一代で松下電器産業(パナソニック)を築いた高度経済成長の象徴にして「日本的経営」の完成者、松下政経塾やPHP研究所で政財界人を薫陶した「経営の神様」
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松下 幸之助
1894年 〜 1989年
90点※
松下幸之助と関連人物のエピソード
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 1937年の機械系輸出品目で自転車が初めて首位に立ち、次いで船舶・鉄道車両・自動車・自動車部品の順となり、玩具や製鉄も輸出産業へ台頭した。なお1937年は日中戦争開戦の年であり、豊田喜一郎が軍用トラック製造のためトヨタ自動車工業を設立し、日産自動車の鮎川義介は満州重工業開発を設立し日産コンツェルンの満州移転を開始している。自転車の輸出先は中国32%を筆頭にインドネシア・インド・満州など。江戸時代初頭より各藩にはお抱えの鉄砲鍛冶が存在したが、幕末に洋式銃砲に切替わったことで多くが職を失った。失業した鉄砲鍛冶たちは文明開化で普及が始まった自転車に着目し、修理業から始め自転車製造の担い手へ成長した。宮田自転車を創業しトップメーカーに育てた宮田栄助も、常陸笠間藩のお抱え鉄砲鍛冶の出身である。優秀で低コストな職人の活躍で、日本の自転車生産台数は1923年の7万台から1928年12万台・1933年66万台と急増し1936年には100万台を突破した。世界の自転車市場はイギリスの牙城であったが、イギリス製品の半額ほどで品質も劣らない日本製品は瞬く間にシェアを獲得し、大英帝国は中国・インドなどの支配地で日本製自転車に高関税をかけるなどして対抗したが圧倒的な低価格攻勢に押切られた。繊維製品に続き自転車でも輸出競争に敗れたイギリスの反日感情は一層悪化した。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 米国務省は「降伏後における米国の初期対日方針」を決定した。「日本は米国に従属する」との基本方針のもと、政治における非軍事化・戦争犯罪人の処分・民主化にくわえて、「日本の軍事力を支えた経済的基盤(工業施設など)は破壊され、再建は許されない・・・日本の生産施設は、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」という工業分野の徹底的な破壊が決められた。さらに、日本が負うべき戦時賠償調査のため訪日したE・W・ポーレーは、「日本人の生活水準は、自分たちが侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっていい理由はなにもない」との極論を述べ、実際に日本の苛性ソーダや製鉄産業の設備をフィリピンなどに移設することを真剣に検討した。対する日本側では英語を解する外交官出身者が主導権を握ったが、アメリカの不条理に反発する重光葵・芦田均らは退けられ、代りに吉田茂ら「協力的人物」が引上げられた。
- 当初アメリカは直接軍政を予定していたが、準備のための十分な時間がなく、また最小限の兵力とコストで日本の占領統治を行うべく間接統治へ切替えた。GHQ指令を日本政府が法令化する流れを基本としたが、緊急の場合は法令化を省略しGHQ指令を「ポツダム勅令」の名で直接公布する方式が採られた。中央政府廃止で国土を4分割され英米仏ソの各国軍司令官に直接統治されたドイツよりマシかも知れないが、間接統治とはいえ事実上の主権者はアメリカであり、日本を「保護国」とする認識は講和独立後も続き今日の米国政府でも公然と語られている。ヘソ(朕より上)と呼ばれたダグラス・マッカーサーは「私は日本国民に対して、事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった・・・軍事占領というものは、どうしても一方はドレイ(奴隷)になり、他方はその主人の役を演じ始めるものだ」などと吹聴し、トルーマン米大統領は「日本は軍人をボスとする封建組織のなかの奴隷国であり、一般人にすれば主人が占領軍に切替わっただけで新政権のもとに生計が保たれれば別にたいしたことではない」と痛いところを衝いている。GHQ内部では、反共主義者のチャールズ・ウィロビー部長率いる諜報・保安・検閲担当の参謀第2部(G2)と、社会主義にかぶれ極端な民主化政策を推進するホイットニー局長・ケーディス次長の民政局(GS)の対立が次第に深刻化した。G2は反共の吉田茂を支持し、GSは財閥解体・日本国憲法策定・労働組合育成など実験的政策を進めつつ社会党など革新陣営を支持し片山哲・芦田均内閣を成立させた。が、米ソ冷戦の激化に伴い日本統治でも反共路線が優勢となり、1948年以降GSは急速に力を失いGHQの主導権争いはG2の完勝で終結、吉田茂の長期政権が重光葵・鳩山一郎らの自主路線を封殺した。1952年サンフランシスコ講和条約発効に伴いGHQは廃止され、日本を去ったマッカーサーはトルーマン大統領との政争に敗れ失脚、長すぎた吉田茂政権も漸く終焉を迎えたが、高度経済成長により従米路線が戦後日本の「保守本流」に定着した。
- 1929年に起った世界恐慌からの脱却を図るため、日本政府は軍事費関連を中心に超積極的な財政出動策を採り、満州事変勃発以降の軍事費急増が拍車を掛け、日本経済は1934年には世界恐慌前の水準に回復した。続く日中戦争、第二次世界大戦においても日本の鉱工業生産は軍需主導で拡大し続けたが、国策主導による統制経済への傾斜は大資本による経済寡占化を促し第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占める「開発独裁」状態となっていた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」を掲げるマッカーサーのGHQは、軍国主義根絶のためにも財閥解体が最重要と判断し、早くも1945年11月に勅令第657号を公布し幣原喜重郎内閣に財閥解体を命じた。1946年4月には実務を担う持株会社整理委員会を発足させ、同年9月以降次々と十五大財閥(三菱・三井・住友・安田・中島・鮎川・浅野・古河・大倉・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹)を指定、1947年12月には財閥解体の根拠法となる過度経済力集中排除法を定め、重箱の隅をつつくような徹底的な産業構造破壊を断行、主要親会社67社と子会社・孫会社3658社が整理され、さらに財閥を主要株主とする395社も整理された。しかし、マッカーサーの思惑を乗越えて多くの財閥系企業は協力関係を維持しつつ生残り、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発を受けてアメリカ政府が日本の経済力・工業力を利用する方針に180度転換したのを機に風当たりは弱まって、三菱・三井・住友・安田(扶桑)・三和・第一勧銀の6大銀行グループによる再編が進み、旧財閥を冠した社名も許されるようになっていった。
- GHQの指令により、まず軍国主義に関与した人物として1946年1月に約6千人が公職から追放され、次いで1947年1月から1948年8月までの間に約21万人(うち軍人16万7千人)が公職追放指定された。幣原喜重郎内閣の外相でGHQ代理人の吉田茂は、日独伊三国同盟を推進した「外務省革新派」(リーダーの白鳥敏夫は東京裁判で終身禁固刑判決)など意に添わない人物を徹底的に公職追放へ追込み、吉田のイニシャルをとって「Y項パージ」と恐れられた。戦犯狩りに続く公職追放の大嵐に政官財は戦々恐々、虎の威を借る吉田茂の権力は増大し、内務官僚で公職追放令の策定作業にあたった後藤田正晴は「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと」追想している。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴いアメリカの対日政策は「戦前体制を破壊し尽くし軍国主義復活を阻止する」方針から「経済復興を促し反共の防波堤として利用する」方向へ180度転換、その手始めに公職解放指定は全部解除され共産主義者狩りの「レッド・パージ」へ「逆コース」を辿った。1952年の衆議院総選挙は鳩山一郎・重光葵ら戦前派の復活選挙となり公職追放解除者が議席の42%を獲得、極端な従米路線を否定する鳩山・重光ら自主路線派は「ワンマン宰相」吉田茂を脅かす勢力となり両派の対立は次第に深まった。
