部下の亀井茲矩は、徳川家康に転じて4万石の大名となった。清酒の発明から大名貸しで日本屈指の財閥となった鴻池家には、鹿介の遺児山中幸元を家祖とする伝承がある。
- 宇喜多直家は、流浪の身から有力者を次々謀殺して身代を奪い主君浦上宗景を追放して備前を乗取った悪逆無道の卑劣漢、毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保つが嫡子秀家が関ヶ原合戦に敗れ子孫は流刑地の八丈島で逼塞した。祖父宇喜多能家は浦上氏を播磨・備前・美作の領袖へ導いた勇将だったが、大物崩れで浦上村宗が討取られ尼子経久の侵攻で主家が没落するなか後継の浦上政宗に嫌われ政敵の島村盛実に殺害された。5歳の宇喜多直家は流浪の身に転落したが元服後に浦上宗景(政宗の弟)に出仕すると、毛利元就と同盟し政宗に取って代った宗景の下で勢力を伸ばし、沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々と謀殺して所領を奪い邪魔者の浦上政宗・清宗父子も始末した。主君宗景を凌ぎ備前の実権を握った宇喜多直家は、美作を争う三村家親(毛利被官で備中領袖)を鉄砲で暗殺し、1567年父の仇を討つべく備前へ来襲した三村元親を撃退し毛利氏と対峙した(明禅寺合戦。直家唯一のまともな戦功)。1569年浦上宗景・赤松義祐が播磨の赤松政秀を攻撃、織田軍が来援すると宇喜多直家は宗景に反旗を翻すが、姫路城を攻めた政秀が黒田官兵衛に逆襲され龍野城を落とされ滅亡(毒殺)、辛くも助命された直家は臥薪嘗胆で主家簒奪の機を窺った(青山・土器山の戦い)。織田信長の脅威が山陽道に及び浦上宗景と播磨の小寺政職・黒田官兵衛・別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)らが織田に帰順すると、1575年宇喜多直家は毛利と同盟して対抗、直家憎しで織田へ奔った三村元親を討ち滅ぼし、宗景を敗走させて備前を制圧(天神山城の戦い)、宗景の嫡子浦上宗辰に娘を娶わせ偽りの和議に誘って毒殺した。が、1577年毛利討伐を決意した信長が豊臣秀吉軍団を派遣すると忽ち織田へ寝返り、娘婿の三星城主後藤勝基を毒殺して美作を制圧、三木合戦を織田軍勝利へ導いた。翌年宇喜多直家は備前岡山城で病没、嫡子宇喜多秀家は秀吉に厚遇され五大老・朝鮮役総大将に抜擢され関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦したが敗亡、流刑地の八丈島で生涯を終えた。
- 宇喜多秀家は、謀略と暗殺で備前岡山城57万4千石を分捕った宇喜多直家の嫡子で豊臣秀吉の引立てで朝鮮役総大将・五大老に栄進、父に似ぬ義侠心から関ヶ原合戦で最も奮闘するが改易され八丈島へ流罪、流人のまま83歳で没した関ヶ原最後の武将である。1581年梟雄宇喜多直家が死去、後事を哀願された秀吉は義理堅く9歳の宇喜多秀家を盛立て、14歳で元服させると養女(前田利家の実子)豪姫を娶わせて豊臣一門に加え、九州征伐で初陣、文禄の役では弱冠20歳の秀家を総大将に抜擢し、帰国すると五大老に就けた。関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保は不審死、小早川秀秋(ねねの甥)は突如減転封の憂き目をみたが、後継資格の無い秀家は猜疑を免れた。宇喜多秀家は、朝鮮役と秀吉没後の豊臣家分裂抗争を通じて石田三成・大谷吉継・小西行長と親交を深め三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政および黒幕の徳川家康と対立、1599年前田利家の死の翌日武断派七将が三成の大坂屋敷を襲撃すると秀家は佐竹義宣・上杉景勝と共に救助したが家康の裁定で三成は失脚に追込まれた。宇喜多家中では執政長船綱直の死(毒殺説が濃厚)を機に宇喜多詮家(直家の甥。後に坂崎直盛に改名し千姫強奪事件を起す)・戸川達安・岡利勝らが秀家に反逆し大坂屋敷を占拠、又も家康の裁定で首謀者追放で決着したが重臣の大半を失った宇喜多家は衰えた(宇喜多騒動)。1600年復権を期す三成が動くと宇喜多秀家は強硬策を主張、軍勢を率いて鳥居元忠の伏見城を攻落とし、大阪城に陣取る毛利輝元に代わり西軍を率いて美濃大垣城へ出陣、関ヶ原で両軍激突すると福島正則と一進一退の激闘を演じたが小早川秀秋の寝返りで戦局が一変し姉婿吉川広家の妨害で毛利勢は不参戦、秀家は秀秋と刺違えようとするが明石全登(後に大坂陣で戦没)に制止され已む無く逃走、薩摩へ逃れ島津義弘に匿われたが宇喜多家は潰され岡山藩55万石へは秀秋が入封した。徳川幕府へ引渡された宇喜多秀家は、義兄前田利長の嘆願で助命され駿河久能山幽閉を経て三児と共に八丈島へ流罪、前田家の援助で50年も寿命を保ち子孫は八丈島に根付いた。
