長州出身ゆえに後藤新平の引きで満鉄幹部に納まり軍部と大衆に迎合し強硬外交を扇動、独断で国際連盟脱退劇を演じ第二次近衛文麿内閣の外相として日独伊三国同盟・南部仏印進駐を主導した史上最悪の外政家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
松岡 洋右
1880年 〜 1946年
0点※
家系・子孫
- 松岡洋右の生家は山口県光市の廻船問屋で裕福だったが、11歳のとき父の松岡三十郎が事業に失敗し破産、アメリカで事業を営む親戚を頼り13歳で渡米した。妹の藤枝は近郷の医者佐藤松介(岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父)に嫁ぎ、娘の寛子は従兄弟の佐藤栄作の妻となった。松岡洋右は妻龍との間に一男一女を生し、嫡子の松岡謙一郎は東大法学部を出てマスコミ業界へ進み第二次大戦後に日本教育テレビの副社長となった。甥の松岡三雄の裔が光市で松岡洋右の地盤を守り政治家の系譜を継いでいる。
- 長州藩士の佐藤信寛は明治維新後に島根県令に任じられ長州閥の伊藤博文らと誼を通じ、弟の太郎を井上馨の養子に出したといわれ(陸軍少佐井上太郎)、日産コンツェルン創業者の鮎川義介も佐藤家の親戚である。信寛の嫡子で山口県議会議員を務めた佐藤信彦は、娘の茂世の婿養子に同郷田布施の岸要蔵の三男で山口県庁官吏をしていた秀助を迎え分家を立てさせた。田布施に戻り酒造業を営んだ佐藤秀助は、茂世夫人との間に5子を生し、長男の市郎に佐藤家を継がせ、次男の信介は実兄岸信政の一人娘良子の婿養子に出し、三男の栄作は生家に留めた。佐藤秀助の妹さわは山口中学教諭の吉田祥朔に嫁ぎ、長男の吉田寛は吉田茂(家系は別)の長女桜子と結婚している。さて、岸信介・良子夫妻は一男一女を生し、長男の岸信和は地元の宇部興産の勤め人となったが(西部石油会長へ転出)、長女の洋子が嫁いだ安倍晋太郎が政界へ進み岸信介の後継者となった。なお、岸信和に子が無かったため、安倍晋太郎の兄信夫が入嗣し岸家を継いでいる。安倍晋太郎は、東大法学部を出て毎日新聞記者となったが、石橋湛山内閣で外相の任にあった岸信介の秘書となり洋子と結婚、岸の首相在職中に亡父安倍寛の地盤を継ぎ(旧山口1区)衆議院議員に初当選した。安倍晋太郎は、1963年の選挙で落選し岸信介を慌てさせたが、次回選挙から没するまで議席を守り(当選11回)自民党幹事長・通産相・外務相などを歴任した。岸信介直系の「政界のプリンス」安倍晋太郎は、脇が甘いので「プリンスメロン」と揶揄されつつ、共に「ニューリーダー」と称された竹下登・宮澤喜一を凌ぎ次期総理総裁は確実といわれたが目前で病没した。地盤を継いだ次男の安倍晋三は、首相となって亡父の無念を晴らし、祖父岸信介が果たせなかった憲法改正・再軍備に挑んだ。さて、岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父(茂世の兄)佐藤松介の妻藤枝は松岡洋右の妹であり、娘の寛子は従兄弟の佐藤栄作に嫁いで二男を産み、次男の佐藤信二が栄作の地盤を継いで衆議院議員となった。
- 竹内綱は旧土佐藩士で立志社・国会期成同盟・自由党の結党に参加した板垣退助の腹心、吉田茂は芸者の瀧子に産ませた庶子である。立志社の政府転覆工作が発覚し陸奥宗光・林有造・大江卓らと共に投獄された竹内綱は、生後間もない茂と瀧子を親友で子の無い吉田健三に預け、茂は3歳のとき正式に入嗣し横浜で養育された。旧福井藩士の吉田健三は自由民権運動に身を投じたが横浜の貿易で財を成し、11歳の吉田茂に50万円(現在価値で20億円)もの遺産を残し病没した。その後の竹内綱は、衆議院議員を1期務めて実業界へ転じ、朝鮮の鉄道事業や牧場経営などに携わり1922年まで生きたが、吉田茂との交流を伝える逸話は残っていない。なお、竹内綱の嫡子で高知県宿毛で育った竹内明太郎は、小松製作所(現コマツ)・快進社(日産自動車の前身)・早稲田大学理工学部の創設に関わり、政友会系衆議院議員となった。さて吉田茂は、大金持ちながら学業成績は冴えず学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴い学生は東大へ無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。遅咲きの吉田茂は中国領事など「お世辞にもエリートとはいえない」傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男で宮廷政治家)の長女雪子との結婚で出世運を掴み外務次官へ昇進、広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き駐英大使の要職を得た。吉田茂・雪子夫妻は二男三女を生し(次女は夭逝)、男児の健一・正男は共に学者となった。長女桜子が嫁いだ吉田寛は、松岡洋右の甥で岸信介・佐藤榮作兄弟の従兄弟にあたる。三女和子は福岡麻生財閥の当主麻生太賀吉に嫁ぎ、長男の麻生太郎は第92代首相、長女の信子は寛仁親王妃となった。1941年妻雪子の没後、吉田茂は芸者小りんを大磯邸に囲い、岳父の牧野伸顕と世間体を憚り隠蔽を図ったが、新聞記者にスクープされると勿怪の幸いとばかり正式に妻とした。この一件で吉田茂のマスコミ嫌いは一層激しくなり、1952年京都の演説会ではしつこい写真撮影に激怒しカメラマンにコップの水をぶっかけたりしている。
松岡洋右と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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