- 日本国憲法は、GHQ民政局(GS)次長ケーディスのチームが作成した原案を幣原喜重郎・吉田茂内閣が丸呑みして公布した代物であり、内容はともかく「押付け憲法」の評価は全く正しい。敗戦直後より改憲要求が予期されるなか、国務大臣の近衛文麿が自らの生存を賭けて憲法改定案作成に乗出したが、幣原喜重郎内閣は近衛を抑え「松本委員会」の専権事項として憲法起草に取組んだ。しかし、根本的改革を求めるGHQは日本政府案を完全否定し、民政局のケーディスのチームが短期間で作成した憲法草案を突きつけ、もし受入れなければ、天皇が戦犯として処刑されるかもしれず、吉田茂外相以下の現政府メンバーも芦田均厚生相は「これがもとで内閣が総辞職でもすれば、当然GHQ案を喜んでのむ連中が出てくるに違いない。従って内閣はどうしてもここで踏ん張って、きたるべき総選挙に備えなければいけない」と踏ん張ったが、GHQの圧力には抗すべくもなく、2月13日、遂に幣原喜重郎内閣は受諾の決断を下し、「極めて重大の責任」を痛感しつつ退陣した。そして3ヵ月後の5月22日に第一次吉田茂内閣が発足、国会審議を「国体はいささかも変更されない」との詭弁一点張りで押し切り、11月3日の日本国憲法公布、翌1947年4月25日の新憲法下での総選挙、5月3日の憲法施行を見届けた3週間後に吉田茂内閣は退陣した。自作の「日本国憲法」を押し通したいGHQは、戦後初の総選挙で圧勝し次期組閣が確実であった自由党総裁の鳩山一郎を強引な公職追放で追い払い、配下の吉田茂に組閣させて野望を果した。こうした一連の経緯は、占領中の検閲によって日本国内で完全に秘匿されたため、現在でも多くの日本人が知らないが、アメリカの公文書公開によっても明らかな事実である。ライシャワー駐日大使は著書のなかで「マッカーサーは自分で日本国憲法を書いてしまった」とはっきりと批判している。
- GHQ=吉田茂政府は、不在地主の土地をタダ同然で取上げ小作農に分与する徹底的な「農地改革」を日本全国で断行した。農地改革の結果、全農地の半分近くを占めた小作地は20%以下に激減し北海道・東北諸県を筆頭に農地「解放率」は劇的に向上したが、農業だけでは自活できない1町歩未満の小規模自作農が大量に発生した。農村を追われた大人口は大都市に流込み安価な工業労働力となって経済成長を牽引、吉田茂政権は幸運にも社会秩序崩壊を免れたが、農村社会の衰退と共に都市部を中心に核家族化が進行し、精神的拠所を求める都市住民を吸収し新興宗教団体が興隆した。
- 敗戦から朝鮮戦争の特需で蘇生するまで日本は上から下まで窮乏に喘ぎ多くの餓死者も出たが、アメリカは日本経済の再起不能化を進めつつ日本政府から膨大な米軍駐留経費を吸上げた。「戦後処理費」の名目で計上された米軍駐留経費は1946年379億円(一般歳出の32%)・1947年641億円(31%)・1948年1,061億円(23%)・1949年997億円(14%)・1950年948億円(16%)・1951年931億円(12%)、日本政府は講和条約成立までの6年間に合計約5千億円・国家予算の2割を超す巨費を無条件で献上し、ゴルフ・特別列車・花や金魚の代金まで押付けるGHQのやりたい放題を許した。第一次内閣で無茶な米軍駐留経費を規定路線化した吉田茂首相は唯々諾々と従うのみで、更なる増額要求に反抗した石橋湛山は蔵相を更迭され公職追放の憂き目をみた。石橋湛山は「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかも知れないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語ったが、1954年に吉田茂内閣が退陣し鳩山一郎内閣で重光葵が外相に復帰するまで抗米意見は封殺された。GHQと吉田茂ラインの宣伝により戦後日本はアメリカの「寛大な占領」で救われたというのが定説となり、その根拠として真先に挙るのが「ガリオア・エロア資金」である。外貨の乏しい日本政府がガリオア・エロア資金を使い生活必要物資をアメリカから緊急輸入した事実はあるが、1946年から1951年までのネットの対日援助額は13億ドルと膨大な「戦後処理費」のごく一部に過ぎない。また、ガリオア・エロア資金の学資援助で米国留学した大勢の学者や公務員が中心となり、従米路線あるいは米国批判タブーの社会風潮を根付かせたことも考えると、アメリカの「寛大な占領」などではなく「戦略的恩恵」であったことは疑いない。戦後70年の今日に至るまで、日本政府は手を変え品を変え不平等な日米安保条約に基づく米軍駐留と経費負担を継続し、アメリカが日本を「保護国」呼ばわりする異常な状態が続いている。
- 日本の急進的民主化を図るマッカーサーはGHQ発足当初の「五大改革指令」に「労働組合の結成奨励」を加え社会主義的なGHQ民政局が積極的に労働運動を助成したが、1946年3月に労働組合法が公布されると空腹を抱えた日本国民が殺到し、1946年末には組合数1万7265・組合員数484万9329人へ膨張した。GHQの民主化政策に戦後の深刻なインフレが拍車を掛け労働運動はエスカレート、日本全国で賃上げ闘争や首切り反対闘争が続発するなか1946年10月に国鉄・全労・新聞放送を含む大規模労働争議「一〇闘争」が発生し、1947年初には全官公庁を中心とする「二・一ゼネスト」が計画された。反共の吉田茂政権を揺さぶる大騒擾に慌てたマッカーサーは「二・一ゼネスト」禁止を発令し労働運動抑制へ転換、戦後瞬く間に拡大した労働組合運動は沈静化へ向かった。
- アメリカの対日政策は蒋介石の親米政権による中国統治を前提としたプランであり、中華民国政府を強大国に育成してアジアにおける西側陣営の柱石とし、日本は非武装の三流国に転落させ、米英仏中・ソの五大国で世界統治を進めるシナリオであった。ところが、1947年7月に始まった共産党軍の大反攻により内部腐敗した蒋介石の国民政府軍の敗色が濃厚となり、さらに李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻するに及び、アメリカは日本を含むアジア戦略全体の見直しを迫られることとなった。トルーマン政府は迅速に動き、国務省のジョージ・ケナンを訪日させて「改革や追放の停止と戦犯裁判の早期終結。日本国民の不満解消に向け、改革よりも貿易など経済復興を第一義的な目的とすべきこと。日本の講和独立を視野に入れ警察(軍事力)を強化する、また沖縄・横須賀の米軍基地は確保しつつ、GHQの権限をできるだけ日本政府に移譲すること。」を旨とする日本統治戦略の大幅緩和を指示した。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で日本解体に励んできたマッカーサーが面白いはずはなく、特に再軍備には強硬に反対し憲法9条に基づく非武装国家の永続を強調して激しく楯突いた(講和独立・GHQ廃止後も吉田茂はマッカーサーに殉じて再軍備反対に固執し、米政府に見捨てられる)。トルーマン大統領は、ロイヤル米陸軍長官演説(占領経費削減と「反共の防波堤」構築のため、日本経済の破壊から自給自足促進への戦略転換を提言)や「ジョンストン=ドレイパー報告」を支援材料に足場を固め、1948年10月「国家安全保障会議文書」により破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。
- 東西冷戦が緊迫化する世界情勢のなか、トルーマン米政府は「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」で共産主義勢力への対決姿勢を鮮明にしたが、ロイヤル米陸軍長官の演説を機に政軍有力者の間で日本経済を復興させ「反共の防波堤」にすべしとの機運が高まった。訪日調査したドレーパー米陸軍次官(日独占領政策担当)は、戦前比で鉱工業生産45%・輸入30%・輸出10%にまで落込んだ日本経済を「死体置き場(モルグ)」と表現し過酷な懲罰政策の緩和を米政府に勧告した。ソ連の「ベルリン封鎖」で冷戦が風雲急を告げ、「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」がアメリカの国益に資すると判断したトルーマン政府は、1948年10月「国家安全保障会議」による「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を承認し、破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。政府の決定を受けたGHQは、破壊から経済復興促進へ政策を転換し、ソ連に対抗するには人材が必要との判断により1951年戦犯釈放・公職追放解除に踏切り「レッド・パージ」へ切替えた。朝鮮戦争勃発で「反共の防波堤」の要請は一層高まり、アメリカは日本の経済力・工業力だけでなく軍事力も利用すべく策動を始めた。こうした米政府の路線転換は「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で進んできたマッカーサーの占領政策を完全否定するものであり、GHQとトルーマン大統領・国防省との確執が深刻化、「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」という政府方針を巡って対立は沸点に達し、GHQ傀儡の吉田茂政権を操り「奴隷」を相手に「世界史上最高の権力」を自賛したマッカーサーは遂に解任された。トルーマン大統領から日本経済復興を託されたデトロイト銀行頭取のドッジは性急な超緊縮財政を吉田茂首相・池田勇人蔵相に押付け、深刻なデフレ不況を引起し復興途上の日本経済は壊滅の危機に瀕したが(ドッジ・ライン恐慌)、朝鮮戦争の米軍特需で一気に蘇生し奇跡の高度経済成長が始まった。平和憲法を奉じる戦後日本は、皮肉にも米ソ冷戦と朝鮮戦争によりアメリカの破壊政策から救われた。
