毛利元就の厳島合戦に貢献し小早川隆景に属して瀬戸内海を牛耳るが豊臣秀吉に逆らい海賊停止令で命脈を絶たれた村上水軍の頭領、子孫は長州藩士に没落したが秀吉に帰服した同族の来島通総は豊後森藩1万4千石を立藩
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村上 武吉
1533年 〜 1604年
30点※
家系・子孫
- 村上氏は、村上帝皇孫の源師房の末裔を称したが、河内(清和)源氏の信濃村上氏(村上義清が有名)の庶流とも伊予を支配した越智(河野)氏の庶流ともいわれる。確実なのは南北朝時代に伊予大島に拠り「海賊大将」と称された村上義弘からで、大内義興に属し勢力を伸ばしたが、嫡流の能島と来島・因島に分裂した「三島村上水軍」は骨肉の勢力争いに陥り能島村上隆勝の暗殺事件が起った。隆勝長子の義雅は早世し次男の義忠が後を継いだが来島村上通康が義雅嫡子の義益を担ぎ対抗、義忠嫡子の武吉は一時肥後菊池氏へ亡命したが叔父村上隆重・大内義隆・小早川水軍の支持を得て家督争いを制し来島衆を懐柔すべく通康の娘を娶った。村上武吉は、厳島の戦いで毛利元就の勝利に貢献、小早川隆景に属しつつも独立保持に固執し豊臣秀吉に無謀な抵抗を続けたが海賊停止令で息の根を止められ、毛利氏の庇護下で失意の晩年を過ごした。毛利輝元に仕えた嫡子の村上元吉は関ヶ原合戦で毛利水軍を率いて蜂須賀家政の阿波猪山城を攻落とし加藤嘉明の伊予松前城を攻めたが佃十成の夜襲に遭い討死(三津浜夜襲)、弟の村上景親は細川忠興や池田輝政の招聘を断って毛利家に留まるが船手組組頭の微役で生涯を終えた。政治的手腕に優れた来島村上通康は伊予国主河野通直の娘を娶って河野家簒奪を狙い毛利氏の伊予出兵を招来して宇都宮豊綱・一条兼定を撃退するが渦中に病没、村上武吉と不仲な嫡子の来島通総は織田信長の毛利攻めに際して豊臣秀吉へ帰服し四国攻めで旧主河野氏の討滅に働いて伊予風早郡1万4千石の大名に栄達するが朝鮮役で戦死した。嫡子の来島長親は関ヶ原で西軍に属し所領を没収されるが福島正則の取成しで山間の豊後森藩1万4千石を与えられ久留島へ改姓した子孫は幕末まで森藩を保った(来島村上水軍は解体)。幕末に禁門の変で暴発した長州藩士の来島又兵衛は血類かも知れない。因島村上吉充は、小早川水軍と懇意で一貫して毛利氏に仕え長州藩の船手組組頭となったが知行1800石に不満で故郷の因島へ出奔、養嗣子の因島元充が長州藩に留まり子孫は能島村上氏と共に同職を世襲した。