- 大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。
- 立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。
- 本願寺顕如は、親鸞・蓮如の血を引く浄土真宗法主にして大坂の戦国大名、一向一揆と石山合戦で織田信長に抵抗を試み幾万の門徒を虐殺の奈落へ導いた戦う庶民のカリスマである。降伏・武装解除後も宗教的権威は保持し、子孫の大谷家は今なお東西本願寺の門首として皇族並みの権勢を誇る。寺社勢力は、領主への年貢は滞っても寺への貢納は怠らない門徒を支えに強大な経済力を誇り、武装して領主権を脅かす事実上の戦国大名であったが、比叡山焼き討ちと本願寺顕如の降伏で永久に武力を失った。顕如は、石山本願寺を築いた父証如の死により12歳で本願寺11世を承継、各地の一向一揆を組織化し、1570年、姉川合戦に敗れた朝倉義景(嫡子教如の舅)の要請に応じて浅井長政・比叡山延暦寺・武田信玄・将軍足利義昭らと信長包囲網を結成、11年に及ぶ石山合戦の戦端を開き、各地に一向一揆を起した。厭離穢土・欣求浄土を旗印に戦死即極楽と狂信する一向一揆は恐ろしく強く、軍事指揮官の鈴木重秀(雑賀孫一)と下間頼廉の采配も冴え、敵方武将にも門徒が多くいて隆盛を極めた。三河では若き徳川家康を追い詰め、伊勢では織田信興・長島では信広・秀成(いずれも信長の兄弟)を戦死させ、越中では6年に渡って上杉謙信の猛攻を凌ぎ、加賀に至っては守護富樫政親を討って以来90年も自治を貫き一時は朝倉氏滅亡後の越前も掌握した。が、1573年頼りの武田信玄が決戦を目前に急死、勢いを得た織田信長はすぐさま浅井・朝倉を討ち、室町幕府を滅亡させ、長島一向一揆を猛攻して門徒2万人を虐殺、長篠の戦いで武田勝頼を撃退し、越前一向一揆を討平、紀州征伐で鈴木重秀の雑賀衆と根来衆を軍門に降した。劣勢の顕如は、上杉・毛利・波多野と提携して信長包囲網復活を目指したが、1578年上杉謙信が大動員令を発した直後に急死、翌年波多野秀治が滅ぼされ、鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍に毛利・村上水軍が惨敗(第2次木津川口の戦い)、補給路を絶たれた顕如は1580年降伏した。猛撃を凌ぎ切った難攻不落の石山本願寺は、その年に焼失し、天下人豊臣秀吉の拠点大阪城の礎となった。
- 鈴木重秀(雑賀孫一)は、鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺顕如を援け石山合戦を指揮したが時流を悟り織田信長・豊臣秀吉に帰順、雑賀衆は滅亡したが後継者の鈴木重朝の子孫が水戸藩重臣として存続した。藤白鈴木氏は記紀に登場する穂積氏の嫡流で熊野神社の禰宜を世襲した名門だが、国人割拠の紀伊で戦国大名は育たず、鷺森別院を拠点に紀伊を支配する一向一揆の盟主的立場に留まった。1543年の鉄砲伝来から間もなく紀伊根来寺の津田算長が種子島から火縄銃一挺を持ち帰ると刀鍛冶の多い紀伊や堺で鉄砲製造業が興隆、新兵器を駆使する雑賀衆・根来衆は引張り蛸となったが、1569年堺の自治権を奪った織田信長に硝煙(火薬の主原料で当時は国内で産出せず)の調達を妨害された。雑賀衆首領の鈴木重意は、三好三人衆の要請に応じ根来衆と共に600余の鉄砲隊を率いて織田軍と戦い、1570年石山合戦が始まると次男の鈴木重秀を派遣、用兵にも優れた鈴木重秀は下間頼廉と共に「大坂左右大将」と称された。各地で勃興する一向一揆に手を焼いた織田信長は、本丸の顕如を猛撃するが難攻不落の石山本願寺を落とせず、1577年雑賀衆を排除すべく根来衆を寝返らせ大軍で紀州を制圧すると鈴木重秀は進んで帰順、上杉謙信の急死で信長包囲網が瓦解し顕如も11年に及んだ抗戦を断念した。