- トルーマン米政府は1948年10月「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」に決め対日政策を破壊から復興へ180度転換したが、米軍は更に踏込んで「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針を定めた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で占領統治を行ってきたマッカーサーのGHQは抵抗したが、1949年ソ連の核実験成功と翌年の朝鮮戦争勃発でトルーマン米政府も日本の再軍備に傾き、朝鮮半島に出動した米軍とほぼ同数の7万5千人からなる「国家警察予備隊」を創設、国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスを講和特使として日本へ派遣し吉田茂首相に再軍備を促した。再軍備絶対反対の吉田茂は「たとえ非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と夢物語を唱え、ダレスをして「不思議の国のアリスに会ったような気がする」と呆れさせたが、親分のマッカーサーに泣きつきこの場は事を収めた。が、トルーマン大統領との対立が決定的となりマッカーサーがGHQを解任されると(ウィロビー参謀第2部長も退官)、吉田茂首相は後ろ盾を失い日本の再軍備を阻む勢力は無くなった。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約調印で日本は占領統治からの独立を許されたが、吉田茂首相は講和条約とセットの日米安保条約・行政協定により在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担の継続を呑まされた。アメリカ主導で日本の再軍備・増強も着々と進められ、公職追放を解かれた旧軍人が続々と軍務に復帰して幹部に納まり、1954年7月1日をもって国家警察予備隊は常設軍隊の「自衛隊」へ改組された。吉田茂は猶も再軍備に反対し続けたが、アメリカは「軍備をサボタージュする古狐」を切捨て再軍備を掲げる鳩山一郎内閣の発足を容認した。陸海空の自衛隊は権限と装備の両面で「専守防衛」の枠に縛られつつも米ロ中に次ぐ軍事力を誇る「軍隊」へ発展したが、核兵器の無い軍隊は画竜点睛を欠き、2015年現在も日米安保条約は不平等なまま米軍の常時駐留と膨大な費用負担・自衛隊兵器の対米依存から抜出せずアメリカが「保護国」と呼ぶ半独立状態が続いている。
- 1950年6月25日、北朝鮮軍が突如砲撃を開始し38度線を越えて韓国領内に侵入、朝鮮戦争が勃発した。首都ソウルはあっという間に陥落し、準備不足の韓国軍は忽ち追い詰められて半島南端の釜山周辺にまで追込まれた。これに先立つ1949年12月、アメリカ国家安全保障会議は南朝鮮からの撤退を決定し、アチソン国務長官は演説の中で「アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄をへてフィリピンに至るライン」であり朝鮮半島は防衛ライン外であることを明言していた。ソ連のスターリンは、この情報を掴んでアメリカの参戦はないと判断し北朝鮮軍を進発させた可能性が高い。しかし、アメリカは即座に政策を転換し「国連軍」を急遽編成して戦線に投入、圧倒的火力により10月20日には北朝鮮の首都平壌を占拠し、その5日後には中国国境の鴨緑江付近まで攻め上った。慌てたスターリンは建国宣言間もない中国に参戦を要請、血気の毛沢東は「人民義勇軍」を派遣して人海戦術で連合軍を38度線付近まで押し戻した。その後は戦線が膠着し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印され、38度線が国境となった。朝鮮戦争の犠牲者は、国連軍側17万2千人・共産軍側142万人とされるが、軍人を遥かに凌ぐ一般市民が犠牲となり、その数は400万人とも500万人といわれ、米・中ソの代理戦争は日韓併合時代と比較にならない惨禍をもたらした。一方、日本にとっては、外貨収入の3割に及ぶ膨大な「朝鮮特需」が産業界を蘇生させたうえ、「反共の防波堤」構築・日本経済の破壊から復興への180度戦略転換というアメリカの対日政策を決定的なものにし、経済大国化へ向けた最大の転換点となった。さらに、アメリカは「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針へ傾斜を強め、国家警察予備隊(自衛隊)創設に続いて再軍備反対に固執するマッカーサーを罷免し、日本の占領終結後も米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担を継続させるため、従米派吉田茂内閣との間で講和条約とセットで日米安保条約交渉を開始、吉田茂後も磐石の従米路線を維持するため策動を強化した。
- 1951年9月8日、日本と交戦国48カ国代表の調印によりサンフランシスコ講和条約が締結され、翌1952年4月28日の条約発効をもってGHQによる軍事占領は終結し日本は主権を回復した。ソ連は出席したが調印を拒み、中国と中華民国(台湾)は招待されず、インドは参加を拒否した。米軍部は日本の占領を続けたかったはずだが、日本政府から膨大な「戦後処理費」を吸上げつつも、占領経費負担は米国財政をも圧迫し世論は占領中止に傾いていた。そこでトルーマン米政府は、ダレス講和特使を日本に派遣して、講和独立を認める代わりに、在日米軍特権の恒久的継続を迫り、これを吉田茂内閣が受入れて日米安全保障条約が結ばれた。講和条約の調印式が華麗なオペラハウスで行われたのに対して、安保条約の方は占領軍基地内の下士官クラブ、しかも署名者は米国側4名に対して日本側は吉田茂首相のみという異様さであった。さらに、国会審議や批准手続きを要する安保「条約」からは当然問題視されるべき米軍駐留のあり方の取り決めが省かれ、政府間合意で足りる行政「協定」を別途締結して、基地の継続使用・米軍関係者の治外法権・有事における統一指揮権(日本軍が米軍の指揮下に入る)といった都合の悪い事項を入れ込んだ。日本全土における米軍基地の自由使用と治外法権まで認めたうえに、日本政府による米軍基地経費負担も継続される一方で、アメリカは日本の防衛義務は負わないとする極めて不平等な内容であり、対等な主権国家同士の条約と呼べる代物ではなかった。そして1960年、岸信介内閣が不平等を是正すべく条約改正に挑んだが、吉田茂の従米路線後継者と「安保闘争」によって妨害され、「集団的自衛権」を建前に双務的体裁を整えた「新安保条約」には漕ぎ着けたものの、本丸の行政協定には踏込めず「地位協定」と改称しただけに終わった。新安保成立後岸信介内閣は退陣したが、新安保の期限を10年とし以降は1年前予告で一方的に破棄できる条項をねじ込み、「真の独立」の課題を次代へ託した。が、その後の内閣において条約破棄権行使も条約改正交渉も行われることなく現在に至っている。
- イラン「国民戦線」のモサデク首相は第二次大戦後も石油資源の収奪を続ける英国資本との対決を決意、1951年パーレビ国王を抑えて石油国有化を宣言し「アングロ・イラニアン石油」(BPの前身)を接収した。激怒した英国は中東に艦隊を派遣しイランへ石油買付に来るタンカーを撃沈すると国際社会を恫喝、石油市場から締出されたイランは忽ち窮乏した。緊迫する情勢のなか、石油メジャーの専横に憤る出光興産の出光佐三は、弟の出光計助専務(のち2代目社長)を極秘派遣してモサデク政府に根回しし、1953年虎の子の自社タンカー「日章丸二世」をイランへ派遣した。「日章丸二世」は一般乗組員に危険なイラン行きを告げず極秘裏に神戸港を出航、アバダン港で石油を満載し、帰路は英国海軍の監視が厳重なマラッカ海峡を避けて水深が浅く危険なジャワ海を辿り川崎港に凱旋した。アングロ・イラニアン石油は積荷の所有権を主張して出光興産に返還を求め東京地裁に提訴し日本政府に圧力をかけたが、出光佐三は「一出光のためという、ちっぽけな目的のために50余命の乗組員の命と日章丸を危険にさらしたのではない。国際カルテルの支配を跳ね返し、消費者に安い石油を提供するためだ」と啖呵を切り、英国資本の石油独占を崩したい米国の黙認と国内世論の後押しで行政処分は見送られ裁判でも出光興産の勝訴が確定した。「日章丸事件」は敗戦国日本の一企業が戦後世界を牛耳る石油メジャーに一矢報いた快挙であり、出光佐三と日章丸は世界に名を馳せた。近年『海賊とよばれた男』(百田尚樹著)の題材となり再び脚光を浴びている。なお日章丸事件の直後、追詰められたモサデク政権は石油の販路を求めソ連に接近、イラン共産化の危機を前に米国は英国支持に回りCIAによるクーデターで国民戦線を一掃し傀儡のパーレビ国王を復権させた(モサデクは軟禁中に不審死)。しかし1960年「OPEC」発足で石油メジャーの影響力は激減し、1979年ホメイニーが「イスラム・イラン革命」でパーレビ王朝を滅ぼしイランは米英の宿敵化、米国は直ちに隣国イラクにサダム・フセイン政権を樹立し翌年「イラン・イラク戦争」を引起した。
