島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照松平 春嶽
1828年 〜 1890年
50点※
松平春嶽の寸評
松平春嶽の史実
-
1828年
田安家当主徳川斉匡の八男松平慶永(松平春嶽)が江戸にて出生
-
1829年
徳川斉脩の急死に伴い弟の徳川斉昭が9代水戸藩主に就任、水戸学に基づき尊皇攘夷運動を牽引
-
1830年
鍋島斉直の隠居に伴い鍋島直正が10代佐賀藩主に就任、佐賀藩の藩政改革と近代化が始まる
-
1837年
水戸藩主徳川斉昭と水戸学派が実権を掌握し藩校弘道館を開設し藩政改革を始動
-
1838年
松平斉善の急逝に伴い松平春嶽が末期養子となり16代福井藩主に就任、中根雪江ら改革派が藩政改革を始動
-
1840年
アヘン戦争(~1842)
-
1841年
天保の改革(~1845)~老中水野忠邦による重農主義復古政策
-
1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
-
1844年
水戸藩守旧派の工作により幕府が徳川斉昭を隠居・謹慎処分、嫡子の徳川慶篤が10代藩主となる
-
1845年
水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる
-
1846年
フランスが琉球の開国を要求
-
1847年
徳川斉昭が老中安倍正弘を後ろ盾に諸生党首領の結城朝道を失脚・隠居に追込む
-
1847年
徳川慶喜が一橋昌丸に入嗣し御三卿一橋家を継ぐ
-
1850年
薩摩藩で島津斉彬の襲封を支持する西郷隆盛・大久保利通らが若手藩士グループを結成(精忠組に発展)
-
1850年
12代将軍徳川家慶・老中阿部正弘が薩摩藩主島津斉興に引退勧告
-
1850年
佐賀藩が日本初の反射炉の実証炉を建設し洋式砲の鋳造を開始
-
1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
-
1851年
島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手
-
1851年
佐賀藩が洋式技術導入のため精煉方を開設
-
1852年
オランダ商館長が長崎奉行にペリー来航を予告、佐賀藩主鍋島直正が軍備を増強
-
1852年
松平容敬が死去し養嗣子の松平容保が9代会津藩主となる
-
1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
-
1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
-
1853年
徳川斉昭が江戸防備のため大砲74門を幕府に献上、老中安倍正弘の要請により幕府海防参与に就任
-
1853年
海防参与徳川斉昭の献策により幕府が大船建造を解禁
-
1853年
徳川家定が13代将軍就任、将軍継嗣問題が勃発
-
1853年
老中阿部正弘に抜擢された江川坦庵が佐賀藩主鍋島直正の技術支援を得て伊豆韮山に反射炉を設置
-
1853年
結城朝道ら諸生党が井伊直弼を後ろ盾に藩政に復帰し松平頼胤(支藩の讃岐高松藩主)の水戸藩主擁立を画策
-
1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
-
1854年
ロシア艦隊が長崎に来航し通商を求める
-
1854年
薩摩藩主島津斉彬が参勤交代で江戸入り、中小姓として随行した西郷隆盛を江戸藩邸で御庭方役に任じ直属の謀臣に抜擢
-
1855年
安政の大地震、徳川斉昭のブレーン藤田東湖が圧死
-
1855年
徳川斉昭の要求により南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭、堀田正睦が老中首座就任
-
1855年
幕府がオランダから蒸気船観光丸の寄贈を受け長崎に海軍伝習所を開設、旗本の勝海舟ら1期生が入学
-
1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
-
1856年
水戸藩の石川島造船所(IHIの前身)が洋式帆船「旭日丸」を建造し幕府に献上
-
1856年
徳川斉昭と水戸天狗党が藩主徳川慶篤の暗殺未遂罪により諸生党首領の結城朝道を死罪に処す
-
1856年
薩摩藩主島津斉彬が一門の島津敬子(篤姫)を将軍徳川家定に入輿させる・西郷隆盛が諸業務を担当
-
1857年
阿部正弘死去
-
1858年
福井藩主の松平春嶽が熊本藩の横井小楠を政治顧問として招聘、藩校を再興(明道館)し教授に任じる
-
1858年
佐賀藩主鍋島直正が洋式船舶の建造・修理・運用のため三重津海軍所を開設
-
1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
-
1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
-
1858年
佐賀藩主鍋島直正が大老井伊直弼と交流を深める
-
1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
-
1858年
徳川家茂が14代将軍就任、一橋派が将軍継嗣問題に敗北
-
1858年
薩摩藩主島津斉彬が幕府抗議のため藩兵5千を動員し上洛を計画
-
1858年
西郷隆盛・有馬新七が島津斉彬に先発して上洛し準備工作
-
1858年
薩摩藩主の島津斉彬が急死し率兵上洛計画が頓挫(享年50。毒殺説あり)、養嗣子(島津久光の子)の島津忠義が12代藩主に就任し10代藩主の島津斉興(斉彬・久光の父)が実権を奪回
