一代で松下電器産業(パナソニック)を築いた高度経済成長の象徴にして「日本的経営」の完成者、松下政経塾やPHP研究所で政財界人を薫陶した「経営の神様」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
松下 幸之助
1894年 〜 1989年
90点※
家系・子孫
- 松下家は和歌山市禰宜の富農であったが、松下政楠が米相場で破産し下駄屋を開業するも失敗した。三男五女の末子に生れた松下幸之助は尋常小学校を4年中退し9歳で大阪へ丁稚奉公、生活苦のなか長兄・次兄・次姉が早世し12歳のとき父も亡くなった。20歳を過ぎた松下幸之助は井植むめのと結婚し、翌1916年大阪市東成区玉津の自宅で改良ソケットの製造を開始、新妻は内職で家計を支え会社設立後は経理を担当し従業員の世話を焼いた。松下幸之助・むめの夫妻は一男一女をもうけたが長男幸一は夭逝、長女幸子の婿養子に東大卒の松下正治を迎え松下電器産業2代目社長を継がせた(ただし松下幸之助には数人の婚外子がある)。松下正治の祖父平田東助は旧米沢藩士ながら桂太郎内閣で内相を務め伯爵を受爵、外祖父の前田利昭は最後の七日市藩主(子爵)で伯父・従兄は前田公爵家当主、名門趣味の松下幸之助には誂え向きの婿養子であった。松下正治・幸子夫妻は二男一女を生し、長男の松下正幸は松下電器産業で帝王道を歩んだが、業績悪化で松下幸之助の負の遺産が際立つなか中村邦夫が社長に就任し副会長に棚上げされた。2015年現在、70歳の松下正幸はパナソニック副会長・PHP研究所会長・松下不動産社長・松下幸之助記念財団理事長を兼ね「大政奉還」を待つ身である。弟のヒロ松下弘幸(ヒロ松下)はレーシングドライバーである。さて、井植むめのは淡路の農家出身で、弟の井植歳男は父の後を継ぎ船乗りとなったが東京倉庫の爆発事故に遭難、義兄松下幸之助の誘いで松下電気器具製作所(→松下電器製作所→松下電器産業)創業に加わり右腕となった。1947年公職追放を機に井植歳男は松下電器産業を暖簾分けし自転車用発電ランプで三洋電機を創業、2年後には国内シェア6割を獲得し、「三種の神器」で総合家電メーカーへ躍進した。三洋電機の社長は井植歳男から弟の井植祐郎・井植薫・長男の井植敏へ受継がれ、3人挟んで孫の井植敏雅(敏の子)が8代目に就任したが、2009年円高不況で三洋電機は経営破綻しパナソニックの子会社となった。
松下幸之助と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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