- 『海賊とよばれた男』出光佐三は、石油メジャー・業界規制の妨害に負けず民族資本「出光興産」を築いた異端児である。福岡県宗像の藍玉問屋に生れた出光佐三は、不眠症や神経衰弱に悩みつつ神戸大学へ進んだが、エリートの道を捨て1911年北九州門司に「出光商会」を設立、日本石油の特約店となり発動機付き漁船の燃料油販売で礎を築いた。1914年出光商会は車軸油取引で満鉄に食込み凍結耐性に優れた製品開発で鉄道事故減少に貢献、満鉄・軍需を足掛りに満州から中国全域・朝鮮・台湾へ販路を拡げ、出光佐三は高額納税で貴族院議員に叙された。石油国策に乗った「出光興産」は多くの従業員を喪いながら外地主導で業容を拡大したが、敗戦に伴う在外資産接収で全てを失った。出光佐三は無職の従業員1千人を抱えたが解雇ゼロを宣言、社員総出で食扶持を探し旧海軍のタンク底の残滓油清掃からラジオ修理や漁業までやって糊口を凌ぎ、1947年石油配給公団発足に伴う販売店指定で本業復帰し1949年元売業者へ昇格した。ヒトしか無かった出光佐三は「大家族主義」を掲げ、感謝した従業員は薄給で猛烈に働いたが、高度経済成長で出光興産が躍進するに従い人件費抑制と同族経営の方便と化した。さて、戦後日本では元売各社も監督官庁も石油メジャー支配に組込まれたが、出光佐三だけは外資を拒否し「消費者本位」を唱え「石油業法」規制に反抗、絶えず妨害工作に苦しめられたが猛烈営業で乗越えた。1951年イランが石油国有化を宣言し欧米は対決姿勢をとったが、反骨の出光佐三は「日章丸二世」をイランへ送り英国海軍の海上封鎖を突破して原油を持帰りBPの横槍も排除した(日章丸事件)。出光興産は快進撃を続け1957年の徳山を皮切りに全国に自社製油所を展開、「出光タンカー」「出光石油化学」を分離増強し、中ソ原油輸入や中東事務所開設でも先鞭を付けた。出光佐三は生産調整に反発し石油連盟を脱退したが、1966年世界最大「出光丸」の就航を花道に社長を末弟の出光計助に譲り石油連盟復帰、1981年95歳で大往生した。出光佐三が固執した同族経営は2002年で終わり2006年上場会社となった。
- 原子力行政の進展も再軍備を掲げた鳩山一郎政権の見逃せない業績である。日本の原子力行政は1953年「原子力の平和利用」を提唱したアイゼンハワー米大統領演説に端を発し、翌年日本漁船がビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭難する「第五福竜丸事件」が起ると、電源開発が死活問題の日本産業界と日本の反米反核世論を封じたいアメリカ(当初は原発輸出の意図はなかったが)の思惑が一致し露骨な世論操作と行政介入が始まった。第五福竜丸事件の直後、アメリカの意を受けた中曽根康弘らが初の原子力予算案を衆議院に提出し、米CIAに近い正力松太郎の読売新聞は「原子力の平和利用」を喧伝し「原子力平和利用博覧会」に37万人もの来場者を集めた。なお1923年の関東大地震で、朝鮮人が暴動を企てているとか井戸に毒を投げ込んだというデマが飛び交い多くの朝鮮人が殺害されたが、デマ騒ぎの首謀者は警視庁官房主事の正力松太郎であったとされる。直後に摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起り警備責任者の正力松太郎は懲戒免官となったが、帝都復興院総裁の後藤新平らの資金援助で読売新聞社を買収し、大政翼賛会総務・貴族院議員を経て第二次大戦後CIAに取込まれ中曽根康弘の盟友となった。さて吉田茂から鳩山一郎へ政権が移った1955年、中曽根康弘の主導で「原子力の平和利用」促進のための「原子力基本法」が成立し「原子力委員会」が発足、産業界の期待を担い正力松太郎が初代委員長に就任した。1956年「日本原子力研究所」(茨城県東海村)が創設され、翌年鳩山一郎内閣は原子力政策を担う「科学技術庁」を設置し正力松太郎を初代長官に任命、電力9社および電源開発の出資で「日本原子力発電株式会社」が発足した。なお、俗物の正力松太郎を嫌うノーベル物理学賞学者の湯川秀樹は原子力委員会委員を辞任している。1963年10月26日(原子力の日)日本原子力研究所が原子力発電に成功し日本各地で原発建設計画が始動、イギリスの対日原発輸出で米政府も容認へ転じGEやWestinghouseが参入(福島第一原発はGE製)、正力松太郎は「原子力の父」の称号を得たが主導権を失い目的の首相就任は果たせなかった。
- ドワイト・D・アイゼンハワーは連合国遠征軍最高司令官を務めた陸軍人で「第二次世界大戦の英雄」として米大統領に就任した人物だが、大統領退任演説において初めて「軍産複合体(MIC)」を世に表しその危険性を警告した・・・「第二次世界大戦まで、合衆国は兵器産業を持っていなかった。アメリカの鋤製造業者は、時間があれば、必要に応じて剣も作ることができた。しかし今や我々は、緊急事態になるたびに即席の国防体制を作り上げるような危険をこれ以上冒すことはできない。我々は巨大な恒常的兵器産業を作り出さざるをえなくなってきている。これに加え、350万人の男女が直接国防機構に携わっている。我々は、毎年すべての合衆国の企業の純利益より多額の資金を安全保障に支出している。・・・「軍産複合体」の経済的、政治的、そして精神的とまでいえる影響力は、全ての市、全ての州政府、全ての連邦政府機関に浸透している。我々は一応、この発展の必要性は認める。しかし、その裏に含まれた深刻な意味合いも理解しなければならない。・・・「軍産複合体」が、不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、政府も議会も特に用心をしなければならぬ。この不当な力が発生する危険性は、現在、存在するし、今後も存在し続けるだろう。この軍産複合体が我々の自由と民主的政治過程を破壊するようなことを許してはならない」。なおアイゼンハワー大統領は、個人的に岸信介首相を支持し日本の自主独立路線に寛容な態度を示したことでも知られる。1960年岸信介内閣との間で日米安保条約を更改したアイゼンハワーは、米大統領として初めて訪日する予定であったが「安保闘争」に阻まれ実現しなかった。ケネディ・ジョンソン・ニクソンを経て1974年田中角栄内閣でフォード米大統領が初来日を果し、以後オバマに至るまで歴代大統領は全て来日している。
- 1956年版経済白書抜粋(首相鳩山一郎・通産相石橋湛山):「戦後日本経済の回復の速さには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。・・・貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべればその欲望の熾烈さは明かに減少した。もはや戦後ではない。」
- 従米派と見られた岸信介はアメリカの期待を担って組閣したが、首相に就任すると「国際連合中心・自由主義諸国との協調・アジアの一員としての立場の堅持」という「外交三原則」を掲げ自主外交に乗出した。岸信介は首相として初めて東南アジアおよびオセアニアの諸国を歴訪し、アメリカを刺激しかねない「東南アジア開発基金構想」を提唱した。岸信介首相の歴訪で戦争賠償問題は大きく前進しインドネシア・ラオス・カンボジア・南ベトナムと相次いで賠償協定を締結し国交回復を達成、日本政府が賠償額に相当する生産物やサービスを日本企業から調達し相手国に供与する方式を採ったため日本企業の東南アジア「再進出」にも道を拓いた。また岸信介首相は国際連合中心主義を実践し1958年日本は初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となっている。岸信介は自民党きっての「親台湾派」「親韓国派」で退陣後も頻繁に両国を訪問、満州国以来旧知の朴正煕韓国大統領と池田勇人首相の間を取持ち日韓国交回復をサポートした。なお、軍事クーデターで発足した朴正煕政権は、国家予算を上回る日本の経済援助(日韓併合で同じ国だったので戦争賠償はありえない)で韓国経済を再建し李承晩が敷いた無闇な反日原理主義を改め本来の敵である反共反北へ舵を切ったが、盧泰愚の失脚で真当な軍事政権は終わり、金泳三以後の親北政権は教育により反日をエスカレートさせ「従軍慰安婦」と「靖国参拝」に特化した朴槿恵(父朴正煕の親日政策を自己批判)の反日専門政権へ至る。
- 1960年「経済優先・外交従米」の池田勇人内閣は「所得倍増計画」を発表、「10年間で国民所得倍増」を掲げ完全雇用の達成・社会資本の充実・国際経済協力の推進・人的能力の向上・科学技術の振興・二重構造の解消など、経済繁栄に邁進する方策を分り易い形で国民に提示した。第二次大戦後の極端な物資不足とGHQの日本経済破壊方針に「ドッジ・ライン恐慌」が追討ちを掛け日本の産業界は壊滅の危機に瀕したが、1950年に始まった朝鮮戦争の特需で蘇生し1954年「高度経済成長」に突入、1956年鳩山一郎内閣は経済白書に「もはや戦後ではない」と記し戦後復興の完了を宣言した。自動車・家電など重化学工業の飛躍的発展が産業界を牽引し、石炭から高効率の石油へエネルギー転換が進んだことも成長に拍車を掛けた。下村治ら官僚主導による「所得倍増計画」の効果はともかく、池田勇人内閣が発足した1960年から5年間の実質経済成長率は年率9.7%となり1968年には前倒しでGNP倍増を達成、日本は英独仏を抜いて米国に次ぐ経済大国となり戦前と同じ地位を回復した。「世界の奇跡」と賞賛された日本の高度経済成長は1973年のオイルショックまで続き、家庭にはテレビ・冷蔵庫・洗濯機の「三種の神器」が普及し国民生活は格段に向上した。しかしその反面で公害問題と地域間格差が深刻化し、1972年「日本列島改造」を掲げる田中角栄内閣の登場で利権と表裏の地方農漁村への利益誘導が国策となり、地方自治体では革新首長ブームが起り「バラマキ」と「土建行政」の時代が始まった。