-
1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
-
1858年
江戸城無断登城事件、大老井伊直弼が無断で江戸登城した徳川斉昭・徳川慶喜・松平春嶽・徳川慶勝を謹慎に処す
-
1859年
神奈川・長崎・函館開港
-
1859年
安政の大獄で大老井伊直弼が一橋派諸侯の処分を断行、松平春嶽は隠居を強制され養嗣子の松平茂昭が17代福井藩主となる
-
1859年
安政の大獄により吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らが処刑される
-
1859年
島津斉興の死により島津久光が藩主島津忠義の国父として薩摩藩の実権を掌握
-
1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
-
1860年
幕府が通商条約批准のための遣米使節を派遣、勝海舟艦長の咸臨丸が同行(随員に福澤諭吉ら)
-
1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
-
1860年
勝海舟が長崎海軍伝習所から江戸へ戻り蕃書調所頭取・講武所砲術師範・軍艦操練所頭取などを歴任(400石)
-
1860年
長州藩と水戸藩が幕政改革の盟約(成破の盟約)
-
1860年
徳川斉昭が蟄居中に急死(享年61)、幕府は融和路線に転じ徳川慶喜・松平春嶽らを赦免
-
1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
-
1861年
薩摩藩の実権を掌握し率兵上洛を期す島津久光が人事改革を断行し反抗勢力を一掃して小松帯刀・大久保利通らを抜擢
-
1862年
上洛を期す島津久光の召還命令により西郷隆盛が鹿児島へ帰還
-
1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
-
1862年
島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通・小松帯刀が暗躍
-
1862年
勝海舟が軍艦奉行並に任じられる(1千石)
-
1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
-
1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
-
1862年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
-
1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
-
1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
-
1862年
会津藩主松平容保が京都守護職として入洛
-
1862年
坂本龍馬・間崎哲馬・近藤長次郎が政治総裁職(前福井藩主)の松平春嶽に拝謁
-
1862年
坂本龍馬が松平春嶽の紹介で勝海舟に面会を許され門人となる
-
1863年
京都守護職松平容保の配下に壬生浪士組(新撰組)結成
-
1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
-
1863年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
-
1863年
幕府が神戸海軍操練所の設立を許可、勝海舟は土佐浪士の受皿として坂本龍馬を塾頭に神戸海軍塾を設立
-
1863年
久坂玄瑞が長州に戻り入江九一・吉田稔麿・山縣有朋ら松下村塾生を糾合し光明寺党を結成
-
1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
-
1863年
長州藩の高杉晋作が奇兵隊を創設、一流蘭学者の大村益次郎が長州藩諸隊の洋式軍制改革・軍備増強を推進
-
1863年
尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺される
-
1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
-
1863年
福井藩の松平春嶽・横井小楠が挙藩上洛計画を企てるが中根雪江ら守旧派の反対で決行直前に中止
-
1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
-
1863年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復
-
1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
-
1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
-
1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
-
1863年
近藤勇・土方歳三の試衛館派が京都守護職松平容保の意を受けて水戸派の芹沢鴨・新見錦らを殺害し新撰組の独裁体制を確立
-
1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
-
1863年
長州藩で世子毛利定広の上洛決定、真木和泉の扇動により出兵論が過熱
-
1863年
将軍徳川家茂が二度目の上洛
-
1864年
