京都の陶器屋から京大との産学提携でチタン酸バリウム等新素材の技術を確立しセラミックコンデンサで世界市場を制覇した「村田製作所」創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
村田 昭
1921年 〜 2006年
80点※
家系・子孫
- 村田昭の父村田吉良は、石川県浅川村の貧しい農家に生れ、父母の死を機に17歳で京都の呉服店へ丁稚奉公、専売局の機械調整工を経て東山区泉涌寺東林町に陶器店「村田製陶所」を開業し2~3人の従業員を雇い輸出用碍子などを製作した。京都の泉涌寺界隈は北の日吉地区・五条坂と共に清水焼の故郷といわれ、小さな陶器工場の多いところだった。村田吉良・いよの次男に生れた村田昭は、幼少から病弱で当時死病とされた肺結核に罹り京都市立第一商業学校を中退、18歳で快復し家業を継いだが再発を恐れる辛い青春時代を過ごした。しかし村田昭は84歳まで長寿を保ち「村田製作所」は世界有数の電子部品メーカーに成長、2人の男児に家業を継がせた。長男の村田泰隆はニューヨーク大学を出て村田製作所に入社し1991年2代目社長に就任、2006年村田昭の死の翌年弟の村田恒夫に社長を譲り会長に退いた。2015年末現在、村田恒夫は社長に健在だが、村田製作所の取締役および執行役員に村田氏はおらず同族経営は3代で終わる可能性が高い。
村田昭と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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