- 1961年から1966年まで駐日アメリカ大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーは、日本人を妻(松方正義の孫ハル)とした親日家で、日米蜜月時代をもたらし沖縄返還にも奔走した。「安保闘争」の余韻のなか就任したライシャワーは、日本の左傾化を食止めるべく「日米イコール・パートナーシップ」の演出により占領国・被占領国という従来イメージの一新を図り、賛同したケネディ米大統領は池田勇人首相を厚遇しヨット会談への招待(マクラミン英首相に次ぐ二人目)や合同委員会設置(カナダに次ぐ二国目)で協力した。しかし「反共の防波堤」として日本を援護したアメリカと異なり、西欧諸国は日本の輸出競争力を警戒し国際社会復帰を妨害、日本製品が安いのは長時間・低賃金による「ソーシャル・ダンピング」だと難癖をつけ、日本のGATT加盟後も35条援用により対日貿易に差別的対応をとりOECD加盟も阻んでいた。戦前の中国大陸に代わる主要輸出先として欧米市場に食込みたい池田勇人首相は、反共「冷戦の論理」から「日米欧は自由主義陣営の三本柱」とPRし1962年欧州7ヶ国を歴訪した。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が最後まで反対したが、池田勇人首相は「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつGATT35条撤回の承諾を勝取り、同1963年日本はGATT11条国およびIMF8条国への移行を果し翌年念願のOECD加盟を認められた。池田勇人首相は「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言はおそらく今日のそれに10倍しただろう」と側近に漏らしたという。また、吉田茂の後継者ながら「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、1961年岸信介の仲介で朴正煕韓国大統領を日本に招待し、1962年戦後初めて対中貿易の枠組みを構築している。合意文書に署名した廖承志と高崎達之助の頭文字をとって「LT貿易」と称された半官半民の貿易形態で、1972年田中角栄内閣による日中国交回復まで日中貿易の柱となった。日中国交は米軍基地駐留に次ぐアメリカの「虎の尾」で、ケネディ大統領も不快感を表明し牽制したが、池田勇人首相は屈することなく日中関係を前進させた。
- 1972年、戦後最長2798日の長期政権を閉じた佐藤栄作は自民党総裁の後任に実兄岸信介直系の福田赳夫を推したが、佐藤派を割って出た田中角栄が大平正芳(宏池会)・三木武夫・中曽根康弘らと「福田包囲網」を結成し「角福戦争」に勝利、高等小学校卒の野人宰相は「今太閤」と持て囃された。新潟の寒村出身の田中角栄は「裏日本」への利益誘導と格差是正を使命に掲げ「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」と宣言し(日本列島改造論)、公共工事ラッシュを巻起こしたが、間もなくオイルショックが起り列島改造は挫折した。今に続く「バラマキ」・土建行政・財政赤字・金権政治の元凶というべき田中角栄政権だが、外交面では自主路線を追求し後世に範を示す偉業を為した。通産相として国内繊維業者への巨額損失補填を断行し佐藤栄作内閣の「繊維密約」問題を片付けた田中角栄は、翌年首相に就くと3ヶ月も経たないうちに巨額の財政援助と引換えに「日中国交正常化」を達成した。佐藤栄作内閣の繊維密約違反に激怒したアメリカは電撃的なニクソン訪中・ドル兌換停止宣言(ニクソン・ショック)で報復したが、頭越しの日中国交正常化で田中角栄に果実をさらわれ、キッシンジャー国務長官は「汚い裏切り者どものなかで、よりによってジャップがケーキを横取りした」と憎悪を燃やした。さらに田中角栄首相は、日本の宿命的課題である独自資源の確保に乗出しソ連を含む世界各国を歴訪、産油国等を相手に派手な「資源外交」を展開し米政府と石油メジャーの神経を逆撫でした。こうしたなか立花隆が「田中角栄研究 その人脈と金脈」を著すと米国メディアから追及の火の手が上り、朝日新聞・読売新聞が煽り立て政治問題に発展、1974年田中内閣は総辞職に追込まれ資源外交も成果の無いまま頓挫した。とはいえ田中派は自民党最大勢力を保持し田中角栄は2年後を目処に首相に復帰する考えでいたが、キッシンジャー米国務長官と三木武夫首相の共同謀議「ロッキード事件」で刑事訴追され、10余年もキングメーカーに君臨しながら政権復帰は叶わなかった。
- 田中角栄は、毀誉褒貶はあるが今なお根強い人気と知名度を誇る野人政治家である。田中角栄は新潟の寒村から15歳で単身上京し建築技師となり「田中土建工業」を開業、肺炎で兵役を免れ理研の大河内正敏の庇護下で身代を築いた。戦後政界へ転じた田中角栄は吉田茂・佐藤栄作に属し1957年郵政相で初入閣、佐藤の政敵である池田勇人内閣でも盟友大平正芳の支えで要職に留まった。田中角栄は無学ながら100本を超す議員立法を行った政策通で、建築士法や道路法など土木関連法を案出し自ら推し進める様は「コンピュータ付きブルドーザー」と評された。剛腕の田中角栄は自民党幹事長として佐藤栄作内閣を支え、通産相を託されると国内繊維業界に2300億円の損失補填を断行し3年も膠着した対米繊維交渉を決着させた。が、佐藤栄作は後継総裁に岸信介直系の福田赳夫を指名、田中角栄は「田中派」で佐藤派を割り大平正芳・三木武夫・中曽根康弘らと結んで「角福戦争」を制し1972年念願の首相に就任した。経済成長に取残された「裏日本」の振興と格差是正を宿志とする田中角栄首相は、「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」という「日本列島改造論」を標榜し建設ラッシュを巻起こしたが、オイルショックで挫折し福田赳夫の「総需要抑制政策」へ転換した。一方で田中角栄首相は自主外交に注力、巨額の財政援助を餌に「日中国交正常化」を引出すと、欧州・ソ連・中東など世界各国を歴訪し日本独自の資源確保に奔走(資源外交)、オイルショックでは産油国に理解を示し日本産業界の窮地を救ったが、頭越しの独走を米政府と石油メジャーは許さなかった。1974年「金脈問題」で田中角栄内閣は倒され、キッシンジャー米国務長官らの謀略「ロッキード事件」で復活を阻まれたが、金権選挙に強い田中派は最大勢力を保持し首相指名権を握る田中角栄は「目白の闇将軍」に君臨した。が、首相を出せない田中派では不満が募り、1987年竹下登・金丸信・小沢一郎らが造反し「経世会」を結成、脳梗塞に倒れた田中角栄は影響力を失い1993年刑事被告人のまま病没した。
- 福田赳夫首相はカーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を追求し、従米脱却に挑んだ岸信介直系の名に恥じない働きを示した。ベトナム戦争敗北の翌1977年、大統領に就任したジミー・カーターは直ちに在韓米地上軍の削減を発表し「アジア離れ」の外交方針を鮮明にした。これを受けて福田赳夫首相は、カーター大統領を訪問し日米協調を確認したうえで、ASEAN5ヶ国の首脳を歴訪し「ASEAN工業プロジェクト」への10億ドル拠出およびODA支出額倍増を約束、最後の訪問地マニラで「日本の軍事大国化の否定・心と心が触れ合う相互信頼関係の確立・ASEAN各国の連帯性と強靭性強化に向けた自主的努力への協力」を骨子とする「福田ドクトリン」を表明した。福田ドクトリンとは即ち「米国のプレゼンス喪失で生じたアジアの力の空白を日本の経済力を求心力にASEAN諸国との政治経済両面での連帯強化によって埋めていく」外交方針の宣言であり、あわせて福田赳夫首相はベトナム問題や中ソ対立の波及など国際環境の分極化を未然に防ぐ日本の役割を国際社会に明示した。続いて福田赳夫首相は、改革解放を進める鄧小平復活後の中国と日本国内の親中・反ソ世論に促され、田中角栄内閣が達成した「日中国交正常化」の仕上げに乗出した。福田赳夫首相は、反ソ戦略の一環で対中接近を図るアメリカの了解を取付け、母体の岸派に根強い親台湾派を懐柔し、「反覇権条項」に抗議するソ連の牽制を黙殺して、1978年「日中平和友好条約」締結に漕ぎ着けた。福田赳夫首相は日中関係が「吊り橋から鉄橋になった」と自賛したが、中国への肩入れで「全方位外交」の建前は崩れ日ソ関係は悪化、さらに中国とベトナムの関係悪化を受け対越経済援助を堅持するも中越戦争勃発の抑止力にはなれず、日ソ関係改善に取組むなか自民党総裁選で大平正芳に敗れあっけなく退陣した。国内政治に弱い福田赳夫政権は短命に終わり岸信介以来の悲願である憲法改正・再軍備には踏込めなかったが、しっかりアメリカの了解を得ながらアジア経済共同体の構築を目指した外交戦術は秀逸で後世に範を示すものであった。