勝海舟が長崎出張、随行した坂本龍馬は横井小楠を紹介され開国通商の利と民主主義を学ぶ
-
1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
-
1864年
徳川慶喜が将軍後見職を辞して江戸幕府を離れ禁裏御守衛総督となり京都政局を牛耳る
-
1864年
天狗党の乱~武田耕雲斎ら水戸尊攘派の暴発と瓦解
-
1864年
幕府が神戸海軍操練所を開設し勝海舟は軍艦奉行・2千石に昇進
-
1864年
池田屋事件
-
1864年
禁門の変、禁裏御守衛総督徳川慶喜・京都守護職松平容保の指揮のもと薩会連合軍が長州軍を撃退し一会桑政権樹立
-
1864年
新撰組が褒称され隊士募集により組織拡大、尊攘派志士の伊東甲子太郎が一派を率いて加入
-
1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
-
1864年
馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる
-
1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
-
1864年
神戸海軍塾生の不祥事により勝海舟が江戸に召還され軍艦奉行罷免、坂本龍馬ら神戸海軍塾生を薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛に託す
-
1864年
長州藩で俗論党(佐幕恭順派)が主導権を握り正義派(尊攘派)を粛清、絶望した周布政之助が山口にて自殺(享年42)
-
1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
-
1864年
高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)
-
1865年
高杉晋作率いる諸隊が大田・絵堂の戦いに勝利し正義派が長州藩の政権を奪回
-
1865年
禁門の変で失踪した木戸孝允が長州藩に戻り藩政を掌握
-
1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
-
1865年
幕府がフランスからの借款で横須賀製鉄所起工
-
1865年
徳川慶喜が長崎・横浜・函館開港の勅許を獲得
-
1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立
-
1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
-
1865年
長州藩が亀山社中を介して大量の洋式武器とユニオン号を購入
-
1865年
薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らが上京し宮廷工作で幕府の長州再征を妨害
-
1866年
勝海舟が軍艦奉行に復職(5千石)
-
1866年
薩長同盟
-
1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
-
1866年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
-
1866年
高杉晋作の活躍で老中小笠原長行が守る小倉城が陥落し長州藩の勝利が決定的となる(高杉は肺結核が悪化し翌年病没)
-
1866年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
-
1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
-
1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
-
1866年
孝明天皇崩御
-
1867年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
-
1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
-
1867年
坂本龍馬の亀山社中が薩摩藩から土佐藩へ転籍し土佐海援隊に改編
-
1867年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
-
1867年
京都で島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の四候会議開催
-
1867年
将軍徳川慶喜と四候の二条城会談が決裂、薩摩藩が武力討幕の方針を固める
-
1867年
新撰組の隊士全員が幕臣に採用され旗本格(三百俵)に栄進した近藤勇は幕府・朝廷に征長論を主張、新撰組屯所を西本願寺から下京不動寺村へ移転
-
1867年
薩土密約
-
1867年
薩土同盟
-
1867年
中岡慎太郎が京都の土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を結成
-
1867年
西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通の薩摩首脳が長州藩に立寄り山縣有朋・品川弥二郎らに薩長同盟を確認
-
1867年
土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静に大政奉還の建白書を提出
-
1867年
西郷隆盛が不逞浪士を江戸へ遣わし幕府を挑発、謀略に掛った江戸市中取締の庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼打ち