鉄砲の威力を思い知らされた織田信長は、他の戦国大名に先賭けて鉄砲装備を強化し長篠の戦いで武田騎馬隊を撃滅したが、「三段撃ち」や装填・銃撃分業制は雑賀衆に倣ったものだという。君主権に逆らう宗教勢力や傭兵集団は天下統一の宿敵であり、忍者は天正伊賀の乱で信長に、三島村上水軍・鉄砲集団は海賊停止令・紀州征伐で豊臣秀吉に滅ぼされた。統一政権での生残りを図る鈴木重秀は、1582年土橋守重を謀殺して反対意見を封じるが本能寺の変で主導権を奪われ逃亡、1585年豊臣秀吉は藤堂高虎に命じて鈴木重意を暗殺し大軍を派して雑賀衆・根来衆を殲滅した。鈴木重秀は子の孫一郎を人質に出して秀吉に帰順、没後に家督を継いだ弟の鈴木重朝は1万石で秀吉に仕え徳川家康に転じて鈴木家を保った。
- 下間頼廉は、本願寺顕如に軍権を託され11年に及ぶ石山合戦を凌ぎ切り散々に織田信長を苦しめたが降伏後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った本願寺の守護者、子孫の刑部卿家は西本願寺坊官(執政)として繁栄した。本願寺の坊官を世襲する下間氏の嫡流で証如・顕如を補佐、1570年石山合戦が勃発すると司令官に任じられ鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いる鈴木重秀と共に「大坂左右大将」と称された。「厭離穢土・欣求浄土」の旗を掲げ死を恐れない一向宗は勇猛に闘い天然の堀に囲まれた石山本願寺は最後まで陥落しなかったが、長島一向一揆は2万人皆殺しで殲滅され越前一向一揆も下間頼照・七里頼周の失政で瓦解、武田信玄・上杉謙信の相次ぐ死で信長包囲網が瓦解し雑賀衆も紀州を攻められ降伏、鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍に毛利・村上水軍が惨敗し(第2次木津川口の戦い)補給路を断たれた顕如は1580年降伏開城に追込まれ、90年「百姓の持ちたる国」を保った加賀一向一揆も解体された。統一政権秩序での生残りを図る下間頼廉は、各地の一向一揆を説諭して反乱を収拾し、豊臣秀吉・徳川家康の加勢要求を謝絶して純粋な宗教団体としての姿勢を打ち出した。1585年警戒を説いた秀吉は城下町活性化のために顕如を大坂に呼び戻し天満本願寺を創建、顕如も九州征伐に随行して忠誠を示し(下関に留まり戦闘には参加せず)、1589年聚楽第落書犯を匿った罪で願得寺顕悟(顕如の孫)と町人63名が処刑されたが秀吉に接近し本願寺町奉行に就いた下間頼廉が事態を収拾(寺内成敗)、1591年教団再興を許され京都堀川六条に西本願寺を建立した。翌年顕如が病没し、嫡子の教如が後を継いだが武闘派のため秀吉に嫌われ穏健派の三男准如が法主に就任、反抗した下間頼廉は秀吉の勘気を蒙るが准如に忠誠を誓い赦免された。1602年天下人となった徳川家康は本多正信(かつて三河一向一揆を主導したが徳川家に帰参)の分断工作を採用し教如を法主とする東本願寺を創建、今日に至る東西本願寺の泥仕合が始まったが、下間頼廉は一貫して西本願寺を支持し1626年教団の完全復活を見届け89歳の生涯を閉じた。
- 長宗我部元親は、父長宗我部国親の遺志を継いで土佐統一を果し本能寺の変に乗じて四国制覇を成遂げた智勇兼備の名将だが、豊臣秀吉に屈して土佐以外の所領を没収され後嗣盛親が関ヶ原合戦・大坂陣に敗れ滅亡した。長宗我部兼序が土佐国人連合に討たれた後、遺児の国親は土佐国司一条房家に養われ元服後に長岡郡の旧領に戻された。岡豊城に帰還した国親は、復讐心を隠して国人衆の離間を図りつつ勢力を伸ばし、仇敵の山田教道を討果し1560年本山茂辰を攻めて長浜城・浦戸城を落とすが合戦中に陣没した(長浜の戦い)。嫡子の長宗我部元親は、本山勢の反攻を自ら槍を振るって撃退し「姫若子」と揶揄した家臣達を心服させると(潮江堤合戦)、一条兼定(房家の曾孫)と共に諸豪を切従え1568年本山氏を降伏させて土佐中部を平定、翌年安芸国虎を攻め滅ぼし土佐東部まで制圧し、毛利氏の伊予出兵で致命傷を負った一条兼定を圧迫した。