- 1979年「東京サミット」を前にアメリカに呼ばれた大平正芳首相は、カーター大統領との会談で「日米同盟」の文句を始めて公式の場で使い「日本は良しにつけ悪しきにつけ、どこまでもアメリカを支持し、良きパートナーとしての役割を果します。なんでもご遠慮なくご相談ください」と営業マンのような追従を奉った。吉田茂・池田勇人の直系「保守本流」を自認する大平正芳首相は「福田首相のかかげた『全方位外交』の旗をおろし、『対米協調路線の前進』という立場を鮮明に打ち出し、日本外交の新しい選択を示した」というが、前の佐藤栄作・田中角栄・福田赳夫内閣が推し進めた自主外交を従米路線へ押戻す重要な役割を演じた。また大平正芳は田中角栄内閣の蔵相として日中国交正常化にあたったが、「戦争で中国にはひどい目にあわせたんだから、ここはやっぱり日本がいろんなことで我慢をして、正常な関係をつくって行かなければならないという、非常に強い信念」に基づき悪しき「贖罪外交」の端緒を開いた。「反日」「抗日」を建国の正統性に置く中国・韓国の現政権にとって贖罪外交は格好の支援材料となり、日本が詫びれば詫びるほど「歴史認識問題」はエスカレート、大平正芳を師と仰ぐ加藤紘一や「江乃傭兵」(江沢民の傭兵)こと河野洋平ら中朝ロビーが傷口を拡げた。贖罪外交の象徴が「従軍慰安婦問題」で、1992年宮澤喜一内閣の加藤紘一官房長官は朝日新聞記者の作り話に基づき碌な調査もせずに日本政府の関与を認め公式に謝罪(加藤談話)、翌年官房長官を継いだ河野洋平は贖罪意識から事実無根の「強制連行」を認めた(河野談話)。従軍慰安婦問題は「靖国参拝」と共に韓国の二大「政策」となり朴槿惠の反日専門政権を支えている。1995年社会党政権の村山富市首相は独断で「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ日本政府として公式に謝罪を表明、不用意な「村山談話」で日本は自ら日本叩きを正当化する羽目に陥り、日韓併合で同じ国だった韓国まで謝罪の対象となった。
- 日本の自動車生産が米国を抜いて世界一となった1890年の翌年、元役者のロナルド・レーガンが共和党から米大統領に就任した。軍産複合体が担ぐレーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)で「悪の帝国」と呼ぶソ連に過剰な軍拡戦争を仕掛け、同時に富裕層減税も行ったため瞬く間に財政赤字と累積債務が激増、さらに米国製造業の国際競争力低下と日本製品の躍進で巨額の貿易赤字も抱えアメリカは「双子の赤字」に陥った。日米貿易摩擦は以前にも度々起り、それでもアメリカは自由貿易の原則を堅持していたのだが、レーガン政権は「米国産業が輸入品に負けるのは、米国が悪いのではなく、相手国が悪いからだ・・・負けるとすれば相手国が市場閉鎖など不公正なことを行っているからにちがいない。相手国の不公正な制度は米国政府自身が特別チームでも作って大いに叩いたらよい」との傲慢なドグマに捕われ、貿易赤字の元凶とみた日本経済を敵視し破壊する暴挙に乗出した。1981年「自主規制」の押付けで象徴的な乗用車輸出を崩し、中曽根康弘首相を手懐けたレーガン政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ「プラザ合意」で急激な円高を強要、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強要し、スーパー301条で対日制裁を強化した。アジア製品の減価で日本の輸出産業は「円高不況」に陥ったが米国製品の輸出も伸悩み、逆に日本では積極的金融・財政政策で内需が喚起され「バブル景気」が発生、1989年にはアメリカの象徴ロックフェラーセンターやコロンビア映画を日本企業が買収する事態となった。業を煮やしたアメリカは保護貿易の枠さえ踏越え金融・不動産・流通などGHQ以来の「日本経済の再解体」を決意、FRBのBIS規制と日米構造協議が決定打となって1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。「防衛協力」で散々貢いだ挙句に経済破壊の内政干渉を黙って受入れた中曽根康弘首相は、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係と1806日の長期政権を築いたが、その代償は余りに大きく日本は「2度目の亡国」へ引込まれた。
- 慶應義塾同窓の親友で「電力の鬼」と称された松永安左エ門は、小林一三の性格を「我不関焉(われ関せず)」すなわち「腹が決まっており動揺しない・・・そんなことは俺の知ったことじゃない。そんなことのために、いきり立ったり、癇癪を起したり、そんなことは俺の分野ではない。俺はだいたいそういうことは嫌いなんだ、という性格である」と評した。福澤諭吉が心血を注いだ『時事新報』が経営難に陥ったとき、松永安左エ門・武藤山治(鐘紡の実質的創業者)ら慶應義塾OBは支援に乗出したが、小林一三は「我不関焉」とばかりに松永らの協力要請を断り涼しい顔で批判を受流した。小林一三の読みどおり資金を注いでも『時事新報』の再建は成らず数年後に廃刊となり東京日日新聞に吸収された。冷徹な事業家の顔を見せた小林一三だが、東京電燈(東京電力)の経営再建など多くの事業を引受けたことや豊富な女性遍歴が示すように、情誼に篤く人に慕われる性質も多分に持ち合わせていた。大衆消費社会のパイオニアとして後進を薫陶した小林一三は、松下電器の松下幸之助から「すべて逸翁(小林の雅号)は我が師」「神様」と崇敬され、ダイエーの中内功も「逸翁を見習いたい」と語った。小林一三から宅地造成で稼ぐ私鉄経営モデルを直伝され東急(田園都市←東京急行電鉄)を築いた五島慶太は完全な「小林崇拝者」であったが、「強盗慶太」が慶應閥が牛耳る三越の買収に乗出すと、支援要請を受けた小林一三は「蛙が蛇を飲み込むより無理ではないか」と突放し、三井銀行・三菱銀行から支援を取付けて三越防衛を成功へ導き五島の野望を粉砕している。
- 小林一三は、鉄道・宅地造成・商業・娯楽施設の一体開発により沿線住民の生活を丸抱えする「私鉄経営モデル」で阪急東宝グループを築いた大衆消費社会のパイオニア、政商・軍閥ばかりの明治企業家で異彩を放つ存在である。甲州屈指の素封家に生れた小林一三は慶應義塾へ進み小説家を志すも挫折、三井銀行でヤル気の無い社会人となったが、大阪支店長の岩下清周との出会いで運命が一変、北浜銀行を創設した岩下の勧誘で設立間もない箕面有馬電気軌道の経営者となった。経営難の敗戦処理を託された小林一三だが、当時斬新なパンフレットで事業の将来性と「田園趣味に富める楽しき郊外生活」を謳い、甲州財閥を口説き資金調達に成功、現在の宝塚本線・箕面線の開業に漕ぎ着けると、沿線の土地買収と宅地造成で巨利を博し阪神急行電鉄へ改称した(→阪急電鉄)。さらに「阪急沿線の分譲住宅に住み、買物は阪急百貨店、レジャーも阪急宝塚で」という着想を得た小林一三は、終点の宝塚に宝塚新温泉を開設し唱歌隊(→宝塚歌劇団)で集客に注力、始点の大阪梅田にはターミナルビルを建てて阪急梅田百貨店を開業し、沿線土地の付加価値を膨らませつつ新規事業を開拓した。「鉄道王」小林一三の私鉄経営モデルは、五島慶太の東急・堤康次郎の西武・根津嘉一郎の東武らに踏襲され鉄道・レジャー産業発展の原動力となった。阪急百貨店は支店網を広げ全国ブランドへ成長し、数寄者の小林一三は温泉座興で始めた宝塚少女歌劇に巨費を投じ宝塚大劇場・東京宝塚劇場(略して東宝)・宝塚音楽歌劇学校を創設、帝国劇場など日比谷一帯の劇場も傘下に収め浅草の松竹と東京興行界を二分するに至り映画配給でも成功を収めた。ホテル事業を創業し(阪急阪神第一ホテルグループ)阪急ブレーブス・阪急西宮球場も作った小林一三は63歳で社業を退いたが、財界重鎮として東京電燈(東京電力)の経営再建や昭和肥料(昭和電工)設立に働き、第二次近衛文麿内閣の商工大臣も引受けた。第二次大戦後、小林一三は幣原喜重郎内閣に入閣したが公職追放に遭い、東宝社長に復帰し阪急東宝グループの同族経営を固めたあと84歳で永眠した。
- 中内功は、高度経済成長下「価格破壊」で流通革命を牽引した「ダイエー」の創業者だが、消費変化に取残されバブル投資に狂奔し破滅した。神戸高等商業学校を出た中内功は20歳で徴兵されフィリピンで死線を彷徨ったが、戦後マニラの捕虜収容所から神戸に帰還した。家業の「サカエ薬局」で現金仕入れを覚えた中内功は、1957年大阪千林駅前に「主婦の店ダイエー薬局店」を開業、安売り攻勢と牛肉特売で人気を博し、関西から日本全国へ店舗網を拡げ「何でも揃う」スーパー業態を確立した。1971年ダイエーは株式上場を果し翌年小売業売上高日本一を達成、中内功はあらゆる事業に手を拡げ1975年コンビニ「ローソン」を開業した。ダイエーの「価格破壊」を消費者は歓迎したがメーカーは猛反発、中内功は松下電器産業と「30年戦争」を戦いつつPB商品を拡大した。M&Aに目覚めた中内功は同業のマルエツ・ユニード・忠実屋にハワイの商業施設まで買収し規模の拡大に邁進したが、消費ニーズの質的変化に適応できず「ダイエーには何でもあるが、欲しいものは何もない」状態に陥った。ジャスコ(イオン)やイトーヨーカ堂が台頭するなか、ダイエーは1983年から3期連続赤字で経営危機、中内功は「もう一度、俺を男にしてくれ」と号泣し河島博副社長(元ヤマハ社長)らに再建を託した。新経営陣の「V革」でダイエーが復活すると中内功は経営権を強奪し暴走開始、リッカーミシン買収、神戸オリエンタルホテル買収、流通科学大学創立、新神戸オリエンタルシティ建設、ホークス球団買収を僅か2年で片付け借入金を膨張させた。バブル崩壊後も止らない中内功は1992年リクルートの巨額買収を強行、福岡ドーム球場に巨費を投じ怪しい「バブル紳士」の金主にもなった。同族支配に固執する中内功は有力幹部を悉く追放し、ダイエーは自浄作用を失い1999年赤字転落で経営危機が再燃、中内功は会長へ退いたが後任社長の鳥羽董がインサイダー嫌疑で退任し銀行団は匙を投げた。2001年粘る中内功と一族は完全追放されたが時既に遅し、ダイエーの産業再生機構送りが決まった翌2005年、全てを失った中内功は波乱万丈の生涯を閉じた。