-
1867年
薩摩藩・西郷隆盛が土佐藩・後藤象二郎からの出兵延期要請を拒否
-
1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
-
1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
-
1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
-
1867年
西郷隆盛と木戸孝允が山口で討幕挙兵を確認、西郷は薩摩へ
-
1867年
薩摩藩主島津忠義が周防国三田尻で長州藩世子毛利広封と会見し討幕出兵を協約
-
1867年
薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)
-
1867年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
-
1867年
坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が京都近江屋で見廻組に襲われ死去
-
1867年
王政復古の大号令
-
1867年
三職の設置、福井藩からは松平春嶽が議定、中根雪江・酒井十之丞・毛受洪が参与に任じられる
-
1867年
長州藩が朝廷により公式に赦免され藩主毛利敬親は従四位・参議に復帰
-
1867年
小御所会議(最初の三職会議)で薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛と朝臣の岩倉具視が徳川慶喜の辞官納地を強行採決
-
1867年
大阪城に退去した徳川慶喜が辞官納地を拒否、諸外国に徳川政権による外交継続を宣言
-
1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
-
1868年
土方歳三率いる新撰組が鳥羽伏見の敗戦で壊滅、土方らは大阪城へ退き会津藩士と共に徹底抗戦を主張
-
1868年
徳川慶喜が松平容保・松平定敬を伴って大阪城を脱出し軍艦で江戸へ逃げ帰る
-
1868年
土佐藩の板垣退助が迅衝隊を率い独断で戊辰戦争に参戦、東山道先鋒総督府参謀として官軍を指揮
-
1868年
陸奥宗光の献策により維新政府が外交団と協議、各国は局外中立を表明
-
1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
-
1868年
西郷隆盛が東征大総督府下参謀(実質的司令官)に任命される
-
1868年
徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎し主戦派の松平容保・松平定敬・小栗忠順らを江戸から追放し恭順派の勝海舟に全権委任、徳川家達に徳川宗家の家督を譲る
-
1868年
松平容保が会津若松城に戻って謹慎し養子の松平喜徳(徳川慶喜の実弟)に10代会津藩主を譲る
-
1868年
西郷隆盛が独断で先鋒軍を率いて先発し箱根を占拠
-
1868年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
-
1868年
甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍が近藤勇・土方歳三の甲陽鎮撫隊を撃破、近藤は板橋刑場で斬首され京都三条河原に首を晒される
-
1868年
奥羽越列藩同盟が成立
-
1868年
西郷隆盛・大村益次郎の官軍が上野彰義隊を殲滅
-
1868年
官軍が高崎市に隠遁した小栗忠順を襲い斬首
-
1868年
木戸孝允の版籍奉還の献策を長州藩主毛利敬親が承諾
-
1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
-
1868年
太政官設置、福井藩からは松平春嶽が議定、横井小楠・由利公正が参与に任じられる
-
1868年
参与を辞した中根雪江が福井で隠居生活に入る
-
1868年
河井継之助の長岡藩が降伏
-
1868年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
-
1868年
旧幕府海軍の榎本武揚らが軍艦8隻を奪い江戸を脱出、仙台で旧幕府軍を吸収し箱館五稜郭で蝦夷共和国樹立を宣言するが旗艦の開陽丸が座礁沈没
-
1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
-
1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
-
1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
-
1869年
会津藩が家名断絶・領地没収に処され松平容保と10代藩主松平喜徳は永禁固刑
-
1868年
徳川斉昭が水戸偕楽園の常盤神社に祀られる
-
1869年
参与の横井小楠が京都で攘夷狂の十津川郷士らに暗殺される
-
1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
-
1869年
四民平等~華族・士族・平民の三身分制の実施
-
1869年
徳川慶喜が赦免され静岡で平穏な余生を送る
-
1869年
版籍奉還
-
1869年
松平容保に長子の容大が誕生、松平容大に家名存続が赦され陸奥斗南藩3万石へ移封
-
1870年
松平春嶽が議定を辞し政界引退
-
1871年
廃藩置県
-