疑心暗鬼の兼定が柱石の土居宗珊を殺害すると、1575年長宗我部元親は一条家重臣を篭絡して兼定を追放し大友宗麟の力添えで攻め返すも殲滅(四万十川の戦い)、土佐統一を果した元親は織田信長と同盟を結び一領具足を率いて強敵不在の四国平定に乗出した。元親は三好一族を掃討して阿波・讃岐を掌中にしたが、1580年畿内を平定した信長が土佐以外の放棄を要求し、1582年抵抗する元親を討つべく大軍を送るが渡航直前に本能寺の変が勃発、昵懇の明智光秀・斎藤利三に窮地を救われた元親は阿波勝瑞城を攻落として十河存保・三好残党を讃岐十河城に追詰め、柴田勝家・徳川家康と通謀して豊臣秀吉に抵抗、1584年讃岐の豊臣勢と伊予の毛利勢を追払い河野通直を降して四国統一を達成した。が、翌年10万余の豊臣軍が来襲すると為す術なく長宗我部元親は土佐一国の安堵を条件に降伏、1586年先発隊2万を率いて九州征伐に乗込むが軍監仙石秀久の勇み足で島津家久の「釣り野伏せ」に嵌って惨敗、期待の嫡子信親を喪った。悲嘆の余り暴君となった長宗我部元親は、反対派重臣を容赦なく誅殺して四男盛親を家督に立て、小田原征伐と2度の朝鮮出兵に従軍して忠誠を示し関ヶ原合戦の直前に病没した。
- 豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。
- 1582年の本能寺の変の後、信長の仇を討ち三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に据えて野心を顕にする豊臣秀吉と、織田家大事の織田信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益が鋭く対立したが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝、柴田・信孝を攻め滅ぼして織田家を掌握した(賤ヶ岳の戦い)。豪壮な大坂城を築いて権威を誇示し、織田信雄・徳川家康の抵抗を退け(小牧・長久手の戦い)、1585年関白に就いて織田家簒奪を完成した。信長の果たせなかった天下統一戦に乗り出した豊臣秀吉は、長宗我部元親を降して四国を押さえ、母と妹を人質に送って強敵徳川家康を懐柔、惣無事令に逆らった島津義久を降して九州まで征すると、1590年矛先を東に転じて後北条氏を滅ぼし(小田原征伐)、伊達政宗ら東北諸大名も従えて全国統一を成遂げた。この間、兵糧・兵員確保と一揆抑制のため、刀狩令、海賊停止令、太閤検地、身分統制令、楽市楽座、関所撤廃といった領民統治政策を推進して中央集権的近代秩序を全国に及ぼし、宣教師を尖兵に植民地化を企むスペインとローマ教会の野望を阻むためキリシタン弾圧に舵を切った。豊臣家の天下成って太平の世が訪れると、仕事=戦争と出世の機会を失った武士階級の欲求不満は野心家の棟梁を外征へと駆り立てた。1591年豊臣秀吉は明侵攻(唐入り)を宣言、前線拠点の肥前に名護屋城を築き、明の属国李氏朝鮮に攻め込むと、世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍は忽ち半島を席巻、首都漢城から平壌まで制圧し明の大軍も撃退するが、補給難のため釜山まで退き明と講和した(文禄の役)。間もなく側室淀殿が待望の男児秀頼を出産したが、豊臣秀吉は耄碌して別人となった。邪魔になった養子の関白秀次を眷属諸共斬殺し、確たる改善策もないままに再び朝鮮出兵を敢行(慶長の役)、石田三成ら文治派(淀殿派)と加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派(北政所派)の対立という豊臣家滅亡の火種を残したまま、秀頼の行く末のみを憂いつつ62年の生涯を閉じた。
- 黒田官兵衛孝高は、東播磨の盟主小寺家の筆頭家老で姫路城代の黒田職隆の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、備前の宇喜多直家を調略し、主君小寺政職に裏切られ荒木村重に幽閉されても操守を貫き、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で天下争覇の夢破れた心優しき天才軍師である。嫡子黒田長政は、徳川家康の養女婿となり小早川隆景・吉川広家を寝返らせた功績で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ諸大名中最大の加増を受けた。