- 小平浪平は、欧米技術の模倣を嫌悪し「国産技術立国」の理想を追求し続けた日立製作所創業者である。東大工学部を卒業し発電設備技術者となった小平浪平は、秋田県の藤田組小坂鉱山・広島水力電気を経て「電気工学を学んだ者の羨望の的」東京電燈(現東京電力)送電課長に栄進したが、どの職場でも外国製機械と外国人技師への依存に反発し、「痩せても枯れても自力で機械を作る」ため1906年元上司の久原房之助が開業した久原鉱業所日立鉱山に入社した。鉱山経営に不可欠な電源開発を託された小平浪平は発電所建設を陣頭指揮したが、排水ポンプ用の電動機(モーター)に故障が多く難渋、大半がGEやWestinghouseなど外国製だったことに反骨心を刺激され「故障しないモータが日本人の手で作れるはずだ、作れないのは、作ろうとしないからだ」と修理改良に乗出した。故障を克服し自信を得た小平浪平はモーターの国産化を決意し、1910年久原房之助を口説いて出資金を引出し現日立市に「日立製作所」創業(企業名より地名が先)、交通不便な僻地で工場も掘立小屋同然だったが、帝大教授陣を抱込んで倉田主税(2代目社長)・駒井健一郎(3代目社長)ら優秀な技術者を獲得し、見習工養成所(現日立工業専修学校)も開設した。設備も経験も不足するなか国産初の大型電動機製造に成功した日立製作所は、創意工夫で技術力を高めつつ発電設備・電動機市場に割安な国産製品を浸透、大物工場の全焼で小平浪平は経営危機に直面したが、翌1920年久原房之助義兄の鮎川義介が経営難の久原財閥を承継し窮地を脱した。「日産コンツェルン」に再編された日立製作所は成長を加速、電気機関車製造に進出し、小平浪平が「日立精神を守る」と製造拠点を留めたことで関東大震災を免れ東芝などが壊滅的被害を蒙るなか復興需要で急伸、日中戦争に伴う軍需景気と日産の満州重工業開発に乗り一流重機メーカーへ発展を遂げた。第二次大戦後、小平浪平は公職追放に遭い、1951年相談役で復帰したが世襲経営を否定し「日立製作所がおれの論文であり、記念だよ。ほかに何もいらぬ」と言残し同年77歳で世を去った。
- 東京日本橋の木工職人に生れた早川徳次は、貧家の養子となり虐待されたが、隣家の盲目女性に救われ8歳で錺屋(金属細工)職人の丁稚となった。年季奉公を終えた早川徳次は20歳前に親方から独立し、穴開け不要のバックル「徳尾錠」と画期的な「水道自在器」で台頭、1915年不朽の傑作「シャープペンシル」(特許名は早川式繰出鉛筆)を発明すると、第一次大戦で物資不足の欧州輸出に火がつき注文殺到で急成長を遂げた。再会した実兄を招き「早川兄弟商会」を設立した早川徳次は、工場を拡張し従業員70人を擁して大量生産に乗出したが、投資回収前に関東大震災に見舞われ、九死に一生を得るも妻子と工場を失った。不屈の早川徳次は事業再開に奔走したが、日本文具製造に販売代理店契約を打切られ保証金返還を迫られ万事休す、事業と特許を取上げられ技術移転のため大坂へ移った。大坂に留まり再起を期す早川徳次は1924年現シャープ本社所在地に「早川金属工業研究所」を設立し、万年筆の部品製造で糊口を凌ぎつつ欧米で登場したばかりのラジオの国産化に挑戦、希少な輸入品を解体し職人技で部品を再現して国産初の鉱石ラジオ受信機の製作に成功した。間もなくラジオ放送が始まると輸入品の半額以下の「シャープ・ラジオ」は爆発的に売れ、遠距離受信が可能な交流式真空管ラジオも発売、満州事変後のラジオ普及本格化に乗って業績は急拡大し社名を「早川電機工業」へ改めた。ラジオで「玉音放送」が流れた後、物資不足とドッジ・ライン恐慌でラジオメーカーは80社から18社へ淘汰されたが、生延びた早川電機工業は朝鮮特需で蘇生、株式上場も果し高度経済成長の波に乗った。脱ラジオ専業を目指す早川徳次は、米国RCA社と技術移転契約を結び1953年テレビ放送開始に先立ち国産第1号テレビ(白黒)を発売、電子レンジ・電卓・太陽電池と手を広げ日本屈指の総合家電メーカーへ成長を遂げた。1970年「シャープ」への社名変更に伴い会長へ退いた早川徳次は、盲人等障害者福祉に尽力しつつ86歳まで長寿を保った。2015年現在、液晶工場への過剰投資で致命傷を負ったシャープは万策尽き果て公的資金注入を待つ身である。
- 電気技師を父にもつ井深大は、早稲田大学理工学部在学中に「走るネオン」の特許を取り「学生発明家」と持て囃されパリ万博で金賞を獲得した。東芝に落ちた井深大はベンチャー企業へ進み1940年日本光音工業の出資で「日本測定器」を設立し常務就任、軍需で業績を伸ばしつつ戦時科学技術研究会委員に任じられ祖国の勝利を願い兵器開発に邁進した。しかし敗戦で軍需工場の日本測定器は閉鎖され、井深大は疎開先の長野から同志7人と帰京し1946年「東京通信工業」を設立、海軍技術将校の盛田昭夫も合流した。当初は社員20余名がラジオ修理で糊口を凌いだが、井深大が名誉社長に迎えた岳父(元文相)前田多門の後援で石坂泰三・石橋湛山ら大物の出資を得るなど恵まれた船出であった。井深大は「真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」を掲げ「人がやらないことをやる。優れた製品を作る。それについては妥協しない」と宣言し果敢に新分野に挑戦、「東芝のモルモット」と揶揄されつつ、国産初のテープレコーダーを経て1955年国産初のトランジスタラジオを発売すると低価格を武器に世界市場を席巻、株式公開を果し社名を商標「SONY」へ統一した。井深大とソニーは挑戦を続け、世界初のトランジスタテレビ、家庭用ビデオ・テープレコーダー、「トリニトロン」方式のカラーテレビなど技術優位を世界に示し、超能力研究や超幼児教育にまで手を拡げた。また盛田昭夫の経営手腕も冴え、ADR発行・NYSE上場など国際金融の分野でもソニーは先駆者であった。1971年井深大は盛田昭夫に社長を譲ったが、存命中ソニーは創業理念を失わなかった。「ビデオ戦争」でソニーのベータ方式は松下電器産業のVHS方式に敗れたが、1979年発売の「ウォークマン」が革命的大ヒット、米CBSレコードやコロンビア映画の買収で日本叩きの矢面に立つも「PlayStation」など新機軸で地位を保った。1997年井深大は89歳で永眠、多磨霊園の墓碑には「自由闊達 井深大」と刻字された。2年後に盛田昭夫も他界し、出井伸之社長は日本潰しの波に呑まれソニーは独自性と競争力を喪失した。
- 盛田昭夫は、井深大と二人三脚で「世界のソニー」を創り上げた名参謀である。大阪帝大理学部物理学科を出て海軍技術中尉となった盛田昭夫は、戦時科学技術研究会で井深大と邂逅し熱戦誘導兵器等の共同研究を通じて互いに人物と学識を認める間柄となった。終戦後、朝日新聞のコラムで「兵器会社経営から町の学者として新に出発」した井深大の健在を知った盛田昭夫は東京に馳せ参じ、井深は12歳も年少の盛田を「日本通信工業」のパートナーに迎えた。盛田家は愛知県常滑市で300年続く造酒屋で「敷島パン」も経営する名門、長男の盛田昭夫は家を継ぐ予定であったが、井深大は盛田家に乗込んで強談判し「生涯の伴侶」を得た。盛田昭夫は優秀な技術者であったが経営面に徹し、一歩下がって井深大を支え続けた。特に国際金融で盛田昭夫は辣腕を発揮し、ADR(米国預託証書)発行やニューヨーク証券取引所上場など日本企業初の快挙を達成している。1971年井深大が会長に退き盛田昭夫がソニーの2代目社長に就任、盛田も5年後に岩間和夫に社長を譲り創業者2人は共に一線を退いた。1997年井深大が89歳で永眠、脳溢血で動けない盛田昭夫に代わり夫人が感動的な弔辞を代読した・・・「井深さん、あなたはとうとう一人で新しい世界に旅立ってしまわれました。戦争中、あなたに初めてお会いして50余年。二人で会社を作って51年。苦しいときも楽しいときも、いつも二人一緒でした。今、二人は別れ別れになってしまいましたが、これからは、私はこの世の中に今しばらくとどまって、次の世代の若者が、どのようにこの難しい世の中を乗りきってゆくかを、じっと見つめてまいりましょう。『さよなら』とは申しません。またいつの日かお会いできる日がくるでしょう。それまでしばらくのお別れです。そして私は、今改めて、私にこんなにもすばらしい人生を与えて下さった井深さんに、心からお礼を申しあげます。井深さん、本当にありがとうございました」・・・この2年後、後を追うように盛田昭夫は78歳の生涯を閉じた。