1871年
岩倉使節団派遣
-
1872年
山内容堂が死去(享年46)
-
1873年
徴兵令布告
-
1873年
地租改正法・地租改正条例布告
-
1873年
岩倉使節団帰国
-
1873年
明治六年政変、西郷隆盛が参議・陸軍大将を辞任し鹿児島へ退く
-
1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
-
1873年
勝海舟が参議・海軍卿に任じられる
-
1874年
西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野、西郷隆盛が弟の西郷従道の要請に応じ薩摩士族を送る
-
1876年
廃刀令布告
-
1876年
岩倉具視が華族会館館長に就き旧公家偏重の優遇政策を推進、旧大名・士族の反発を招く
-
1876年
秩禄処分
-
1877年
西南戦争、西郷隆盛が鹿児島城山にて自害(享年51)
-
1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
-
1877年
中根雪江が死去
-
1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
-
1880年
松平容保が日光東照宮の宮司となる
-
1884年
華族令公布、松平茂昭が伯爵を受爵
-
1885年
第一次伊藤博文内閣発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)
-
1888年
徳川慶喜・松平春嶽が従一位に昇叙、松平茂昭が侯爵に昇爵
-
1889年
大日本帝国憲法発布
-
1890年
松平春嶽が死去(享年63)、東京品川の海晏寺に葬られる
-
1943年
松平春嶽が福井神社に祀られる
松平春嶽の交遊録
-
徳川斉匡
父・田安家当主
-
松平斉善
養父・15代福井藩主
-
松平茂昭
養嗣子・17代福井藩主
-
松平慶民
実子
-
徳川義親
実子
-
中根雪江
改革派の側近
-
横井小楠
招聘した天才思想家
-
橋本左内
痛恨の刑死
-
由利公正
経済官僚
-
徳川家斉
11代将軍・伯父
-
徳川家慶
12代将軍・従兄
-
徳川家定
イモ公方と呼んだ13代将軍
-
徳川家茂
14代将軍
-
徳川斉昭
一橋派の首領
-
徳川慶喜
斉昭七男・暴走将軍
-
徳川慶篤
斉昭嫡子・水戸藩主
-
徳川家達
徳川宗家の後継
-
藤田東湖
斉昭謀臣
-
会沢正志斎
斉昭謀臣
-
武田耕雲斎
天狗党の乱首領
-
関鉄之助
桜田門外事変指揮者
-
安倍正弘
公武合体運動の盟友
-
井伊直弼
政敵
-
長野主膳
井伊謀臣
-
松平乗全
井伊の子分
-
松平忠固
井伊の子分
-
間部詮勝
井伊の子分
-
堀田正睦
井伊寄りの老中首座
-
水野忠央
井伊の盟友
-
松平容保
京都守護職
-
松平定敬
京都所司代
-
近藤勇
新撰組局長
-
土方歳三
新撰組副長
-
徳川慶勝
征長総督
-
小笠原長行
高杉晋作に敗れた老中
-
永井尚志
大政奉還派の老中
-
板倉勝静
慶喜側近の老中
-
勝海舟
恭順派の幕臣
-
大久保一翁
勝の盟友
-
小栗忠順
抗戦派の幕臣
-
榎本武揚
抗戦派の幕臣
-
大鳥圭介
抗戦派の幕臣
-
島津斉彬
一橋派四賢候
-
島津久光
盟友転じて最大の敵に
-
島津忠義
薩摩藩主・久光長子
-
篤姫
徳川家定に入輿した斉彬従妹
-
西郷隆盛
完敗
-
大久保利通
完敗
-
小松帯刀
薩摩藩家老
-
有村雄助
桜田門外事変有志
-
有村次左衛門
桜田門外事変有志
-
黒田長溥
斉彬大叔父・福岡藩主
-
伊達宗城
一橋派四賢候
-
山内容堂
一橋派四賢候
-
山内豊範
容堂養嗣子・土佐藩主
-
吉田東洋
容堂謀臣
-
武市半平太
土佐勤皇党首領
-
中岡新太郎
長州系土佐浪士
-
坂本龍馬
勝海舟に紹介した土佐浪士
-
鍋島直正
漁夫の利
-
毛利敬親
長州藩主
-
毛利定広
敬親養嗣子の長州藩世子
-
高杉晋作
慶喜の悪夢
-
木戸孝允
長州のリーダー
-
大村益次郎
長州の軍事指導者
-
三条実美
長州系公卿
-
姉小路公知
長州系公卿
-
岩倉具視
薩摩系公卿
松平春嶽と同じ時代の人物
-
維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 70点
松平春嶽は、親藩大名を代表する立場で公武合体運動を推進し徳川慶喜を政権に就けたナンバー2、熊本藩士の横井小楠を招き開国通商や民主主義の進歩的政策を展開し福井藩は明治開明思想の源流となった。
減点 -20点
松平春嶽は若い徳川慶喜を旗印に担ぎ自ら政権運営にあたる腹積もりだったが、慶喜は政権掌握の恩人である雄藩連合を抑えつけて専横を強め薩摩藩を討幕へ奔らせた。徳川慶喜の資質が最大の誤算たが、補佐役の松平春嶽が辛抱強い諫止を怠り衝突すると放り出したため参預会議は機能せず公武合体は挫折、春嶽は小御所会議で慶喜を擁護し辞官納地に反対したが時既に遅しだった。薩長が戊辰戦争を引起すと松平春嶽は反対の立場をとったが、積極的な佐幕派でもなく、どっちつかずで明治維新を迎えた福井藩は「薩長土肥」入りを逃した。徳川氏擁護を唱えつつ板垣退助の戊辰戦争参戦を黙認した山内容堂の土佐藩、官軍の優勢を見極めてから参戦し最新兵器で躍り出た鍋島直正の肥前佐賀藩、維新の功労は公武合体運動の中枢を担った松平春嶽の福井藩に遠く及ばないが土壇場の立ち回りで明治政府に食込んだ。親藩故もあろうが彦根藩や尾張藩など佐幕藩は悉く積極的に官軍へ寝返っており、福井藩の敗因は気に入らないと放り出す松平春嶽の性格が大であったように思われる。