守護赤松氏がお家騒動で没落し播磨・備前・美作は国人割拠の情勢を強めるなか、21歳で家督を継いだ黒田官兵衛は、姫路へ侵攻した赤松政秀を寡勢で撃退して武名を上げ(青山・土器山の戦い)、1575年織田信長の天下を予見し主君小寺政職と別所長治を口説いて帰順させたが、織田方の備前国主浦上宗景が毛利の加勢を得た家臣の宇喜多直家に追放され(天神山城の戦い)、一向宗門徒の盟友三木通秋が反信長に転じて乃美宗勝の毛利水軍が来襲(英賀合戦)、偽装援軍の奇計で撃退するも国人衆は動揺し、局面打開のため嫡子長政を人質に送って援軍を督促した。1577年中国征伐を決意した織田信長は豊臣秀吉軍団を派遣、姫路城に入った秀吉は忽ち要衝上月城を攻略するが、別所長治の離反を機に播磨国人の大半が毛利方へ靡き毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍が来援、備前宇喜多直家の調略で窮地は凌いだが、息つく間もなく荒木村重が謀反、村重と通じた小寺政職に欺かれ説得に赴いた黒田官兵衛は有岡城の土牢に幽閉され、官兵衛反意を疑う信長は人質長政の殺害を命じた。1年後、有岡城落城で半死半生の官兵衛は救出され(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、竹中半兵衛に匿われた長政も無事、軍師官兵衛が戻った秀吉軍団は別所長治を滅ぼし(三木合戦)、反抗勢力を掃討して播磨を平定(小寺政職は官兵衛の嘆願で助命)、吉川経家の鳥取城を落として因幡を制圧、清水宗治の備中高松城を水攻めで攻囲した秀吉は手柄献上のため信長に出馬を要請した。
- 1582年本能寺の変報を備中高松陣で受けた豊臣秀吉は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、正気に返った秀吉は妥協的条件で毛利と即時和睦し、京都まで200kmを10日で移動(中国大返し)、柴田勝家らに先駆けて明智光秀を討ち果し後継レースの主役に躍り出た(山崎の戦い)。黒田官兵衛は、毛利・宇喜多との戦後処理をまとめ、大坂城築城の総奉行を務め、賤ヶ岳合戦から九州征伐に転戦、播磨篠の丸城5万石から1587年豊前中津12万石の大名となったが、功績に比して評価は過小であり、秀吉子飼いの石田三成に参謀長の地位も奪われた。中津入り直後、官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙に城井鎮房ら豊前国人が一斉蜂起、苦戦しつつも持久戦に切替えて無事鎮圧した。1589年家督を長政に譲り隠居、秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞き粛清を予見して引退したというが、官兵衛の智謀を頼む秀吉は軍師辞任は許さなかった。小田原征伐では北条氏政・氏直父子への勧降使を務め、秀吉が諫止を聞かず始めた文禄の役(朝鮮出兵)には軍監として渡航するが、現地で石田三成・小西行長と対立し無断帰国、剃髪入道して勘気赦免され(如水と号す)、慶長の役・蔚山城の戦いでは長政の後詰で采配を振るい、処罰覚悟で戦線縮小を図るなか、秀吉が大阪城で病没した。風雲急を告げる情勢下、黒田官兵衛は、長政を徳川家康に縁付けて西軍切崩しにあたらせ、関ヶ原合戦が起ると自身は豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、最古参の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門を従えて毛利配下大友義統の西軍勢を打破り(石垣原の戦い)、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け解軍した。最後の大勝負に負けた黒田官兵衛は、封土恩賞を辞退して筑前に隠居し、好々爺然で家臣・領民に親しみ悠々自適のうちに59年の生涯を閉じた。
村上武吉と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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