- キヤノン創業者の御手洗毅は終戦間もない1945年10月1日の事業再開に際し「諸君、旧海軍の零式戦闘機は、世界一の性能を持っていたという。日本は戦争には負けたが、われわれには彼らに負けない立派な頭脳のあることが、これでも立証された。われわれは、この頭脳と多年続けてきた技術研究の成果を生かして、世界一のカメラをつくろうではないか。日本は、これから大いに外貨を稼がなければならぬ。諸君、わが社が真っ先に立上がろう」と社員一同に奮起を促した。御手洗毅の宣言どおり、キヤノンは「ライカ」など先発のドイツ勢を技術力で圧倒して世界一のカメラメーカーへ飛躍し、安住することなく複写機・プリンター・デジタルカメラと多角化を推進、「立派な頭脳」を再び証明し日本に膨大な外貨をもたらした。御手洗毅は1984年に没したが、技術革新と情報化の流れに沿って融通無碍に新分野に進出し高い国際競争力を発揮し続けるキヤノンは2015年現在も「メイド・イン・ジャパン」の優等生である。ただし、御手洗冨士夫(御手洗毅の甥)が経団連会長となり「偽装請負」や「大光」裏金疑惑にかまけている間、2008年の「リーマンショック」以後キヤノンの業績と株価は低迷を続けており、創業者の素晴しい遺産を食潰さないことを祈りたい。
- 御手洗毅は大分から北大医学部へ進み東京で産科医院を開業したが、内田三郎と夫人の出産で知合い「ちょっとしたはずみ」でカメラ製作の「精機光学工業」に参画、軍用レントゲンカメラを大量受注し、1942年外征した内田から社長を引継ぎ軍需品製造で事業を拡げた。終戦後、疎開先の山梨から帰京した御手洗毅は医業を捨てて「世界一のカメラづくり」を宣言し、食糧難のなか海軍等の技術者を招聘し進駐軍将校相手に売上を確保、レンズも自社生産へ切替え1949年「キヤノンカメラ」は東証上場を果した。当時のカメラ市場はドイツ勢の独壇場だったが、「素人の強み」で御手洗毅はドッジ・ライン恐慌下も「キヤノンはあくまで、高品質で世界一を目指す」と技術を磨き、徹底的な工程標準化と製品均質化で職人依存のライカに対抗し低価格・高機能を実現、1963年世界初のオートフォーカス「キャノンAFカメラ」で「ライカM3」を凌駕した。「技術はライカより数段優れているが、占領下日本製では通用しない」と取扱を渋った米国企業も御手洗毅に頭を下げた。カメラで世界一を果した御手洗毅は「キヤノン」へ改称し「右手にカメラ、左手に事務機」を標語に多角化へシフト、1969年独占企業ゼロックスの特許を使わない複写機で牙城を切崩し、ファクス・プリンターと手を拡げ事務機器を中核事業へ発展させた。御手洗毅は販売面でも辣腕を発揮、戦後すぐに自力営業を標榜し「輸出、輸出と叫んで」自ら欧米を行脚したが、商社に依存しない海外販路は技術力と並ぶキヤノン躍進の礎となった。さらに「新家族主義」を掲げる御手洗毅は、利潤を資本・経営・労働で3分割する「三分説制度」や能率給で実力主義を徹底しつつ、労使協調・日本初の週休2日制・財形や持家奨励・「キャノン音頭」・各種社内親睦会等々「10年先を行く」労務施策を展開した。「私は従業員が、『キヤノンで一生を過ごして本当によかった。悔いはない』と思ってくれるような会社を作りたいと考えているのです。これが経営者としての一生の夢なのです」と語り「円満な常識」を追求した御手洗毅の経営哲学は没後もキヤノンに受継がれ、デフレ不況下でも業績を伸ばす超優良企業に結実した。
- 京都の零細陶器工に生れた村田昭は、肺結核で高校を中退したが無事成人して家業を継ぎ「競合しない独自製品」を求め特殊磁器製作に挑戦、1944年三菱電機の下請工場「村田製作所」を設立し電波兵器レーダー用チタンコンデンサの製造を開始した。終戦で「軍需工場」は閉鎖されたが、村田昭は電熱器等の製作で糊口を凌ぎ、翌年チタンコンデンサ製造を再開しラジオブームに乗った。田中哲郎京大助教授と邂逅した村田昭は「専門家の知恵を借り」て「世紀の材料」チタン酸バリウムの応用に成功しラジオ市場を席巻、ドッジ・ライン恐慌で関西のラジオメーカーは松下電器産業とシャープ以外全滅したが技術優位の村田製作所は生延び、朝鮮戦争のラジオ特需を満喫した。村田昭は産学連携を強化し通産省の補助金を得てチタン酸バリウムの応用研究を加速、1952年村田製作所は防衛庁実施の米軍規格試験で唯一の認定部品メーカーとなり、自衛隊受注を独占し市場地位を確立した。朝鮮特需の反動不況で村田製作所の業績は低迷し大規模労働争議も発生したが、間もなく高度経済成長が始まりラジオに白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」が加わり業容は急拡大、村田昭は工場増設に追われつつ長岡京市の「村田技術研究所」に巨費を投じて開発体制を増強し、世界初のセラミック半導体・圧電セラミックスなど新分野への布石を打った。さらに村田昭は、米国を手始めに世界各地に販売拠点を展開し1965年には輸出が売上高の3分の1に到達、1985年プラザ合意で円高に突入するとセットメーカーに従い海外現地生産シフトを加速した。村田製作所は1963年に株式上場したが、初めて海外工場を開いたシンガポールでも日本企業初の株式上場を果している。セラミックコンデンサで世界市場を制覇した村田昭は、1991年長男の村田泰隆に社長を譲り4年後に取締役も退任、2006年84歳で永眠した。3代目社長には次男の村田恒夫が就き2015年末も健在である。部品メーカーの村田製作所は知名度は低いが完成品の売行きに左右されない強みがあり、デフレ不況下でも好業績を維持しソニーや東芝に劣らない株式時価総額と国際競争力を誇る。
- 稲盛和夫は、世界的電子部品企業「京セラ」の創業者で「KDDI」創設も主導したM&A経営の泰斗だが、正体不明の「アメーバ経営」を唱え松下幸之助ばりの「盛和塾」「京都賞」に言論・財界・慈善活動で自己宣伝に励むも胡散臭さを拭えない。鹿児島の印刷屋に生れた稲盛和夫は鹿児島県立大学から京都の町工場「松風工業」に就職、3年で退職し1959年「京都セラミック」を設立した。京都には村田製作所など良き手本もあり、稲盛和夫は旺盛な「三種の神器」需要を追風に電子部品事業を拡大し1971年株式上場、「京セラ」へ改称し欧米へ販路を拡げた。電気通信事業自由化を商機と見た稲盛和夫は1985年第二電電(DDI)を設立、1997年に会長を退きDDIはKDD・IDOと合併しKDDIとなったが、筆頭株主の京セラは上場で巨利を博した。日本の米国化を予期した稲盛和夫はM&A戦略を始動、タイトー買収では業績を上げて株式上場しスクエニへの転売で大儲けした。携帯電話の勃興期を満喫する京セラにバブル崩壊は無縁で、稲盛和夫は小泉純一郎の米国化政策に乗じM&Aを加速、三田工業・東芝ケミカル・キンセキ・三洋電機・ソニーのTFT液晶ディスプレイ事業など携帯関連事業を次々傘下に加え、太陽光発電や中国市場へも手を拡げた。財界活動にも熱心な稲盛和夫は小沢一郎の民主党を支援、2010年JALが経営破綻すると鳩山由紀夫首相の肝煎りで会長に就任し(内閣特別顧問兼任)業績V字回復で2年後に再上場を果した。稲盛和夫の経営塾とノウハウ本は繁盛したが、公的資金注入の条件として労働組合に経営実態と乖離した賃金と年金の適正化を呑ませたに過ぎず、さらに京セラが再上場前のJAL株式を大量取得し膨大な評価益を稼いだインサイダー取引が露見した(不起訴)。稲盛和夫は1986年に社長を退き2009年取締役も退任、京セラでは6代も社長が代ったが同社HPには名前も載らず登場人物は創業者のみ、2015年末現在83歳の稲盛和夫は京セラに君臨し続けている。売名行為を嫌い一般には無名の村田昭、社員の貢献を綴る村田製作所のHPとは対照的で、稲盛和夫の京セラは「一将功なって万骨枯る」の観がある。
- 「任天堂骨牌」は工芸職人の山内房治郎が1889年京都に興した花札・トランプ屋で、1950年曾孫の山内溥が早稲田大学法学部卒業と同時に家業承継、国産初のプラスチック製トランプの量産化で業績を伸ばし1962年株式上場し翌年「任天堂」へ改称した。1973年オイルショックで任天堂は破綻に瀕し山内溥は脱トランプを掲げゲーム事業参入、「インベーダーゲーム」ブームに乗じ業務用を手掛けたがタイトー・ナムコ・コナミらに追付けず家庭用に的を絞った。山内溥は文系だが異能の横井軍平・宮本茂を得て任天堂は1980年発売の「ゲーム&ウオッチ」で躍進、同年米国へ進出し、1983年発売の「ファミコン」で家庭用ゲーム機のパイオニアとなった。ソフト重視の任天堂は自ら『ドンキーコング』『スーパーマリオ』を投入しつつ、ソフトハウスを下請化し『ドラクエ』『FF』で躍進、「ゲームボーイ」「スーパーファミコン」とハード開発も並走させ世界市場を独占した。が、1994年ソニー子会社のSCEが「PlayStation」を発売、AV技術で任天堂を凌駕しつつソフトハウスの自由度向上で切崩しに成功し二強時代を現出させた。とはいえ『ポケモン』の大ヒットなどでゲームは世界的産業へ発展し任天堂は後継機投入で着実に前進、山内溥から社長を継いだ岩田聡のもと2006年発売の「Wii」で最盛期を迎えトヨタ・三菱UFJに次ぐ時価総額10兆円に到達した。が、ゲームの主流は据置き型からオンライン・スマホへ移り、情報革新に乗遅れた任天堂はリーマン・ショックと円高に直撃され長い低迷期に入った。山内溥は2002年85歳で永眠したが、無借金経営のお陰で任天堂の基盤は揺るがない。「任天堂は運がよかっただけ」「俺の経営がうまかったから成功したと思うような経営者は、早晩墓穴を掘る」と語った山内溥は、「組長」だワンマンだと言われながらも社員に慕われ世襲を排除、一匹狼で経済団体に顔を出さず、勲章も狙わず「私の履歴書」を何度も蹴った賢者であった。山内溥と任天堂が興したゲーム産業は製造業に娯楽産業を融合した日本文化の結晶であり、コミック・映像・スマホなど全メディア産業の牽引役となった。
松下幸之助と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照